2014年1月31日金曜日

「陸軍士官学校の人間学」

1980年半ば、日本国内でのシェアがわずか数パーセントで、ほとんど存続の危機がささやかれていたアサヒビールが、「スーパードライ」の大ヒットで、1998年にはついに宿敵キリンを制してシェア首位にまでたどり着くまでの成功談を、陸軍士官学校での教えに結び付けて解釈した本。

著者中條高徳氏は、1982年にアサヒビール常務取締役営業本部長に就任、かねてからの主張に基づき、「アサヒスーパードライ」作戦を強力に推進、その後同社トップに上りつめる。その経歴を、陸士で教えられた兵法に結びつけて回想しているのだが、当然といえば当然だが、
「将たる者、方向を指示し、兵站す」(『統帥綱領』)
という程度の抽象論であり、実際のところ話の本筋に陸軍士官学校は直接関係しないのだが、それでも、日本軍の戦訓とビジネス的な意思決定を結びつけることで、それなりに読ませる。たとえば、戦力の逐次投入の愚をガダルタナルでの敗戦につなげるエピソードは、意思決定のリスクを避けるために当たり障りない策を提示しがちな多くの管理職には耳が痛い話であろう。要するに、リーダーの原則はどこでも同じ、ということで、兵法がビジネスに役に立つことがあるのは当然で、逆もまた真ということだろう。

成功物語としてはなかなか面白い。1962年、入社10年目、販売課主任の時、中條氏は、下がり続けるシェアに言及する社長の訓示を聞き涙を流す。その日の夕方、社長に呼ばれ、シェア回復の作戦を作り提出するようにいきなり指示される。ビール作り現場の技術者に聞いて回ったところ、ビールは生が一番うまいとの結論に達する。その後は、激励されたり干されたり、紆余曲折を経ながらも実績を積み重ね、上述の成功に至る。

当時の最高のエリートコースであった士官学校に入ったという経験を、戦後、絶対不可能と言われたアサヒの復活に重ね合わせたこの本は、著者にとってはこの上ない自己満足を与えたことだろう。しかし21世紀に生き抜かなければならない我々は、アサヒビールの戦いが、大枠が決められた上での「追いつけ追い越せ」式の戦いであったことを指摘せざるを得ない。つまりこれは高度成長期の成功物語としては非常によくできているのだが、今の日本の停滞に資するところは非常に少ない。たとえば、この本からはiTunesは絶対に出てこない。

使命感、統制、一点集中、などの美徳は、「方向を指示し」の後の話である。しかし今は、その方向が見えない時代だ。国は縮んでゆく。縮む市場でのシェア争いは明らかに消耗戦だ。国際競争に出ようにも、国際競争力のない国内の規制業種が国富の過半を食いつぶしている現状では、最初から巨大な負を背負っているのも同然だ。我々に必要なのは、この国のエスタブリッシュメントを ── 評論家然と出る杭を打ちまくり、なんら恥ずるところがない彼らを、軽々と飛び越えるほどの狂気だ。

だから私は、本書には、兵法云々も悪くないのだが、日本軍におけるイノベーションのエピソードを盛り込んでほしかった。敗戦から帰納して、日本軍が非合理思考の権化のごとく塗りつぶすのは、士官学校の兵法を神聖視するのと同じくらいの知的怠惰であると思う。たとえば、零戦の設計戦艦武蔵の戦術思想、あるいは、サイパンでの水際攻撃失敗の戦訓をいち早く取り込み敵に大損害を与えた硫黄島の戦い、などなど、現在の日本同様、負の慣性が強い状況での合理的な思考がどこから生まれ、どう実現されたのか。真に学ぶべきはそういう点だと思う。


陸軍士官学校の人間学 戦争で磨かれたリーダーシップ・人材教育・マーケティング
  • 中條 高徳 (著) 
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 519 KB 
  • 紙の本の長さ: 208 ページ 
  • 出版社: 講談社 (2012/9/28) 
  • 販売: 株式会社 講談社 
  • 言語: 日本語 
  • ASIN: B009I7KOUW.

