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2025年4月21日月曜日

次のAI冬の時代は

2022年に登場したChatGPTに始まる生成AIは、インターネットの登場と同じくらいの深遠な影響を知識人の生活にもたらしました。ChatGPTの最大の発見は、言語を自己教示(self-supervised)型学習という方法で学習させると、モデル表現能力がある一定能力を超えた時点で、「創発(emergence)」という現象が生ずる、という事実です。自己教示型学習というのは、この場合で言えば、テキストの一部の語を隠して、その語が何かを当てる、というタイプの自問自答を繰り返すことです。創発、というのは、AIが人間のようにある意味行間を読む能力を獲得することです。その結果、ChatGPTとの対話は、まるで人間と話しているように感じられます。

テキストに加えて画像や音声においても、一般人が驚くような機能が次々に盛り込まれ、このような爆発的な技術進化がどこまで続くのだろうと思っている人も多いと思います。本記事執筆時点(2025年4月)において、業界的なキーワードは、「AIエージェント」です。エージェントの最も素朴な例は、調査エージェントでしょうか。生成AIに、何かの注文を出すと、勝手に調べてレポートを書いてくれる、というやつです。コンサートチケットを買ったり、旅行の予約をしたり、などのシナリオが今考えられています。通常のコンピュータによる業務自動化と何が違うのかというと、いちいち詳細まで指示を出さなくても、適当によきに計らってくれるというのがポイントです。

生成AIが近未来に進む方向を占うための重要な文献がGoogle DeepMindのウェブサイトで、2025年4月10日に公開されました。


"Welcome to the Era of Experience" と題された論文において、著者らは、現代の生成AIを "human-centric" な方法の到達点を表すものだと考えます。この human-centric というのは誉め言葉ではなく、人間が直接生成したテキストや画像などのデータに基づいているという意味です。生成AIが human-derived なデータにのみ依拠している、という認識は重要です。多くの非専門家は、この点の認識が甘いため、今の生成AIのユースケースがどこまでも適用可能だと思ってしまいがちですが、それは危険です。上記の自己教示学習が動く最大の理由は、人間の知性で生の信号を処理することで得られる劇的な簡単化だと思われるからです。我々の行動はコンテキストに強く縛られており、そこからはみ出ることはまれです。生成AIが人間のように見えるのは、我々の行動の多様性の乏しさがゆえです。言い換えると、アルファベットのあらゆる組み合わせで表現できる数学的な情報量のうちほんのちっぽけな部分しか人間は使っていないということです。高々100個程度の元素で表現される材料科学の世界のデータには人間の意図が直接関与しているわけではありませんが、数百年の人間の努力の結果、現象を支配する「言語」が把握されている珍しい例になっています。

  • 人間の知的活動から派生するデータ("human-drived")
    • テキスト
    • 音声
    • 画像(撮影は人間の意図が反映されている)
    • 化学式
    • など
  • データ生成に人間の意図が関与していないデータ
    • 自然現象のセンサーデータ
    • 株価(あまりにも多数の人間が関与しているため、個々人の意図は事実上かき消されている)
    • 人体からのセンサーデータ
    • など


人間の知的活動に派生するデータには限りがあり、早晩使い果たされるため、human-centric な方法論を乗り越える次世代のパラダイムが必要だ、というのが論文の主旨です。では次に何が来るのか。著者らが想定しているのが、ネイティブに強化学習を組み込んだ複数のAIエージェントが自律的に学習と協業を行う世界です。

この「協業」の部分については論文では願望以上のものは書かれていませんので、どのようにAIエージェントが強化学習を行うかの方が重要です。論文によれば、次世代のAIエージェントは、テキスト情報のみならず物理センサー情報等も活用して自律的にデータを集め、報酬(reward)と呼ばれる情報を頼りに自らを鍛えてゆくようなものです。


人間の作った情報に直接依拠しないという点において、これは大きな進歩になりえます。しかしここで問題なのは、だれが報酬を決めるのか、という問題です。少し長いですが重要な点なので、論文から引用しましょう。

To discover new ideas that go far beyond existing human knowledge, it is instead necessary to use grounded rewards: signals that arise from the environment itself. For example, a health assistant could ground the user’s health goals into a reward based on a combination of signals such as their resting heart rate, sleep duration, and activity levels, while an educational assistant could use exam results to provide a grounded reward for language learning. Similarly, a science agent with a goal to reduce global warming might use a reward based on empirical observations of carbon dioxide levels, while a goal to discover a stronger material might be grounded in a combination of measurements from a materials simulator, such as tensile strength or Young’s modulus.

人間の知識の枠を超えるには、環境に本質的に由来する情報としての報酬を使う必要がある。例えば、健康維持エージェントは、安静時心拍数、睡眠時間、活動レベルなどの複数の指標を組み合わせた報酬に、ユーザーの健康目標を結びつけることができよう。また、教育エージェントは試験結果を用いて、言語学習のための基盤となる報酬を提供することもできよう。同様に、地球温暖化を抑制することを目的とする科学エージェントなら、二酸化炭素レベルの実測値に基づく報酬を使えるかもしれないし、より強い材料を発見するという目的の場合は、材料シミュレーターから得られる引張強度やヤング率などの複数の測定値に基づく報酬を活用することが考えられる。


ここでは、測定可能な量と、目指す目的を表現する数値指標の間の関数形が(すなわち報酬関数の形が)、自明に知られていることが前提になっています。確かに簡単な応用ではそういうこともあるかもしれません。しかし私の知る限り、大多数の実応用では、評価指標と観測量の間の関係はよくわからないのが普通です。 たとえば、半導体装置の劣化検知を考えると、測定されているセンサーデータは何10個もありますが、どうなったら製品品質に問題をもたらす程度に劣化するのか、というのは、簡単なルールで書けるほど単純ではありません。劣化シナリオには未知のもの既知のもの含めて多数あり、なおかつ、使用する製造レシピ、その装置の前の工程での状況など、「情報としては存在するかもしれないが、そこまで考えると収拾がつかなくなるデータ」が無数にあるからです。

リアリティの欠如から考えて、Silver & Suttonはおそらく、実世界のビジネスデータの解析にかかわった経験が乏しいのかもしれません。報酬関数を設計するためには、まず、結果に関与する変数が列挙されていなければなりません。これ自体、AIではフレーム問題といわれ難問と考えられています。問題の枠組みを決める問題、ということです。仮に運よくフレームすなわち変数セットが決まったとしても、たとえば異常判定ルール(すなわち、負の報酬を与える関数形)を求める問題は自明ではありません。

この点すらも、実データ解析経験がないと理解しにくいところでしょう。普通の人が想像しがちなものは「体温が37度以上なら異常」みたいな素朴単変数ルールですが、そういう自明なものは最初から問題にはなりません。実応用上で解かなければならないのは、「平熱だしのども赤くないし下痢しているわけでもないが、どうも体調が悪い」みたいなタイプの問題だからです。考える要因が2個や3個ならいいとして、10個や20個になると考えねばならない状況が指数関数的に増え、なおかつ、手持ちのデータでその組み合わせが全部網羅されていない、みたいな状況が起こり、異常判定ルールの獲得は大変高度な問題になりえます。


この点から考えるに、 これから爆発的に流行するであろうAIエージェントの行き着く先が何となく見えてきます。論文では報酬関数は柔軟に決めてよい、データに基づいて学習されるニューラルネットワークでもよい、などと言っていますが、結局、そこに人間から見た何かの価値判断が必要なことには変わりありません。

逆に言えば、人間の価値判断なしにAIエージェントを野放しにしてよいわけはありません。上に二酸化炭素の例がありますが、AIエージェントの暴走の結果、二酸化炭素濃度が極端に下がり、植物の光合成ができなくなり枯死に至ったらどうでしょう。

経験の時代、という見方は技術進化の方向としては正しいのですが、報酬関数の設計という中核的要素において、フレーム問題と知識獲得のボトルネックという問題から逃れられないことは明らかなように見えます。だとしたら、おそらく今後数年続くであろうAIエージェントの大流行と、それに対する反作用としての幻滅期の到来は不可避なように思います。

おそらくそれが、次のAIの冬の時代の始まりとなるでしょう。

2024年3月17日日曜日

AI研究と社会: 過去10年の振り返り

 今から20年前と10年前に、機械学習の研究コミュニティの様相についてコメントをしたことがあります。それをふとしたはずみで思い出し、ある意味定点観測として、AI研究についての2024年時点での雑感を述べます。


2023年6月24日土曜日

潜水艇タイタン号の破壊事故について

Independent紙の記事によれば、タイタニック探索観光の潜水艇沈没事故、カーボンファイバーの疲労破壊が起因になった可能性が高そうです。異常発生を検知すべく、船体からのデータは潜水中は常時監視されていたようですが、残念ながらそれは役に立ちませんでした。一応異常検知の専門家として思うに、この “real-time hull health monitoring system” に、AIなりビッグデータへの過信が寄与しているとすれば、由々しき事態かと思います。

私はカーボンファイバーという素材に知識がないので間違っているかもしれませんが、一般的には疲労破壊は、微細な亀裂が急速に進展することで起こります。亀裂は原子レベルの結晶構造の不整合に起因したりしますので、その存在自体は不可避で、かつ、無数の亀裂のどこが成長するのかは確率的な現象なので、予測は非常に難しいです。できるとしたら、原子レベルからミクロン単位の動的な現象をとらえる計測装置が必要かと思います。たぶんそういうものはない。

以前、こういうことを書きました。

しかし、実際には、データ取得に関する人間の偏見ないし限界という問題が常に付きまとい、長い研究の歴史の結果として「何をデータとして集めるか」という点に合意が確立している分野(画像認識、音声認識、自然言語処理)以外では、特徴量工学を不要にした、という深層学習支持者たちの主張が、どれだけ工学的・実用的に妥当なのかを結論を出すべく、今でも研究の努力が続けられています。これは当然でしょう。普通のカメラで飛行機の写真を撮っても、金属疲労による微細な亀裂は見つかりません。飛行機の破壊を予知するのが目的であれば、相応の計測装置が必要になります。ビッグデータは物理学の壁を超えることはできないのです。特徴量工学を不要にしたとしても、データをどう取得するかについての問い(しいて言えば観測工学)を避けて通ることは絶対にできません。

タイタン号に付けられていたセンサーは、おそらく、ひずみとか圧力とか温度とかそういうマクロ的なセンサーなんだと思います。そういうもので原子レベルの、しかもミリ秒単位で急速に進展する現象をとらえることは原理的にできないと思います。この困難に直接的に対処する手段は、産業応用のレベルでは現代の科学技術をもってしても大変乏しく、たとえば航空機の設計においては、疲労破壊を招かないよう設計上のあらゆる工夫をするのは当然として(窓を丸くするなど)、安全率を大きめにとりつつ、保守において部品を定期的に交換することで何とか対応する、ということになっていると思います。

最近、大規模言語モデルの成功から、AIで何でもできるという楽観が再び世間を席巻しているようです。しかし人間の思考の結果として高度にフィルターされた言語というデータと、物理学的現象からのデータは質が違います。疲労破壊の検知が難しいのは、それがミクロ的スケールからマクロ的スケールまでまたぐ現象だからです。ビッグデータが物理学の壁を越えられない以上、「何を検知しようとしているのか」に対する考察は不可欠で、したがって、計測手段に対する工夫は不可欠です。

今回の痛ましい事故が、AIに対する適切な理解が世間に広まる一助になることを祈ります。



2022年5月2日月曜日

イーロン・マスク氏の挑戦 ── 公正な人工知能とは何か

言論の自由の絶対的信奉者(Free Speech Absolutist)を自称するイーロン・マスク氏のTwitterの買収が、今全米で議論を巻き起こしている。企業買収が日常茶飯のこの国で本件がこれほど話題になるのは、2021年1月に、現職大統領のアカウントを永久に停止するという挙に出たTwitter社に対する政治的反作用と解釈されたからだ。

マスク氏の考えはこうだ。Twitterは今や公共的な発言の場所になったのだから、そういう公的な存在としては、経営者の好き嫌いである人を締め出したり、恣意的にツイートを削除することは適切ではなく、法律の範囲内で発言の自由が認められるべきだ。

ここで、「法律の範囲内で」という点が議論になりえる。たとえば、殺人予告のような触法行為をどう取り締まるか。これについてマスク氏は、ソースコードが公開されたプログラムに自動判断させるべきであり、非公開の恣意的な基準を使い密室で(”behind-the-scenes”)禁止するツイートやユーザーを決めるべきではない、という趣旨のことを述べている。

TED 2022 におけるマスク氏のインタビュー(12:17あたりからがその発言)

トランプ氏のアカウント永久停止事件

では、アカウントの永久停止に至った問題の大統領発言とは何か。Twitter社は、次の発言が、利用規約で禁じられた「暴力の賛美」に当たると解釈した。

2021年1月8日に、ドナルド・J・トランプ大統領は次のようにツイートした。 

「米国第一、偉大なる米国よもう一度、との標語を掲げる私に投票してくれた7500万人の 偉大なる愛国者たちは、今後も大きな声を持ちづけるだろう。彼らは、いかなる形でも決して、軽んじられることも不公正に扱われることもないだろう。」 

この後すぐに、大統領はこのようにもツイートした。 

「問い合わせを寄せてくれた皆さん、1月20日の大統領就任式に私は行きません。」 

 

On January 8, 2021, President Donald J. Trump Tweeted:

“The 75,000,000 great American Patriots who voted for me, AMERICA FIRST, and MAKE AMERICA GREAT AGAIN, will have a GIANT VOICE long into the future. They will not be disrespected or treated unfairly in any way, shape or form!!!”

