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2021年2月1日月曜日

Lean In: Women, Work, and the Will to Lead ( by Sheryl Sandberg)

 

邦訳もされ、もはや説明する必要もないほど有名なシェリル・サンドバーグ氏の主著。ある意味、2020年におそらくピークを迎えた #MeToo 運動 への、ビジネス側からの強力な応援として、日本でも多くの人が影響を受けたに違いない。書名はおそらく、身を乗り出して前向きに取り組む、という状況を比喩的に表したもので、強いて訳せば「一歩踏み出そう」という感じだと思う。

 市場競争にさらされる「健全な」業界においては、金銭的な評価、いわゆる「ボトムライン」の数字が結局すべてであり、そこには性別は直接の関係はない。女性だろうが男性だろうが、たくさん売ってくれる営業員がよい営業員であり、CEOが男性だろうが女性だろうが企業価値を上げてくれる人物がよい経営者である。最近、ある国際的企業で長くCEOとして君臨していた女性がCEO交代を発表したとたん株価が急騰したという話があった。それは別に株主が女性差別主義者だったからではなく、過去何年にわたり首尾一貫して企業価値を損ない続けてきたCEOの成績を見て、多くの株主が彼女の退場を願っていたということに過ぎない。逆に、Google で Google Map などのすばらしく革新的なプロジェクトをリードしたマリッサ・メイヤー氏がYahoo!のCEOに就任した年に株価が74%も上がったのは、彼女の実績と手腕への期待ゆえであろう。大多数の理性的な株主は単に企業価値を見ているだけであり、それ以外ではないのである。

科学技術の開発についても同じことが言える。 サンドバーグ氏の属するFacebookのR&D部門は、2021年時点で、Google、Amazon、Microsoftなどのアメリカ企業や、Baidu、Alibaba, Tencent などの中国企業と並び、AI(人工知能)分野での最強の技術力を持っていると考えられている。AIの最重点領域としての機械学習やデータマイニングの分野では、最新技術は主に学術会議の論文集(Proceedings)として発表される。これらは、ほとんどすべてが二重ないし三重の匿名査読方式(double/triple blind review)を採用しており、査読する側は、誰が書いたか・どこの所属か・性別は何か、など何もわからない。性別が評価基準に入る余地は基本的にない。 ── などと言っても、そもそも「査読」という仕組みを理解するためには大学院修了程度の経歴が必須なので、日本の新聞記者には信じがたいだろうが、本当である。たとえば私は、AI分野のトップ会議のひとつである International Joint Conference on Artificial Intelligence (IJCAI) の Senior Program Committee (SPC) Memberを務めたことが2度あるが、投稿者の名前を知る手段は、末端の査読者はもちろんのこと、それを統括するSPC メンバーにすら全然ない。近年、多くの主要会議では、投稿情報の管理は Microsoft's Conference Management Toolkit というサイトで行われている。データベースのアクセス管理は商用システムと同程度の堅牢さで作られており、元の投稿データに触れるのは本当に一握りの管理者のみである。会議の委員長は毎年変わり、運営委員も多様な背景の人々から選ばれるので、奥の院でこっそり何の不正をする、というような余地は全くない。犯罪的な意図を持って計画的に証拠隠滅でもすれば別なのかもしれないが、もうそれは完全に常人ができる範囲を超えている。

市場競争にせよ、技術競争にせよ、競争が本気の「ガチ」であればあるほど、性別など些細な属性に構っている暇はないのである。興味深いことに、それとは正反対のベクトル、すなわち資本主義の打倒が女性解放の唯一の道だと信じられていた時代があった。1990年に出版された上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』はその集大成と言うべきものである。そのメッセージは明確だ。資本主義社会においては、女性差別は経済原則からの必然である。だとすれば、資本主義の下での真の女性解放は、資本主義の打倒と共産主義革命の成就によってなされるべき、というのが論理的な帰結となる。副題に「マルクス主義」フェミニズム、とあるのはそういうことだ。今の若い人には、なぜ多くのマスメディアの記者や野党の政治家が、虚偽の主張をしてまで自国政府を攻撃するのか不可解だと思うが、もし資本主義の打倒が絶対善なのだとしたら、資本主義国の政府を攻撃するのも絶対善であり、その前にあらゆる手段は正当化されうる、というのが彼らの信念なのである。悲しいことに、上野氏の主著が発売された1990年という年は、東西ドイツの統一がなされ、誰の目にもマルクス主義の理想が、少なくとも社会主義という形では実装しえないという事実が明らかになった年であった。社会主義の退潮を察して、もちろん上野氏も共産主義革命を叫んだりはしていないのだが、上野氏や彼女のサークルの多くの人々は、私の知る限り、論理の根幹に関わるところで主張の総括をすることなくラベルを付け替えて、うやむやのままに相も変わらず正義の旗手のような顔で、現代の #MeToo に流れ込んだわけである。

話がそれた。

歴史的な経緯を普通に眺める限り、自由な競争の保証こそが女性解放の唯一の正しい道である、という主張は説得力があるものである。学業の能力で、男女に顕著な能力差があるというデータは私の知る限り存在しない。女性でも男性でも、賢い人は賢い。業務処理能力についても同じである。優秀な人は優秀であり、男女問わずだらしない人はだらしない。だから単に、優れた人が公正に競争できる仕組みと、十分な雇用の流動性さえあれば、基本的には問題は解決するはずである。公正な市場競争が貫徹するテック業界の、ボトムラインでの評価が貫徹する経営陣であればなおさらのこと、そのような信念の信奉者なのだろうと勝手に思っていた。

しかしこの本はそういう本ではない。Studies show...という形で女性の置かれた不利な状況を繰り返し繰り返し紹介し、女性が意志をもって上のレベルの判断に参画することの重要性を説きはするが、いかにして制度的に自由な競争を保証するかという話は、私の誤解でなければ、具体的にはひとつも出てこない。あらゆる意思決定は論理的に厳密な意味で不公平である(「醜い家鴨の仔の定理」)。したがって、あらゆる仕組みを不公平だ不公正だと批判するのはたやすいのだが、では全方位に公正な仕組みとはどういうものか(「男性の新規採用や昇進を禁止すれば公正なのか」など)という肝心な問いへの答えは本書にはない。真剣に女性の能力を活用するための具体的方策を考えている経営者なり政府関係者は困ってしまうのではないだろうか。本書は、女性へを励まし、lean-in を促す暖かい言葉に満ちている。有力なメンターを持ち(つまり子分筋になり)、アンテナをいつでも張って、機会を逃すな、というようなある種の心構え論である。それはすばらしい。しかし、相当程度出会いの運に影響されるはずの親分・子分関係が、組織の系統的な運営手段になるはずもない。

