2011年12月14日水曜日

「日本酒」「日本の酒づくり」

日本酒に関するやや古い本を2冊紹介する。キーワードは吟醸酒である。

私は学生時代、日本酒研究会というサークルにいた。主たる行事は休み明けにサークル室に集まって、各自が持ち寄った酒を総当り式で一対一で評価して、その年の優秀酒を決めるというものだった。利き酒は口に含んで吐き出すのが正しい作法だが、「酒の一滴は血の一滴」、貧乏学生の我々にはそんなことはありえない選択で、当然そのうち酔っ払って、しまいには勝ち負けなどどうでもよくなるのであった。

そのサークルに入ったきっかけが何だったかもはや思い出せないくらいなのだが、そこで学んだ最大の知識は、日本酒には大きく分けて2つの種類があるということである。吟醸酒と、そうでない酒である。そして日本人の過半数の人たちは、いかに吟醸酒というのが特別な酒か知らない(これはできの悪い吟醸酒の悪影響によるところも大きい)。

篠田次郎著・『日本の酒づくり』には、吟醸酒の成り立ちがややドラマチックに描かれている。やや意外なことに、我々日本人が吟醸酒というものを知ったのは、比較的最近、ほとんど昭和に入ってからのことである。熊本の酒蔵が品評会に出すために醸した酒が、通常の日本酒とは似つかぬフルーティーな香りを発した。それまで、精米歩合を高めて低温で醸造することで、ごくまれに、極めてよい香りの酒ができることは杜氏の間で知られていた。しかしそれは淡い香りで、いわば幻の香りと言われていたのだが、大正15年に醸されたこの「香露」は誰もが認める傑作で、後日この蔵から採取された酵母は、日本醸造協会第9号酵母として、広く日本中の酒造メーカーに使われることになったのである。篠田氏の著書は、昭和に入り、吟醸酒を庶民が買えるようになるまでの流れをまとめた良書である。

日本酒の歴史は技術革新の歴史である。国税庁醸造試験所に長く勤めた秋山裕一氏による『日本酒』には、明治以降、時に最先端の化学的知識を駆使しつつ、いかにして高品質の酒を造れるようになったかが詳しく書かれている。特に、日本酒の腐造をもたらす「火落ち菌」をめぐるエピソードは興味深い。日本酒の品質管理の文脈で発見されたこの菌の生育条件を調べる過程で、東京大学教授の田村學造らは、今で言うメバロン酸という新物質を発見した。それはコレステロールの生合成などにかかわる重要物質で、その後3名のノーベル賞受賞者を生むのである。

吟醸酒の芸術的な生成過程を一度知ると、もはや、ぶどう酒を同格に考えるのは無理というものである。吟醸酒は日本文化の精髄である。ビールやぶどう酒もいいが、日本人なら基本を押さえよ。


日本酒 (岩波新書)
  • 秋山 裕一 (著)
  • 新書: 210ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1994/4/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4004303346
  • ISBN-13: 978-4004303343
  • 発売日: 1994/4/20
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.2 cm

日本の酒づくり―吟醸古酒の登場
  • 篠田 次郎 (著)
  • 新書: 187ページ
  • 出版社: 中央公論社 (1981/12)
  • ASIN: B000J7SA0Q
  • 発売日: 1981/12
  • 商品の寸法: 17.6 x 11.8 x 1 cm

2011年11月30日水曜日

「元禄御畳奉行の日記」

元禄から享保の時代に、延々26年以上にわたって書き続けられた下級尾張藩士の日記を解説した本。作者の朝日文左衛門重章は稀代のメモ魔でゴシップ好き、加えて酒好き・芝居好き・女好き、それに加えて、生類憐れみの令を小ばかにして「殺生」に行くと称して魚釣りに行ってみたりと、へらへら楽しく生活している。その姿は、テレビドラマの軽めの時代劇とまあ大差なく、時代を遡るほど人権が抑圧されていたという、よくある左翼史観がいかに狭量かわかる。むしろ、最近ではよく知られていることではあるが、元禄の世、庶民の恋愛は今よりずっと自由で、西洋的抑圧倫理が流入する今の時点から過去を眺めることがいかに視野を狭めるかということである。

特に面白いのは文学作品にからんだ2つのエピソードである。元禄末期、庶民の話題をさらったのは、近松門左衛門の『曽根崎心中』であった。これは町人と遊女の悲恋の末の心中物語であるが、浄瑠璃芝居として上演された本作品、大当たりを取り、その後長らく、江戸から上方にかけて心中が流行する。幕府により何度も心中を禁ずる布告を発したくらいである。これはまるでテレビドラマの影響でファッションが広まるかの如しである。文庫版巻末にある山崎正和と丸谷才一の解説的対談がなかなか秀逸である。
山崎 そうです。心中する当人たちも、明日は自分たちがどう評定されるであろうかと案じて死んでゆく。つまり観客の目を意識して死んでいくわけですね。 
丸谷 元禄時代の、少なくとも上方で心中する男女は、こういう風に死ねば近松j門左衛門は書いてくれるんじゃないか、という期待をいだいて心中したような気がします。(p.261)
浄瑠璃なり歌舞伎なりの文化的メディアが人々の生活様式や心理に影響を及ぼす。もちろんそこには鶏と卵の関係があるが、それにしても実に現代的ではないか。我々日本人は1700年ころからこういう感じだったのである。

一方で、赤穂浪士討ち入り事件については、著者文左衛門の筆致に特に興奮は見られない。あまたある他の事件と同列に淡々と事実を記しているのみである。江戸城下、町民の熱狂で迎えられた、というような話はおそらく事実ではなく、『仮名手本忠臣蔵』以降に、人々の中でイメージが膨らまされた結果であろう。それは文左衛門の死後、半世紀ほど後のことである。しかし逆に言えば忠臣蔵もまた、メディアがむしろ事実を誘導するという実例になっているということである。

なお、文左衛門の日記自体は面白いのだが、解説書としては、ところどころ手を抜いたか、原文をそのまま貼り付けている箇所が多くあり、もうちょっと物語風に消化した上で提示した方が読みやすかったかもしれない。しかし日本といういう国が、昔から結構面白いところだったという事実が分かる本。現代のインテリゲンチャ必読の本。


元禄御畳奉行の日記 (中公文庫)

  • 神坂 次郎 (著)
  • 文庫: 274ページ
  • 出版社: 中央公論新社; 改版 (2008/09)
  • ISBN-10: 4122050499
  • ISBN-13: 978-4122050495
  • 発売日: 2008/09
  • 商品の寸法: 15.2 x 10.6 x 1.6 cm

2011年11月14日月曜日

「世界をより良いものへと変えていく」

米国IBMが創立100周年を記念して出版した "Making the World Work Better: The Ideas That Shaped a Century and a Company" という本の邦訳。3名のジャーナリストによる3部構成であり、第1部がコンピュータの発展史、第2部が企業経営の現代的あり方についての考察、第3部がSmarter Planetに向けた未来へのアジェンダと言ったところだ。2011年11月現在、空前の好業績を謳歌するこの国際企業が最近提唱しているSmarter Planetのコンセプトを、おそらく最も詳しく解説しているという点で、本書は一読の価値があるかもしれない。

第1部 "Pioneering the science of Information" はいわば、後段のビジョンを語る上で自分にその資格があると主張するための自己紹介である。入力装置、記憶装置、演算装置に分けてハードウェアの進歩がまとめられ、次いで、ロジック、ネットワーク、アーキテクチャと上位層での進歩の歴史が概観される。周知の通り、バーコードハードディスクドライブDRAMRISCFORTRAN関係データベースSQLSNAなどの今でもおなじみの技術はIBMで開発された。実はコンピュータ時代以前でさえ、IBMのセレクトリックタイプライターはオフィスにおける高級事務機の代表格であったし、言わずと知れたIBM PCは、パーソナルコンピューターという存在を、趣味の道具から仕事の道具に高める上で、決定的な役割を果たした。その他、高温超伝導DeepBlueなどの先端的な話題も加えると、客観的に見てIBMの歴史がコンピュータの歴史そのものであることがよく分かる。

第2部 "Reinventing the modern corporation" はIBMの企業経営の考え方そのものの紹介と言える。章立ては次の通りだ。
  • The Intentional Creation of Culture(企業理念の形成と実践)
  • Creating Economic Value from Knowledge(知識を利益に結びつける)
  • Becoming Global(国際企業への道)
  • How Organizations Engage with Society(企業は社会とどう関わるか)
特に興味深いのが2番目の章である。これを執筆したスティーブ・ハムは、情報を利益に変える仕方が、社会の変化により根本的に変化してきたと述べる(p.171-173)。すなわち、情報を蓄積し共有するための社会基盤が整備されたことにより、知識を利益に変える速度と多様性が圧倒的に上がり、そしてそれは、情報の占有よりも共有によって課題を見出し、速やかにそれを解決するというスタイルの研究開発を必要としていると説く。情報の共有を意味あるものにするためには、個としての戦略と意志が確立していることが必要である。IBMが採用してきた多様な企業戦略は、閉塞状態にある日本社会に何か示唆を与えるかもしれない。