Shortly thereafter, the President Tweeted:

“To all of those who have asked, I will not be going to the Inauguration on January 20th.”


この発言がなされたのは1月6日の米国国会議事堂襲撃事件の2日後である。しかし大統領の発言はそれに直接言及しているわけではなく、また、ツイート自体には暴力を賛美する要素は何もない。トランプ陣営が大統領選挙の公正さについて係争中であったこと、また、Twitterが半ば公的な言論の場となっていたことを考えれば、Twitter社によるトランプ氏追放は、反暴力に名を借りた政治的な弾圧だ、との解釈も成り立ちうる。

マスク氏が問題にしている事柄のひとつはおそらくその点であろう。言論の場を提供する企業は、言論が法律の範囲内で行われている限りにおいて、個々の言論への政治的価値判断をすべきではないし、株主価値の最大化の観点で言えば、その必要性も乏しい。


AIは差別的か

マスク氏による今回の買収は、上記の出来事への政治的反作用という観点以外に、アルゴリズムないし人工知能(AI)に、公正さについての判断を任せていいのか、という問題を提起している。

この点に関して、米国のメディアでの議論は少なくとも2つの点で大きな誤解があるように思われる。

第1の点はAIの定義についてである。信頼できるAIとは何かについて議論される時はほとんど常に、人間の意思決定を人間に代わり行うような汎用人工知能(artificial general intelligence)の存在が暗に前提とされているように思える。確かに、もし人間の知的判断が非人間的な何かで置き換えられつつあるのならば、EUのAI 倫理規約が言うように、人間による制御可能性がAI倫理の柱のひとつになることは理解できる。しかし汎用人工知能などこの世に存在しないし、現状、有限の未来にそれができる可能性もない。現代のAIとは、たとえば、買い物サイトにおける商品推薦の程度のものであり、人間の介在なしに何かまともな行動がとれるようなものではないのである。

第2の点は公正さの評価についてである。2016年、調査報道で名高い通信社ProPublicaは、米国の多くの州の裁判所で使われている Northpointe という犯罪者のリスク評価ツールが人種差別的だとの報道を行った。明らかにおかしいと思うような数個の事例において、黒人と白人の犯罪者の写真を並列させ、AIツールの出力の奇妙さを見事に印象づけたその記事は社会的な反響を呼び、以後、「AIは野放しにすると何をするかわからない」との常識がメディアに定着することになった。

しかし同記事を詳しく見ると、3万5千人もの事例を使った網羅的な研究では同種のツールに人種差別の証拠はないと結論されたと書いてある。さらに、批判された側の連邦裁判所が徹底的な反論をするに及び、少なくとも機械学習の学術レベルでは ProPublica の "Machine Bias" レポートの結論は誤りであるということで決着を見ている。そもそも、刑期終了後に再犯を防ぐための支援のレベルを決めるためのツールを、裁判前の逮捕者に適用するなど記事の杜撰さは明らかで、最初から結論ありきの記事だったということである。実務のレベルでも、”Biased Algorithms Are Easier to Fix Than Biased People”、すなわち、AIツールに何か問題があったとしても、それを直すのは偏見を持つ人間を正すよりはずっと簡単だ、というのが合意事項、になるはずであった。

しかし現実はそうなっていない。たとえば ACM Computing Surveys という権威あるサーベイ誌に掲載された ”Trustworthy Artificial Intelligence: A Review” という2022年の最新の論文では、

A risk assessment tool used by the judicial system to predict future criminals was biased against black people [4].

などと堂々と誤った結論が述べられている([4]がProPublica誌の記事)。これはおそらく人文系の研究者により書かれた論文だと思われるが、それが人文系、したがって主要メディア側での常識ということなのだろう。


マスク氏の挑戦

マスク氏のTwitter買収は、少なくとも金銭的観点では成功しそうである。しかし今後の展開は予断を許さない。マスク氏の理想は、少なくとも上に述べた2つの点において、米国の主要メディアの空気とまったく乖離しているからである。すなわち、トランプ的なものに一切の人権を認めないと言わんばかりの彼らの空気と、アルゴリズムに判断をゆだねることを自動的に悪とする空気である。

今後の報道を読み解くガイドとして、いくつかの論点を羅列しておこう。

精度100%の分類器はない

多くの人文系識者は、もしAIが人間の判断を置き換えるのならば、AIは100%の精度を保証すべきだ、という不思議な想定を暗に置いていることが多い。これは2重の意味で正しくない。まず、人間の代わりに自律的に判断をするような汎用人工知能は存在しないし、AIは100%の精度を保証する「水晶玉」でもない。

個別事例(インスタンス)と総体を混同しない

もし完璧な精度が望めないのであれば、あるAIツールが差別的かどうかを知るためには、多くの個別事例から得られる結果の総体を見る以外ない。これは価値判断が統計学的になされるべきことを意味している。しかし ProPublica の記事がそうである通り、活動家マインドのジャーナリストは、同情を引くような少数の個別事例をもってAIツールなり社会制度なりを攻撃するという手法を使う。数個の事例を誤分類したからといって、AIツールの利用がただちに危険ということにはならない(そもそもProPublicaの一件ではAIに最終判断をゆだねているわけでもない)。しかしそのような論理的な反論を、大声で叫び続けることで封じる、というのが活動家の流儀である。

法律はアルゴリズムである

ある AIアルゴリズムがあるとして、それに包括的な inclusiveness を強制するためには、公平性の基準を、定義と変数と変数間の関係からなるある明示的なルールとして記述する必要がある。それは我々が「アルゴリズム」と呼ぶものである。そう書くと、いかにもそこに反人間的要素を持ち込んでいるかのように聞こえるが、実はそれは、現実の法規制(例えば税制)が採用している明示的アプローチと何ら変わるものではない。表面的な記法は別にして、論理的に言えば、法律はアルゴリズムの一種である。

アルゴリズム的に容易にかつ明示的に達成できる包括的な inclusiveness を否定するのは、(1)それを理解する学力が足りてないか(数学アレルギー)、(2)自分の所属するグループに参入障壁を設けて既得権益を守りたいか、のどちらと言われても仕方あるまい。


(本稿を書くにあたり、産業総合研究所の神嶌敏弘博士に丁寧なご教示をいただいた。引用した New York Times の記事と連邦裁判所の反論は博士のご教示による。感謝したい。)


2021年3月7日日曜日

AmazFit Band 5

中国シャオミ(小米科技、Xiaomi)の子会社のHuami (華米科技)のスマートウォッチもしくは活動量計(fitness tracker)。AmazFitは普通アメイズフィットと発音する。2021年3月現在、日本だとアマゾンで7000円くらいするようだが、アメリカでは35ドル程度で売られている。本家の日本語サイトはこちら

先日、5年ほど使ってきた iPhone 6 を iPhone 12 mini に替えた。iPhone 6は一度無償での電池交換をしたので、電池の持ちも問題なく、メール確認やメッセンジャー、あるいはカーナビなどの用途に問題なく使えていた。しかしOSの更新をAppleが止めたため、次々にソフトウェア上の不適合が発生し、業務用含む多くのソフトウェアが使えなくなってしまった。やむを得ず買い替えることにしたのだが、新しい iPhone 12 mini は、大きさも画面のきれいさもまったく iPhone 6 と同じで、自分はいったい何に $700 も払ったのか、とむなしい気持ちになった。

Apple製品を買う・買いたくなる理由は、所有に至るプロセスが高度に演出されており、それに沿って新しい製品を手にした時に、いつも高いレベルの感動を与えてくれるという点にあると思う。製品のプロモーションもパッケージも、説明書の代わりにアップルのシールが入っている素っ気ない箱の中身も、そして何より間違いなく工業デザインの最高峰と言える製品そのものも、所有の満足感という点で、アップルの右に出るものはいない。ある意味、いつもアップルの演出に乗せられるわけだが、それを後悔させない手腕はすばらしい。しかし今回、買ってむなしい気分を味わったということは、もはや iPhone という製品カテゴリに、イノベーションのジレンマの病理が見えてきたということではないか。それで、アップルの生態系から外に出られないものかと、いろいろと見ているわけである。

Band 5を買った理由はだいたい3つある。最大の理由はランニング中の心拍数の測定である。過去8年ほど、Adidas Running(旧 Runtastic)でランニングの記録をつけてきたのだが、脚力と心肺機能が徐々に低下している気がして、客観的に運動負荷を測定したい気持ちになった。それと若干関係しているのだが、第2に、Covid-19騒ぎで血中酸素濃度計の重要さを知り、その計測を気軽にしたくなったということもある。別途パルスオキシメターを購入してはあるが、運動記録器と合体していれば便利ではある。第3に、アマゾンのAlexaで電灯の制御やらをできれば便利かなと思った点である。

もちろんこれらは、Apple Watch 6 を使えば完璧にできる(酸素濃度計があるのはこのモデルだけである)。iPhone と OSレベルで統合できるので、接続だの適合性だと一切の心配はいらない。しかし2021年3月現在、Apple Watch 6は一番安いモデルでも350ドルもする。このBand 5のちょうど10倍、iPhone 本体の半分の値段を、この、18時間しか電池が持たない腕時計に費やす価値はあるのか。逆に言えば、値段が1/10で、電池の持ちが10倍のこのBand 5が十分上記の用途に使えるならば、これは完全に破壊的インパクトを持った製品と言える。私の中ではそれはApple生態系からの脱出の号砲である。


Band 5を iPhone と接続する

Band 5は、ふつう Zeppというアプリを通して接続する。Zeppへの接続は簡単で何の問題もない。必要に応じて下記の動画を見るといいだろう。このアプリは高機能だが、メニューのどこに何があるのか複雑なため、個人開発?の簡素化版 AmazTools というアプリも検討してもいいのかもしれない。


スマートウォッチはもはや腕時計単体の機能よりも、アプリを含んだ生態系の使いやすさの勝負になっている。AppleやFitbit、あるいはGarminは、ソフトウェアを作りこむことで、この点でしっかりとユーザーを囲い込んできた。AmazFitはその価格競争力から、すでにイタリヤやインドなどの多くの国で市場占有率が首位になっている。現状、Zeppにはややたどたどしい点もあるが、本家中国市場での利用者の多さも考えると、このZeppなるアプリには臨界質量(critical mass)を超えるだけの開発投資がなされることは確実で、継続的な改善が望めよう。

ランニング管理アプリとZeppを連携させる

実はこのステップが長い間の懸案であった。Adidas Running(旧 Runtastic)は非常によくできたアプリで、おそらく10年くらい前までは押しも押されぬ業界のリーダーという感じだったと思う。しかしその後、開発が停滞し、新興のStrava等に押され気味になって今に至る。現状まったく不満はないのだが、残念ながら外部機器や他アプリとの連携の幅に難がある。StravaはAmazFitないしZeppとの連携を公式にサポートしているが、2021年3月現在、Adidas Runningから接続できるのは、Apple Watch, Garmin, Polar, Suunto, Coros のGPS付きスマートウォッチだけである。やむなくStravaへの移行を決心した。

ZeppアプリからStravaを認識させること自体は簡単である。2021年3月時点で、下記の5つのアカウントを登録できる。


ここで問題が3つある。

  1. Adidas Running(旧 Runtastic)のデータをStravaに移行できるか
  2. Band 5には心拍計はあるがGPSがついてない。Band 5で心拍計測し、iPhone でGPS信号をつかまえて、ひとつのランニングデータとして統合できるか。
  3. そのGPSと心拍計測を含むランニングデータをStravaに自動で転送できるか。

第1の点について、2021年3月時点で、公式アプリを通してこれを行う方法は存在しないが、代替策が2つある。ひとつは、RunGapというアプリを介してStravaにデータを渡すことである。データ取り込みは無償だが、書き出しは4ドルないし10ドルかかる。もう一つの方法は、ここの投稿を参考に、Thoms Mielke 氏の作った変換ツールを使うことである。これは、Runtasticからダウンロードしたデータ(これはjsonファイルがZIPされたもの)を、GPS Exchange format(GPX形式)に変換するものである。一部情報が欠落するが、走ったルートの情報、時間情報などは取り込むことができる。ただし、一度に読み込めるGPXファイルは25個が上限らしいので、数百個の履歴がある場合、手作業で何10回かアップロードを続ける必要がある。