自分がトップを極めた後、後に続く人たちに対し本当の励まし・贈り物ができるとすれば、それは、自分の子分を優遇するというような狭い話ではないと思う。制度的に、いつでも、どんな出自の人でも、たとえば、田舎の出身でも、家庭的な事情から地方大学にしか通えなかった人でも、子持ちの人でも、未婚の人でも、素朴に、優秀な人がその優秀さを発揮できるような仕組みの整備と言うことになるはずである。性別や出自に業務能力が関係しないのならば(それがフェミニズムの大前提であろう)、その仕組みは性別や出自に中立でなければならない。

不思議なことに、本書からはそういう話が読み取れないのである。それは単に過渡期としての限界なのだろうか。そうかもしれない。特権的エリートの限界なのだろうか。それもあるのかもしれない。しかし私はもっと深く、かつて上野氏の本で感じたような後味の悪さを感ぜざるを得なかった。階級闘争論は人類を幸せにはしなかった。同様に、Identity politicsもまた問題解決の手段にはなりえないと思う。現代の #MeToo 運動にある種のデジャブを感じるとしたら、その人の感覚は正しい。


Lean In: Women, Work, and the Will to Lead

  • Sheryl Sandberg (Author)
  • Publisher : Knopf; 1st edition (March 12, 2013)
  • Language : English
  • Hardcover : 240 pages
  • ISBN-10 : 0385349947
  • ISBN-13 : 978-0385349949
  • Item Weight : 1.05 pounds
  • Dimensions : 6.01 x 1.02 x 9.58 inches

2019年7月30日火曜日

The Master Algorithm

 最近いくつかのところで The Master Algorithm (Domingos 2015) という本が話題になったのでざっと見てみました。日本でも翻訳作業が進行中らしいです。内容は、機械学習の歴史を概観し、最後に、著者のやっていたプロジェクトを押す、というものです。

(2021年5月更新。邦訳は「マスターアルゴリズム ─ 世界を再構築する『究極の機械学習』」)

著者によれば、機械学習は、記号論理派(Symbolist)、神経回路網派(Connectionist)、進化計算派(Evolutionary)、ベイズ派(Bayesian)、類推派(Analogizer)、という5つの流派からなっており、それを統合するのが著者の提案したマルコフ論理ネットワークとのことです。本書の前半はこれらの流派それぞれを、数式を使わずにノリで説明するものです。類推派って何だよと思うかもしれませんが、これは支持ベクトル分類器(support vector machine)に代表されるカーネル法のことです。著者自身は記号論理派に属し、"Symbolism is the shortest path to the Master Algorithm."(p.90)といったような信念が折に触れ語られます。 .

最後の2章がまとめらしき内容で、第9章ではマルコフ論理ネットワークを実装したAlchemyというシステムを、The Master Algorithm(究極のAI)、あるいはその未来像として紹介し、最後の10章では、プライバシーやシンギュラリティといった最近の話題にコメントを加えます。

この高名なAIの研究者が、究極のAI(The Master Algorithm)と言うからには何かアイディアがあるのだろうと思って読んでましたが、その答えとして論ずるのは、彼らのマルコフ論理ネットワーク。これは確かに、古典的なロジックの確率的拡張に当たるという意味では統合的な枠組みですが、不思議なことに、著者自身が記号表現派の最大の技術的問題として挙げた知識獲得のボトルネック(knowledge acquisition bottleneck, Chap.3, p.89の問題には何の言及もありません。事実と願望が混然一体になった物語は読むのに大変忍耐を要します。

9章の末尾に出てくるCanceRxという、仮想的ながん治療法発見システムの例は非常に示唆的です。医療診断システムこそ、かつてのAIの楽観と落胆の象徴であり、著者の属する記号論理派の工学的限界を示す象徴でもあるからです。一般に、論理が与えられ、その論理に基づく意思決定なり現象を表すデータが観測できれば、推論は数学的に可能です。その論理の集合の枠内で、いかなる質問にもなんらかの答えを与えることができるでしょう。確率的拡張のご利益により、予測が実現される確率も計算できます。おお、すばらしい!これぞ究極のAI!...ということにはならない、というのが、人工知能の研究史がまさに教えることです。知識獲得のボトルネックというのは、「いったい誰が論理の集合を決めてくれるのか」という問題です。論理は主語と述語からなりますので、主語と述語の集合のことです。これに関する著者の見込みは驚くほど単純です。
As before, the MLN (Markov logic network) doesn’t have to know a priori what the classes in the world are; it can learn them from data by hierarchical clustering. (Chap.9, p.257)
階層的クラスタリングをすれば、論理が列挙できる?クラスタリングのためには距離の定義された特徴空間が定義されていなければなりません。特徴空間を完全に客観的に決めることはできません。人間の観測できる範囲には限りがあるからです。そして観測というのもそれを実行し結果を保存するという意思の結果であり、どうやっても、人間が明示的に認識できる範囲を出られません。著者自身が冒頭で再三述べたロングテールのコンセプトとの関係も不明です。テールにしか現れない稀な現象をどうクラスターとして検知できるのでしょうか。10万人に一人の疾患をどうノイズからより分け見つけるのでしょう。Vapnik's principle を持ち出すまでもなく、工学的レベルでそれは解になりえないのです。

AIの産業応用の観点で、2015年くらいから爆発的に発展した深層学習が業界風景を一変させたのは疑う余地がありません。究極のAIと聞けば深層学習を思い浮かべる人が多いでしょう。深層学習の支持者たちのメッセージはもっと強く、明確です。データを集めよ。さらば論理を与えよう。論理、というのは、(1)低レベルのデータの表現から、意味のある高レベルの表現を抽出する論理、(2)未知の標本を得たときにそれについて何かを予測する論理、ということです。画像分類であれば、画像の中のどういう特徴が決め手になるのかという規則と、画像がどう分類されるのかについての論理(関数)が得られるということです。

しかし、実際には、データ取得に関する人間の偏見ないし限界という問題が常に付きまとい、長い研究の歴史の結果として「何をデータとして集めるか」という点に合意が確立している分野(画像認識、音声認識、自然言語処理)以外では、特徴量工学を不要にした、という深層学習支持者たちの主張が、どれだけ工学的・実用的に妥当なのかを結論を出すべく、今でも研究の努力が続けられています。これは当然でしょう。普通のカメラで飛行機の写真を撮っても、金属疲労による微細な亀裂は見つかりません。飛行機の破壊を予知するのが目的であれば、相応の計測装置が必要になります。ビッグデータは物理学の壁を超えることはできないのです。特徴量工学を不要にしたとしても、データをどう取得するかについての問い(しいて言えば観測工学)を避けて通ることは絶対にできません。

