2009年10月25日日曜日

「奪還 ー引き裂かれた24年ー」


北朝鮮に拉致され、24年後に帰国できた蓮池薫さんのお兄さんの手記。

淡々とした記述の中に、無法国家北朝鮮への憤りは当然としても、「無能国家」日本への呪いが垣間見えて考えさせられる。文章や構成などよりも、その内容の痛切さにおいて星5つ。

ところで、小泉訪朝以前に、拉致問題に対し冷淡な対応をしていた人間を私は決して信用しない。たとえば、2000年ころ試みに、何人かの同僚に北朝鮮のこの悪行を話題にしたことがあった。ある人は無言の冷たい視線で私に対し、ある人は社会党の公式見解のようなことを言った。同僚には在日家庭に育ち学生時代に帰化した男もいて、この男は人間的魅力にあふれたすばらしい男だったが、彼は何も言わなかった。何も言わなかったが、後日、自分の父親の話として、金正日の発言に衝撃を受けたと語っていたから、きっと悲しい思いをいていたのだろう。

実は私自身もかつては拉致については半信半疑であった。大韓航空機事件をルポした野田峯雄の本を読んで、一時はデッチ上げと信じたこともあった。しかしその後、いろいろな情報に触れると、これをでっち上げのように言う方がどうかしていると確信するようになった。

北朝鮮が国際テロを起こす国家であることは史実に照らして100%確実である。青瓦台襲撃事件は金日成も認めた犯行であるし、ラングーン廟爆破事件は北朝鮮に対しては非同盟中立国であるビルマが北朝鮮と断交をするに至っている。その上に、大韓航空機爆破事件である。

その上、北朝鮮が拉致に関与していたことも、小泉訪朝はるか以前に確実なことであった。宇出津事件では拉致の実行犯が逮捕されている。八尾恵の「告白」という事件もあった(『謝罪します』参照)。

普通に調べれば続々出てくるこれらの事に目をつむるというのは、高校生ならいざ知らず、大学まで出た大人のすることではない。真心さえあれば北朝鮮とも友好に付き合える、ようのなことを言う同僚たちの知的怠惰に深い絶望を感じた。そしてそういう輩に限って、金正日の自白前にはそのようなことはまだ疑惑でしかなかった(したがって自分は悪くない)、などと開き直るのである。自分の頭で考えることを省略し、いつも「正解」を外から丸呑みしてきた弛緩した生き方の、何よりの証拠である。

★★★★★ 奪還―引き裂かれた二十四年

  • 蓮池 透 (著)
  • 文庫: 213ページ
  • 出版社: 新潮社 (2006/04)
  • 発売日: 2006/04(単行本初出 2003)

2009年10月4日日曜日

「優しさをください―連合赤軍女性兵士の日記」


連合赤軍事件で殺された12名のうちのひとり・大槻節子の日記。東大闘争がピークに達する68年末から、革命左派が極左武装闘争を開始した71年半ば頃までの彼女の内面の動きが時に詩的に綴られる。正直なところ、どうせ生煮えの政治用語ばかりの退屈な本だろうと思い、まるで期待していなかった。しかし意に反して面白い。当時の時代の雰囲気に興味があり、大槻節子をめぐる3つの事件(上赤塚交番襲撃事件印旛沼事件山岳ベース事件)の知識があれば、詩的な言葉の裏にある思いに強く共感できるのではないかと思う。

本書の多くの部分は、恋人のキタローこと渡辺正則についての思いに費やされている。政治の季節の党派の言葉で彩られているけれども、基本的にそれは誠実に生きたいと願う若い男女の、切ないやり取りの記録である。

しかし1970年末に彼女が属していた党派が起こした大事件が、彼女の日記の筆致を一変させる。上赤塚交番襲撃事件である。この事件で、彼女もよく知る同志であった柴野は射殺され、恋人・渡辺も重傷を負い獄につながれる。それまで観念的世界の産物であった暴力や死が、強いリアリティをもって彼女の想念の世界を支配するようになる。

その恐怖と葛藤、そして恋人を失った不安定さのうちに、地下潜行中の彼女は、あれほど焦がれていた恋人を、俗な言い方をすれば、裏切る。71年2月27日の文章はそれを暗示する。