第2と第3の点について答えはYesだが、細かいコツがいろいろある。結論からいえば、次の通りである。

  • iPhone 上での準備
    • BluetoothはON(当然)にしてBand 5との接続を確認。走っているときはBand 5に加えて iPhone も腕輪方式などで身に着ける。
    • GPSを使う他のすべてのアプリを消す。バックグラウンドでも動かさない。
    • Zeppの位置情報の利用は常時許可する。
    • Zeppを開き、データの同期を済ませる。iPhoneの画面は消してもよいが、アプリ自体は動かしておく。
  • Band 5 上での操作
    • Band 5の中からWorkoutを選び、そこでRunningを起動する。
      • iPhone上の Zepp app や Strava で記録開始をしないこと。
    • その際、Band 5上で、位置情報を認識したことを確認する(認識すると振動する)。
      • iPhone上でZeppが動いていないとGPSをつかまないようなので注意。
    • ゴールに着いたら、Band 5 上でRunningを終了する
      • 画面下部をタップして画面を出し、長押しする。
  • Band 5上で運動を終了させたら、携帯を開いてZeppとデータを同期する。
    • 位置情報と心拍情報が記録されていることを確認する。
    • Stravaには自動的に転送がなされる。

iPhone 上でStravaで運動を記録すると、当然、心拍計としてのBand 5は認識されないので、位置情報しか記録できない。心拍情報だけをStravaに別途読み込む方法も探したがどうやらなさそうである。また、Stravaには、Bluetoothでの転送機能を持つ心拍計を登録する機能があるが、それではBand 5は認識できなさそうである(おそらくBand 5をiPhone本体とBluetooth接続してしまうと、別途Strava側で認識できないのだと思うがよくわからない)。一方、 iPhone 上のZeppを使い運動を記録することもしてみたが、たまたまかもしれないが、心拍が記録されないという問題が発生した。

ということで、Band 5上で、iPhoneのGPSを認識させた上で運動を記録するのが最善(かつおそらく唯一の)方法のようである。なお、Band 5では、転送できるデータの項目数に限りがあるようで、心拍計を動かした場合、歩数計などの情報は転送されないようである。逆に、心拍情報がない場合には歩幅などの情報が転送されるようである。この点は何か不具合なのか仕様なのか、いずれにしても改善が待たれる。


心拍計、血中酸素濃度はおおむね正確

WesKnowsというYoutube チャンネルで詳しい計測結果が紹介されている。下記はこの動画からのスクリーンショット。


黄色い線がBand 5で、赤い線が胸に直接つけるタイプの心拍計。この程度の誤差であれば、運動記録器として何の問題もない。別途購入した安いパルスオキシメターで測っても心拍計はほぼ正確である。

一方、血中酸素濃度については、机に座って、腕を机に置いた状態で計測すると、パルスオキシメターとたいていの場合ほぼ一致する。違うとしてもたかだか数値で1くらいである。価格10倍のApple Watch 6 の場合、"mostly useless" などと言われているが、少なくともこのBand 5については十分有用だと思う。しかしこれまで数回、たとえば日光を横から浴びているときとか、寒くて手がかじかんでいるとき、装着状態がふだんと違うときなどに、値が低めに出ることもあった。基本的に信頼できるというのが私の印象だが、いつどのような場合に誤差が生じがちかは自分で経験の経験から判断した方がよさそうである。

通知機能とAlexa

iPhoneの通知機能がONになっている限り、任意の通知をBand 5に転送できる。私の環境ではデフォルトで次のような項目がある。メール特有の項目はないが、通知を受けたければ末尾の Other をONにする。

Band 5にはスピーカーがないので、通知は振動で来る。たとえば電話の場合、断続的にジジ・ジジ・ジジと振動が起きるのですぐわかる。電話に出ることはできないが、留守電に答えさせることはできる。会議などカレンダーの通知も振動で来る。音ではなくて振動での通知は思った以上に有用だと思った。まず、音と違い精神をかき乱される感じがしない。また、在宅勤務では自分の部屋から出て家事をしている場合もあるだろうが、例えば洗濯やら炒め物やらをしていて、携帯電話を持っていないか、騒音で通知音が聞こえない場合も、この軽いバンドを腕につけておけば安心である。通知の際、画面上に誰からの電話か、など要約情報が出るので、その場で重要度が確認ができる。ただ、画面が小さいため、腕を近づけて読まないと文字が小さすぎて読めないというのは確かで、画面の大きい上位機種が欲しくなるところである。

Alexaも、Amazonのアカウントを接続すれば使える(2021年3月時点では、アメリカのAmazon.comに限られるようであるが詳細は知らない)。電灯のON-OFFもできるし、簡単な(英語の)質問(「How far is Tokyo, Japan, from NY? 」など)もできる。ただし、アマゾンのアカウントの仕様上?、ある程度時間が経つと再度ログインしないと認識されなくなってしまうようで、ほとんどの場合、Alexaにはつながらずじまいだった。Alexaは iPhone上のアプリもあり、そちらの方が立ち上げの時間は短いし、機能も多い。わざわざ小さな腕時計でAlexaを呼ぶ必然性もなく、結局使わなくなってしまった。使えることは使えるが、Alexaには期待しない方がいいかも知れない。

電池の持ちとその他の機能

私の場合、Apple Watchをこれまで避けてきたのは、高すぎる値段もあるが、1日しか電池が持たないという事実が最大の原因であった。私の持っている自動巻きの機械式腕時計ですら、2日くらいは動いている。それよりも短いというのは話にならない。この点を認識して、たとえばガーミン社では最近太陽電池を組み込んだ製品を出したりしている。しかしいかんせん高い。やはりBand 5の10倍という桁である。

米国企業に囲い込まれている米国市場ではあまり知られていないが、この点の技術革新はすでに中国で起こっている。中国におけるウェラブルデバイス市場で首位のHuawei(華為技術)は2018年にGoogle のWear OSをやめて独自開発のLite OSに移ることを発表した。同様に、Huami製のスマートウォッチも独自開発OSとチップを統合した黄山2号(Huangshan-2)というプラットフォーム上に開発されている。報道()によれば深層学習専用チップを含んだ高度なもので、それが低消費電力と高性能を両立させる鍵らしい。

実際、Sleep breathing quality monitoring をONにしなければ、一晩つけっぱなしでもほとんど電池が減ることはなく、宣伝の通り2週間くらいは持ちそうである。




その他、1週間ほど使ってみて、便利だと思った機能を羅列すると次のような感じである。
  • 天気予報。PC上でブラウザを立ち上げたり、アレクサにわざわざ声で質問するより、パッとBand 5をスワイプした方が楽である。
  • 睡眠記録機能。電池の持ちに不安がないので、夜もつけっぱなしにしているが、寝た時間などが記録されるのは、自分の健康についての認知を高めるのに有用である。寝入り時刻、起床時刻の測定は正確なように思える。
  • ランニング中のポッドキャストの制御。私の持っているBluetoothのヘッドフォンでは、「次の曲に行く」という制御ができなかった(または、やりにくかった)。そのため、つまらないポッドキャストを延々聞き続けるという苦痛を味わったことも多い。もちろん立ち止まって携帯電話上で制御することはできるのだが、時間を測っている以上、ラップを乱したくなかった。腕時計上でそれができるようになったのはうれしい。

まとめ

以上要点をまとめる。

  • よい点
    • 価格競争力。アメリカでは Apple Watch 6の1/10。
    • 電池持続期間。週2回のランニング、毎日の体操、睡眠トラッキング、をしても、2週間ほど充電せずにすみそう。
    • StravaおよびApple Healthとの自動連携。
    • スマートウォッチとしての基本機能(十分正確な心拍計と血中酸素濃度計、メール・電話・カレンダー等の通知と確認、音楽やカメラの簡単な制御、時計表示デザインの変更機能、など)
  • 将来に期待する点
    • 携帯アプリ Zepp のメニューが複雑でどこに何があるのかわかりにくい。
    • Alexaの接続の安定性が低い。
    • バンドが外れやすい。素材、薄さはよいと思うが、バンドの先端が寝ているときや走っているときにものに触れて外れることがある。

冒頭に述べた問い、すなわち、Band 5が通常のスマートウォッチとしての使用に耐えるか、という問いへの答えは、間違いなくYesである。Zeppアプリはまだ発展途上のように見えるが、それでも、Stravaとの連携、Apple Healthとの連携はスムースで、活動量計としては現時点でまったく問題ない。Appleが有効な運動記録アプリを持っていない以上、かならず何か外部アプリに頼らざるを得ない。もし運動記録がスマートウォッチの主たる目的なら、OSレベルでの統合は必ずしも必要ではないし、OSレベルで統合されていなくても、電話やメールの通知、音楽の制御は可能である。

さらに広く、睡眠管理含む健康管理器としての用途なら、睡眠ログを取る以上は、1週間程度の電池寿命は必須となる。腕に着けている間は充電できないためである。この点において、Apple Watchおよびその類似製品は実用性を欠くと言わざるを得ない。値段が1/10で、電池が10倍持ち、機能が同等、というのではもう競争にならない。OSレベルでの統合は確かに快適であるが、ほとんどの人にとって、それに10倍の値段を払う価値はないと思う。

上に述べた通り、市場占有率の観点でAmazFitは順調に成長しており、間もなくApple Watchを凌駕する存在になる可能性が高い。驚異的な価格競争力については言うまでもなく、頻繁な充電から人々を解放することで、AmazFitが、スマートウォッチという製品カテゴリにおいてDisruption(破壊的インパクト)をもたらしたのは明らかである。国外においては巨人Appleに、国内においては半官企業Huaweiに果敢に挑戦し、この技術革新を生じせしめた小米科技 Xiaomi および華米科技 Huami は尊敬に値する企業だと思う。HuamiはHuami AI Research InstituteというAIの研究所を持っているらしい。輝く未来を持つであろう企業で、このような優れた製品から得られるデータを用いAIのアルゴリズムを研究する技術者は幸せである。


2021年2月1日月曜日

Lean In: Women, Work, and the Will to Lead ( by Sheryl Sandberg)

 

邦訳もされ、もはや説明する必要もないほど有名なシェリル・サンドバーグ氏の主著。ある意味、2020年におそらくピークを迎えた #MeToo 運動 への、ビジネス側からの強力な応援として、日本でも多くの人が影響を受けたに違いない。書名はおそらく、身を乗り出して前向きに取り組む、という状況を比喩的に表したもので、強いて訳せば「一歩踏み出そう」という感じだと思う。

 市場競争にさらされる「健全な」業界においては、金銭的な評価、いわゆる「ボトムライン」の数字が結局すべてであり、そこには性別は直接の関係はない。女性だろうが男性だろうが、たくさん売ってくれる営業員がよい営業員であり、CEOが男性だろうが女性だろうが企業価値を上げてくれる人物がよい経営者である。最近、ある国際的企業で長くCEOとして君臨していた女性がCEO交代を発表したとたん株価が急騰したという話があった。それは別に株主が女性差別主義者だったからではなく、過去何年にわたり首尾一貫して企業価値を損ない続けてきたCEOの成績を見て、多くの株主が彼女の退場を願っていたということに過ぎない。逆に、Google で Google Map などのすばらしく革新的なプロジェクトをリードしたマリッサ・メイヤー氏がYahoo!のCEOに就任した年に株価が74%も上がったのは、彼女の実績と手腕への期待ゆえであろう。大多数の理性的な株主は単に企業価値を見ているだけであり、それ以外ではないのである。

科学技術の開発についても同じことが言える。 サンドバーグ氏の属するFacebookのR&D部門は、2021年時点で、Google、Amazon、Microsoftなどのアメリカ企業や、Baidu、Alibaba, Tencent などの中国企業と並び、AI(人工知能)分野での最強の技術力を持っていると考えられている。AIの最重点領域としての機械学習やデータマイニングの分野では、最新技術は主に学術会議の論文集(Proceedings)として発表される。これらは、ほとんどすべてが二重ないし三重の匿名査読方式(double/triple blind review)を採用しており、査読する側は、誰が書いたか・どこの所属か・性別は何か、など何もわからない。性別が評価基準に入る余地は基本的にない。 ── などと言っても、そもそも「査読」という仕組みを理解するためには大学院修了程度の経歴が必須なので、日本の新聞記者には信じがたいだろうが、本当である。たとえば私は、AI分野のトップ会議のひとつである International Joint Conference on Artificial Intelligence (IJCAI) の Senior Program Committee (SPC) Memberを務めたことが2度あるが、投稿者の名前を知る手段は、末端の査読者はもちろんのこと、それを統括するSPC メンバーにすら全然ない。近年、多くの主要会議では、投稿情報の管理は Microsoft's Conference Management Toolkit というサイトで行われている。データベースのアクセス管理は商用システムと同程度の堅牢さで作られており、元の投稿データに触れるのは本当に一握りの管理者のみである。会議の委員長は毎年変わり、運営委員も多様な背景の人々から選ばれるので、奥の院でこっそり何の不正をする、というような余地は全くない。犯罪的な意図を持って計画的に証拠隠滅でもすれば別なのかもしれないが、もうそれは完全に常人ができる範囲を超えている。