あえて斜めから見てみると、この著者の意図は、常識的に考えて The Master Algorithmという名前におそらく最も近いであろう深層学習(ないしConnectionist=神経回路派)をあえて主役から外すことで、著者が属する記号論理派の政治的復権を図る、というものだったのかもしれません。機械学習を、記号論理派、神経回路網派、進化計算派、ベイズ派、類推派、のように細分するところにも意図を感ぜざるを得ません。このようなコミュニティが存在するのは事実ですが、普通の研究者の常識では、神経回路派・ベイズ派・類推派は同じグループであり、自分たちの問題から派生した最適化問題を解くために進化計算派の協力を得たりしているという感じでしょう。つまりざっくり言えば、記号論理派、対、機械学習派、というような感じだと思います。

この辺の業界事情は、今年2019年に開かれたAAAIという人工知能分野のトップ会議で企画された討論からも垣間見えるところです。そのテーマは "The AI community today should continue to focus mostly on ML (machine learning) methods" ──これはAIという学問はどうあるべきかについての、記号論理派からの問題提起と理解すべきなのでしょう。

私は著者による機械学習の5つの流派(five tribes)という理解にも、確率論理が究極のAIであるという位置づけにも賛同できませんが、唯一、末尾付録の Further Readingのセクションは、一次資料が豊富に引用されたAIの研究史になっていて、この高名な研究者の研究業績に似合う輝きを感じました。

  • ペドロ・ドミンゴス  (著)
  • 神嶌 敏弘 (翻訳)
  • 出版社 : 講談社 (2021/4/23)
  • 発売日 : 2021/4/23
  • 言語 : 日本語
  • 単行本 : 522ページ
  • ISBN-10 : 4062192233
  • ISBN-13 : 978-4062192231




2015年12月22日火曜日

ThinkPad T430で Windows 7 から 10 にアップグレード

最近Windows 7機をWindows 10に更新する機会があったので自分用のメモ。

子供用に新たに中古のThinkPad T430を買った。子どもが乱暴に使うことを考えて、ハードディスクではなくてSSDにしたかったのと、アメリカではPC上で行う宿題も多いので、解像度は最低1600x900は譲れなかった。加えて、パスワード管理は子どもだと難しいので指紋認証、彼らの祖父母とのSkypeのためのWebカメラ。そのスペックだと新品は相当高額になるので、社員販売の中古。日本円で2-3万円というところ。

子どもたちの願いは、Minecraftというゲームをすること。最近、開発元がマイクロソフトに買収されたようなので、最新版のWindows 10で、最新版のMinecraftが動く必要がある。いろいろ試行錯誤の結果、下記が最善のルート。7から10への移行には落とし穴が多いので、移行前に全ディスクのイメージを作ることが非常に重要。

  • Windows 7のセットアップ
    すべてのハードウェアが動くことを確認した上で、Windows Updateで最新の状態にする。親(自分)の管理者アカウントを作る。子どものアカウントはまだ作らなくてもいい。
  • Microsoft Accountのセットアップ
    まだ持っていなければ、Microsoft accountを作る。子どものメールアドレスをGmailなりで作り、自分のMicrosoft Accountのページから、子どもを登録する。米国からは、子どものアカウントを作る際に「自分が親であることを証明」するためにクレジットカードが必要(意味がよくわからない)。50セント課金された
  • Windows 7 環境の保存
    外付けハードディスクに、リカバリ領域含めたディスク全体のイメージ(複製)をつくり、同時に起動ディスクも作る。
  • Windows 10への移行
    タスクトレイに現れるアイコンをクリックするだけ。
  • Windows 10の再インストール
    移行後、かならずいくつか問題が生じるので、Windows 10上のリカバリーのメニューから、クリーンインストールを実施。これにより、過去のWindows 7環境が完全に失われる。
  • Windows 10 環境の整備と保存
    まっさらになったWindows 10において、再度ディスク全体のイメージを作る。同時に、子どものアカウントを加える。自分がマイクロソフトアカウントでログインしておけば、子どもの名前は自動的にファミリーのメンバーとして出るので、子どもアカウントを加えるのは簡単。

はまったポイントは次の通りだ。7→10→7→10→7→10→10と、6回のOSインストールをする羽目になった。アカウントの扱いなど、説明が足りてないところはあるが、Windows 10はうわさどおり非常によくできたOSだと感じる。
  • Windows 10ではペアレンタルコントロールのために、子ども用のMicrosoftアカウントが必要で、なおかつ、認証は有料。
    • 自分の子どもであることをなぜお前に認証してもらわないとならないんだと腹を立て、一度Win 10を廃棄してWin 7に戻した。
  • Minecraft開発元はMicrosoftに買収された。今後のUpdateを思うとWindowsを最新版にしておかざるを得ない。
    • この理由のため、再度Win 10に移行。
  • UpgradeされたWindows 10において、ストアアプリが正常に動作しない。
    • ほとんどすべてのゲームは開いた瞬間に1秒ほど画面が出てすぐに落ちる。いくつかのアプリは開ける。挙動は予測できない。
    • キャッシュクリアなどのTipsが知られているが功を奏さず。
  • インストールに失敗した可能性を考えて、Win 7を介したWin 10の再インストールを決心。しかしUpgradeされたWindows 10では、ThinkPadの内蔵リカバリが見つからなくなくなっていた。
    • Windows 10自体を直接再インストールするのは避けた。なぜならそれをするとThinkPadに入っていたWindows 7を完全に失うので。
  • そこで、起動ディスク&外付けHDDに保存したイメージからWindows 7を再生しようとしたが、イメージが読めず立ち往生
    • USB 3.0(青い口)だと、どうやらUSBドライバが読めないとかの理由があるそうで、USB 2.0にHDDドライブをつなぐことで解決。
  • Win 7を介して10にしたが、ストアアプリの窓がクラッシュする問題は解決せず。そこで、Windows 10の機能を使い、クリーンインストールをすることにした。
    • これによりWindows 7は完全に失われる。ThinkPadに元々入っていたThinkVintage系のソフトもすべて失われる。
    • 指紋認証やWebカメラなど、HWのドライバも失われるので、これはリスクが高い行為。
  • 運を天に任せてクリーンインストールを実行、結果、問題が解決。少なくともストアアプリは問題なく動くし、指紋認証もうまく動く。

2015年5月1日金曜日

「戦後リベラルの終焉 なぜ左翼は社会を変えられなかったのか」

表題の通り、現在でも新聞やテレビで力を持つ左翼人たちの限界を書いた本。著者のブログ記事の散漫な羅列であり、本自体の完成度は低い。著者のブログ、特に書名と同じこれを読めば十分である。