この議論の延長線上に、第3部 ”Making the World Work Better” で未来へ向けたアジェンダが提示される。これは要するにSmarter Planetのビジョンそのものといってよく、本の題名そのものとなっていることからも分かるとおり、本書の中心となる部分である。

第3部の執筆者ジェフリー・M・オブライアンによれば、IBMがこれまでしてきたことは、結局、社会がうまく回るようにするための仕組みを提供してきたということである。彼は言う。
Making the world work better is about untangling and managing complexity. Doing so ---  whether to transform industries, markets, societies or nature ---  requires serious science. But curiosity and experimentation aren’t enough. Solving systemic problems also requires a particular combination of vaulting ambition and profound humility --- the level of ambition to tackle seemingly unsolvable problems and enough humility to recognize that no single entity can make the world work better and no single entity can control a complex system. What we’re really talking about here is progress, which by definition is communal. (原著p.250)  
世界がうまく回るようにするということは、複雑さを解きほぐして手に負える状態にしておくということである。産業や市場、社会、あるいは自然 ── 対象が何であれ、それを行うためには本格的な科学的知識が必要である。思い付きをとりあえず試してみるというやり方では不十分であり、系全体の問題を相手にするためには、身の程知らずの勇気と、心からの謙虚さの双方を微妙なバランスで両立させなければならない。すなわち、一見解けそうにない問題に一歩を踏み出す勇気と、ひとつの存在がこの複雑な世界を変革し制御するなどということがありえないということを知る謙虚さである。我々が今語ろうとしているのは、社会全体の進化ということである。(筆者訳) 

これは的確な指摘と言ってよい。本質的には我々は、いわゆるIT革命の次に来るべき社会変革について論じているのだ。そのために何が必要か。オブライアンは、その象徴として、マイク・メイという人物のエピソードを使っている。メイは、3歳の時に事故で失明した。その後43年もの間、彼は暗闇の中で過ごしたのだが、医学の進歩により46歳にして光を取り戻した。しかしそれは必ずしも単純なハッピーエンドの物語ではない。今メイは、目から入る情報の奔流と格闘している。それは我々が今おかれた状況と似ているとオブライアンは考える。情報技術の進歩とセンシング技術の進歩が、いまやありとあらゆるデータの観測と蓄積を可能にした。この情報の奔流を使いこなすことで、何かより無駄がなく、より安全で暮らしやすい社会が実現できると期待できる。こう考えた時、我々に必要なのは、データを解析する能力そのものである。

オブライアンは、そこに至るプロセスを、Seeing-Mapping-Understanding-Believing-Actingという5段階で整理している。現象を観測し、それを記述し、それに基づいて何かいくつかの仮説を考え、その中から確からしいものを選び出し、そして行動する、ということである。あえて訳せば、観測、記述、理解、受容、行動、とでもなろうか(邦訳ではそれぞれ、観察、マッピング、理解、信じること、行動)。興味深いことに、同様の議論は、最近、数理解析技術の専門家の側からも行われている。たとえば、IBM研究部門の数理科学部門のリーダーBrenda Dietrichらの論文では、同様な段階論が、descriptive-predictive-prescriptiveという言葉で述べられている*。これは、過去の現象を記述する段階、未来を予測するモデルを立てる段階、そして未来に対する行動を最適化する段階、の順に、情報の解析技術は発展してゆく、という主張である。
*"An IBM view of the structured data analytics landscape: descriptive, predictive and prescriptive analytics," Irv Lustig, Brenda Dietrich, Christer Johnson and Christopher Dziekan, Analytics, Nov/Dec 2010, pp.11-18.

複雑系それ自体の解析が簡単であるはずはないが、知識ないしデータを価値に変えるための技術としての数理解析技術が解くべき具体的な問題は、ビジネスの現場に無数にある。本書を通して、かつてはいわば physical layer の覇者であったIBMが、いかにその興味の対象をスタックの上位に移してきたかがよく分かる。それは言い換えると、高度な技術がその高度さに見合う見返りを得られる「フェアな」領域が、より上位層に移っているということである。Smarter Planetとは、その遷移を歴史的必然と見た時のビジネス戦略に他ならない。


追記。蛇足であるが、本書邦訳について多少コメントしておきたい。奥付から察するに、本書は、英語版が作られた後に、業者に翻訳させ、それを会社関係者がチェックする形で作られたのではないかと思う。翻訳の質は悪くない。多くの場合意味は通じる。ただ、内容の専門性の高さがゆえ、なかなか難しい箇所も散見される。たとえば目次において、IntentionalをInternationalと誤読しているのはちょっとまずい。また、第3部のSeeing-Mapping-Understanding-Believing-Actingのリズミカルな調子が、訳語では失われているのも残念だ。数学用語が意味不明になっている箇所も散見される。たとえば、「二次方程式の平方根(p.73)」とか、「長い、平らなテール(p.139) 」とか、「人間の定理(p.149) 」などである。読み手に幅広く深い知識を要求する本だからして、それこそ Collective Intelligence(p.186)により、改訂版を出すなどしても面白いと思う。


世界をより良いものへと変えていく ~世紀とその企業を作り上げた大志~
  • スティーブ・ハム (著), ケビン・メイニー (著), ジェフリー・M・オブライアン (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 350ページ
  • 出版社: ピアソン桐原 (2011/10/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4864010684
  • ISBN-13: 978-4864010689
  • 発売日: 2011/10/20
  • 商品の寸法: 23.2 x 16.8 x 2.4 cm

2011年11月10日木曜日

「論文捏造」

2000年からのおよそ2年間、主に有機物超伝導という分野で、米国の名門研究機関ベル研究所に勤める若いドイツ人物理学者が、次々に画期的な成果を発表した。その着想にあらゆる物理学者は舌を巻き、ノーベル賞受賞も時間の問題とされていた。しかし、すべては捏造であった。2003年までに、Science、Nature、Physical Review、Applied Physics Letters、Advanced Materials という一流学術誌は合計28本にものぼる論文の取り下げを発表した。

本書は、その経緯を詳細に取材したNHKのドキュメンタリー番組の書籍版である。取材は徹底的かつ詳細、重要人物はほぼ全部網羅されており、その番組が、国際的な数々の賞に輝いたというのもうなづける。

現代の物理学の研究は、大きく素粒子と物性に分かれており、それぞれの中で理論と実験に分かれている。本書の主人公 ヘンドリック・シェーンは、物性領域の実験物理学者という位置づけになる。実験物理学者の研究の目的は、第一には、いかに新しい現象を発見するかにあるといってよい。それにはストーリーが必要である。絶対零度近傍で電気抵抗がゼロになるというストーリーは、分かりやすさといい現象の華々しさといい、20世紀の物理学を代表するものである。本書の主たる主題として取り上げられるシェーンのストーリーは、有機物と超伝導、それにエレクトロニクス技術の精華であるトランジスタを絡ませた壮大なもので(p.50)、その壮大さにおいて、彼は間違いなく天才であった。悲劇は、シェーンが、実験技術の天才ではなかったという点にあった。

実は私は2000年にシェーンの論文を(捏造と知らずに)読んだことがある。確かフラーレンで高温超伝導を達成したというのがその内容で、当時は銅酸化物特有の電子構造が、高温超伝導の原因であると信じられていたから、非常に新鮮な内容だったと思う。実験家でなかった私には、その論文の結果を疑う理由などなかった。しかし結局、私がその論文を読んで間もなく、何人かの研究者によりシェーンの論文にグラフの使い回しがあることが指摘される。すぐさま2002年5月にベル研に第3者調査委員会が作られ、4ヵ月後、その報告書が出たその日に、シェーンは解雇された。

この経緯を知った私の感想は、コミュニティの自浄作用が有効に働いた、というものである。超一流の超伝導研究者Bertram Batlogg率いる、これまた超一流の研究機関と目されるベル研の研究チームによるまばゆいばかりの成果。それがわずか1年と少々で、研究者の手により覆されたのである。世の中に不正というべき事柄は無数にあるが、通常の論文出版サイクルが数ヶ月を要することを思えば、この迅速な自浄作用は驚嘆に値する。

「夢の終わりに」と題する本書第9章は、捏造をなぜ防げなかったのかという観点からの著者村松氏の考察が記されている。上記の通り、客観的には、このスキャンダルは、学会の自浄作用により解決されたと言わざるを得ないのだが、著者は、「科学の『変容』と科学界の『構造的問題』」という、いかにもジャーナリスト的な問題提起をしたかったように思える。しかし羅列的なその考察の内容は、彼の緻密な取材振りと比べた時、ほとんど物悲しいほどである。ざっと並べると、彼はこのようなことを述べている。
  • NatureやScienceといった超一流ジャーナルでさえ記事の正確さを保証しはしない
  • 学会には間違いを許容する風土がある
  • 専門論文の不正の立証は簡単ではない
  • 専門領域は細分化している
  • 巨大科学の時代では持てる者が有利になる
  • 経済的利潤と結びつくと特許など異質な要素が入り込み、それが秘密主義を誘発する
  • 国家の後押しや、アメリカ的な競争社会が研究者に過剰なプレッシャーを与える
  • 内部告発の系統的な仕組みが不足している
  • 共同研究者の責任が曖昧である

いったいどうしろと言うのだろう?これがこの章を読んだ感想であった。NatureやScienceが真実性を保証しないのは、NHKが報道内容の真実性を保証しないのと同様であろう。裁判で報道機関はよく主張するではないか。「そう信ずべき相当の理由があった」と。他の論点も同様である。間違いを絶対に認めない学会が望ましいのだろうか?  専門分野の細分化を「禁止」すれば、経済活動や国家と無関係に学会が存在すれば、内部告発の仕組みを整えれば、共同研究者の責任を明確にすれば、今回の事件の発覚は早まっただろうか?