市場競争にせよ、技術競争にせよ、競争が本気の「ガチ」であればあるほど、性別など些細な属性に構っている暇はないのである。興味深いことに、それとは正反対のベクトル、すなわち資本主義の打倒が女性解放の唯一の道だと信じられていた時代があった。1990年に出版された上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』はその集大成と言うべきものである。そのメッセージは明確だ。資本主義社会においては、女性差別は経済原則からの必然である。だとすれば、資本主義の下での真の女性解放は、資本主義の打倒と共産主義革命の成就によってなされるべき、というのが論理的な帰結となる。副題に「マルクス主義」フェミニズム、とあるのはそういうことだ。今の若い人には、なぜ多くのマスメディアの記者や野党の政治家が、虚偽の主張をしてまで自国政府を攻撃するのか不可解だと思うが、もし資本主義の打倒が絶対善なのだとしたら、資本主義国の政府を攻撃するのも絶対善であり、その前にあらゆる手段は正当化されうる、というのが彼らの信念なのである。悲しいことに、上野氏の主著が発売された1990年という年は、東西ドイツの統一がなされ、誰の目にもマルクス主義の理想が、少なくとも社会主義という形では実装しえないという事実が明らかになった年であった。社会主義の退潮を察して、もちろん上野氏も共産主義革命を叫んだりはしていないのだが、上野氏や彼女のサークルの多くの人々は、私の知る限り、論理の根幹に関わるところで主張の総括をすることなくラベルを付け替えて、うやむやのままに相も変わらず正義の旗手のような顔で、現代の #MeToo に流れ込んだわけである。

話がそれた。

歴史的な経緯を普通に眺める限り、自由な競争の保証こそが女性解放の唯一の正しい道である、という主張は説得力があるものである。学業の能力で、男女に顕著な能力差があるというデータは私の知る限り存在しない。女性でも男性でも、賢い人は賢い。業務処理能力についても同じである。優秀な人は優秀であり、男女問わずだらしない人はだらしない。だから単に、優れた人が公正に競争できる仕組みと、十分な雇用の流動性さえあれば、基本的には問題は解決するはずである。公正な市場競争が貫徹するテック業界の、ボトムラインでの評価が貫徹する経営陣であればなおさらのこと、そのような信念の信奉者なのだろうと勝手に思っていた。

しかしこの本はそういう本ではない。Studies show...という形で女性の置かれた不利な状況を繰り返し繰り返し紹介し、女性が意志をもって上のレベルの判断に参画することの重要性を説きはするが、いかにして制度的に自由な競争を保証するかという話は、私の誤解でなければ、具体的にはひとつも出てこない。あらゆる意思決定は論理的に厳密な意味で不公平である(「醜い家鴨の仔の定理」)。したがって、あらゆる仕組みを不公平だ不公正だと批判するのはたやすいのだが、では全方位に公正な仕組みとはどういうものか(「男性の新規採用や昇進を禁止すれば公正なのか」など)という肝心な問いへの答えは本書にはない。真剣に女性の能力を活用するための具体的方策を考えている経営者なり政府関係者は困ってしまうのではないだろうか。本書は、女性へを励まし、lean-in を促す暖かい言葉に満ちている。有力なメンターを持ち(つまり子分筋になり)、アンテナをいつでも張って、機会を逃すな、というようなある種の心構え論である。それはすばらしい。しかし、相当程度出会いの運に影響されるはずの親分・子分関係が、組織の系統的な運営手段になるはずもない。

自分がトップを極めた後、後に続く人たちに対し本当の励まし・贈り物ができるとすれば、それは、自分の子分を優遇するというような狭い話ではないと思う。制度的に、いつでも、どんな出自の人でも、たとえば、田舎の出身でも、家庭的な事情から地方大学にしか通えなかった人でも、子持ちの人でも、未婚の人でも、素朴に、優秀な人がその優秀さを発揮できるような仕組みの整備と言うことになるはずである。性別や出自に業務能力が関係しないのならば(それがフェミニズムの大前提であろう)、その仕組みは性別や出自に中立でなければならない。

不思議なことに、本書からはそういう話が読み取れないのである。それは単に過渡期としての限界なのだろうか。そうかもしれない。特権的エリートの限界なのだろうか。それもあるのかもしれない。しかし私はもっと深く、かつて上野氏の本で感じたような後味の悪さを感ぜざるを得なかった。階級闘争論は人類を幸せにはしなかった。同様に、Identity politicsもまた問題解決の手段にはなりえないと思う。現代の #MeToo 運動にある種のデジャブを感じるとしたら、その人の感覚は正しい。


Lean In: Women, Work, and the Will to Lead

  • Sheryl Sandberg (Author)
  • Publisher : Knopf; 1st edition (March 12, 2013)
  • Language : English
  • Hardcover : 240 pages
  • ISBN-10 : 0385349947
  • ISBN-13 : 978-0385349949
  • Item Weight : 1.05 pounds
  • Dimensions : 6.01 x 1.02 x 9.58 inches

2020年12月31日木曜日

The Actor's Life (by Jenna Fischer)

 

アメリカで近年もっとも人気のあったテレビドラマのひとつ "The Office (アメリカ版)" の主人公 パム役でおなじみのジェナ・フィッシャーの自叙伝。女優の自叙伝にありがちな成功物語でも、他人事のようにハリウッドの内幕を描くのでもなく、セントルイスの片田舎からLAに出てきて、下積み時代はもちろん、今でさえつらい目にあいながらなんとか生き延びてきた彼女の苦労談をあけすけに語る。

ジェナは演劇に憧れる少女だったが、高校時代は特に主役をこなすわけでもなく目立たず過ごした。両親もエンターテイメント業界とは何の関係もない。大学では演技を専攻し、自分にはいくらかの天分があることを信じるようなった。少しの自負と大きな夢を持ち、マツダ323(ファミリア)に乗ってLAに行く。窓もないようなアパートでの貧乏生活から下積み生活をスタートする。 

 本の中では、例えばSAGと呼ばれる俳優組合の役割や、オーディションの様子、エージェントやマネジャーの見つけ方、エキストラのひどい扱い、危うく国際売春組織に売られそうになった経緯などなど、細かいハリウッドの内幕が詳しく書かれており興味深い。しかし何より興味を引いたのは、俳優という職業が、いかに(理系の)研究者に似ているかということだった。

The Officeで全米の人気者になった後ですら、試写会で評判が悪かったという理由で、配役予定のドラマから電話一本で降ろされたりする(そしてそれがメディアに流れて晒し者になる)。「大御所」への遠慮はない。無名時代にはもちろん、オーディションで落選に次ぐ落選である。これはまるで、常に厳しいピア・レビュー(査読)にさらされる研究者のようである。

研究者でも俳優でも、駆け出し時代の最大の仕事は自分を人に知ってもらうことで、ありとあらゆる機会をとらえてコネを作ろうとする。学問分野によっては、特に日本では、ある程度有力大学の流派に乗ればさほどの社交努力は必要ではないという幸運もあり得るが、アメリカでは一般にそうではない。学会で、バンケットやコーヒータイムが過剰と思われるほど設けられているのはそのためである。俳優の世界も似たようなものらしい。

常にオーディション落ちの恐怖に苛まれているハリウッド俳優と同じく、よほどの例外を除けば、研究者にも「上がり」はない。理系の一流学術誌には世界中から優れた論文が寄せられ、多くは厳しい査読の結果として掲載を拒絶される。たとえばアインシュタインですらPhysical Reviewというアメリカの一流学術誌から拒絶査定を受けた話は有名である。PhDを出たての若者も、50歳の教授も、そこに特に違いはない。

若者時代ならまだしも、いい年をして精魂込めた自分の演技なり作品なり論文に罵倒のようなコメントを受けるのはつらいことである。それは分野を問わず誰しも同じである。だから大多数の俳優志望の若者が数年で諦めてしまうのと同じく、ほとんどすべての研究者の卵も、数年で表舞台から消えてしまう。あまりに耐えがたく厳しいからである。その過程で多くの人は、自分がしたかったことは何だったのか自問自答を積み重ねる。そして多くの人は気づく。自分は本当は、俳優なり研究というということ自体に取り立てて強い興味はなく、それを単に名声を得る手段として使っていただけだったのだと。

これに関してジェナの言葉は力強い。

Even with  all the ups and downs, I love being an actor. But more specifically, I love using my imagination. I love reflecting on my own  feelings and bringing them to life in a character. I love connecting with an audience. I love being in touch with how it feels  to be guilty, angry, regretful, elated, loved, loving, spiteful, terrified, dishonest, or heroic. I love to recreate and experience these  feelings onstage, on TV, or in film. I love figuring out a character, discovering how we’re similar and how we differ. I love  all the new challenges that come with a new project. I love being  a storyteller. I love making people laugh. I love being with and  creating with other artists. And I love celebrating the human  experience.  (Chap. 6, "The Journey")

 彼女にとって演技とは人間への理解を深めるための創造であり、彼女はその過程自体に魅せられつづけているのだ。研究者も同じであろう。徹底的に考え抜いた後に見える何か美しい地平から、一見乱雑なこの世界を見下ろすという経験に一度でも魅了されたことのある者なら、どういう形にせよ、研究という営為から離れることなく、その苦しみも受け入れることができることだろう。

人生で挫折を感じたときに、何かヒントを与えてくれるかもしれない好著。

  • Title: The Actor's Life: A Survival Guide
  • Author: Jenna Fischer 
  • Publisher : BenBella Books (November 14, 2017)
  • Publication date : November 14, 2017
  • Language: : English

 

2016年2月29日月曜日

「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」

金融工学が不遇の筑波大学助教授時代に、米国パーデュー大学で4ヶ月ほどビジネススクールで数理最適化を教えたときの見聞をまとめた本。

ビジネススクールをアメリカの象徴として捉え、アメリカの競争社会、パーティー文化、日本での研究生活との対比などを絡め、かつて憧れたアメリカとの関係をある意味で清算する、というような筋だ。

著者はちょうど私の父の世代にあたる。昭和15年に生まれ、60年安保闘争を学部で経験し、修士課程を経て電力中央研究所に入る。若手研究員として、日銀にいた斎藤精一郎、大蔵省にいた野口悠紀雄とともに『21世紀の日本: 十倍経済社会と人間』という論文を書き、政府主催の懸賞論文で優勝する。1968年のことだ。この時期とタイトルからわかるとおり、著者は日本の高度成長とともに生きた。それはアメリカに滅ぼされた旧日本を取り戻す過程であり、何らかの意味でアメリカという巨大な存在に対して自分を知らしめる戦いでもあった。

しかしながら、著者の軽妙な筆致にも関わらず、時代と世代のあまりの遠さに、物悲しさを感ぜずにはいられない。同様の戦いの歴史をつづった盛田昭夫の自伝同様、それが疾風怒濤のある種の成功譚であればあるほど、現時点での我々の暗黒とのコントラストが際立つ気がするのである。

これはこういうことだ。2016年今現役の我々には、日米の二項対立というのは意味がほとんどない。日本側から見ればアメリカは依然として巨大であるが、その関係は10年前と劇的に変化している。つい最近まで、日本はアメリカにとって、非軍事領域で最も存在感のある相手であった。かつてアメリカが得意としたあらゆる先端領域において、日本は世界市場で非常に強い存在感を持ち、仮に日本が政治的に inscrutable であったとしても、むしそろれがゆえに、日本は何か調べる対象、関心の対象として、アメリカの知識階級の頭の片隅にいつもとどまっている存在であった。

しかしそのような日本はもうない。アメリカのメディアには日本が出ることはほとんどない。我が心のアメリカの変遷をいくら熱く語ったところで、それはちょうど、マレーシアにおいて論ぜられる日本論に日本人がほとんど興味を持たないのと同様、アメリカにとってはほとんど意味がない。かつて日本が意味ある存在である時には、日米二つの価値観の内なる相克の歴史は存在価値を持ちえた。しかし今はそうではない。著者ら団塊の世代には、彼らの語る国際関係論、文化論のほとんどが、元の時代的背景を失った結果、空疎な独り言に堕してしまっているという事実を理解してほしい。

工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行 [Kindle版]

  • 今野 浩 (著), 藤牧 秀健 (監修)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 1028 KB
  • 紙の本の長さ: 128 ページ
  • 出版社: 新潮社 (2013/5/17)
  • 言語: 日本語
  • ASIN: B00FYJFVPQ