ただ、元左翼でNHK記者となり、取材の中で具体的な事実を知ることで左翼の敗北を悟った著者の軌跡はある程度興味深い。その観点で見れば、慰安婦問題、集団的自衛権、秘密保護法、原発、雇用制度改革、など個々の話題について、伝統的な左翼の問題設定がいかに非合理かを指摘する彼の分析は一般にはそれなりに意義もあろう。

はっきり言って私自身、これら個々の話題について取り立てて感想は浮かばない。あまりにも自明な問題に思えるし、本書エピローグにまとめられている通り、本来争点にすらならい問題だからだ。
今の日本で重要な政治的争点は、老人と若者、あるいは都市と地方といった負担の分配であり、問題は「大きな政府か小さな政府か」である。(「エピローグ」) 
このようなことは少しのデータを見るだけで自明だ。しかしマスメディアで今でもほとんどすべてのスペースを占めるのは、要するに大昔から左翼が好んだ問題設定に基づく反政府的報道である。

例えば、自国民が拉致され、自国の国土が侵攻を受けたり(竹島、北方領土)、挑発を受けたりしているのに(尖閣諸島)、また、度重なる国家テロを反復している国家が隣にあるのに(大韓航空機爆破事件ラングーン廟爆破事件青瓦台襲撃事件、朝鮮戦争)、軍事的手段の準備と行使それ自体を問題にするのは不思議としか言いようがない。「彼らは反戦・平和を至上目的とし、戦争について考えないことが平和を守ることだという錯覚が戦後70年、続いてきた」。左翼の空想的平和主義はまるで、いつか白馬の王子様が迎えに来てくれると信じる少女のようで、現実味のなさは病的ですらある。

あまりにばかばかしいので本書では触れられてもいないが、日の丸・君が代反対運動というのも不思議だ。義務教育は義務であり権利ではない。義務を強制するのは国家である。多大なコストを投下してそれを実行するのは、究極的には、強い国を作るために他ならない。税金を使い運営を付託されている国家の立場から言えば、日本国のために忠誠を誓う人材を作るのは当然の目的といわざるを得ない。

日本国のために忠誠!おそらく左翼はここで絶叫するのだろうが、少し調べればいい。アメリカの公立小学校では、全員「忠誠の誓い」というのを暗唱させられる。それはある意味教育勅語のようである。国旗は校内いたるところにあり、あらゆる行事において国旗に敬意を表することを求められる。税金で運営されている学校としてこれは当然だろう。アメリカのような多民族国家では、合衆国とその象徴である国旗に忠誠を誓う限りにおいて、文化的多様性が許容される。無条件に、国内で民族の独自性が認められているわけではないのである。

しかしなぜか左翼はこういう事実を受け入れようとせず、空想的なコスモポリタニズムを繰り返すのみだ。これは何なのか。

著者はそれを、左翼が、万年野党であることを職業として追求しているためだと言う。つまりあえて責任を取らぬ外野という身分に自分を置くことで、理想主義者の芝居をしているだけだと。私は芝居ですらないと思う。あらゆる集団において、そういう「結果責任を取らない人たち」というのは出てくる。会社であれば新入社員や「腰掛OL」は経営の責任を負わない。家庭では専業主婦は収入を得る責任を負わない。社会では公務員は国際的市場競争の責任を負わない。国会であれば長い間野党は万年野党で、政策の責任を負わなかった。言ってみれば彼らは、現実に起こること責任を取らない(取りようがない)占い師のようなもので、だとしたらわざわざ現実の厳しさに目を向けるような面倒なことをせずに、願望と空想に基づいて好き放題にしゃべるのがある意味合理的だ。

それ自体は別にかまわない。日本の悲劇は、「東大法学部から朝日新聞に至る日本の知的エリート」が、そういう占い師同様の行動をとり、それが日本の針路に影響を及ぼしてきたということである。彼らの多くは弁護士や新聞社のような規制業種か、大学教授のような(ほぼ)公務員である。国家に寄生しながら、国家の経営に星占い程度の提言しかできない彼らの知的怠惰は、救いがたい。

左翼が社会を変えられなかったのか、という問いは、なぜ星占いが当たらなかったのか、という問いとほとんど違わない。

それだけの話だ。


  • 池田 信夫  (著)
  • 新書: 212ページ
  • 出版社: PHP研究所 (2015/4/16)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4569825117
  • ISBN-13: 978-4569825113
  • 発売日: 2015/4/16
  • 商品パッケージの寸法: 17 x 10.6 x 1.4 cm
  • おすすめ度:  5つ星のうち 4.6  レビューをすべて見る (9件のカスタマーレビュー)

2011年11月10日木曜日

「論文捏造」

2000年からのおよそ2年間、主に有機物超伝導という分野で、米国の名門研究機関ベル研究所に勤める若いドイツ人物理学者が、次々に画期的な成果を発表した。その着想にあらゆる物理学者は舌を巻き、ノーベル賞受賞も時間の問題とされていた。しかし、すべては捏造であった。2003年までに、Science、Nature、Physical Review、Applied Physics Letters、Advanced Materials という一流学術誌は合計28本にものぼる論文の取り下げを発表した。

本書は、その経緯を詳細に取材したNHKのドキュメンタリー番組の書籍版である。取材は徹底的かつ詳細、重要人物はほぼ全部網羅されており、その番組が、国際的な数々の賞に輝いたというのもうなづける。

現代の物理学の研究は、大きく素粒子と物性に分かれており、それぞれの中で理論と実験に分かれている。本書の主人公 ヘンドリック・シェーンは、物性領域の実験物理学者という位置づけになる。実験物理学者の研究の目的は、第一には、いかに新しい現象を発見するかにあるといってよい。それにはストーリーが必要である。絶対零度近傍で電気抵抗がゼロになるというストーリーは、分かりやすさといい現象の華々しさといい、20世紀の物理学を代表するものである。本書の主たる主題として取り上げられるシェーンのストーリーは、有機物と超伝導、それにエレクトロニクス技術の精華であるトランジスタを絡ませた壮大なもので(p.50)、その壮大さにおいて、彼は間違いなく天才であった。悲劇は、シェーンが、実験技術の天才ではなかったという点にあった。

実は私は2000年にシェーンの論文を(捏造と知らずに)読んだことがある。確かフラーレンで高温超伝導を達成したというのがその内容で、当時は銅酸化物特有の電子構造が、高温超伝導の原因であると信じられていたから、非常に新鮮な内容だったと思う。実験家でなかった私には、その論文の結果を疑う理由などなかった。しかし結局、私がその論文を読んで間もなく、何人かの研究者によりシェーンの論文にグラフの使い回しがあることが指摘される。すぐさま2002年5月にベル研に第3者調査委員会が作られ、4ヵ月後、その報告書が出たその日に、シェーンは解雇された。