図らずも本書は、日本の報道産業のメンタリティの限界を明示しているように思える。研究にはリスクがある。これからやろうとしていることが意味がないかもしれない、今後何ヶ月か何年かの労力が無駄になるかもしれない、という恐怖に耐えて研究者たちは前に進むのである。したがって、注意深い査読を経て出版された論文の中に、そういうリスクの欠片が残っていることはむしろ自然であろう。研究の評価が定まってから、すなわち、時間と共にリスクが洗い流された時点から、居丈高に関係者の非をあげつらうのは卑怯というものである。

リスクがあるという意味では、報道も研究も同じはずであるのに、このような論旨不明瞭な考察しか残されていないという事実に、日本のマスメディアの深い闇が見えると言わざるをを得ない。


論文捏造 (中公新書ラクレ)
  • 村松 秀 (著)
  • 新書: 333ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2006/09)
  • ISBN-10: 4121502264
  • ISBN-13: 978-4121502261
  • 発売日: 2006/09
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.6 cm

2011年10月31日月曜日

「日本海海戦の真実」

日露戦争後半の決戦、日本海海戦で東郷艦隊が完全勝利を収めた経緯を、『極秘明治三十八年海戦史』という海軍軍令部編纂の新資料によって検証した本。現在の日本で一般的になっている「司馬史観」の補正を行うという趣である。逆に言えば、ところどころフィクションが入って、どこまで信じていいのかわからなくなる『坂の上の雲』にある知識を、歴史学の水準に効率よく高めるための便利な本と言える。

本書のポイントは2つある。ひとつは、どうやって東郷艦隊が、バルチック艦隊の通過経路を正しく予測したのかという経緯である。『坂の上の雲』の最も有名な場面のひとつは、部下に宗谷、津軽、対馬のいずれの海峡を通るか問われて、東郷が一言、「それは津軽海峡よ」、と言った場面であろう。しかし本書によればそれは脚色のしすぎであり、津軽か対馬か議論百出の挙句、ほとんど津軽説に確定しかけたところ、バルチック艦隊に炭水等を補給した船団が上海郊外に入港したとの確実な情報が相次ぐに至り、ようやく対馬海峡通過が確実なものになったとのことである。要するに、補給に使った低速船団を艦隊から切り離すにせよ、しばらく海上に留め置く等をしなかったのはロジェストヴェンスキーの失策であり、東郷艦隊はその失策を正しくものにしたということらしい。

もうひとつが、「トーゴー・ターン」として世界史に名を残す丁字戦法の採用経緯である。世間的には、東郷長官のひらめきにより、決然として突如敵前大回頭がなされたとされている。しかしそれもまた脚色のしすぎであり、実は丁字戦法は、開戦前から決まっていた作戦であった。東郷自身が「連合艦隊戦策」という軍事機密資料に詳細に明記し、部下の将校にあらかじめ配布しておいたものである(p.160)。海戦当日の実行責任者が参謀・秋山真之である。そして丁字戦法の採用は、巷間言われているように天才的参謀秋山の着想ではなくて、基本的に、古今東西の海戦史に造詣深く、実戦経験豊富な東郷自身の主導によるものであり、その研究の過程では、山屋他人の示唆が大きかったようである。

著者野村氏は防衛庁戦史編纂官という地位にあった方で、一般に公開されていない一次資料に基づいて詳細に日露戦争についての実証研究を行ってきた。本書が依拠する最重要文書『極秘明治三十八年海戦史』は、大東亜戦争敗戦の際にすべてが焼却されたのだが、唯一、皇居内にあった1組だけが人知れず生き残り、戦後30年以上してから防衛庁(当時)に移管されたものである(p.26)。司馬遼太郎はそのような機密文書の存在を知る由もなかった。本書は、一般向けの新書とは言え、「日本海海戦の真実」という名に恥じぬ貴重な情報が盛り込まれた好著である。

端的に言えば本書は、歴史には奇跡がないことを教えてくれる。最高司令官東郷は、作戦研究を怠らず、入念な調査研究の下、丁字戦法・乙字戦法に基づく作戦を策定した。秋山ら参謀は、それを実行するためにベストを尽くした。いずれの海峡を通るかという困難な判断は、当初は誤っていたが、それも、バルチック艦隊の予想進行速度など、その時点で与えられていた情報から合理的に判断して、一度は津軽説を信じたのである。正しい判断のためには、今知られている情報に加えて、「何が知られていないか」についての情報も必要である。後者を知ることは論理的には不可能であるが、日頃からの真摯な研究がその多くを補ってくれる。奇跡と呼べることがあるとすれば、そういうプロセスだけである。


日本海海戦の真実 (講談社現代新書)
  • 野村 実 (著)
  • 新書: 230ページ
  • 出版社: 講談社 (1999/07)
  • ISBN-10: 4061494619
  • ISBN-13: 978-4061494619
  • 発売日: 1999/07
  • 商品の寸法: 16.8 x 10.7 x 1.3 cm

2011年10月17日月曜日

「国家の品格」

発売後わずか半年、2006年5月までに265万部を売り上げた大ベストセラーの国家論。いまさら取り上げるまでもないのだが、Amazon.co.jpでの書評が独特な分布をなしていたので一言言及しておきたい。その部数からして本書は非常に好評をもって受け入れられたが、書評を書くようなインテリからすれば、そのまま受け取るのがくやしい気分にさせる何かがあるらしい。星1つの酷評も比較的多い。面白いことに、星ひとつを与えた感想は、

  • 日本を美化しすぎである
  • 断定的過ぎる
  • 非論理的である

というような内容がほぼすべてで、非常にばらつきが少ない。内容に踏み込んだ批判はほぼなく、感情的に反応している様子が見られる。典型的なのは
実証や論理を欠いたほとんど印象論による日本的精神の称揚によって語られる「自信と誇り」なんて、たんなる「傲慢」に過ぎない
のような論法である。

内容に踏み込んだ批判もないわけではない。いくつかあるのは、新渡戸稲造を誤読している、という批判であろうか。新渡戸はクリスチャンであり、むしろ西欧精神の代表であるから、『武士道』をもって日本文化を称えるのは論理的に間違いだ、というものである。しかし本書では、これは新渡戸が「解釈した」武士道であると明記してあるし(p.121)、「アメリカに留学してキリスト教クウェーカー派の影響を受け」たとも書いてある(p.122)。むしろ比較文化論の結果としての武士道というのが論旨なのだが、どうも話はかみ合っていないようである。

この書評に見るのは、自国を褒め称えることを悪事のように思うインテリがいかにこの国には多いかということである。これは明確に教育の影響であろう。しかしはっきり言っておきたい。謙虚というのは、豊かさゆえの贅沢であるということを。

たとえば、安い料金でインターネットに接続でき、PCを購入でき、家電に囲まれた快適な生活ができるのは、その富を誰かが稼いだからである。よく指摘されるように、日本の場合その富の大部分は、主として製造業を中心とする国際競争力のある業種が稼いできて、たとえば税金として納め、あるいは給与という形で日本の市場を潤した結果である。つまりそれは、国際競争に打ち勝った結果得られた利益なのである。競争とは当初は勝ち負けが分からないから競争なのであって、そういう競争に突っ込んで行くためには、何かを信じる力が必要である。論理だけでは戦えないことは明らかであり、いみじくも帯に書かれている通り、「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論」が必要な理由もそこにある。

この「論理」をめぐる不毛なやり取りで想起されるのは、成果主義的人事評価をめぐる富士通の混乱である。富士通では、人事部の法文エリートたちが、個々の従業員の成果を「論理的に」評価すべく、定量的成果主義を導入したのであった。成果主義を導入した側も、それを非難する側も、成果主義=機械的定量人事評価、と信じているのには笑ってしまう。パソコンの販売員のような職務は別にして、そんなことはできるはずがないではないか。

論理を欠いているという理由で本書を非難する人々は、論理の出発点に情緒があるという事実自体を理解していないように見える。簡単に言えば、論理の力を過信しているように見える。人間という多面的な存在を単一の数値的指標により評価することなど不可能であるのと同様、文化的優位性を論証する論理などはありえない。本書の著者はそんなことは百も承知であろう。