2015年11月29日日曜日

『オレたちバブル入行組』

今さら紹介するまでもなく、TVドラマ『半沢直樹』の原作。銀行支店長と結託したある会社の偽装倒産。半沢はその倒産に伴う融資の焦げ付きの責任を取らされそうになり、社内の理不尽と戦う。

著者は財務のビジネス書の著作もあるだけに、銀行の実務に詳しく、筋書きは非常によくできている。この小説の成功は話のリアリティによるところが大きい。実世界ではめったなことでは人は死なないし、職場で怒鳴り声を上げたり泣き喚いたりというのも日常の光景にはない。日々淡々と時は過ぎ、しかしその淡々とした現実の中に、実は無数のドラマが埋まっている。

客観的に見れば、焦げ付いた融資の処理は、銀行において無数にあるであろう淡々とした出来事のひとつである。淡々とした現実をただ淡々と受け流しているだけではドラマにならない。一方、作り事が作り事である限り、そこにドラマは生じない。逆説的であるが、基本的には作り事に他ならない小説がドラマになるのは、我々の何かの現実に肉薄した時である。いわば作り事から現実のドラマを生み出すのが芸術家の腕である。

さて、実は書きたいことはそれではなく、この小説の随所に現れる横並びの相対比較的価値観についてであった。小説の舞台となる銀行の中では、入社何年でどの役職にあり、どの程度の給料で、というような価値尺度が唯一無二のものとして確立している。価値尺度がひとつしかないがゆえに、同期入社の社員に明確な序列をつけることが可能である。同期入社の中での昇進の早さはほとんど人間の価値と同一である。その単線的ラットレースの最終地点に来るのが役員就任か出向かの分岐で、そのレースを支えるのは言うまでもなく年功序列の雇用制度である。専門性により自分を売る、というような「現代的な」勤務形態はどこにもなく、ひたすら社内政治の寝技で誰を蹴落とすか。市場の要請の優先順位は信じられないほど低い。

これは銀行において、果たして今でも通用する価値観なのだろうか。本書の続編というべき『ロスジェネの逆襲』においては、就職氷河期にかろうじて銀行子会社の証券会社に就職できた若者が出てくる。しかし変わったのは単に採用の門戸の狭さだけで、銀行内部の単線的価値観に変化がないように見える。言うまでもなく、子会社での採用はその時点で負け組である。 

江戸時代の身分制度でもあるまいし、そもそも親会社の頭取を筆頭にする単線的な価値の座標軸が存在していること自体が不合理である。資本関係において子会社であっても、会社に多大な利潤を与える社員は親会社の平凡な社員より高給で雇われてもよい。そのようないわゆる職務給の考え方は、必然的に、価値観の多様化をもたらす。誰が勝ち組で負け組かは、地位により決まるのではなく、本人のスキルの価値と、そのスキルと職務の適合度でおおむね決まる。性別や国籍、入社年度や年齢に関わらず、会社が必要としているスキルをより高いレベルで持つ人間が高給で遇される。これはある意味、古来人々が追求していた人道主義の理想であるとすら言える。否、人道主義かどうかはある意味どうでもよく、その価値観に基づく人事制度が、市場で生き残るための最適な人材活用施策となっているということの方が社会的には重要である。

銀行が市場の要求と必ずしも適合しない不合理な人事制度を堅持してきた背景には、護送船団方式と言われる非資本主義的な競争環境にあった。この小説が社会的大ヒットになった事実は、バブル経済の崩壊の後もなお、国際的市場競争のプレイヤーになれない企業や従業員が、この国にまだ途方もなく多く存在しているという悲しい現実を示している。

オレたちバブル入行組(文春文庫)

  • 池井戸 潤 (著) 
  • 文庫: 368ページ
  • 出版社: 文藝春秋
  • 言語: 日本語 
  • ISBN-10: 4167728028 
  • ISBN-13: 978-4167728021 
  • 発売日: 2007/12/6

2015年6月7日日曜日

「切り捨てSONY リストラ部屋は何を奪ったか」

10年以上の長きにわたり数千人から2万人という規模の大規模人員削減を数次にわたり続けるソニー社内の、「キャリア開発室(またはキャリアデザイン室)」 に送り込まれた人たちへの取材録。

このいわばリストラ部屋に送られた当人の書いた本かと思いきや、元読売新聞の記者で今はジャーナリストということになっている清武英利という人が書いたものである。本書を読み終えて初めて気付いたが、この清武という人は、渡邉恒雄読売新聞社社長との社内での対立を、コンプライアンス違反だと記者会見で公表して大騒ぎになったいわゆる「清武の乱」という奇妙な事件の当事者なのであった。

ソニーについては、中年以上の日本人の多くは独特の感慨を持っているに違いない。かつてソニーは日本の先端性の象徴であった。世界の田舎者だと思っていた自分たちの国の企業が、世界のファッションをリードする製品を作り出しているというのは驚きであり、長い間ソニーは日本の誇りそのものであった。その革新性は、今のサムスンよりもはるかに深く米国人を魅了したはずだ。

ソニーのファンだったという米国人の経営者の話を聞いたことがある。ソニーのオーディオはよかった。Appleなんかよりずっと音がよかった。しかしiTunesから音楽を買うことにして以来、私はもうソニー製品は買っていない。ソニー製品はよかったが、ビジネスとして失敗したのは残念だった。私はソニーの失敗から学びたい。そう言っていた。

ソニーは確かに、日本経済の栄華と凋落の象徴である。そこに教訓はあってしかるべきである。本書の著者はおそらくそれを願ってもいるのだろう。本書には多数のリストラ対象者が掲載されているが、その「オチ」はほとんど常に同じである。出井社長になってから変質が始まった。昔のソニーは社員を大切にした。盛田氏は終身雇用を約束していた。今の経営者は自分は高給をもらっているくせに社員の首を切る、等々。要するに、ソニーの苦境は経営者の心がけの問題だというのである。

かつての大企業経営者はもっと謙虚で社員の苦痛にも敏感だったのではないか、と私は思う。人にはみな、他人の不幸や苦痛を見過ごしにできない本性があるという。そんな孟子の性善説を引き合いに出すまでもなく、少なくとも激しいリストラを実施するCEOが年に8億円以上の報酬を受け取ったり、無配に転落する会社の社長の年収が増えたりするようなことはなかった。それはソニーという理想工場の終焉を象徴する出来事である。(「あとがき」)

奇妙なことに、「あとがき」には、早期退職後も「幸せに生きている」と語る元社員が実に多いこと、「リストラ部屋」の住人までが共通してソニーへの愛情を語り、ほとんど愚痴らないことに驚いたと記されている。著者が言うとおり経営者による「人災」であるならば、そこに怨嗟の声を多く聞いてもよいはずである。

おそらく、大多数のソニー社員は、著者ほどナイーブではないのだと思う。技術者であればプロジェクトが経営判断で止められるのはよくある経験である。営業であれば、自分の売りやすかった商品が製造停止になったり、自分のお得意様への主力商品の取り扱いが終わったりすることもよくあることだ。総務や経理といった間接業務に従事する正社員であれば、たとえば中国に作業を移管した場合の人件費と自分たちの人件費を見比べて、定型業務の外部移管をやむをえない流れだと考えることもあろう。時代の流れと市場の様相、そして自分のスキルを見比べて、会社は永遠に自分を受け入れてくれる家族のようなものではないことを、自然に学んでいるに違いない。なぜ自分だけがリストラ部屋に送られるのか、という思いを持っていたとしても、それを部外者に語ってもどうなるものでもない。

著者は、自分の信ずる正義の信念と、そういう自然な諦念の現実との大いなる断絶に無自覚であるように見える。本書が、多彩な人間模様を描いているにもかかわらず、臨場感のない単調な繰り返しのような印象を与えるのはそのためだ。本書の中で著者が意図せず作り出した白けた空気は、ソニーの変質が少なくとも経営者の心がけだけの問題ではないことを示している。破壊的イノベーションに成功したこの企業が、変革企業の落とし穴(Innovator's dilemma)に嵌る中で生じた環境の変化こそが、誰しもやりたくてやっているわけではないリストラを余儀なくさせている原因である。

かつて「清武の乱」の時、社内の上位者の判断で自分がはしごを外されたことを、コンプライアンスの問題と言い募るこの著者の主張の理屈をよく理解できなかった。あまり興味もなかったので結論を出さぬまま忘れていたのだが、本書における著者の主観的正義感の空回りぶりを見ていると、そこで何があったのかはなんとなく想像できてしまう。市場や経営判断と無関係に、ひたすら経営者の心構えを念仏のように唱えても問題は解決しない。たとえば大規模人員削減をしなければ会社が存続できない瀬戸際に立ったとき、何も行動を起こさなければ会社は淘汰されるだけである。それを長期的視野に立った家族主義と言うのだろうか。話は逆だ。

この手の本を読むとつくづく思う。本来知識階級の代表として活動すべき新聞記者が、今や社会のお荷物、守旧派の代表となっているという悲しい現実を。日本の主要新聞社は、戦時中の新聞統合と、その後の占領軍による検閲の便宜から温存された寡占体制の中で、再販規制などの法的規制に守られながら超過利潤を手にしてきた。彼らが何と言おうとも、彼らは国家に寄生して生きる存在である。たとえそうだとしても、新聞記者個々人には、特にその官僚機構を飛び出したこの著者には、知性の翼でその限界を飛び越えてほしかった。残念ながら著者には、20世紀に全盛期を迎え、そして今世紀に消え行く運命である日本の大新聞の中で奇形的に肥大化した正義を相対化するだけの知性はなかったということであろう。残念である。


  • 清武 英利  (著)
  • 単行本: 274ページ
  • 出版社: 講談社 (2015/4/10)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4062194597
  • ISBN-13: 978-4062194594
  • 発売日: 2015/4/10
  • 商品パッケージの寸法: 19 x 13.2 x 2 cm

補足。本書は、先日読んだ『ドキュメント パナソニック人事抗争史』が割と読み応えあったので、うっかりアマゾンのおすすめに言われるがままに値段も見ずに買ってしまったものである。キンドル版と紙版で同価格、1728円もする。高い。間違いなく値段相応の価値はない。キンドル版だと古本屋に売ることも人にあげることもできない。半額にとは言わないが、相応に安くすべきだ。

2015年4月25日土曜日

「ドキュメント パナソニック人事抗争史」

パナソニックの停滞を人事抗争史の観点から論じた本。ほとんどの登場人物が実名で出てくる。さすがに直近のリーダーには否定的なことを書けないようだが、たとえば低迷の主犯の一人とされている森下洋一現相談役などは実名だ。著者は綿密に取材をしたという自負があるのだろうが、よくこんな本を出せたなと驚きを隠せない。同社に縁もゆかりもない私から見ても非常に興味深く、当然関係者には刺激的すぎる本であるに違いない。

パナソニックについて「おや?」と思ったのは2000年代の半ばに、不可思議な製品をいくつか発表しはじめてからだ。美容製品の一部はどうもオカルトまがいであったし、特に印象に残るのは2008年に発表した「持ち運びハンドルつきノートPC」だ。私を含むLet's Noteファンに異様な印象を与えたこの製品は、ほとんど一瞬で市場から消えた。2000年代の終わりには、幹部社員が新事業の提案をするよう強い圧力を受けているといううわさを聞いた。全体的に、どうも進むべき方針を見失っているように見えた。上位マネジメントは方針を示せず、しかし業績は上がらない。そのため非常に強い圧迫を下位のマネジメントに与えている。敗戦間近の日本軍のように、勇ましい提案が過剰に重視され、リスク管理や中長期的な戦略は二の次になっている ── これが傍観者の感想であった。いくつものパナソニック製品を愛用してだけに残念であった。

これが正しい観察だったのかは分からない。しかし本書によれば、その頃は確かにパナソニックの社内は混乱をきたしていたようだ。本書の筋は冒頭の「まえがき」にまとめられている。パナソニックの停滞の根本的な原因は創業者一族とそれ以外との確執にある。近代的経営の必要性を認識していた創業者松下幸之助は、1977年に改革のために末席役員の山下俊彦を社長に抜擢する。近代的経営ということは創業家の権限縮小を含む。しかし山下の改革を過度に急進的と感じた幸之助含む松下一族からの巻き返しにあい、創業者側、従って保守的な現状維持勢力が結果として長期政権を築く。パナソニックには非常に優れた人材がいたが、市場ではなく社内政治を優先する風土ができてしまったようだ。その結果として業績が危機的になった2000年の時点で、中村邦夫が社長になり、社内の組織改革と人員削減を進める。これによりいったんは業績は回復するものの、結局中村の挙げた成果はそこまでで、彼の強権的な運営手法は社内の混乱を招き、今ではパナソニックの経営危機の主犯とする声が大きい。仮に本書で書かれているような「恐怖政治」という形容が本当ならば、私が聞いたパナソニック社員の切羽詰った振る舞いも、なんとなく腑に落ちるような気がする。