この経緯を知った私の感想は、コミュニティの自浄作用が有効に働いた、というものである。超一流の超伝導研究者Bertram Batlogg率いる、これまた超一流の研究機関と目されるベル研の研究チームによるまばゆいばかりの成果。それがわずか1年と少々で、研究者の手により覆されたのである。世の中に不正というべき事柄は無数にあるが、通常の論文出版サイクルが数ヶ月を要することを思えば、この迅速な自浄作用は驚嘆に値する。

「夢の終わりに」と題する本書第9章は、捏造をなぜ防げなかったのかという観点からの著者村松氏の考察が記されている。上記の通り、客観的には、このスキャンダルは、学会の自浄作用により解決されたと言わざるを得ないのだが、著者は、「科学の『変容』と科学界の『構造的問題』」という、いかにもジャーナリスト的な問題提起をしたかったように思える。しかし羅列的なその考察の内容は、彼の緻密な取材振りと比べた時、ほとんど物悲しいほどである。ざっと並べると、彼はこのようなことを述べている。
  • NatureやScienceといった超一流ジャーナルでさえ記事の正確さを保証しはしない
  • 学会には間違いを許容する風土がある
  • 専門論文の不正の立証は簡単ではない
  • 専門領域は細分化している
  • 巨大科学の時代では持てる者が有利になる
  • 経済的利潤と結びつくと特許など異質な要素が入り込み、それが秘密主義を誘発する
  • 国家の後押しや、アメリカ的な競争社会が研究者に過剰なプレッシャーを与える
  • 内部告発の系統的な仕組みが不足している
  • 共同研究者の責任が曖昧である

いったいどうしろと言うのだろう?これがこの章を読んだ感想であった。NatureやScienceが真実性を保証しないのは、NHKが報道内容の真実性を保証しないのと同様であろう。裁判で報道機関はよく主張するではないか。「そう信ずべき相当の理由があった」と。他の論点も同様である。間違いを絶対に認めない学会が望ましいのだろうか?  専門分野の細分化を「禁止」すれば、経済活動や国家と無関係に学会が存在すれば、内部告発の仕組みを整えれば、共同研究者の責任を明確にすれば、今回の事件の発覚は早まっただろうか?

図らずも本書は、日本の報道産業のメンタリティの限界を明示しているように思える。研究にはリスクがある。これからやろうとしていることが意味がないかもしれない、今後何ヶ月か何年かの労力が無駄になるかもしれない、という恐怖に耐えて研究者たちは前に進むのである。したがって、注意深い査読を経て出版された論文の中に、そういうリスクの欠片が残っていることはむしろ自然であろう。研究の評価が定まってから、すなわち、時間と共にリスクが洗い流された時点から、居丈高に関係者の非をあげつらうのは卑怯というものである。

リスクがあるという意味では、報道も研究も同じはずであるのに、このような論旨不明瞭な考察しか残されていないという事実に、日本のマスメディアの深い闇が見えると言わざるをを得ない。


論文捏造 (中公新書ラクレ)
  • 村松 秀 (著)
  • 新書: 333ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2006/09)
  • ISBN-10: 4121502264
  • ISBN-13: 978-4121502261
  • 発売日: 2006/09
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.6 cm

2010年12月1日水曜日

「132億円集めたビジネスプラン」

旧態依然の規制業種の代表のように思われている日本の保険業界に72年ぶりに新規参入した件で話題になっているライフネット生命の創業者の一人、岩瀬大輔氏によるビジネスプラン作成指南書。実質的に創業期のあれこれの回想記のような体裁である。文章は簡潔明瞭で読みやすい。

本書は知り合いに勧められて読んでみたものであるが、申し訳ないことに、正直、感心するポイントがほとんど何もなかった。電車の中の30分でもういいやと思った次第である。

著者はハーバードビジネススクール(HBS)を上位5%の成績で修了したというのをとても誇りに思っているらしく、本書でもHBSではこういうことを学んだ、とか、こういう見方を教えてくれた、のようなくだりが頻繁に出てくる。しかし研究者的観点から言わせてもらえば、学校で教わったことを嬉々として繰り返しているようでは話にならない。それもわざわざHBSなどと略して繰り返された日には、もう、恥ずかしいとしか言いようがない。

たとえば「東大ではこんなことを学んだ」のような言い方はまともな大人はしない。「開成(麻布、灘、...)ではこういうことを学んだ」みたいな言い方も多分ない。いや、「陸軍士官学校では○○精神を叩き込まれた」みたいな言い方は聞いたことがある気がするから、あるいは過去の栄光を回顧したい老人ならそういう言い方をするかもしれない。彼らは「今」に恥じらいがないからである。

文章の明瞭さから察するに、岩瀬氏は優秀な人物である。しかしHBSがどうのという言い方に何の恥じらいもないところから見て、彼は世界を創れない人である。HBSという枠組みにすばやく自分を同化させ、その同化能力において、優秀な成績を収めたのであろう。しかしビジネスのダイナミクスは物理学の法則と違い融通無碍である。むしろ上位5%というその触れ込み自体が、彼の創造力の欠如を証明しているように思えてならない。おそらく彼は知らないだろう。無から世界を構想できる人間が存在しているという事実を。

上で感心するポイントがほとんど何もないと書いたが、実はひとつある。それはライフネット生命の広報戦略である。楽天の三木谷社長の言葉を引いて岩瀬氏は言う。「ネットショッピングの時代こそ、人々は商品だけではなくその背後にあるドラマや物語も共有したいと思っている」(p.110)。おそらくこれは正しい。

実際、私が岩瀬氏の名前を知ったのは、一時期は無料でpdfが公開されていた『生命保険のカラクリ』という本を通してである。戦略は巧妙であった。電子書籍が話題になっている最中、おそらく日本で最初に、新書の全文pdf公開ということをやったのである。あたらし物好きの多くはそれをダウンロードしたろう。私もそうであった。本の中身といえば、彼の個人的物語も交えつつも、実質的にはライフネット生命の宣伝なのであった。その戦略は本当に見事であった。

物語の共有 ── これはネット時代に限らず、広報というものの原点であると私は思う。物語を作るのには才能が必要であるが、多くの人にはそれがない。そのことを考える時、岩瀬氏らが仕掛けた広報戦略は驚嘆に値すると言ってよい。真っ当に受け取れば駄作と言わざるを得ない本書が、その幼稚としか思えない物言いも含めて、実は彼の広報戦略の一環なのだとしたら ── もし本当にそうなら、彼は真の天才である。