それにしても、本書を読んで、「欧米にも欠点はあるが良い点もある、日本にもいい点はあるが欠点もある」(だから本書は受け入れられない)などという自明な感想しか浮かばない人たちは、どうやって日々の生活の糧を得ているのだろうか。創造も競争もなく自動的にお金をもらえるような職業があるのだとしたら、実にうらやましい限りだ。


付記。
念のために述べておくと、本書において「市場原理主義」を非難する箇所にはまったく賛成できない。誰だって競争するのは疲れるし、年功序列で十分な分け前が得られるのなら楽でよい。日本の先進的企業は、誰も好き好んで成果主義にシフトしたわけではなく、それが経済原則からして不可避的だったからそうしたまでである。資本主義というルールを認める限りにおいては、それは歴史的必然である。では、そのルールを認めないという選択肢はあるのだろうか。少なくとも現時点では存在しないし、社会主義の壮大な実験で分かったことは、おそらく、将来にわたっても存在しないということだ。残念ながら、それは情緒を超えた問題だと言わざるを得ない。本書の限界はこの点にあるのだが、詳しくはまた稿を改めよう。


国家の品格 (新潮新書)
  • 藤原 正彦
  • 新書: 191ページ
  • 出版社: 新潮社 (2005/11)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4106101416
  • ISBN-13: 978-4106101410
  • 発売日: 2005/11
  • 商品の寸法: 17.5 x 11 x 1 cm

2011年10月6日木曜日

「心病める人たち」「心の病と社会復帰」

かつての精神医療の雰囲気が分かるやや古い本。とりわけ、薬物療法が確立していない時代の記憶を色濃く残す旧時代の精神科医の、最も良心的な部分の考え方を象徴する本であろう。

ここで紹介する2冊は、古いといっても高々15年とか20年前の本であるが、この間に精神医療をめぐる雰囲気ががらりと変わったことが見て取れる。人間自体は20年で別の生物になるわけではないから、これは精神医療自体の未成熟さを示唆するものであろう。

石川信義氏『心病める人たち―開かれた精神医療へ 』は、明確に反体制運動的な立場で書かれた本である。彼の理想は、障害者が健常者と同一のコミュニティで暮らす世界である。そのために、完全開放病棟の実践を行っている。

彼の出発点は、1970年に朝日新聞紙上で連載され大反響を受けた『ルポ・精神病棟』と同じである。当時精神病院は監獄も同様であった。長い間、精神病には実効性のある治療法が確立しておらず、また、精神病患者への偏見もあいまって、薬物療法がほぼ確立した後も長い間、日本では、精神病患者は確かに悲惨な境遇に置かれていた。この地点から脱却する理想として、石川氏は開放病棟を据えたのである。

私が本書を読んだのは出版まもない頃、学生時代のことである。当時は、本書のような反体制・反政府的な立場からの政策批判は普通に見られた。しかし2011年の今、この本を読み返すと、強い違和感を感じずにはいられない。著者石川氏は、財政的制約や諸政策の優先順位を無視して、無制限な福祉支出を強いているかのようであるし、何よりも、現在標準的になされている薬物治療についての記述がほぼまったく出てこない。ほぼ一方的に、健常者側のコミュニティの歩み寄りを期待するかのようである。

このような理想主義はどういう結果を生んだのか。彼が長い間院長として勤めた三枚橋病院は、今年7月になり、次の告知を出した。
急性期治療病棟の閉鎖化 
当院は、開院以来、全開放の精神科病院として行なってまいりましたが、精神科救急へ向けて、平成23年7月1日より急性期治療病棟(54床)を閉鎖病棟化することになりました。
石川氏が院長を辞したのは2009年とのことであるから、それからまもなくこの病院は、閉鎖病棟を作ったことになる。このことは、石川氏の理想と、現実が、一定の齟齬をきたしていたことを意味している。はっきり言えば、かつての障害者解放運動は挫折したと言ってよい。

もう一冊、蜂矢英彦氏『心の病と社会復帰』はより冷静に、1990年代前半までの状況を記している。メンタルヘルスに関する情報が爆発的に一般化した現代からすれば、沈鬱な本であるが、本書のあとがきにはこうある。
全部を書き終わったとき、ある人から「心の病の問題がこんなに明るくかかれるとは思いもよらなかった」という感想をもらった。(p.205)
確かに、精神医療に関するそれまでの本は、上記石川信義氏のような反体制本か、そうでなければ専門書しかなく、本書の冷静な筆致は異色だったのであろう。

実際著者蜂矢氏は、左翼的プロパガンダとは対極的な良心の人らしく、精神障害者の犯罪比率についても客観的なデータを提示している。一般的に、統合失調症(精神分裂病)の発症率は、国によらずほぼ一定で、0.8%程度であるとされている(出典)。そうして、刑法犯総数のうち精神分裂病患者の数は0.1%程度である(p.127)。これによれば、精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と言える。これは今なお、精神障害者への「偏見」を戒めるロジックとして使われる。「しかし、殺人や放火などの重大な犯罪では一般よりも高くなる」(同)。本書に寄れば、やや古いデータであるが、1979から1981の3年間の殺人事件5113件のうち、333件が精神障害者によるものとされている。率にして6.5%である。放火の場合はもっと高い割合となることが知られているから、精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度である、という結論が導かれる。

上で紹介した三枚橋病院の対応は、この一見矛盾した事実を理解するヒントを与えてくれる。すなわち、精神病患者の大多数は善良な人々であるが、こと「急性期」の患者には、その症状がゆえの触法行為を犯さぬよう強い助けが必要なのである。これには、薬物治療を基本とし、時に医療と警察が協力した強制力ある対応が必要である。実運用がどうなっているかは別にして、それを実現する仕組みは日本にはすでに備わっているといってよい(措置入院医療保護入院、など)。

日本における精神医療は、かつての暗黒期、反体制運動と結びついた混乱期を経て、ようやく先進国の名にふさわしい体制が整ってきたように思われる。その土台には、幾多の理想主義者たちと実践家たちの刻苦の努力があった。仮に現実の前に敗北したとしても、それが実践を伴う限りにおいて、理想主義者たちの努力の足跡は尊い。


心病める人たち―開かれた精神医療へ (岩波新書)

  • 石川 信義 (著)
  • 新書: 248ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1990/5/21)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 400430122X
  • ISBN-13: 978-4101308333
  • 発売日: 1990/5/21
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.4 cm


心の病と社会復帰 (岩波新書)

  • 蜂矢 英彦
  • 新書: 210ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1993/4/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4004302765
  • ISBN-13: 978-4004302766
  • 発売日: 1993/4/20

2011年9月30日金曜日

「発達障害の子どもたち」

児童精神科の専門医・杉山登志郎氏による、発達障害とそれを取り巻く日本の状況についての解説書。高機能自閉症、アスベルガー症候群、それに子供虐待。日々メディアには発達障害に関係する文字が躍るが、誤解と偏見はいまだ根強いと著者は指摘する。

冒頭、著者は発達障害の児童についてのありがちな意見を列挙する。

  • 発達障害児も普通の教育を受ける方が幸福である、また発達にも良い影響がある
  • 養護学校(特別支援学校)に一度入れば、通常学校には戻れない。
  • 通常学級の中で周りの子どもたちからから助けられながら生活をすることは、本人にも良い影響がある
  • 養護学校卒業というキャリアは、就労に際しては著しく不利に働く
  • 通常の高校や大学に進学ができれば成人後の社会生活はより良好になる

かつて精神医学界が革命闘争の巣窟であった頃(障害者解放闘争)何らかの意味での精神に障害を持つ者を隔離するような言説を口にすることはまったくタブーであった。一見人道的に見えるそういう非隔離のアプローチが、実は非常に多くの問題をはらむことを著者は指摘する。
あなたが、自分が参加しようとしても半分以上は理解できない学習の場にじっと居ることを求められたとしたらどのようになるだろう。また自分が努力しても成果が上がらない課題を与え続けられたらどのように感じるだろう。子どもにとってもっとも大切なものの一つは自尊感情である。子どもの自信をそしてやる気を失わせないことこそが重要なのだ。(p.22)

もちろんこれは養護学校において、系統的な職業訓練を含む良心的な教育を受ける機会があることを前提にしている。今の日本ではそのような教育を受けることは実際可能であり、しかも、従業員の1.8%以上の障害者を雇用することを義務付ける法律(障害者雇用促進法)により、大企業において安定した職を得ることすら可能である。偏見的な思い込みによらず、病状に見合った教育を受けさせることの重要性を著者は再三指摘する。