本書は、2012年に社長に就任した津賀一宏が混乱に終止符を打ったというトーンで終わっている。インタビューを読む限り著者の期待は正しいように思える。最近の大塚家具の騒動を引くまでもなく、創業家と経営の関係は難しい。本書を読んで分かったのは、経営が混乱していた時期ですら、社内には人材も技術も存在したという事実だ。人材の幅でも技術の質でも、パナソニックは世界最高の企業のひとつだろう。イノベーションのジレンマにとらわれることなく、新社長の下で、ぜひ世界で再び羽ばたいてもらいたい。


  • 岩瀬 達哉 
  • 単行本(ソフトカバー): 242ページ
  • 出版社: 講談社 (2015/4/2)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4062194708
  • ISBN-13: 978-4062194709
  • 発売日: 2015/4/2
  • 商品パッケージの寸法: 18.8 x 13 x 2.2 cm

2014年7月14日月曜日

サムソナイトの角型折り畳み傘


サムソナイト製の小型折りたたみ傘。長い間、カバン用に常備できる折り畳み傘を探していた。東京で使っていたTumiのバックパックにも時折普通の折り畳み傘を差していたが、頭がはみ出すその様子はいかにもダサく、なんとかできないものかと常々思っていた。軽く、小さく、強く。全ての条件を満たすこの傘は、米国のamazonでわずか16ドル(2014年4月現在)。サムソナイトのロゴも美しく、最近買った製品で最も満足度の高いものの部類に入る。

この傘の特徴は、なんと言っても扁平な形になることである。折りたたむと長さ20センチ強、幅6センチ、厚さ2センチくらいの羊羹のような形になる。厚さ2センチであれば、いかなるビジネスバックでも余裕であろう。しかも重さはわずか4オンス、100グラムちょっとしかない。PCのACアダプタの1/3くらいだろう。

しかもうれしいことに、ビジネスマン御用達のTumi Alphaシリーズにはこれに完璧にフィットするナイロン製ポケットがある(少なくとも私の持っている26141の場合)。この傘が入るために作られたと思うくらいだ。ポケットの頭からわずかにSamsoniteのロゴがのぞく。この傘を自分のAlphaに納めた時の満足感は、個人的には非常に高かった。

なぜこのような羊羹型の折り畳み傘がこれまで一般的でなかったのだろうか。おそらく探せば日本にもあるのだと思うのだが、少なくとも私は出会うことができなかった。構造に特殊なところは何もない。単に骨が、いわば楕円対称になるように角度をつけてつけられているというただそれだけである。開けば円になる。しかし開けば円であるものが、閉じた時に円筒形である必要はない。鞄の形が直方体であれば、その形からいわば逆算して傘をデザインするという行き方も、考えてみればあると思う。その柔軟な発想といい、質感といい、さらに価格といい、さすがと思わされた。全てのビジネスマンに勧められる逸品。


Samsonite Manual Flat Compact, Black, One Size
  • ASIN: B00BPEEFUG
  • Product Dimensions: 8.6 x 2.4 x 0.8 inches; 4 ounces
  • Shipping Weight: 4 ounces (View shipping rates and policies)
  • Shipping: This item is also available for shipping to select countries outside the U.S.
  • Item model number: 51697 .


2014年6月30日月曜日

「不格好経営 ― チームDeNAの挑戦」

DeNAの創業者南場智子氏の半生記。創業から社長交代までの波乱万丈の記録。面白い。内容も面白いが文章もいい。プラスもマイナスも、全ての出来事を陽性の物語に変えてしまう筆力は並みではない。

DeNAは日本発のインターネットオークションサイトを目指して設立された会社である。南場氏は、マッキンゼー前職時代のコネクションを生かしてソニーとリクルートから出資の約束を取り付ける。その時点で半ば勝ったようなものである。アメリカではすでにeBayが大々的にビジネスをしており、日本は明らかな空白地帯であった。しかし1999年といえばまだ日本ではGoogleさえほとんど知られていない時代だ。ただでさえ暗闇の混沌にも等しいインターネットの世界に、オークションというある意味あやしい仕組みを作るのは、確かに賭けであったろう。

そうして生まれたのが、結局ヤフーに先を越されたが、ビッダーズというオークションのサイトである。ビッダーズがDeNAのサイトであったというのはこの本を読んで初めて知った。確かに、ヤフーオークションが2002年にオークション利用料の値上げを発表した時、ヤフーの会員であった私はビッダーズのオークションに入会してみた。結局、品数のショボさは否めず、ヤフーに戻ることになった。DeNAはオークションにおいてヤフーとの戦いに敗れたのだが、その後、eコマースサイトで黒字化に成功、その後、モバイルゲームの世界でひと山当てたというわけである。

私が大学院を出て民間企業に就職したのは2000年のことだ。会社の中でそれなりに激しい動きを体験してはいたのだが、私にはDeNAのようなベンチャーに自分の未来を賭けるだけの先見の明はなかった。私が見ていた世界はものすごく限られていた。社会がこの先どうなるという確信もなかった。要するに世間知らずだった。草創期のこの会社に、自分から売り込みに行った若者たちの情熱とセンスには、素直に脱帽である。

これまで私は、女性実業家、みたいな人の成功物語にはあまり興味がなかった。たいてい、それ自体に宣伝臭さを感じてしまうからだ。しかしこの本はおそらく違う。ひとつの踏み絵のようなものだが、次のような記述がある。
女性として苦労したことは何ですか、どうやって乗り越えましたかと尋ねられるといつも困ってしまう。(中略)。職場において、自分が女性であることはあまり意識したことがないし、女性として苦労したこともまったくない。しかし、得をすることはよくあった。(中略)。今はどうか知らないが、その時代は若い女性が経営の話をするだけで珍しがられ、耳を傾けてもらえた。最後はむき出しの内容勝負だが、聞いてもらえるところまでは確実にたどり着ける。(第7章 「女性として働くこと」)

これは私の実感にも合う。政治的寝技が物を言う規制業種(新聞、テレビ、銀行、土木建築、公務員、など)とは違い、市場においてある意味フェアに評価される業界においては、使えるやつが使えるのであり、結局はそれだけである。

本書第2章「生い立ち」は、厳格な家庭に育ち、父からの自立を経て、米国留学、マッキンゼー就職、ハーバードでのMBA取得、までの半生記である。実績から見ても文章からみても才能あふれるこの著者にすら、ゼロからイチを作り出すために苦悶した時代があったという事実は、若者には重要なメッセージとなろう。グリーに対する独占禁止法違反事件、本書末尾に書かれた人材引抜きをめぐるある背信。いろいろときわどいこともあったのだろう。しかしそれを含めた会社の歴史を、前向きな物語として読者と共有できる筆力はすばらしい。オークションといういわば二番煎じのビジネスモデルから始めたDeNAだが、モバゲーの時代になるころには世界を先導する意志を手にしていた。力強く前向きなトーンにあふれる最後の8章は、閉塞状況にある日本では久々に見る明るいニュースとさえ言える。ぜひがんばってほしい


不格好経営 ― チームDeNAの挑戦
  • 南場 智子 (著)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 2318 KB
  • 紙の本の長さ: 163 ページ
  • 出版社: 日本経済新聞出版社 (2013/8/2)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語.

2014年6月14日土曜日

「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」

ライブドア事件の刑期を満了し、自由になった堀江貴文氏が自分を振り返る自叙伝。前半の3章までは、九州の田舎の冴えないサラリーマン家庭から東大に合格し、東大で起業するまでの半生記。後半が「なぜ働くのか」というテーマへの彼なりの答えになっている。


刑期満了後、堀江氏はひとつ考え方を大きく変えた。収監前、田原総一郎氏から、ネクタイして老人にゴマをすっておけばうまく行ったのに、そしてそれはわかり切っていたことなのに、なぜあえてそれをやらなかったのかと聞かれる。それを振り返り、彼はこう書く。
これまで僕は、自分ひとりで突っ張ってきた。裸の王様を指さして、世の中の不合理を指さして、ひとり「なんでみんなネクタイなんかしているの?!」と大声で笑ってきた。それでみんな気づいてくれると思っていた。でもそんな態度じゃダメなのだ。世の中の空気を変えてゆくには、より多くの人たちに呼びかけ、理解を求めてゆく必要がある。(第4章 僕は世の中の「空気」を変えていきたい)

アマゾンのサイトにある動画からも想像できる通り、本書は堀江氏の体験が反映されてはいるが、文章自体はチームで作り上げたようだ。その成果として、読者から反感を買いそうな箇所は注意深く取り除かれている。堀江氏の考え方は昔から何も変わっていないのだが、いわば広報戦略を変更したわけである。

自分の離婚のエピソードに関して、彼はこう書く。
決断とは「何かを選び、他の何かを捨てる」ことだ。(第4章 孤独と向き合う強さを持とう)
一方で、彼はこうも言っている。
何事に対しても「できる!」という前提に立って、「できる理由」を考えていく。そうすると、目の前にたくさんの「やりたいこと」が出てくるようになる。(中略)。 僕からのアドバイスはひとつ、「全部やれ!」だ。ストイックにひとつの道を極める必要なんてない。(第3章 やりたいことは全部やれ!)
これらに一貫性があるかと問われれば微妙である。投資対効果を考えるというビジネスの基本すら欠落している。こういう不整合は、本書に象徴的なのだと思う。おそらく過去の彼であれば、こういうことはしなかっただろう。しかし彼が書くように、それではダメなのだ。矛盾と逡巡から自由ではない自分をある意味さらけ出し、意見が同じ人も違う人も、あらゆる人をいわば抱きしめてあげる態度が必要だったのだと思う。すでに時代に合わなくなっている社会システムを変革し、面白くて豊かな社会を作ってゆこうという方向性には、同世代の者として大いに共感を覚える。しかしなぜそれが多くの人の理解されるところにならなかったのかを考えるのは、彼にとっても、我々にとってもとても意味のあることだ。

彼の言う「ゼロ」を理解するために、我々はゼロ歳の自分についてちょっとだけ考えてみるといいかもしれない。堀江氏は、九州の田舎にいる時、自分はゼロであったと感じていた。これまでの人生は、そのゼロである自分をイチに引き上げてゆく過程であったと彼は言う。未来へ向けて自分を投げかけて新しい価値を作るためには、自分のゼロを認識しなければならない。これは実は簡単なことではない。堀江氏が「あなたは本当に『自立』できているか」(第4章)と問いかけるのはそのためである。子育てをしてみて私も驚いたのだが、実際のところ過半数の大人は実は自立していない。たとえば子供の世話も、住む所も、何らかの意味で親から独立ではない。経済的な独立なしに思考の独立もありえないというのは、堀江氏が言わずとも当然のことだ。
たとえば、あなたが転職するときや引越を考える時、「きっとお父さんは反対するだろうな」とか「お母さんは心配するかもな」といった思いがよぎるとしたら、それはまだ「子ども」の意識が抜けず、自立しきっていない証拠だ。(中略)。もし親孝行という言葉が存在するのなら、それは、一人前の大人として自立することだ。(中略)。親から自立できてない人は、「自分の頭で考える」という習慣づけができていない。そうなれば、会社や組織からも自立することができず、いつまでもおもちゃ売り場の子どもみたいに駄々をこねるだけだろう。(第4章 あなたは本当に『自立』できているか)
すなわち自立とは、自分の心の中の価値の座標軸を、親とか会社とか「世間」とか、そういうものに相対的に決めるのではなく、自分だけの価値の絶対軸を定義することだ。本ブログでたびたび書いてきたように、それができる人は非常に少ない。堀江氏が誤解される理由のひとつはそれである。

意図的か偶然か、「塀の中にいても、僕は自由だった」(第5章)というくだりは、サルトルの有名な文章を思い出させる。
われわれは、ドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。われわれは、ものを言う権利を始めとして、一切の権利を失っていた。(中略)。全能な警察がむりやりわれわれの口を閉じさせようとしたからこそ、どの言葉もすべて原理の宣言としての価値をおびた。(J.P. サルトル、『沈黙の共和国』(F. パッペンハイム『近代人の疎外』第1章所収) )
今がゼロであることを認識しているからこそ、どちらの向きに一歩を踏み出すか、という選択が厳粛な意味を持つのである。これまでの堀江氏の主張の各論には、賛同できる点もあるし、よくわからない点もある。人格者なのかと言われれば、それはおそらく違うだろう。しかしこの感覚の大本──投企による実存の絶え間ない再定義──はよくわかる。そして堀江氏が、これまでも、これからも、おそらく孤独であるであろうことも。それがゆえに、堀江氏が、これまで無駄に彼を苦しめてきたコミュニケーション上の問題に気づいたというのは大きい。