132億円集めたビジネスプラン

  • 岩瀬 大輔 (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 177ページ
  • 出版社: PHP研究所 (2010/11/16)
  • ISBN-10: 4569771904
  • ISBN-13: 978-4569771908
  • 発売日: 2010/11/16
  • 商品の寸法: 18.6 x 13 x 2 cm

2010年9月4日土曜日

「競争優位のイノベーション ― 組織変革と再生への実践ガイド」

企業が技術革新に追随して高い業績を保つためには、不断の組織変革が必須である、と説くビジネス書。本書の著者はコロンビアおよびスタンフォード大学のビジネススクールの教授で、組織論を専門とする。実地のコンサルティング経験も豊富なようである。原著 "Winning through Innovation" は1997年刊で、直ちに翻訳され、折からのMBAブームもあり、わが国においてもっとも売れたビジネス書のひとつとなった。

本書を、同じ年に書かれたクリステンセンの『イノベーションのジレンマ』と対比的に読むのはきわめて興味深い。『イノベーションのジレンマ』では、いくつかの業界における企業の栄枯盛衰を表す実証研究から、組織内部のプロセス変革により破壊的イノベーションに対応するのは基本的に不可能であるという結論を導いている。経営層が顧客のニーズを的確に経営判断に生かす能力があり、そして組織の意識決定プロセスがその決定を迅速に行動に移せる、というのは疑いなく優れた企業の特徴であるが、まさにこの特徴が、破壊的イノベーションへの対応を遅らせるというのである。生き延びたごく少数の企業は、内部変革ではなく、スピンアウトによる独立組織や半独立の内部組織という形で新しい市場に対応した。クリステンセンの本には、本書で説くような内部変革に成功した事例は出てこない。過去にほぼ存在しなかったためであろう。

にもかかわらず、本書では、イノベーションに追従できなかったのはまさにプロセス変革に問題があったためと考えて、「業績のギャップを認識しなさい」などの命題を繰り返す。だとすれば本書には、クリステンセンの見出しえなかった秘密のメカニズムが明らかにされているのだろうか? あるいは目から鱗が落ちるような画期的な処方箋が提示されているのだろうか?

本書の第4章では組織の望ましい問題解決プロセスが詳述されている。
  1. 担当部門の業績のギャップを特定し、変革の機会をどれだけ早めるかを明らかにする(p.75)
  2. 重要問題と業務プロセスを描く(p.77)
  3. 組織の整合性チェック(p.78)
  4. 解決策を考え、修正措置を講じる(p.84)
  5. 反応を確認し、結果から学びとる(p.87)

これ自体は、優れた組織であれば当然目指すべき内容であり、文句のつけようがない。実際、企業の幹部候補向けの多くの研修プログラムは、このようなプロセスを前提にしてさまざまなケーススタディを取り扱う。しかし問題は、クリステンセンが実証的に述べているように、破壊的イノベーションの前夜においては、真の意味で「担当部門の業績のギャップを特定」することなどできはしないということである。

面白いことに、著者タッシュマンとオーライリーもまた、破壊的イノベーションによるゲームのルールの劇的な変更についてよく認識している。
テクノロジー・サイクルの引き金になるのは、不連続的なテクノロジーの出現である。すなわち、珍しい、予測できない出来事が科学や工学の進歩によって引き起こされるのである(たとえば、時計のゼンマイが電池の取って代わられた例)。不連続的なテクノロジーの出現で、既存の漸進型イノベーションのパターンは断ち切られ、テクノロジーの動乱期、すなわちサイクルの第2段階(...)が訪れる。(p.196)

ここで「予測できない出来事」と彼らが言っていることに注目したい。もし予測できないのであれば、「担当部門の業績のギャップを特定」などできはしないのではないだろうか。実際、優れた経営で知られた過去の企業のほとんどが、予測せざる急速な事態の悪化がゆえに死に至ったのではないか。

もっともタッシュマンとオーライリーもそれに無自覚というわけではない。第7章で彼らは、不連続的な技術変革へ対処するための組織は、「両刀使いのできる組織」(p.203)であると説く。結局、クリステンセンと同様、スピンアウト型か半独立型の組織を称揚しているわけである。しかしこれは、内部的な改革は無駄だから、新しい技術に対応できる新しい組織を外に作りましょう、と主張しているに等しい。だとすれば、彼らがそれまで述べてきた、漸進的に自己改革するための方法論というのは無意味ということになりはしないだろうか。

彼らの組織論は結局のところ、不連続的なテクノロジーがまだ起きていない定常状態のマーケットの中でしか有効ではない。もちろん、何割かの企業は、そのような幸せに安定した市場の中でさえ、顧客の意向を汲み取るのに失敗しているから、その範囲では有効である。しかし本書のタイトルにある「競争優位のイノベーション」に対しては現実的有効性を持たぬ空理空論でしかない。

本書はさまざまな企業の管理職向けの研修教材として使われているはずである。しかし上述の通り、本書をいかに学習しても、将来の破壊的イノベーションに立ち向かう力は出てこない。むしろ、認識されたギャップを迅速に行動に移すためには社内のすり合わせを最適化せざるを得ず、内向きなマインドを醸成しがちであるという点で、有害なことすらあるだろう。はっきり言っておこう。本書を素朴に「古典」として持ち上げる教官がいるような研修は話半分に聞いたほうがいい。本書の受け売りをするコンサルタントも信用しないほうがいい。真に大切なのは、破壊的イノベーションを生み出すバイタリティと、その際にスピンアウト的起業を可能にする自由な空気を普段から醸成しておくことである。それに対する簡単な処方箋はまだないが、問題を解く鍵が、本書のような一見もっともらしい組織論の外にあることだけは確かだ。


競争優位のイノベーション ― 組織変革と再生への実践ガイド

  • マイケル・L・タッシュマン (著), チャールズ・A・オーライリーIII世 (著), 平野 和子 (翻訳) 
  • 単行本: 284ページ
  • 出版社: ダイヤモンド社 (1997/11)
  • ISBN-10: 4478372292
  • ISBN-13: 978-4478372296
  • 発売日: 1997/11
  • 商品の寸法: 19.2 x 13.4 x 2.2 cm

2009年12月29日火曜日

勝間和代「男とウソ」


今をときめく経済評論家・勝間和代氏の私生活上のトラブルを指摘した週刊文春のレポート。勝間和代は2度離婚しているが、最初の夫との離婚には実は自身の不貞が関係していること、親権を取った3人の子のうち長女が勝間を嫌って夫の元で暮らしていること、などが語られる。