「哀しみが覆いかぶさり、耐え難い空洞をもち、彼は我の内に響いては来ず、ある時は怒りを嫌悪を生起させさえした。」(p.166)

しかし彼女は、どういうわけかこの「彼」ことニヒルな文学青年に惹かれてゆく。彼をめぐる彼女の感情の正負の位相の反転はきわめて激しい。

「私は何を好んで、いや何に魅かれて、彼の門を叩いたのか。彼のあの反吐をはきたくなるような内面の志向、かたくなな蝸牛の城。」(p.182)

「彼の中にある、いわば崩壊の兆しを私自身が自らの内にも予感するからか。」(p.182)

「最も嫌悪したい。実にいやらしい、不健康さを装っているが故に不健康な彼一切を嫌悪する。」(p.184)

「狂気した情念の、そのあまりの虚しさに、水をたたえてはおかぬ広漠たる砂地のように枯渇した吐息がもれる。」(p.185)

「こんなにも内部にその位置を占められていて、こんなにもいちいちのことに生身を傷つけられて...。」(p.186)

「そう、何を隠そう、彼を私のものとしたいのだ。無縁であることを拒否したいのだ!」(p.188)

一旦は転向して起訴猶予を得たこと。英雄的に闘った同志を裏切り、文学青年との情事におぼれていること。そして、身近に感じた暴力の恐怖。これらの混沌の中で、彼女が自己浄化・自己破壊の衝動に駆られたとしても不思議はない。

おそらく、彼女が山岳ベースに行かなかったとしても、彼女の先には黒く大きな穴が待ち受けていたに違いない。それをうやむやにやり過ごすにはあまりに彼女は若かった。

実際、日記が途絶えた後の彼女の先にあったのは地獄であった。かのニヒルな文学青年・向山茂徳は、権力との内通の嫌疑から、組織により処刑が決定される。坂口弘の手記によれば、その決定に最も大きな役割を果たしたのは大槻節子である。「向山を殺るべきだ」。彼女は永田洋子にそう言ったという(あさま山荘1972(上)、p.328)。

その自己浄化の衝動の先に、山岳ベースでの彼女の総括死があったのである。私はそこに、どこか必然の物語を見た。

★★★★☆ 優しさをください―連合赤軍女性兵士の日記
  • 大槻節子
  • 彩流社(新装版)
  • 1998

2009年10月2日金曜日

「壊れた尾翼―日航ジャンボ機墜落の真実」

著者は航空力学の権威。科学的に説得力のある議論が展開されており、陰謀論者の主観的かつ恣意的なストーリーを一蹴する力強い内容。本書を読めば、日航機事故の原因がほぼ理解される。

急減圧があればそれは加速度計に反映される。そしてその減圧の速度は機体容積に大きく依存する。これらは明白な科学的事実であり、反論の余地がない。ただ、この点を理解するには力学についてのある程度の知識が必要。多くの陰謀論者はそうではないので、話は永遠にかみ合わないのかもしれない。

基本的に非常に優れた労作だと思うのだが、文中何度も出てくる江連という記者が、実は美人の女性記者であることが一番最後に明かされ、そこで一気に読者は白けてしまう。女の尻を追いかける色ボケ老人の話だったのか、と。話の本筋にこの女性記者の存在は一切不要だ。著者はプロの文筆業者ではないから仕方ないにしても、このようなバカバカしいストーリーにした編集者の力量を疑わざるを得ない。まったく惜しい。

しかしそれを差し引いても、日航機事故についての、保存の価値ある資料である。将来の全面的書き直しを期待する。
(本稿初出 2005/11/13)

★★★★☆ 壊れた尾翼―日航ジャンボ機墜落の真実
  • 加藤寛一郎
  • 講談社プラスアルファ文庫
  • 2004

「擬態うつ病」


精神病についての超有名サイトを主宰する著者は、非常にプロ意識の高い精神科医である。自称うつ病すなわち「擬態うつ病」の存在を明言すること。「一般受けすること」を至上命題にする狙う書籍やマスコミではなかなかできないことである。耳あたりの良いことを言っていれば患者には感謝されるし、そこそこ本も売れるのだから。

