2013年2月28日木曜日

「夫の悪夢」

婦人雑誌に連載された家族エッセイをまとめた軽いエッセイ集。著者藤原美子は、『国家の品格』の藤原正彦の奥様である。本書を購入したのは、ほぼ、新しく買ったKindle Paperwhiteのテストのためだけで、タイトルも不気味だし、表紙も意味不明、正直に言って中身はまったく期待してなかった。しかし予想に反して驚くほど面白い。

本書は3部構成になっており、I部が主に夫にまつわる面白い話を集めたエッセイ、II部が家と家族についてのエッセイ、III部が個人的な思い出に関するものである。文体、リズムは藤原正彦の(特に若い頃の)エッセイととてもよく似ている。間接直接に影響を受けているのであろう。しかし野放図を装ってもどこか計算の跡が見える夫と違い、美子氏の文章には、みずみずしい感受性が隠しきれず現れていてとても好ましい。
成蹊大学の一角にあるその小学校は、天を衝くようなケヤキ並木を抜けた先にある。新緑の季節にはさわさわと若葉が揺れ秋には美しく色づくこの道は、武蔵野の面影を残し、私の大好きな散歩道のひとつである。(「つまらない本」)
この、「若葉」の前の「さわさわ」の使い方はすばらしい。同じような技巧がもうひとつある。
目の前に八ヶ岳の峰が望まれ、村中を八ヶ岳からの小川がさらさらと瀬音を立てて流れ、からりとした空気に包まれたこの村を、私は一目で気に入ってしまった。(「蓼科の夏」) 
文学に美を見たことがある者ならすぐに気づくだろう、「さらさら」の次に「瀬音」を置いたのが偶然ではないことを。本書の多くは雑誌に個別に掲載されたエッセイで、そのためか全体の統一が取れていないところもなくはないが、それでも、このようなさりげないが高度な技巧が前編にちりばめられており、しかし内容は思わず笑ってしまうような夫の変人エピソードや、著者本人のおてんば冒険記、家族との面白エピソードなど身近でかつ多彩、なるほど婦人雑誌で著者が人気のエッセイストになっている理由もよくわかる。

著者の周りの人脈の華麗ぶりはすごい。旦那の藤原正彦はもちろん、義父は新田次郎、義母は藤原てい。さらに藤原家の血筋にはFujiwhara Effectで有名な気象学者藤原咲平や、ハリウッドビューティーサロンの社長メイ牛山などがいる。著者の実家とは言えば、祖父は日本化学会会長をも務めた国際的に著名な化学者田丸節郎、実父もまた紫綬褒章や学士院賞にも輝く著名な化学者田丸謙二である(本人のホームページ。特に、一家の足跡がこちらに)。著者と双子の姉は、立教大学教授の大山秀子。何しろ田丸家の足跡そのものが化学遺産である。若い頃イケメンのモテモテだった小柴昌俊(後にノーベル賞受賞)とのエピソードなど、血筋ならではであろう。

軽く考えて読み始めた本であったが、エッセイとして一流の仕事である。正直に言って、著者とその家族に羨望を感じた。著者の文学的才能は確かだし、自分で考え、難題があっても夫と乗り越えていくさまは素朴に尊敬に値する。嫁入り前に母を亡くして、嫁入り修行もできなかったのに、料理も掃除も言い訳せずに手を抜かない。著者は生まれ持っての陽性で、周りを笑顔にできる人なのだろう。そういう人は多くない。ほとんどの人は自分を守ることに精一杯で、何か問題が発生すると自己弁護に走りがちだ。著者のように周囲にプラスを与えられている人がもっと増えたらこの国ももっと明るくなるだろう。


 夫の悪夢
  • 藤原 美子 (著) 
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 994 KB 
  • 出版社: 文藝春秋 (2013/1/11) 
  • 販売: 株式会社 文藝春秋 
  • 言語 日本語 
  • ASIN: B00AQVE068