2009年9月27日日曜日

「博士の愛した数式」


傑作がベストセラーになりえるという例を、私は初めて知った。文学作品としての完成度もさることながら、日本の自称インテリのほとんどが信じているように見える愚かな迷信――「理系」と「文系」の対立――から自由に、このような文学的世界を描き切った作者に敬意を表したい。

この本に描かれた数学的美の世界は、多くの人にとっては狂人の妄想に思えるかもしれない。しかしそれは違う。もしも既知の記号同士の出会いにより新たな世界の創造を演出することが詩の役割だとするならば、作品中に出てくるオイラーの公式は、確かに、最高級の詩である。虚数と無理数と整数。決して交わることのないように見えるそれらが、それ自体実は畏怖の対象であるべき零という数を通じて結ばれる。母屋から隔絶した離れの中の出来事に似て、あるいは、80分しか続かない博士の記憶の世界に似て、その一片の公式は一個の小さな閉じた世界を構成するに過ぎない。しかしその一方で、その短い式は、二重三重の暗喩を通じて、無限の世界を表現する。博士と未亡人の愛も。主人公の孤独も。

文学者たちは学ぶがいい。人間の凝縮した思考を媒介にして、数の世界の混沌から、美しい秩序が浮かび上がってゆくさまを。あらゆる文学作品が目指す美のおそらくすべての形態が、そこで静かに達成されているというその事実を。そうして、言語という媒体の限界と、人間の思惟の可能性を知った時、彼らは初めて真の人間の姿を描くことができるだろう。
(本稿初出 2004/06/27)

★★★★★ 博士の愛した数式
  • 小川洋子
  • 新潮文庫
  • 2005

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