発達障害において重要なのは、その発現形態が我々の常識から推測されるよりもはるかに多岐にわたるということだ。著者は発達障害を4つのグループに分ける。

  • 第1のグループ。精神遅滞を代表とするグループで、これはいわゆる「知恵遅れ」と呼ばれてきたカテゴリである。しかし現代では、これ以外にも多様な形態が知られている。本書第3章で詳述される。
  • 第2のグループ。いわゆる自閉症に関するもので、ここには、知的な遅れを持たない一群、すなわち、高機能広汎性発達障害を含む。最近いくつかの重大犯罪に絡んで世に知られるようになったアスベルガー症候群もそれである。本書第4、第5章で詳述される。
  • 第3のグループ。これも最近になり一般に知られるようになったカテゴリで、注意欠陥多動性障害、学習障害などを含む。本書第6章で詳述される。
  • 第4のグループ。これが著者の提唱する新しいカテゴリーで、被虐待児に特徴的な症状である。本書第7章で詳述される。
本書で特に被虐待児特有の精神症状を取り上げていることは注目に値する。著者は勤務先の病院において、子ども虐待の専門外来を開設し、これまで多数の被虐待児を診断してきた。そうして、被虐待児に、驚くほど似通った行動パターンが存在することを見出す。最新の脳の機能画像研究の成果によれば、虐待は、脳梁の機能不全といった器質的変化をもたらすことが知られている。虐待が与えるのは心の傷だけではない。たとえ暴力によらずとも、それは脳に物理的変化を与えるのである。いかに子ども虐待が罪深い所業かがわかる。

第7章以降は、いかに発達障害の子どもたちを治療するかという観点で、現実の問題が冷静に指摘される。特に、発達障害児の親とは、長い治療の実践の過程でさまざまな葛藤があったのであろう、問題点を指摘する筆致にも迫力がある。ポイントは2つある。ひとつは上にも書いた通常学級か養護学級かという問題で、もうひとつは、薬物治療をするか否か、という問題である。

前者について、再び著者は、子どもの自尊感情に目を配ることの重要性を指摘する。
「参加してもしなくても、何が何でも通常学級」と言われる保護者の方々は、自分がまったく参加できない会議、たとえば外国語のみによって話し合いが進行している会議に、45分間じっと着席して、時に発言を求められて困惑するといった状況をご想像いただきたい。これが一日数時間、毎日続くのである。このような状況に晒された子どもたちは、着席していながら外からの刺激を遮断し、ファンタジーへの没頭によって、さらには解離によって、自由に意識を飛ばす技術を磨くだけだろう。(p.198)
著者は、思い込みの強い保護者の攻撃に晒される教師には同情的である(p.205)。しかし一方で、養護教育に携わる教員の専門知識の乏しさを嘆き、彼らに対する専門教育の重要性を指摘している。

薬物治療についても、多くの保護者は、最近の医学の進歩を知らず、否定的な態度を取る傾向がある。著者は言う。
この折にしばしば感じるのは、このような発言をされる方が、保護者を含め、子どもの側の大変さと言うものを本当に理解したうえで言っているのかどうかという疑問である。(p.217)
薬を使わずに病気を治せ、というのは健常者の傲慢ということであろう。

本書は、発達障害に関するあらゆる話題について、高い学識と倫理観から冷静にまとめられた稀有な良書である。子どもを持つすべての親に勧めたい。


発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

  • 杉山 登志郎 (著)
  • 新書: 238ページ
  • 出版社: 講談社 (2007/12/19)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4062800403
  • ISBN-13: 978-4062800402
  • 発売日: 2007/12/19
  • 商品の寸法: 17.4 x 10.8 x 2 cm

2011年9月20日火曜日

固定電話器用ヘッドセット

固定電話の受話器の代わりに使うタイプの手ごろな値段のヘッドセット。自宅や会社で電話会議を頻繁に行う人には非常に便利である。

使い方は、受話器のコードを根元から外してこれをつけるだけ。単純な話であるが、なぜかこの種の商品で手ごろな価格のものがなかった。無駄にアンプなどがついている機種は3万円とかそういう値段で、それだと電話機本体と大差なく、どう考えても不合理と思われた。業務用価格ということなのであろう。

一方、電話用ヘッドセットと打ち込んで検索すると、携帯電話用のものが大量にヒットするが、固定電話用のものはほとんどない。あっても高いか、電話そのものを置換するような大袈裟なものかどちらかだ。

本機のおかげで、自宅および自席での電話会議が非常に快適になった。あと、出張時のホテルの電話だとスピーカーフォンがない場合があって、しばしば電話会議が苦痛だが、これをもってゆけば問題解決である。軽いし、スーツケースに入れておけばまったく負担にならない。

2011年9月現在イージーサポート社(EASYSPT社)の通販(Yahooショッピング楽天)で購入できる。販売元のウェブサイトはこちら。なお、CISCOのIP Phoneに関しては規格が別らしく、専用機種を買う必要がある。この点注意。

2012年3月付記。私のような人間がたくさんいたらしく、イージーサポート社の品揃えはますます充実しているようだ。

固定電話機用ヘッドセット

2011年9月13日火曜日

「生命保険のカラクリ」

保険業界の反人民的なビジネスモデルを解説した本。著者は「132億円集めたビジネスプラン」で紹介した岩瀬大輔氏。

さすがに自分で保険会社を立ち上げただけあって、データが豊富だ。たとえば冒頭、小売業全体の売り上げは133兆円、生命保険料の総額は40兆円、外食代30兆円といったデータが紹介され、なんと我々は外食に使うお金の1.4倍ものお金を保険に費やしており、それどころか、あらゆる買い物に使うお金の1/3もの大金を保険金として支払っているという事実が明らかにされる。もちろんこれは先進諸国では突出して高い。保険に対するこの高い消費意欲こそ、MBA上がりの彼らが保険業界に目をつけた理由である。

本書は基本的に営業の書であるからして、いろいろな保険についての分かりやすい解説があり有用である。
  • 定期保険
    掛け捨てが基本。加入・更新時の年齢で保険料が決まる。
  • 養老保険
    多めに保険料を払い、満期が来たら積み立て分は利子をつけて返す
  • 終身保険
    超長期の養老保険。一生加入する前提で、保険料は高めに設定される。

そして、キャッシュバック式の契約は無意味であること(p.95)、医療保険には入るのは不合理であること(p・103)など真っ当な事実が指摘される。趣旨は前に取り上げた「生命保険の『罠』」とほぼ同じである。興味深いことに、保険業界を攻撃しつつも、実は著者が現在保険業界で収入を得ているという構図も同じだ。

思うに、酒や煙草、それに自動車といったリスク要因を生活から排除し、バランスのよい食事に気を配っていれば、会社員でいう定年退職の年齢までに死ぬ確率は非常に小さい。そのため、ほとんどの保険は不合理であるように思われる。この不合理さこそ、岩瀬氏が既存の保険業界を攻撃してやまぬ理由である。一方で、その不合理さこそが高収益構造を生む源である。であるからして、本書を読んで彼らの会社の保険に入ろうと考えた人は、それは結局、ボられる割合がかなり大きいかやや大きいかの違いでしかないことをよく考えた方がよいかもしれない。


生命保険のカラクリ (文春新書)
  • 岩瀬 大輔 (著)
  • 新書: 232ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (2009/10/17)
  • ISBN-10: 4166607235
  • ISBN-13: 978-4166607235
  • 発売日: 2009/10/17
  • 商品の寸法: 17.4 x 11 x 1.6 cm

2011年9月6日火曜日

「部分と全体 」

量子力学の創始者の一人、ヴェルナー・ハイゼンベルクの自叙伝。副題「私の生涯の偉大な出会いと対話」にあるとおり、会話をベースに構成されたやや退屈な本であるが、今もなおすべてのインテリゲンチャにとって読む価値のある本である。

見所はおそらく2つだ。ひとつは、1925年、「ヘルゴランド島の夜明け」として知られる量子力学発見の感動的瞬間であり、もうひとつはその20年後、原爆の開発成功とその投下を知った際の苦悩の記録である。通俗的な表現を使うなら、天国と地獄、というわけであるが、それぞれのエピソードが「部分と全体」というモチーフに絡みつきながら時系列的に進行してゆくあたり、文学的にもなかなかのものである。

1925年の春、24歳のこの青年物理学者はひどい花粉症にかかり、2週間ほど休暇をとって、海の空気を吸いにヘルゴランド島というドイツ北方の小島を訪れた(地図)。彼は当時の理論物理学の最大の問題であった水素のスペクトル線の謎を解くための理論的モデルの確立に取り組んでいた。彼は、いくつかの試みのあと到達した定式化をあらゆる角度から検討した。そしてある日のほとんど明け方になって、最大の懸案であったエネルギー保存則の証明にようやく成功する。

最初の瞬間には私は心底から驚愕した。私は原子現象の表面を突き抜けて、その背後に深く横たわる独特の内部的な美しさをもった土台をのぞきみたような感じがした。そして自然が私の前に展開してみせたおびただしい数学的構造のこの富を、今や私は追わねばならないと考えたとき、私はほとんどめまいを感じたほどだった。ひどく興奮していた私は寝ることなど考えることもできなかった。そこで家を後にして、明るくなりだした夜明けの中を台地の南の突端へと歩いて行った。そこには、海の方へ張り出して超然とつっ立っている岩の塔があった。それは、今までいつも私に岩登りの誘惑をよびおこしていたものだった。私は大して苦労することもなくその塔によじ登ることに成功し、その突端で日の出を待ったのであった。 
私がヘルゴランドの夜に見たものは、もちろんアーヘン湖畔の山で見た、あの陽光に照り輝やいいた岩壁のすばらしさより、いくらかまさっていたであろうか。(p.101)
これが量子力学誕生の瞬間、「ヘルゴランド島の夜明け」のエピソードである。何ヶ月もの、深い深い思考の末に、ごくまれに出会える創造の感動。これは昨今流行の「知的生産の方法」(これとかこれのたぐい)とは、まったく、少しも、関係がない。当たり前であるが、歴史の検証に耐えるのは、情報リサイクル業者ではなくて、真の創造者の仕事である。