とはいえ、この本は別に擬態うつ病を目の敵にしているわけでも、擬態うつ病の事例を列挙したような本でもない。むしろ、うつ病についての一般市民の理解と誤解を、うつ病の病理を初等的に解説しつつ、淡々と愚痴ったような本である。具体的事実の指摘に特に目新しいものはなく、やはりこの本の価値は、勇気とプロ意識を持って「擬態うつ病」の存在を明言したことに尽きるだろう。

なお、うつ病患者には読ませるな、のようなレビューもあるようだが、それほど「濃い」本ではないことは今一度指摘しておきたい。気になるようなら、著者の主催するサイトにまず目を通して見ることを勧めたい。

★★★☆☆ 擬態うつ病
  • 林公一
  • 宝島社新書
  • 2001

「静かな自裁」


事実自体は極めて文学的である。

操作ミスを惹起した潜水艇の設計を恥じ、黙して自裁した元海軍造船官。その責任の取り方の潔さは、事件についての述べられたすべての言葉の軽さを裏から照射し、結果として嘲笑しうるほどの重みを持つ。私は著者に、この極めてドラマティックな事件を文字にするにあたり感ぜずにはいられぬはずの逡巡を期待した。

この作品は、著者自身の分身である主人公たちが事件の謎解きをしてゆくという、小説的なスタイルを取っている。しかしそれがゆえに、どこまでが著者が調べた事実で、どこからが創作なのかが読者にはわからない。創作交じりのこの作品で、プライバシーを暴かれ、あるいは悪し様に言われた人たちを気持ちを思うと、なぜ著者と編集者がこのような形式を選択したのか私にはわからない。

はっきりと私は不愉快であった。偽主人公たちの言葉は、この厳粛なる死者に対峙するにはあまりにも白々しく、それがいわゆる「文学的」に整っているがゆえになおさら、人間としての軽さから来る著者の限界を思わせた。むしろ、大学生のレポート程度の稚拙な文章でもいい、真剣に事実と格闘して欲しかった。

この事件に興味を持つ人なら誰でも怒りを感じ、興味のない人なら小説として退屈すぎるであろう駄作。

(★☆☆☆☆ 飯尾憲士、静かな自裁、文芸春秋、1990)

「あなたの心が壊れるとき」


精神科医の書いた本としては最高の部類に入る。他人事のように症例を述べるのではなくて、自分はどう生きるべきかという観点から書かれており、その点において類書の追随を許さない。真摯に生き続けてきた著者の態度が伝わって、非常に読後感の爽やかな書となっている。

まず著者は、社会という場で行動するには、ゲームのルールとでも言うべきものがあると説く。だから、コギャルには「君は醜い」と言ってやるべきなのだと説く。それはしかし、すべての人間に愛あるゆえの、愛の罵倒とでも言うべきものだ。

ついで著者は、最近の日本社会での、価値観の貧困を指摘する。学歴勝者、スポーツ勝者、芸能界勝者、それだけの価値観では余りに貧困ではないかと。自分の能力の適性と限界をわきまえた穏やかな生活を送ることを目指せばいいでないかと。

そしてその感慨は、実は、社会にはゲームのルールがあるのだ、という冒頭の指摘と裏でつながっていることを読者は知る。すなわち、ルールを構成しているのは、一握りのスターではなくて、静かに生きている市井の人々なのだと。

そのような主題が、豊富かつ正確な医学的知識により裏打ちされる。かつて社会を根源から思考し切ることを目指し、そして挫折したたこの著者ならではの力強い筆の運びに、感銘を覚えた次第である。
(本稿初出 2004/9/26、一部修正。)

★★★★★ あなたの心が壊れるとき
  • 高橋龍太郎
  • 扶桑社文庫
  • 2002

2009年10月1日木曜日

「それでも会社を辞めますか? 実録・40歳からの仕事選び直し」


百年に一度というこの大不況に間に合わせたかったのだろう、その努力は認めてあげたい。

しかし残念ながらこの本の完成度は、同種の本、たとえば城繁幸の一連の著作に比べれば2割にも満たないと思われる。定量的データに乏しい内容といい、表現の陳腐さといい、新聞の書き散らしルポと同レベルで、少なくともキャリア形成について真剣に考えたことのある人であれば、買う価値は、おそらく、ない。