彼を悪人だと信じている人のほぼ全員は、その容疑事実について何も知らないだろう。今の時点で、およそ10年前に書かれた彼の主著『稼ぐが勝ち~ゼロから100億、ボクのやり方~ 』を見返してみると、堀江氏の先見性に改めて驚く。同書「おわりに」では、近鉄球団の買収に関して、読売グループのボス渡邉恒雄を名指しで、彼の共産党員だった過去すら挙げながら、強烈に批判している。これを読むと、ライブドア裁判が、極めて恣意的な、ほとんど報復攻撃とでも言うべきものであったことに、確信めいた感情を抱かざるをえない。

かつて、彼は確かに、「金で頬をひっぱたく」ようなことをやろうとしたと言えるのかもしれない。しかし閉塞状況にある日本では、あえてそこから前向きなメッセージを見出すべきだ。自由になるために全ての常識を疑おう、自由になるために働こう、との訴えは、その観点でとても力強く響く。これは重要な第一歩だと思う。堀江氏が旧著をはじめとした媒体で繰り返し主張する社会変革の必要性は誰の眼にも明らかで、それは歴史的必然と言ってよい。国がどうなっても自分自身の目先の既得権益が大事だと開き直るのなら別だが、その変革を拒むのは愚かなことである。

私はいまだに、彼らの近鉄球団の買収提案の何が問題だったのかわからない。旧著を読んで堀江氏を攻撃した人の論理の多くも的を外しているように思える。既得権益の受益者というのなら、あるいは単に、成功者を妬み、足を引っ張りたいというのなら理不尽な批判の由来を理解することはできるが、それはそれこそ自立した大人として恥ずかしいことではないのだろうか。堀江氏の書くとおり、人間はお金で変わる。それを否定するのは、お金を稼いだことのない人か、誰がお金を払っているのか意識しなくても許される幸せな職種、たとえば公務員とか、公正な国際市場競争が不可能な規制業種(新聞、テレビ、土木、建設、銀行、など)の人であろう。

ジェフ・ベソススティーブ・ジョブスといった「暴君」が普通に活躍できるアメリカに比べると、日本という国の小ささはどうしても目に付く。しかし一方で、ソフトバンクにしても楽天にしてもDeNAにしても、それなりのプロトコルを身につけさえすれば、何かをできるチャンスはあるはずだ。彼のような大物が、不要な摩擦を避ける戦術を身につけたことは、日本の将来にとっては悪くない。人の心は金で買えないなどという見え透いたきれいごとはもういい。未来側に立つのか、それとも既得権益側に立ちこのまま朽ち果てるのか、我々の前にはそれだけしかない。


ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 910 KB
  • 紙の本の長さ: 252 ページ
  • ページ番号ソース ISBN: 4478025800
  • 出版社: ダイヤモンド社; 1版 (2013/11/5)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語. ..
  • ASIN: B00G9KDQQU

2014年4月30日水曜日

「社長は労働法をこう使え!」

労働法の論理と実際を実例に即してわかりやすく解説した本。タイトルはやや挑発的であるが、よく考えれば、あらゆる紛争には複数の当事者がおり、それぞれの言い分がある。労働者側の言い分を善と最初から決め付けるのは合理的ではない。

第2章、「正社員を解雇すると2000万円かかる」との事実は衝撃的だ。ある従業員が解雇されたとし、それを裁判で争うとする。その場合

  • 賃金仮払いの仮処分申請
  • 本訴開始
  • 判決
という順序で話が進む。会社側が十分な準備なしに解雇を行った場合、いくら状況証拠を示しても、仮処分に抗するのは難しい。仮処分が認められると、解雇時点からの給与を払い続ける必要がある。しかも、会社が敗訴した場合、それに加えて2重に解雇時点からの給料を払い(※)、なおかつ、訴えた従業員を職場に迎えて仕事を与えなければならない。年収400万も行かないような従業員でも、裁判まで行って敗訴した場合、年収の数倍の費用がかかってしまうのだ。大企業ならまだしも、中小企業では数千万円の現金を捻出することは簡単ではない。それによって倒産することすらありえる。

※付記。この点は理解できなかったのだが、実際には給料の二重払いはしなくてもいいらしい。著者が言っているのは、住居手当てなどの付加的なものなのだろうか。

賃金仮払いの仮処分が勝負の分かれ目であり、裁判所の判断基準に詳しい労働組合や弁護士は、仮処分を受けられる可能性を分析する。当人が実際のところ働く気のないぶら下がり社員であっても関係ない。そもそも労働法は労働者保護を目的にしている。解雇に値するとの十分な証拠がない限り、当人の成果や能力と無関係に解雇は無効である。組合や労働弁護士にはそこに大きなビジネスチャンスを見るというわけである。

本書を読むと、今をときめく小保方晴子氏の弁護士が取っている戦術の背景がよくわかる。執筆時点では小保方氏は解雇はされていないが、おそらく解雇されるだろう。それを見越した上で、裁判官の心証をよくするための手を着々と打っているのである。労働法の論理は、研究者的定義での捏造の有無とは関係ない。それを十分把握した上で、小保方氏の行為が、解雇に相当するとまではいえない、といったロジックを慎重に積み上げているのである。見事である。

本書の著者は、労働者の搾取に手を染める鬼ではない。むしろ、日本の労働法が時代と合わなくなっている結果、労使双方に悲劇を生み出していることを指摘している。たとえば、日本では解雇規制は厳しいのだが、人事異動はほぼ自由にできる上、定年という無慈悲で非人道的な制度がある。残業を命じることにも(厚労省の100時間の基準の範囲内では)強い制限はない。解雇規制が厳しい代償としての愚かな定年制度のため、多くの技術者が対立する隣国の企業に雇われ、結局元いた企業の首を絞める結果となっているのは周知のとおりだ。

国力を高めるという観点でも、これからの高齢化社会の安定化という観点でも、今の労働法は明確に有害なのだが、厳しい市場競争とは無縁の規制業種と、それを代表する勢力が政治的に大きな力を握っている日本では、抜本的な改善は難しいだろう。

本書では、日本の厳しい法規制の下でも、解雇は十分可能であることを述べている。柔軟な処遇を可能にする就業規則をつくること。もし本当に従業員の能力が足りないと判断される場合、それを立証する証拠と、教育・指導の記録を残すこと。もし指導の結果、会社に有用な人材ということになればお互い幸せである。

重要なことは、どの労働者にもそれなりの能力があるということを信じることである。烙印を押してはいけない。嫌いだから、のような理不尽な理由で解雇をすべきではない。互いに歩み寄り、互いに生産的な状況を作り出すために最善の方策を取るコストは、冒頭に掲げた2000万円のコストよりはるかに低いはずだ。これは人道的な行為であり、しかもその結果、社会に富を生み出しうる。国力が衰退しつつある今、会社にぶら下がることを前提に、非生産的な労働争議をやっている時代ではない。


社長は労働法をこう使え! 

  • 向井 蘭 (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 272ページ
  • 出版社: ダイヤモンド社 (2012/3/9)
  • ISBN-10: 4478017042
  • ISBN-13: 978-4478017043
  • 発売日: 2012/3/9
  • 商品パッケージの寸法: 18.8 x 13.2 x 1.4 cm

2014年1月31日金曜日

「陸軍士官学校の人間学」

1980年半ば、日本国内でのシェアがわずか数パーセントで、ほとんど存続の危機がささやかれていたアサヒビールが、「スーパードライ」の大ヒットで、1998年にはついに宿敵キリンを制してシェア首位にまでたどり着くまでの成功談を、陸軍士官学校での教えに結び付けて解釈した本。

著者中條高徳氏は、1982年にアサヒビール常務取締役営業本部長に就任、かねてからの主張に基づき、「アサヒスーパードライ」作戦を強力に推進、その後同社トップに上りつめる。その経歴を、陸士で教えられた兵法に結びつけて回想しているのだが、当然といえば当然だが、
「将たる者、方向を指示し、兵站す」(『統帥綱領』)
という程度の抽象論であり、実際のところ話の本筋に陸軍士官学校は直接関係しないのだが、それでも、日本軍の戦訓とビジネス的な意思決定を結びつけることで、それなりに読ませる。たとえば、戦力の逐次投入の愚をガダルタナルでの敗戦につなげるエピソードは、意思決定のリスクを避けるために当たり障りない策を提示しがちな多くの管理職には耳が痛い話であろう。要するに、リーダーの原則はどこでも同じ、ということで、兵法がビジネスに役に立つことがあるのは当然で、逆もまた真ということだろう。

成功物語としてはなかなか面白い。1962年、入社10年目、販売課主任の時、中條氏は、下がり続けるシェアに言及する社長の訓示を聞き涙を流す。その日の夕方、社長に呼ばれ、シェア回復の作戦を作り提出するようにいきなり指示される。ビール作り現場の技術者に聞いて回ったところ、ビールは生が一番うまいとの結論に達する。その後は、激励されたり干されたり、紆余曲折を経ながらも実績を積み重ね、上述の成功に至る。

当時の最高のエリートコースであった士官学校に入ったという経験を、戦後、絶対不可能と言われたアサヒの復活に重ね合わせたこの本は、著者にとってはこの上ない自己満足を与えたことだろう。しかし21世紀に生き抜かなければならない我々は、アサヒビールの戦いが、大枠が決められた上での「追いつけ追い越せ」式の戦いであったことを指摘せざるを得ない。つまりこれは高度成長期の成功物語としては非常によくできているのだが、今の日本の停滞に資するところは非常に少ない。たとえば、この本からはiTunesは絶対に出てこない。

使命感、統制、一点集中、などの美徳は、「方向を指示し」の後の話である。しかし今は、その方向が見えない時代だ。国は縮んでゆく。縮む市場でのシェア争いは明らかに消耗戦だ。国際競争に出ようにも、国際競争力のない国内の規制業種が国富の過半を食いつぶしている現状では、最初から巨大な負を背負っているのも同然だ。我々に必要なのは、この国のエスタブリッシュメントを ── 評論家然と出る杭を打ちまくり、なんら恥ずるところがない彼らを、軽々と飛び越えるほどの狂気だ。

だから私は、本書には、兵法云々も悪くないのだが、日本軍におけるイノベーションのエピソードを盛り込んでほしかった。敗戦から帰納して、日本軍が非合理思考の権化のごとく塗りつぶすのは、士官学校の兵法を神聖視するのと同じくらいの知的怠惰であると思う。たとえば、零戦の設計戦艦武蔵の戦術思想、あるいは、サイパンでの水際攻撃失敗の戦訓をいち早く取り込み敵に大損害を与えた硫黄島の戦い、などなど、現在の日本同様、負の慣性が強い状況での合理的な思考がどこから生まれ、どう実現されたのか。真に学ぶべきはそういう点だと思う。


陸軍士官学校の人間学 戦争で磨かれたリーダーシップ・人材教育・マーケティング
  • 中條 高徳 (著) 
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 519 KB 
  • 紙の本の長さ: 208 ページ 
  • 出版社: 講談社 (2012/9/28) 
  • 販売: 株式会社 講談社 
  • 言語: 日本語 
  • ASIN: B009I7KOUW.

2013年1月4日金曜日

Jugaad Innovation: Think Frugal, Be Flexible, Generate Breakthrough Growth

インドや中国といった新興国市場での最新の成功事例を元に、イノベーションのための新しいアプローチについて論じた本。書名のJugaadというのは「ジュガード」と読み、英語だとDo-it-yourself 、中国語だと自主創新にあたるらしい。日本語だと創意工夫精神、くらいか。

イノベーションのやり方に変革が必要であると主張する著者らの主たる根拠は、世界の経済の中心が新興国市場にシフトしつつあるということだ。The West、すなわち西欧の先進国では、これまで大きな研究開発部門を持つ会社でシステマティックに新技術を生み出すというやり方が主流であった。しかし新興国市場ではそういうやり方はうまくいかないだろうと著者らは説く。

著者らによれば新興国市場の特徴は次の5つの言葉でまとめられる。

  • scarcity
    資源はますます欠乏してゆく。これまでのような大量消費型のモデルはうまくいかない
  • diversity
    インドや中国では地域ごとの多様性が高い。アメリカのような一様な消費社会は前提にできない
  • interconnectivity
    新興国では携帯電話に代表される新しいIT機器への渇望が強く、そのようなメディアを使った口コミが急速に進展する
  • velocity
    製品のライフサイクルはますます短くなる
  • breakneck globalization
    経済の重心は急速に米国からアジアに移動する
このような背景を共有した後、著者らは次のように述べる。
It is clear that the West must build a new innovation engine that allows it to innovate faster, better, and cheaper. To do so, Western firms must find new sources of inspiration. (p.17)
歯切れよい宣言である。そしてその実行に向けて、著者はJugaadの6原則というのを次のように列挙する。
  • Seek opportunity in adversity
    製品の想定が市場に合わないことがわかったら、それを新たな機会と捉える
  • Do more with less
    新興国では巨大インフラや、高価な設備を前提しない新しいモデルを想定する方がいい
  • Think and act flexibly
    従来型のモデルに合わない状況が出てきても、むしろ自分をそこにあわせるよう柔軟に考える
  • Keep it simple
    コテコテを機能を盛り込もうとするエンジニア的発想ではなくて、市場が本質的に求めている機能に絞る
  • Include the margin
    いわゆるLong-tailの部分など、従来はマイナーなセグメントだと思われていた市場に着目する。
  • Follow your heart
    研究室にこもっていないで市場の声に耳を傾ける。