この感動を味わった20年後、ハイゼンベルグは焼け野原になった敗戦国ドイツで、同盟国日本に対する原爆投下のニュースを聞く。ドイツの物理学者のうち、原子核分裂の発見者であるオットー・ハーンの苦悩は深刻であった。
一九四五年八月六日の午後のことであった。 一個の原子爆弾が日本の広島市の上に投下されたということをたった今ラジオで聞いたと言ってカール・ビルツが突然私の所へやってきた。
最もひどいションクを受けたのは、当然のことながらオットー・ハーンであった。ウランの核分裂は彼の最も重大な発見であったし、それは原子技術への決定的で、かつ誰にも予想さえつかなかった第一歩であった。そしてこの一歩が、今や一つの大都市とその市民に、しかもその大部分の者は戦争について責任はないはずの武器を持たない人々に、恐るべき結末をひき起こしたのであった。ハーンのションクはひどく、取り乱して彼の部屋にもどって行った。われわれは彼が自殺するのではないかと真剣に心配した。(p.310-311)

そうして、「この不幸について、われわれは皆共犯なのだろうか。またこの罪は、そもそもどこにあるのだろうか?」と問いかけ、長い対話が始まる。伝統的に、特に欧州では、物理学とは神の創造したこの世界を理解するための純粋で崇高な営みであると固く信じられていた。しかし、非戦闘員の無差別殺戮という行為に結びついた科学的知見に、何らかの罪の影を見ることは容易である。これは衝撃的な出来事であったに違いない。

ハイゼンベルクらの議論は、透徹さより狼狽を感じるものであるが、到達した結論は、学問上の発見(理学)と発明(工学)、それに政治的権力を混同すべきではないという、素朴だが今もなお繰り返し確認すべき価値のある命題であった。「部分」としての各研究者は、各人の営みが「全体」としての社会や歴史にどういう影響を与えるかあらかじめ計算しておくことはできない。この不可知性があるがゆえ、原爆という悲劇から逆にたどって、物理学者を責めることは論理的に不可能だ、というのが彼らの考えである。おそらくそれは正しい。

部分と全体との間に、不可知性を媒介にした緊張関係があるという事実は、物理学上の諸問題ではありふれたモチーフであるが、一般にはあまり知られていないようである("More is different")。1945年当時の、核技術の利用についての、限界はあるにせよ誠実な対話と、「ヘルゴランド島の夜明け」の美しいエピソードは、もう少し広く共有したいものである。


部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話
  • W.K. ハイゼンベルク (著), Werner Karl Heisenberg (原著), 山崎 和夫 (翻訳)
  • 単行本: 403ページ
  • 出版社: みすず書房; 新装版 (1999/11)
  • ISBN-10: 4622049716
  • ISBN-13: 978-4622049715
  • 発売日: 1999/11
  • 商品の寸法: 19 x 13.2 x 2.8 cm

    2011年8月31日水曜日

    「天才になる!」

    写真家・荒木経惟(のぶよし)氏の半生記。聞き手飯沢耕太郎によるインタビュー記事を元に書籍にまとめた形態であるが、編集が秀逸で、話し言葉を文字化したときにありがちな不明瞭さがない。面白い。

    我々の社会は混沌の中ある。既存のものの単なる延長線上には何も生まれないことは誰でも知っている。無から有を創造しなければならない。これからは天才の時代だ。

    天才とは、既存の世界の彼岸へと跳躍できる人のことである。その向こう岸は誰もまだ見たことがない。暗闇に底なし沼が広がっているかもしれない。その彼岸に向けて跳躍するという行為は、合理的計算の所産ではありえない。しかし天才はそれをあえてする人である。何かの内的衝動に従って。

    この社会を形作るほとんどの人は、そういう彼岸へと跳躍したことはない。それが一体どういうことなのか想像すらできないだろう。矛盾をはらんだ乱雑な現実が、何か甘美で、透明で、あらゆるものが意識下に置かれているような、美しい世界に溶解してゆく。その創造の瞬間を言語化するのは一般には難しいが、荒木氏の場合、写真というメディアを通して、現世の彼岸へと瞬時に跳躍するのである。
    アウトサイダーアートとかを見てると、奴らにはかなわないって思う。狂気があいつらにとっては本気だからな。でも考えてみると、写真っていうメディアはそこまでいかせない抑制のメディアでもあるんだよ。(...)文学やってて、すごく小さな中でピュアに徹底的に考えちゃった奴は自殺しちゃったりするんですよ。でも、写真は、シャッター音が川に落ちるのを止めてくれる。心中を止めるんだよ。(...)写真家は境界線だからね。こっち側とあっち側の、此岸と彼岸の。(p.167-168)

    実際のところ、荒木氏の作品にはウソハッタリも多く含まれていて、注意しないといけないのだが、たとえば、彼の電通時代の作品「女囚2077」の迫力は圧倒的である。
    「女囚2077」の2077っていうのは、彼女の社員番号だよ。会社員っていうのは囚人なんだぞって言って、それでこんなトーンで延々と撮りまくって。(p.103)
    言葉だけだと限界があるこの表象を、2次元のモノクロの世界にエンコードすることで我々の精神に衝撃を与えるのである。これは一種の奇跡であろう。

    天啓というべき着想に従って、次々に創造の波を作り出す荒木氏。彼は、いわゆる世間に言う秀才の類型とはまったく違う。現在「知的」というカテゴリでもてはやされる人々を荒木氏と対比してみるのは面白い。もっともエネルギーが必要な創造のステップを省略し、既存の知識をいかにすばやく吸収するかを書いている書物は、「効率が10倍アップする新・知的生産術」とか「官僚に学ぶ仕事術 ──最小のインプットで最良のアウトプットを実現する霞が関流テクニック」などなど、まさに有象無象、無数にある。荒木氏の電通入社試験でのエピソードは、まるでこれらの著者の凡庸さをあざ笑っているかのようである。
    他の奴らはみんな手際はいいけど、あがりを見ると構成力ないし、色彩感覚悪いから。楽勝なんだよ。要するに、テクニックは入ってから一ヶ月で覚えられるから、そんなものは試験では見ないっていう自信をもって、「おれはうまい!」って思ってやったの。p.81
    然り、「テクニックは入ってから一ヶ月で覚えられる」のであり、テクニックの次元でしか語る言葉を持たない人間と、創造者の間には越えがたい壁がある。ただの情報リサイクルを、「知的生産」と持ち上げざるを得ないこの国のメディアの知的水準を、心から残念に思う。


    天才になる! (講談社現代新書)
    • 荒木 経惟 (著)
    • 新書: 230ページ
    • 出版社: 講談社 (1997/9/19)
    • 言語 日本語
    • ISBN-10: 406149371X
    • ISBN-13: 978-4061493711
    • 発売日: 1997/9/19
    • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.4 cm

    2011年7月31日日曜日

    「制服概論」

    負け犬の遠吠え』がうっかり社会的論争を引き起こしてしまったため、文化人のようにみなされかねない酒井順子女史の、本来の変態おちゃらけワールドが炸裂する好著。文化人キャラでないことは本人もよくわかっていて、最近のエロエッセイ群は「負け犬」四十路ならではの力の抜け方で、非常にいい味を出している。

    基本、あけすけ・おちゃらけエンターテイメントなのだが、個人的には制服フェティシズムをめぐる三島由紀夫論が興味深い。三島の美意識のスコープは検定教科書に載るくらいな解毒された世界よりずっと広い。抑圧と解放、美と破壊、そういった文学的モチーフのひとつとして、「盾の会」における制服趣味や、その衝撃的な最期は当然位置づけられる。死は、自由の否定の究極形態である。しかし三島は、自由意志による選択の結果として討ち入りを行い、隊員に自由意志での参集を呼びかけ、意志を尊重するという点においてもっとも高貴な生の形態とも言える切腹という仕方で、自分の人生を終えたのだ。
    制服人生を全うした、偉大なる制服愛好家(と勝手に断定してすみません)の先達、三島由紀夫。自分の軍隊の制服姿で討ち死にというそのあり方は、制服好きとしては究極の姿でありながら、他の制服好きには決して真似のできないもなのです。(p.141)  
    おちゃらけた筆致のなかに、うっかり本来の芸術的指向を見せてしまった感じであるが、最近は、自分の知識を水増しして(結果として墓穴を掘る)悲しく必死な輩が多いから、こういう力の抜け具合は好感が持てる。