3章に出てくるおもちゃ屋を開業した元公務員の話はすごい。単調な仕事に嫌気が差した彼は、ある日役所を辞めてしまう。次の職を決めずにだ。はて自分のやりたいことは何だろうと考えて、自分は子供が好きだからと、彼は地元におもちゃ屋を開業する。小売の素人がだ。

普通の読者はここで心配になる。実際、「経営的には確かに厳しい」ようである。当然だろう。「けれど、数字のことはなるべく考えないようにしている」(p.88)。と、ここに来て読者はこの人の正体を知る。「数字」やコストを考えないで済むのは公務員だけだ。実ビジネスはひたすら数字との戦いだ。それを考えたくないのなら、物売りには多分向いてない。この人は公務員的な頭のまま、ビジネスごっこをやっているわけだ。

にもかかわらず著者はひたすら応援モードである。「働くことの喜びを日々感じている」「自由に生きることの喜び」「どんなに厳しい現実の波にさらされても、やりたいことのテーマがぶれることはない」(p.90)...。日教組の教師のような空疎すぎる言葉が並ぶ。

この現実感のなさはどこから来るのか。

この本には著者本人の苦労談も詳しく載っているので、著者の背景に思いをめぐらせてみるのも一興である。私に関して言えば、著者自身の失業時代の生活を描写する次の一節を読んで、著者とは一生相容れないだろうと確信した。
「私は自炊ができないので、もっぱら食事は外食で毎日2000円近くかかる」(p.120)。

金に困っているのに、自炊ができないと言い切るセンス...。著者は結局、何かにぶら下がることを暗黙に前提にしたい人なのであろう。件の元公務員氏を応援したい気持ちも分からなくもない。

6章以降は、もう、読むのもつらい。
「社会全体が、...、『インディビデュアルソサエティ』(独立社会)へと刻々と移り変わりつつあるのではないだろうか」(p.155)。

「だろうか」って...。この著者には、社会問題を語る力量がないことは確かだ。

★☆☆☆☆ それでも会社を辞めますか? 実録・40歳からの仕事選び直し
  • 多田 文明
  • アスキー新書
  • 2009

「それは、うつ病ではありません!」



精神科医である著者は、精神病についての超有名サイトの管理者でもある。本書は、そのサイトに寄せられた事例を軸に、著者のコメントを付記するスタイルをとっている。その意味で、本書の内容は保健同人社の「患者・家族を支えた実例集」シリーズと大変よく似ている。どういう傾向の本か知りたければ、まずサイトに目を通すことを勧める。

本書は前著「擬態うつ病」の続編という位置づけである。淡々と擬態うつ病の存在を指摘した前著と異なり、今回はより積極的に、擬態うつ病と本物のうつ病との違いを際立たせる努力をしている。そのために「擬態」という難解な用語を避け、新たに「気分障害」という用語を使うことを提唱している。

「気分障害」の事例を集めた類書は見当たらないため、本書の社会的価値は極めて高い。決してマスコミには出ないが、うつ病を猛々しく自称する人間の処遇に困る集団は非常に多いはずである。今や社会問題とさえ言えると思う。そういう人たちの多くが本書により救われることだろう。精神科医としての良心と、社会人としての使命感のようなものが行間の各所に感じられる好著である。

基本的に読むに値する本であるが、文章のスタイルについては、他のレビューにもある通り、成功しているとは言いがたい。著者の真骨頂は、時に断定的ですらある歯切れの良い表現にあると思う。その本来の文体を捨てててしまったため、右投げの投手が左手で投げているかのような据わりの悪さを感じた。この点において星ひとつ減ずる。

★★★★☆ それは、うつ病ではありません
  • 林公一
  • 宝島社新書
  • 2009

「謝罪します」


「北朝鮮の工作員」呼ばわりされて人権が侵害されたと、マスコミと警察を相手に裁判闘争をやっていたカフェバーの「美人ママ」の手による告白本。実は本当に工作員でした、よど号ハイジャック犯・柴田泰弘の妻でした、しかも有本恵子さんを拉致したのは私です、謝罪します、との内容。その衝撃の告白に、人権活動家による彼女の支援組織は解散するに至る。日本政府の人権抑圧問題としてウキウキと取り組んでいたであろう反日的な支援者の皆さんにしてみれば、話がまったくあべこべになってしまったわけだ。さぞかしがっかりしたことだろう。

