2009年9月28日月曜日

「兵士たちの連合赤軍(新装版)」


連合赤軍の兵士で、同志殺しの修羅場を生き延びた「バロン」こと植垣康博の回想記。幼少期から弘前大学入学、民青加盟、全共闘参加、赤軍派への加盟、M作戦、そして山岳ベース事件、と話は進み、最後、軽井沢駅で逮捕されるところまでが描かれる。最近はほとんど見かけない上下2段組の小さな文字で約400ページという分量だが、エネルギーいっぱいの著者の活躍が軽快に描かれ、退屈しない。

ただ、実際にあった出来事をかなり忠実に書いているので、新左翼運動とか赤軍系の人脈についてある程度の知識がないと筋が追えなくなるかもしれない。たとえばさらりと梅内恒夫の話題がp.76以降に出てくるが、梅内が誰なのか知らないと意味不明かもしれない。有名人はフルネーム、一般に知られてない人物についてはおそらく仮名(もしくは組織名)で苗字だけ、という区別があるようだ。同様に、進藤隆三郎(p.119、161)や遠山美枝子(p.123)といった、後に山岳ベースで同志により殺される重要人物たちの登場もさらりとしたもので、読み手に高い知識がないと文脈がわかりにくいかもしれない。

血を吐くような調子の坂口弘の『あさま山荘1972』と対照的に、本書からはあまり自責の念は伝わってこない。しかし著者の人柄と言うべきか、そのことは読後感を別に悪くさせない。著者は一生懸命生きたのだ。その都度その都度与えられた状況の中で、自分の善なる理想を持ち続け、逃げず日和らずベストを尽くした。だから12人の同志には強い同情はしつつも、それを一種の天災のように受け取っているのだと思う。M作戦においては誰よりも果敢に戦い、逮捕直前には、あれほど身体がぼろぼろだったのに、厳冬の妙義山で、坂口の言葉によれば「不屈のラッセル」を続け、仲間の山越えを助けた。それは彼なりの誠実さであり、むしろそれは安易に否定されるべきものではない。

その誠実さとか一生懸命さと、山岳ベース事件における同志殺しのメカニズムは別の次元の問題だ。それは決して難しい話ではないと思う。同志殺しは彼らの思想の突き詰めたところにある論理的必然であろう。それはこういうことだ。

赤軍派も革命左派も暴力を肯定する革命組織である。彼らには殺人は絶対悪ではない。実際、赤軍派では山岳ベースに入るはるか前に、進藤の情婦・林妙子の処刑が党決定されているし(p.219)、革命左派では「総括」が始まる前に、2名が殺害されている(印旛沼事件)。さらに、彼らの革命理論は、能動的行動が世界を変える、という前提に立っている(「共産主義者の能動的実践」、p.105)。実際にはこれは、「存在が意識を規定する」史的唯物論とあべこべなのだが、彼らはそうは考えない。そして共産主義革命の歴史的必然を意識するあまり、歴史というマクロな流れと、個々人の行動という、粒度がまったく異なる2つの事象を混同するという論理的誤りを犯している。

これは、風の流れが一方向であっても、風の中にある酸素や窒素の分子はミクロに見れば乱雑な熱運動をしていることにたとえられるかもしれない。仮に歴史に必然的方向があったとしても、全員が一律にそちらの方向に動かねばならない必然性はない。人間の能力・適性は多様であるから、全員が一様に鉄の兵士にはなり得ない。実際、山岳ベースに集った人たちの中で、軍人としての素質がある人は半数にも満たなかったはずだ。しかし人間の多様さを否定する彼らの論理からすれば、資質の欠如自体が反革命の証であり、それは十分に処刑の理由になったのである。

まだ青春時代にいた若き植垣は、連合赤軍メンバーであった大槻節子に恋をしていた。大槻は過酷な総括を要求され、結局彼らは結ばれることなく、永遠の別れを遂げた。軽快な文体がその悲惨さをむしろ際立たせ、後半の第7章は本当に読むに堪えない。どこか自己弁護の香りが抜けない永田洋子の著作とは対極の意味での悲しさを強く感じる。植垣の一生懸命さが図らずも形作る真のドラマ。心を揺り動かすものがある。

★★★★★ 兵士たちの連合赤軍(新装版)
  • 植垣康博
  • 彩流社
  • 1984(新装版2001)

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