売れっ子を叩くことで自分も名を売ろうという下心があるのかないのか、牽強付会な感のある悪意の筆致にはやや閉口せざるを得ない。しかし、彼女をまるで自己啓発セミナーのカリスマ教祖のように崇め奉る女性はどうやら百万人規模でいるようだから、この種の事実の指摘には意味があるといえるのかもしれない。当たり前だが、勝間和代も、ほかのすべての人間同様、不完全な存在である。追従者になるのもいいが、その「教祖」も生身の人間であることを常に認識すべきだ。

長女との関係において、勝間は大きな問題を抱えているようだ。長女が書いたというブログの文面は非常にどぎつい。

「お母さんと下の株と近所の神社に初詣に行った。母さんが肩に触れてきたのを、なんとなく身をよじったら、お母さんに泣かれた。」

「経済評論家のK氏の自宅が本日燃えて死亡
氏は出張中で、娘二人がベッデオに横たわる姿でまっくろこおげ!(略) K氏は悲しみを胸に1冊の小説を書き起こし、大ヒット! ノーベル文学賞と経済学賞を同時に受賞! 受賞した日にひと言。『人生に無駄な経験はありません 火事を起こした長女も浮かばれていることでしょう』」


この話に話題が及ぶと、勝間は目を真っ赤にして泣き出したという。長女は母親に素朴な共感を求めているだけのように思える。肯定も否定も、最適化も価値判断もしないただの情報共有。この記事にあるブログの引用がフェアなものだと仮定すればだが、女性特有なそういう心の動きに、勝間は比較的疎いのかもしれない。

その長女の父、つまり勝間の最初の夫は、結婚に際して、勝間の実家の工場に婿に入ることを条件とされたらしい。保育園の送迎も夫の役目だったようだから、いろいろ苦労もあったのだろう。マッキンゼーで激務に晒されていた時代の勝間とのすれ違いもあり、しかもこの元夫が金銭トラブルなどを引き起こしたため、結婚生活は破綻する。

主に勝間により進められた離婚処理は、有無を言わさぬくらいに手際よいものだったらしい。しかしその後、子供との交通権などの離婚条件の実行をめぐって事態は泥沼化する。離婚後まもなく勝間は新しいパートナーと同棲を始めた。しかしそれは、勝間自身の浮気に端を発するものであった。すなわち勝間は、離婚条件に重大な影響を与える自らの不法行為を隠すことで、離婚交渉を優位に進めたことになる。

それは卑劣と言えば卑劣なのだが、この、勝間に対して悪意あふれる記事を読んでも、私は特に勝間に対して悪感情を持つことはなかった。誰しも若い頃は不完全なものである。「できちゃった婚」は若すぎた二人の青春の蹉跌だったのだろうし、それが破綻する過程では、お互いがそれぞれの限界に応じて、卑劣と非難されうることをほとんど必ずするはずである。相手を一方的に責めることは、人間としての器の小ささを認めることである。

ちなみに、記事に出てくる元夫のブログも、長女のブログも、今では見ることができないようだ。この記事のような悪意を、彼らは想定していなかったのではないだろうか。わずかな不幸の兆候を第三者が拡大するのはよい趣味ではない。このような、一般人なら確実に名誉毀損となる記事が公に出回ってしまうとは、売れっ子もつらいものだ。これにめげず、勝間氏には今後ともいっそうがんばってもらいたい。


勝間和代「男とウソ」
  • 青沼陽一郎 著
  • 週刊文春 第52巻 第1号
  • 2010年1月7日発行
  • pp.218-221

2009年11月20日金曜日

「境界性パーソナリティ障害―患者・家族を支えた実例集」、「『心の悩み」の精神医学」

ある人を絶賛していたと思っていたらしばらくして手のひらを返すように罵倒し始める、というタイプの人は回りに一人くらいいるだろう。そのいわば究極形態の人たちについての本2冊を紹介する。

精神分裂病(最近は統合失調症と呼ばれる)や鬱病といった「本物」の精神病患者と、正常人の境界にいる、という意味で、「境界性人格障害」と呼ばれる一群の人々がいる。本質的に人格のゆがみであるがゆえ、治療は困難を極める。その間に、「めくるめく信頼と罵倒」や「見捨てられ不安としがみつき」といった特有の行動パターンを見せる彼らに周囲は疲弊してゆく。

最初に紹介するのは「Dr 林のこころと脳の相談室」であまりに有名な林公一氏の「境界性パーソナリティ障害 ― 患者・家族を支えた実例集」である。サイト運営に関する氏の真摯な態度に敬意を評してアマゾンで買ったのだが、一読して後悔した。ウェブサイトの情報に付け加えるものが何もなかったからである。その上、印刷がなぜか喪中欠礼葉書のごとき薄いインクでされており、見にくいこと著しい。買わずにウェブを見るべきだった。


次が、読売新聞の「人生案内」の回答者として有名な野村総一郎氏の「『心の悩み』の精神医学」だ。これも特にこれと言ってコメントするまでもない軽くて薄い本で、典型的っぽい患者の症例を主観的に選択して、軽い感じで紹介してみせた本である。強いて挙げれば、これは林氏のサイトも紹介されているのだが、境界性人格障害の患者の周りに存在しがちな「お助けおじさん」について記述しているところがよい。

境界性人格障害は若い女性に圧倒的に多い。境界性人格障害の病理には、見捨てられ不安としがみつき、というのがある。見捨てられないために、身だしなみにも平均以上の注意を払う場合が多かろう。そういういたいけな若い女性が真剣に助けを求めてきた時、これは病理の一環だと冷静に対応できる人は多くはないはずだ。普通の人は患者の話を真に受けて、話の中の「加害者」に対して問題の解決を断固迫ったりするだろう。これが「お助けおじさん」と呼ばれる人たちである。

しかし実際には、患者は、周囲の人間に虚実織り交ぜてありとあらゆることを吹き込み、周囲が自分に親身に助けの手を差し伸べる状況を作ることに全力を傾けているだけなのである。それが境界性人格障害の病理なのだ。患者の訴えは、しばしば秘密の告白という形でなされ、それがたとえば、性的暴行を受けた、などのショッキングなものであることもしばしばである。しかしそのほとんどは作り事であり、善意の「お助けおじさん」がいくら奔走しても、問題を解決することなどできるはずもない。むしろ話の中の架空の「加害者」にも、「お助けおじさん本人」にも深い傷を残す結果となる。

だから境界性人格障害という病気は罪が重い。我々ができることは、この病理について性格な知識を持ち、患者に対して対応を統一することだけである。上記のような本を買わずとも、林氏のサイトに多くの症例があるので参考にしたい。