2014年1月5日日曜日

「拉致と決断」

北朝鮮に拉致され、生還した蓮池薫さんの内的葛藤の記録。淡々とした筆致で、絶望の中から希望を見つけ、その希望が失われる瀬戸際での「決断」の記録は心を打つ。子供を残して日本に残るという決断である。

北朝鮮での24年間、蓮池夫妻は自分の子供に、自分たちは日本に住んでいた朝鮮人だとうそをつき通してきた。日本語は教えなかった。それ以外に子供たちの未来を開く手段がなかったからである。北朝鮮には「成分」呼ばれるカーストさながらの身分階層があり、敵国の居住暦があるとまともな教育も受けられず、まともな職業にもつけない。蓮池夫妻はわが子にすら出自を隠し、子供たちを、自分たちの住む収容所から遠く離れた全寮制の学校に通わせた。

家庭での日常の些細なやり取りを想像してみると、本当に胸が痛む。たとえば、スポーツの試合があっても、ふるさとの国に肩入れする気持ちを表に出すことはできない。あらゆる時事問題について、敵国となっている自国についての気持ちを抑え、政府の公式見解に沿う形で子供に伝えなければならない。家庭で出自を隠すというのはそういうことだ。会社の同僚にプライベートを明かさないというのとはわけが違う。

彼らには北朝鮮には当然身寄りもなく、当局の監視下での生活では友人もできるはずもない。家族の絆と、子供たちの未来が蓮池夫妻の人生のすべてであり、それを失うことは絶対にできなかった。

この感覚は、日本人の大多数には理解が難しいのだろう。日本のあらゆる空間には、おそらく縄文時代から続く人間の歴史が染み込んでおり、その結果として、ほぼ同質の文化があらゆる空間に充満している。拉致被害者としての加害国での孤独さは、日本に存在するあらゆる孤独さよりはるかに深く、暗い。

未帰還の被害者に配慮してか、北朝鮮での具体的な行動については明確には書かれていないが、逆にそれだからこそ、行間に北朝鮮での軟禁生活の生々しい現実が見えるようにも思う。2001年に、夫妻は七宝山という名山に観光旅行に出かける。24年間の拉致生活で、7回目、そして最後の外泊旅行である。さりげなくこのような一節がある。
私と家内、それに指導員の三人の三日分の食事は、大きなカバン一つに入りきらなかった。
旅行といっても純粋な観光なはずもなく、監視員つきの学習ということであろう。そしてその監視員の飲食の面倒も見なければならない。この旅行の途中、咸鏡南道で、蓮池夫妻は極貧の人々に会う。日本植民地時代日窒コンツェルンの根拠地として栄え、巨大な水力発電所で潤っているはずの地域である。

拉致という犯罪は、蓮池夫妻に、虚偽の出自を子供に教えることを強いた。しかし思えば、この国の統治が拠って立つ基盤は、金日成が日本を打倒したという虚偽の英雄譚である。虚偽なしに正当性を言えないこの国の政権が、拉致犯罪の意味を露ほども考えたことがなかったとしても、特に驚くべきことではない。

本書の最後に、蓮池氏が帰国する際、記者会見で話すように練習させられたストーリーが書かれている。
海辺の人影のいないところにいたった二人は、肩を並べて座り、涼み行く夕日を見ながら話に夢中になっていた。すると、少し離れた波打ち際に一台のモーターボートがあるのに気づいた。周りには誰もいない。興味を引かれた私は、ボートのところに行ってみる。まだかなり新しいものだった。あたりをもう一度確認した私は、ボートに乗り込み、あちこち観察して見た。操作は簡単そうだった。懐にのって海原を縦横無尽に走ってみたいという思いに駆られる。 ...

少なくとも、国家レベルで確信的に犯罪を犯す国があるということは、政治的立場を超えて、覚えておいてもいい。


拉致と決断
  • 蓮池薫 (著)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 423 KB
  • 紙の本の長さ: 155 ページ
  • 出版社: 新潮社 (2013/4/26)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語
  • ASIN: B00C186HAQ