    ま、三島だ文学だと高尚なことを一切考えなくても、作者のテンポのよいあけすけおちゃらけ節は十分楽しいので、疲れたときのお楽しみにどうぞということで。


    制服概論 (文春文庫)
    • 酒井 順子 (著)
    • 文庫: 236ページ
    • 出版社: 文藝春秋 (2009/1/9)
    • ISBN-10: 4167228084
    • ISBN-13: 978-4167228088
    • 発売日: 2009/1/9
    • 商品の寸法: 15.2 x 10.6 x 1.4 cm

    2011年6月30日木曜日

    「金正日と日本の知識人」

    悩む力』というミリオンセラーの著者として一般にもよく知られる姜尚中という名前の韓国人文化タレントと、北朝鮮政府の政治方針について論争した本。いわゆる右翼vs知識人、という話ではなくて、むしろ在日朝鮮人のサポーターとして長らく活動してきた著名な人権派弁護士からの根底的批判という点で興味深い。

    本書を手に取ったとき、川人博という著者名にはどこか見覚えがある気がしていた。本棚に目をやると、『過労自殺』という硬派な本の著者であった。川人氏は長い間、人権派の立場から労働問題に関わり、その流れで自然と、在日問題にも関わるようになった。活動の過程で川人氏は、北朝鮮・朝鮮総連が、忌まわしい人権侵害の主体であり、拉致、覚醒剤密輸などの明白な犯罪行為を実行していることを知る。彼は在日朝鮮人を支援してきた自分の行為が、そういう反社会的活動を支えているも同然であることを悟る。本書第3章にはそういう川人氏の個人的な思いがつづられており胸を打つ。

    本書は、2007年に『諸君』と『週刊朝日』にて交わされた川人氏と姜氏との論争を主要な内容とするが(第1章)、実は論争自体には見るべき点はない。姜氏が論点のはぐらかしに終始しているからである。本書で批判的に取り上げられる和田春樹、佐高信、水島朝穂といった反体制文化人と、川人氏の気高さとのコントラストは、ほとんど物悲しいほどである。

    終章、「アジアの人権と平和を求めて」において、川人氏は再び自分史に戻る。
    社会的な区分分けから見れば「左派」に属する私が、拉致問題にかかわる直接のきっかけとなったのは、1999年に横田夫妻の著書を読み、居ても立ってもいられなくなったからである。私がその本を読んだ時、1970年後半から80年代前半にかけての北朝鮮工作員協力者の刑事弁護活動体験がフラッシュバックした。また、幼い頃からともに遊んですごした在日の人々を想起した。そして、他にどんな忙しい仕事や重要な仕事があっても、これからの人生で、自分としてできることをしよう、との思いに至った。 
    そして私は、北朝鮮問題に取り組む中で、拉致とは、戦後平和主義の脆弱さを突いたものであると認識するようになり、拉致問題を通じて戦後平和主義の陥穽を見るようになった。(p.177)  
    そうして、日本国憲法第九条が独裁国家によって利用され続けてきたという、おそらくは人権派弁護士にとっては痛切な事実を明確に指摘するのである。

    私はこれまでの人生経験から、この世には2種類の人間がいることを知った。絶対音感ならぬ絶対価値観を心に持つ人間と、相対価値観のみを持つ人間である。人生、といった長い時間尺度において誠実さを保ち続けられるのはもっぱら前者である。姜尚中がどちらなのかは知らない。本書に刻まれた言葉の並々ならぬ迫力は、川人氏が、自分の中の絶対的座標軸に照らし常に誠実に生きてきたことことを示している。


    金正日と日本の知識人―アジアに正義ある平和を (講談社現代新書)

    • 川人 博 (著)
    • 新書: 208ページ
    • 出版社: 講談社 (2007/6/21)
    • 言語 日本語
    • ISBN-10: 9784061498976
    • ISBN-13: 978-4061498976
    • ASIN: 4061498975
    • 発売日: 2007/6/21
    • 商品の寸法: 17.4 x 11.8 x 1.4 cm

    2011年5月31日火曜日

    ThinkPad USB トラックポイントキーボード

    トラックポイント付きのUSBキーボード。ThinkPadに慣れた人はもちろん、マウスを廃止して机を広く使い人にも便利な選択肢である。

    トラックポイント付きキーボードの歴史は実は長く、鍵人というサイトで昔さんざん議論したことだが、1990年代前半から、日本語キーボードとしてはたとえば5576-C01、英語版だとこちらにあるような多くの機種が知られている。歴史的に見れば本機はその延長線上にある最新機種といった位置づけになる。

    むろん、質感の観点では、座屈ばね機構を備えた古き良き高級機の足元にも及ばないことは明らかで、その意味で最初から使い捨て程度の認識であった。が、触ってみて感心した。この値段で、ドライバを含めたこのクオリティは立派である。

    トラックポイント付きのような「特殊」なキーボードではしばしばドライバーの不適合が起こる。本機はキーボードの刷新と共にドライバーも改良がなされたようで、こちらから取得したドライバをインストールすることで、ThinkPadはもちろんPCにおいてもスクロールボタンなどの基本機能が問題なく動作する。私の場合PC切り替え器を使っているのだが、PC切り替え器を介してもセンターボタンが完全に動作したのには驚いた。

    本機は、ウルトラナビ付きの、Lenovo ThinkPlus USBトラベルキーボード 31P9490 の後継として作られたものである。このキーボードの評判は悪かった。実は私も持っていたのだが、タッチパッド下のボタンを押すたびにギシギシ音がして耐え難く、何より本質的な問題は、タイプ時に取りこぼしが多発することである。これはその筋で国際的に有名な話で、どうやらある時期まで、欠陥製品が製造されていたようである。

    私としてはこれがレノボか、と一瞬思っただけで、落胆すらしなかったのだが、レノボには骨のあるエンジニアがまだ残っていたらしい。本機は、取りこぼしのような基本的すぎる性能について問題ないのはもちろん、この軽さにしては全体的にしっとり感のある丁寧なつくりで好感が持てる。ドライバについての着実な改良もすばらしい。今のThinkPadの打鍵感が嫌いでなければ、確実に有用なキーボードとなろう。理想を言えば、鉄板を底に入れるなどして、ThinkPad 600シリーズのような剛性を達成してくれれば完璧だと思われるが、昨今の状況ではこれ以上の価格にするのは難しいのだろう。

    以下、読者の便宜のため、細かい参考情報を載せる。
    • ThinkPadとの接続
      • ThinkPadの外付けキーボードとして本機は最適である。夏など、特にXシリーズはパームレスト部が熱くなり不快であるが、その場合、本機と外付けディスプレイを買えば圧倒的に快適な作業環境を実現できる(新しい機種はDisplayPort経由でディスプレイにデジタル接続もできるので、視認品質が下がることはなない)。
      • ThinkVintageボタン、ボリュームボタン、マイクOn/Offボタン、音声Offボタンのすべてが動作するので、ThinkPadを使っているのとまったく変わらない作業環境が達成できる。
      • なお、当然ながら、ThinkPad以外のPCではボリュームボタン等は動作しない。
    • スクロールボタンの機能制限
      • 現在のところ、リモートデスクトップ接続だとスクロールボタンが使えない模様である。ThinkPadにおいては、tp4table.dat の修正などのTipsがよく知られているが、本機に関しては適用不可能のようである。リモート接続を多用される方は注意されたい。
    • 打鍵感
      • おおむね最近のThinkPadに準ずる。薄く、軽いため、強く叩くと指に不快な揺れを残す。往年のModel M等とは比べようもないが、それでもこの軽さにしてはバランスよく作られており、ゴム足のダンパ機能も優秀である。


    レノボ・ジャパン ThinkPad USB トラックポイントキーボード(英語) 55Y9003
    • 概要
      • トラックポイント付き
      • Fnホットキー付き
      • Volume Up/Downキー、Volume Muteキー、Microphone Muteキーあり
      • キーボードの角度調整可能
    • 一般
      • 製品番号 55Y9003
      • 商品名 ThinkPad USB トラックポイントキーボード(英語)
      • ダイレクト価格: ¥6,300 (税込)*
      • キャンペーン価格: ¥5,796 (税込)*
      • 保証期間 3 年
      • 奥行き 19 mm
      • 高さ 312.8 mm
      • 幅 220 mm

    2011年5月28日土曜日

    iiyama ProLite E2607WS

    イーヤマ(旧飯山電機)のWUXGA(1920×1200)の25.5インチ液晶ディスプレイ。

    最近の大型液晶ディスプレイの価格下落はめざましい。これは主に量産効果によるものであろう。以前と異なり、家庭用テレビは液晶が主流になった。大型パネルのほとんどは、デジタル放送をそのまま(dot-by-dotで)表示できる1920×1080ドットのいわゆるフルHDという解像度を採用している。価格下落は、液晶ディスプレイの市場が、テレビ用という巨大な領域を得て爆発的に広がったためで、それは慶賀の至りなのだが、問題はこの16:9という横長サイズがPC上での作業といまひとつ相性がよくないことである。