そしてこれらは、オーケストラではなくてまるでジャズのように、同時多発的・即興的なやり方でクイックに作られ、試されなければならない。Chapter 2以降、これらのそれぞれについて、豊富な成功事例を元に、我々がどうすべきかの示唆を与える。

本書で紹介されるそれぞれの事例は非常に興味深い。たとえば、いまや世界最大の家電メーカーとなったハイアールの例では、中国において頻発する洗濯機の故障を分析して、農村部では洗濯機を使って野菜を洗うユーザーが多いことを見出す。通常の企業だと「それは仕様外」と言うことになろうが、ハイアールは、排水パイプを極太にするなどの改良を重ねて、野菜も洗える洗濯機、という新製品を発売する。それはまさに創意工夫の勝利であり、新興国市場の状況を象徴的に表す。

ただ、その事例にしても、「うまくいったから正しい」という後付けの理由に過ぎないようにも見える。たとえば、顧客の声に耳を傾ける、というのは聞こえはよいが、そうしたからと言って常にうまくいくわけではない。有名な反例が「ハンドルつきのLet's note」だ。

著者らは、従来のシステマティックな、Six Sigma流のアプローチでは新しいイノベーションは生まれないと説く。3Mにおいて、そのようなアプローチがいかに業績を沈滞させたかがChap 2において詳しく解説される。イノベーションと、システマティックな改善活動との間の緊張関係は、Innovator's Dilemma でも論じられたようによく知られており、実際には、破壊的イノベーションは常に従来の枠組みから外れたところで現れる。AS-ISのあり方を前提に、それを改善し精度を上げるというアプローチとはある意味で逆である。この意味で、異質な環境が新しい思考を要求する新興国市場は、イノベーションの格好の揺り篭になりえるという著者らの直感は正しい。

ただ、豊富な事例を挙げれば挙げるほど、著者らのロジックはやはりアドホックに聞こえがちである。Jugaadをビジネスにおいてどう実践するか。この問いに答えるために、Chap 8ではGEにおける事例が詳しく紹介される。GEは、インドを中心にして、ヘルスケアビジネスで大きな成功を収めている。その要因は、現地の事情に即したモデルをいち早く構築したことにある。たとえば、ポジトロン断層法とかCTスキャナ、あるいは超音波診断装置はインドでは高価すぎてマーケットが広がらない。そこで、GEのエンジニアは超小型の心電図測定装置や、携帯型の超音波診断装置を開発した。また、現地企業と協業してポジトロン断層法で必要な放射性同位元素を現地調達できる仕組みを調達した。しかし、確かにそれはインドで成功したという意味ではJugaadな性質を持っていたともいえるのだろうが、装置の小型化は通常のシステマティックなR&Dの枠内とも言える。著者らの主張は必ずしも明確ではない。

著者らの、CEOに向けたメッセージはこのようなものだ。
  • トップダウンよりボトムアップなイノベーションに注目せよ
  • 社内にもあるはずのJugaadを顕彰せよ
  • 現在のR&Dモデルが恐竜化していることに危機感を喚起せよ
  • 発明を事業化するスピードに注意を払え
  • ソーシャルメディアを活用せよ
それぞれに反対する理由はないのだが、それを具体的にどうするかはやはりよくわからないのである。

本書は、新興国における豊富なケーススタディを要領よくまとめており、米国のビジネスのコミュニティでの新興国に向ける熱い視線がよくわかる。しかし新イノベーション論として読むためには考察が浅いと感じざるを得ない。繰り返しになるが、新興国において成功した事例にJugaad的特徴があることはわかるが、論理的には、それは必要条件を言っているだけであり、十分条件ではない。結局、Jugaadなアプローチを従来型R&Dと相補的に使うことでスピードとスケーラビリティの両方を実現できる、というような結論になるのだが、冒頭で力強く述べられたリソースの欠乏とビジネス的スケーラビリティとの関係など、わからないことが多い。

悪く言えば、米国的大量消費モデルを国外に拡張して、これまでのような経済的繁栄を謳歌しようという、米国的強欲が透けて見えると言えなくもない。素直に取れば、真のJugaadとは、massとして成長しないことを前提にした新たな世界観とともにあるべきではないのか。本書においては悲しいほど無視されているわが日本であるが、そこには日本人的なセンスが必要になると信じたい。


Jugaad Innovation: Think Frugal, Be Flexible, Generate Breakthrough Growth
  • Kevin Roberts (はしがき), Navi Radjou (著), Jaideep Prabhu (著), Simone Ahuja (著) 
  • ハードカバー: 288ページ 
  • 出版社: Jossey-Bass; 1版 (2012/4/10) 
  • 言語 英語, 
  • ISBN-10: 1118249747 ISBN-13: 978-1118249741 
  • 発売日: 2012/4/10 
  • 商品の寸法: 16.2 x 2.6 x 23.7 cm

2013年1月2日水曜日

「V字回復の経営 ― 2年で会社を変えられますか」

業績不振に陥った会社を立て直すべく、子会社から呼び戻された男を描く奮闘記。著者三枝匡氏は、MBAのはしりのような人で、ボストンコンサルティングのコンサルタントとして名を馳せ、実際に経営者としても、ミスミグループの経営をV字回復させた業績で知られている、らしい。

小説風に書かれているが、これは著者が「過去に関わった日本企業五社で実際に行われた事業改革を題材にしている」とのことである。後述のとおり、作品としては残念な点が多いが、ある程度現実に即したストーリーであるため、組織改革・企業変革の要諦を解説する書としてはそれなりに価値がある。

ストーリーの方はこんな感じだ。業績不振に悩むある製造業企業の社長・香川は、子会社の社長となっていた黒岩を改革のために呼び寄せる。黒岩は旧知の経営コンサルタント五十嵐を雇い、改革のためのタスクフォースを立ち上げる。精力的な社内ヒアリングの後、これはと思う人材をタスクフォースのメンバーに引き抜く。実務面で中心となるのは、開発と製造に広い業務知識を持ち、米国子会社の社長の経験もある川端という男である。困惑気味のブレインストーミングから始めて、五十嵐の適切な示唆の下、タスクフォースは不振事業の改革案をまとめる。それは今ある管理職ポストの多くをなくすドラスティックなものであったが、香川社長の100%のバックアップの下、タスクフォースは計画通りの変革を断行する。その結果、会社は文字通りのV字回復を果たす。

黒岩と五十嵐は、タスクフォースのメンバーに、現在の組織の問題点を自由に列挙するように指示する。そうしてそれらを除去するためにどうすればよいか問う。立ちすくむメンバーに、五十嵐は7つのヒントを与える。
  • 事業全体の「事業戦略」を明確に示せば解決できる問題点
  • 個々の「商品戦略」を明確に示せば解決できる問題点
  • 「人の評価」のシステムを変えれば解決できる問題点
  • 「数値管理」つまり経営報告や原価計算などの手法をよくすれば解決できる問題点
  • 「情報システム」を変えれば解決できる問題点
  • 「教育・トレーニング」のプログラムを充実すれば解決できる問題点
  • 各部署の固有問題として、それぞれの内部で解決改善に取り組むべき問題点
壁いっぱいにPost-itで貼られた問題点を、この7つに分けて分類することで、タスクフォースは業務改革の方向性を悟る。本書内でも明記されている通り、実現されるべきモデルについての主要なメッセージは、組織の全体最適化・一気通貫化である。著者はこれを、社内の部署間における5つの連鎖という言葉でまとめている。
  • 価値連鎖
    ある部署の業務が、後工程に対してどういう価値を付加するのかを明確化する。付加価値が明確でない部署は存在の是非含め検討する
  • 時間連鎖
    ビジネスの(製造業であれば開発、製造、販売という)サイクルにおいてそれぞれの部署が使っている時間を可視化する。サイクルのバランスを崩している工程があれば部署の存在の是非含め検討する
  • 戦略連鎖
    全社の戦略的経営目標を全部署で共有する。抽象的レベルではなくて、個々の部署の文脈で具体的にどう貢献するのかを全員に周知徹底する
  • マインド連鎖
    競合他社との競争に勝ち抜くという思いを、各組織で共有する。抽象的レベルではなくて、個々の部署の文脈で具体的に、その勝負にどう貢献するのかを全員に周知徹底する
  • 情報連鎖
    上記の情報のやり取りを、通常の業務として無理なく可能にするために、情報技術(IT)に基づくインフラを構築する。

これ自体は非常にうなづけるところだが、明らかに冗長である。本質的には、ビジネスの基本そのものである価値連鎖と、風土改善である戦略連鎖の2つしかなく、それらを具体的に可能とする手段として、「情報連鎖」すなわちITインフラがあるということになろう。

この冗長さ(あるいは暑苦しさ)は本書に非常に特徴的である。先に挙げた7つのヒントにしてもいかにも冗長で、このほかにも、「改革の9つのステップ」とか、ダメ組織の「症状50」とか、「改革の要諦50」とか、作中の見せ場となっている黒岩らの社長に向けた改革プランのプレゼンテーションにおいても「10の問題点」とか、何から何まで、空を仰ぎたくなるほど冗長である。これは最近のコンサルタントの手際よいスタイルとは似ていない。実地で使ったのと同じプレゼンテーション資料を再現した図も、いわゆるピラミッド原則を無視した古色蒼然としたものだ。このことを好意的に見れば、著者は、他人が作った「理論」をそのまま横流しするタイプではなく、自分の頭で考え、そしてそれを人に伝え、人を動かすことのできるタイプなのだと思う。人を動かすには情熱が必要である。わざわざマインド連鎖などというやや気恥ずかしい言葉を挙げているのは、それなりの思いがあってのことだろう。

作中でも中心人物のひとり川端に次のように語らせている。
私はアメリカで社長をしていた頃、営業でよくシリコンバレーのベンチャー企業を訪ねました。
米国人経営者はみんな一生懸命でした。夜中まで夢中で仕事をして...彼らの熱気を見て、私は脅威に思いましたよ。米国人がこれだけ働けば、日本も危ないのじゃないかと...。
そして4年前に日本に帰ってきたときに私は強烈な違和感を感じました。
昔の日本企業と違って、アスター事業部のオフィスは夕刻六時を過ぎたらガラガラで寂しくなるんです。お役所が定時に就業するみたい(笑)。
日本でも、皆の気持ちが燃えていれば、早く帰れと言っても、皆は夢中で仕事をするはずです。
そういうガンバリズムが古いなんていうのは絶対に間違いです。
米国のベンチャーなんか、ガンバリズムの塊ですから。朝食のミーティングから始まって、夜中まで。週末には家に仕事を持って帰るし...。
これは正しい指摘である。一方で食うか食われるかのぎりぎりのところで勝負している人間がいる時に、他方で定時に帰る楽な仕事ぶりでは勝負になるはずはない。日本のマスメディアの流す情報と異なり、公私混同とすら言える長時間労働、学歴(肩書き)主義は、米国エリートの通常の行動様式である。言うまでもないことだが、国際競争のない非国際的規制業種の代表であるマスメディアが垂れ流す海外情報のほとんどは、自己の願望を反映した不正確なものが多い。競争相手のプレッシャーの下、現状を突破して新しい地点に出るには、命を削るくらいの猛然とした頑張りが必要である。当たり前のことだ。

小説風改革指南書である本書においては、著者は、黒岩と五十嵐の一人二役を演じているという趣なのだろう。ただ、五十嵐の登場の仕方といい、泰然として100%のサポートを改革チームに与えつづける香川社長といい、どうも取ってつけたような感が否めない。小説風の地の文に、急に上記のようなインタビュー記事?が挿入されるスタイルも違和感を通り越して身勝手さを感じさせる。ストーリーとしてここまでリアリティに欠けてしまっては集中力を保つのは難しい。絶賛だらけのAmazonの書評は不可解としか言いようがなく、実際、私も酷評する前提でこれを書き始めたのだが、その過程で本書を読み返してみると、おそらくは著者の人柄から出るまっすぐさのためか、最終的には全体として好意的な文章となってしまった。なるほど、人を動かす人というのは、こういう人なのかもしれない。

一見馬鹿馬鹿しいが、得るものも大きい不思議な本。


  V字回復の経営―2年で会社を変えられますか (日経ビジネス人文庫)
  • 三枝 匡 (著) 
  • 文庫: 458ページ 
  • 出版社: 日本経済新聞社 (2006/04) 
  • ISBN-10: 4532193427 ISBN-13: 978-4532193423 
  • 発売日: 2006/04 
  • 商品の寸法: 15 x 10.7 x 1.9 cm