彼女が告白をするに至った経緯には、独裁国家ならではの馬鹿馬鹿しい事情がある。1992年4月、日本のマスメディアが、よど号犯人たちには妻子がいる、との金日成の言葉を報道する。金日成本人にとっては何気ない失言だったと思われる。しかし独裁国家では、独裁者の言葉は、失言であろうとなかろうと絶対のものであり、そのため、よど号グループは、妻子の状況を公開せねばならない状況に追い込まれる。

そして、それまで身分を隠して工作活動をしていた八尾に、柴田泰弘の妻だったという事実を公開するように指令が下る。それは、裁判闘争の中で悲劇のヒロインとなっていた自分の立場を自ら壊すことを意味する。それが工作活動にマイナスなのは明らかなのだが、そのような事情より、独裁者のひと言が優先されるのである。この理不尽さが独裁国家の本質といえよう。

善意の支援者たちに嘘を告白せざるをえなくなり、著者は考える。組織は、よど号の一味であることを公開すると同時に、柴田との入籍も要求していた。そもそも柴田と結婚した経緯も金日成の事実上の指示によるものであったから、工作員としてはそれを断るという選択肢はない。北朝鮮にて軟禁状態におかれ、やむなく結婚を承諾した著者は、「夫」との時間を任務として耐えてきた。本書の多くの部分を費やして、夫との確執が語られている。しかし自由な日本で入籍することは、法的にはなんらかの愛情の存在を認めることであり、それは彼女には耐えがたかったらしい。数年の呻吟の後、ようやく著者は決断する。自分が工作員であると明らかにし、とりわけ、自分が拉致した有本恵子さんのご両親に謝罪しようと。

このように、著者が告白をしたきっかけは、もっぱら北朝鮮側の愚かさによる。日本の警察に逮捕されても、そして裁判闘争のなかで善意の人たちに囲まれていてもなお、彼女は自分自身で嘘を告白する勇気も能力も持たなかった。

本文自体は前半は活発な女の子の半生記、という感じで、記述も具体的で、軽く読める。バカっぽい自分を隠すことなく、いろいろあけすけに書いているのだが、むしろそのことが逆に前半の信憑性を増している感じだ。一方、北朝鮮で拘束されてからの記述はどこか抽象的で、男性拉致対象者との擬似恋愛のエピソードなど一部を除いて、どうも現実味に欠ける。たとえば北朝鮮からの外国への入国の手続きなどにはいろいろ謎が多いのだが、具体的記述はほとんどない。資料的な部分は読者の興味を考えて省いたのかもしれないし、操られるがままに行動していた人間の感受性では、リアルな文章を書けなかったのかもしれない。最後の告白をめぐる事情が記された章は、さらに抽象的で、砂をかむような調子になる。他人に吹き込まれた言葉をつぎはぎしている感じで、文章に脆さを感じてしまう。

厳しいことを言えば、彼女には、何か理想なり思想なりを自分のものとして能動的に行動する能力はない。自分の絶対座標を定義するだけの知性はなく、よど号グループ、裁判闘争の支援者たち、夫、子供、のような人たちとの相対的な距離を測りながら行動しているに過ぎない。

彼女が洗脳されていた「チュチェ思想」なるものは、慈父・金日成の「愛と配慮」(p.79)に対して「忠誠」で応える、という封建的主従関係を社会主義的言語で粉飾したようなものだ。つまり絶対的独裁者との相対的な距離が行動指針となる。このような、絶対的論理構造がはっきりしない思想は、知識階級には退屈なものだろうが、彼女のようなタイプの人間にはむしろなじみやすいものなのかもしれない。

それにしても、このような事件はこれまで散々明るみに出ているのに、いまだ北朝鮮や朝鮮総連に融和的な態度をとる人たちの気が知れない。本書は、そういう人たちに送る、わかりやすいテキストと言えるだろう。何しろ、拉致も結婚も、そして告白も、すべて金日成の指示によるものなのだから、さすがの北朝鮮関係者も、本件だけは否定のしようがないだろう。一方で、絶対的な価値観の確立していない人間がどこまで醜い行動を取れるかを示す資料ともなりえる。この世の闇は深い。

★★★☆☆  謝罪します
  • 八尾恵
  • 文藝春秋
  • 2002