    研究なり事務処理などの実務において、A4サイズを画面上で読めるかどうかは本質的な違いである。これができないディスプレイだと紙による印刷が必須となり、プリンタを別途用意しなければならない。プリンタ自体は安くても、そのスペースや消耗品のコストをも考えれば、相当高くつくことは明らかである。つまりトータルで見て、エネルギー消費効率が悪い。したがって、A4を原寸大表示でき、なおかつそれと同等以上の作業スペースを確保できること。さらに願わくば、数十ワット以下の消費電力ですむこと。これはディスプレイに対する、エコな時代からの本質的な要請である。

    本機の25.5インチ、1920×1200というスペックは、A3を原寸大表示するのに十分である。新鋭のLEDバックライト機には負けるが、最大52Wという消費電力は許容範囲である。しかも、2011年5月現在、実売最安値2万7000円程度と、驚くほど安い。スピーカーがついている点も、場所コストを考えればうれしい。

    レノボ・ジャパン ThinkVision L2440p Wideモニター 4420HB2本機はかつては粗悪液晶の代名詞であったTN (Twisted Nematic) という方式の液晶を採用している。私を含め古いPCユーザーはTNに対して警戒心を抱いている場合が多い。実際、視野角についてのカタログスペックは高価なIPS液晶には劣っている。しかし、本機の視野角上下150度と、IPS液晶に典型的な178度というスペックとの違いが問題になる使い方など日常的にはほとんど想像すらできない。本機に関しても、たとえば5年前のディスプレイからの買い替えにおいて、見映えで落胆することはほとんどないだろう。実際、同じTN液晶で、本機よりも上下視野角が広いはずのレノボ ThinkVision L2440p Wideモニター をオフィスにて使っているのだが(詳細スペックはこちら)、このイーヤマよりも上下の視野角が狭いように感じる。だから、2万7000円という低価格に躊躇する理由はおそらくない。個人的にはよい買い物をしたと思った次第である。

    読者の便宜のため、本機の特徴を羅列的に述べよう。
    • スピーカー
      • 背面についている。もちろん音質面ではオマケ的であるが、YouTubeを見る程度の用途には十分だろう。
    • ケーブル
    • スイッチ類
      • ディスプレイ縁の下部にあるので、ディスプレイを持ち上げるような格好でスイッチを入れる。これはやや押しにくいと思う人がいるかもしれないが、スイッチを押す際ディスプレイ位置がズレないという利点があり個人的にはベストな配置と思う。
      • 複数入力を切り替える場合、切り替えに数秒待たされるので、できるだけ避けた方がいい。ディスプレイに比べて高価であるが、素直にPC切り替え器を買って、ディスプレイとキーボードを一系統に集約した方が作業効率がよかろう。
    • 解像度
      • 1920×1200なので、(PC以外の)1920×1080のフルHD機器をつなぐと、基本的に縦が引き伸ばされる。言い換えると、ディスプレイ自体にアスペクト保持機能はない(イーヤマのサイトに明記されているように、アスペクトが保持されるのは4:3と5:4の信号だけである)
      • しかしPCとつなぐ限りにおいては、解像度の調整はPC側のビデオカードなりソフトウェアなりがやってくれるはずなので、たとえば地デジカード経由でテレビを見るのには支障はない
      • PC以外の機器、たとえばDVDプレイヤーなどをつなぐ必要があり、ディスプレイ側でフルHDのアスペクト保持回路が必要なら、たとえば三菱電機のMDT243WGIIなどのマルチメディア対応機か、1920×1080のモニタを買うべし。
    • モニタ台
      • 水平軸の周りに、10度ほど画面の下部を前方に持ち上げられるが、それ以外は固定である。垂直軸まわりの回転はできない。したがって、他人に見せるためにディスプレイを回すなどの用途には向かない(別途ターンテーブルを買う必要がある)
      • 若干足が高く、画面最下部まで10cmほどある。下向き目線でのディスプレイ配置が好みな人は目が疲れるかもしれない。
      • 汎用のディスプレイアームが取り付けられるらしいが未確認。
    • 寸法
      • 画面自体の大きさは予想通りだが、ディスプレイ面の厚さがほぼ全面にわたって10cmほどあるのがやや盲点か。小型ディスプレイから買い換える人は、寸法図をよく見て配置に注意すべし。
      • 画面が熱くなることはなく、カタログスペックの、最大52Wというのは偽りなさそうである。一方、旧機のナナオ FlexScan L567は、カタログ上は消費電力45Wなのだが、本機よりも発熱が多い気がする。


    iiyama 25.5インチワイド液晶ディスプレイPro Lite E2607WS
    • メーカー型番 : PLE2607WS-B1
    • カラー : ブラック
    • 液晶サイズ : 25.5インチワイド
    • 解像度 : 1920×1200
    • 画素ピッチ : 0.2865×0.2865mm
    • 表示範囲 : 550.14×343.8mm
    • 輝度 : 300cd/m2
    • コントラスト比 : 1000 : 1(通常) 4000 : 1(ACR時)
    • 応答速度 : 2ms(G to G)
    • 視野角 : 左右85°/上80°下70°
    • 表示色 : 約1,670万色
    • 入力端子 : HDMI、HDCP機能付DVI-D、ミニD-SUB15ピン
    • スピーカー : 5W×2(アンプ付きステレオスピーカー)
    • フリーマウント : VESA規格200(100mmピッチ)×100mm対応
    • 電源 : 100V 50/60Hz
    • 消費電力 : 最大52W(省電力モード時 : 2W以下)
    • 外形寸法 : 597.5×460.5×238.0(幅×高×奥行き)
    • 重量 : 8.3kg
    • 適合規格 : VCCI-B
    • 付属品 : D-SUBミニ15ピンケーブル、DVI-Dケーブル、電源コード、オーディオケーブル、取り扱い説明書、保証書

    2011年5月6日金曜日

    「黒いスイス」

    とかく理想化されがちなこの欧州の美しい永世中立国の黒歴史を解説した本。著者福原直樹氏は毎日新聞の記者だが、新聞記者には珍しくきちんと一次資料にあたっており、データが豊富に盛り込まれた良書である。しかも新聞記者のお家芸である当事者への直接取材がリアリティをかもし出しており、こういう記者ばかりだったらさぞかし新聞も面白かろうに、と思わせる。

    第1章はスイスの半ば公的な団体がロマ(ジプシー)の子供を拉致し強制的に収容施設に隔離していたという話である。驚くべきことに拉致はつい最近、1970年代まで続き、スイス政府はこの団体に時に経費の1/4もの援助を与え、理事には大臣もしくはその経験者がついていたそうである。公式に政府が非を認めたのは1980年代後半からである。南アフリカの悪名高い人種隔離政策(アパルトヘイト)が猛烈な国際的非難の結果撤廃されたのが1994年だから、第2次大戦後の人類の恥部としてはこれと並ぶ横綱級である。

    第2-3章ではユダヤ人へのホロコーストへのスイスの加担が説明される。スイス政府は系統的な殺戮こそ行わなかったが、ナチスドイツが大量殺戮を行っていることを承知で(虐殺現場の写真まで手に入れながら)国境を封鎖し、事実上ホロコーストに加担した。

    ロマにしてもユダヤ人にしても、スイス政府の対応の底にある考えは同じである、と著者は指摘する。つまり、優れた民族と劣った民族がいるならば、優れた民族の生存権は、劣った民族に優先されなければならない、と。日本でも多かれ少なかれ異種排除の感情は存在するが、これに「優生学」のように学問的粉飾を凝らしたり、それこそ、ホロコーストのように産業として系統的に人種殲滅を図るという発想はちょっと思いつかない。

    否、日本でも戦国時代くらいまでなら、お家断絶とか山ごと焼き討ちのようなことも行われたと思うが、「民族」という抽象的カテゴリに依拠して集団を丸ごと抹殺するという発想は難しい。もし日本にそういう発想があれば、李垠王は皇族として扱われることなく単に抹殺されただろうし、朝鮮半島なり台湾なりの人々が同格の日本市民として扱われることなどなかっただろう。

    本書5章以降は、スイス社会の息の詰まるような相互監視、異分子排除ぶりが記されていて興味深い。令状を取らない盗聴。スイス国籍を取得する際の差別意識丸出しの住民投票のエピソード。明らかに日本もまた、これらの事実の底にある思想と無縁ではない。しかし少なくともスイスが理想郷ではないことだけは確かである。外国を美化し、返す刀で日本批判に転じる論理は明らかにおかしい。結局大切なのは、ある程度の多様性、開放性を確保することが国全体にとって中長期的にメリットがあるという事実である。差別か反差別か、という立論からはたいてい実りある結論は導かれない。

    黒いスイス (新潮新書)

    • 福原 直樹 (著)
    • 新書: 206ページ
    • 出版社: 新潮社 (2004/03)
    • ISBN-10: 4106100592
    • ISBN-13: 978-4106100598
    • 発売日: 2004/03