境界性パーソナリティ障害―患者・家族を支えた実例集
  • 林 公一 (著)
  • 単行本: 159ページ
  • 出版社: 保健同人社 (2007/12)
  • 発売日: 2007/12

「心の悩み」の精神医学 (PHP新書)
  • 野村 総一郎 (著)
  • 新書: 195ページ
  • 出版社: PHP研究所 (1998/05)
  • 発売日: 1998/05

2009年11月14日土曜日

「虚構―堀江と私とライブドア」



久々に、絵に描いたような小人物の本を読んで、不愉快を通り越してむしろ爽快である。

宮内氏と堀江氏、双方の本を読み比べた結論は、堀江=稀有の大物、宮内=よくいる小物、というもので、一連の騒動も、邪悪な何かが暴かれたというよりは、「出る杭が打たれた」というただそれだけの話に過ぎないように思える。

経済活動は多彩であり、そのすべてを事前に法で予測し規制することはできない。多くの場合に違法か合法かわからない領域が存在し、そういう領域では法の専門家の主観的解釈だけが頼りである。しかしその解釈は通常一通りには決まらない。だからこそ、いつもは庶民をご指導下さっているマスメディアの皆さんも、時折摘発を受けたりするわけだ。
カラ出張、経費水増し 朝日新聞社が4億円所得隠し 
産経ニュース 2009.2.23 19:19
朝日新聞社(東京都中央区)が東京国税局の税務調査を受け、出張費や取材費の過大計上があったとして平成20年3月期までの7年間で、計約4億円の所得隠しを指摘されていたことが23日、分かった。記者がカラ出張などで経費を水増し請求していた。同社が明らかにした。

読売新聞が1億円所得隠し 社員同士の飲食、経費計上
産経ニュース 2009.5.31 12:03
読売新聞東京本社が、東京国税局の税務調査を受け、平成20年3月期までの7年間に約1億円の所得隠しを指摘されていたことが31日、分かった。取材費の一部が社員同士の飲食費だったと指摘されたとみられる。
宮内氏は横浜商卒の有能な税理士で、ライブドアでは堀江氏の側近としてファイナンス部門を任され、かなりの収益を上げていたようだ。本人は、ライブドアは堀江の会社だと繰り返すが、ファイナンス部門の業績を語る口は饒舌で、まるで自分がライブドアの利益のほとんどを上げていたかのようだ。また、堀江氏と異なり、自分はつつましい報酬で堀江に使えてきたといわんばかりだが、実は自分でも相当不明瞭な株取引で莫大な利益を上げ、フェラーリを購入したりしている(p.122)。

率直に言って、本書を通して、首尾一貫性にまったく欠ける印象を与えるのは否めない。本人は自分が堀江のように「天才」でない自覚があったのだろう。そうしてNo.2の地位でうまく会社を回してきた。しかし逮捕されてみればいまや自分の上にあるのは、堀江ではなくて、検察である。すばやく取り入る相手を変え、堀江との対決を選んだのだろう。そういう意地悪な見方をされても仕方ない気がした。

価値の軸が確立していない輩。このような輩は世の中にはたくさんいて、国家とか会社とかそういう枠が磐石なうちはその中で力を発揮する。価値の軸を確立することに力を注いでいないので、投入するエネルギーの有効活用という意味ではむしろ有利だったりする。しかし、いざその枠が壊れると、このように醜態を晒す。幸いそのような人物を見抜く目は持っているつもりだが、そういう人たちの中で生きるのはまったく疲れることではある。

★★☆☆☆ 虚構―堀江と私とライブドア (単行本)
  • 宮内 亮治 (著)
  • 単行本: 248ページ
  • 出版社: 講談社 (2007/03)
  • 発売日: 2007/03

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]」


連合赤軍事件を扱った2つの映画を取り上げてゆきたい。

実録・連合赤軍は、長らく反権力の立場で映画を撮ってきたらしい若松孝二という監督の作品だ。1970年前後のニュースフィルムを使った解説的冒頭から始まり、元連合赤軍メンバーの手により公開されている書籍(『あさま山荘1972』、『兵士たちの連合赤軍』、『十六の墓標』など)に記された事実を淡々と映像化してゆく。

当然、セリフはかつての学生用語満載となるわけだが、そのほとんどは悲しく画面から浮き上がり、つくりの粗さが目立つ。特に、塩見孝也役の尊口拓とかいう俳優が「ブルジョアジー諸君!」と読み上げる場面と、 永田洋子役の並木愛枝が赤軍派と党史を公刊する際の演説の場面のヘンテコな抑揚はもはや見るに耐えず、思わず早送りしそうになったくらいだ。さらぎ徳二役の佐野史郎はその点さすがで、生硬な棒読みセリフのあふれる中、日常と革命用語の滑らかな階調を表現していた。一流のオーケストラの指揮者は、個々の演者の力量に差があったとしても、全体をひとつの有機体のようにまとめることができる。しかしこの映画には優れた指揮者が欠けている。個々の俳優の力量が無残にスクリーンに丸出しであり、下手なアンサンブルといった印象だ。

革命運動の活動家であっても、革命はあくまで全人生の一部でしかない。食事もするし買い物もしなければならない。多くは親も兄弟もいるだろう。このことから必然的に、われわれの発する言葉は、日常と何らかの意味でつながっている。ゆえ、本を読むような口調で話す、ということは狂人でもない限りありえず、政治の言葉であったとしても必ず、高揚・韜晦・逡巡、といったサイクルをその言葉のうちに持つ。その与件を共有できないという一点だけでも、監督が何を撮りたかったのか、きわめて理解に苦しむところである。

さらに納得いかないことに、「実録」のはずが、あさま山荘に立てこもった5人の一人「少年A」こと加藤元久に、警官隊の突入寸前、メンバー全員が死を覚悟した場面で、「みんな勇気がなかっただけじゃないか!」と叫ばせる(*注)。もちろんそんな事実はない。そもそも、末端の一兵士、それも16歳だかの少年が、CC(中央委員会)の坂口弘、坂東國男、吉野雅邦らに暴言を吐くということは、それまでの山岳ベースでの地獄の粛清の経緯を考えれば、想像すらしにくいことである。

*注。加藤元久は2名の兄と共に山岳ベースという「ユートピア」に赴いた。『連合赤軍少年A』の著者・加藤倫教は元久の実兄。その上の加藤能敬は非業の総括死を遂げた。

改めて言いたい。自分の映画に「実録」と銘打ったこの監督は、一体何を撮りたかったのか。

長くなったので、次項では「光の雨」を取り上げる


★★☆☆☆ 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
  • 出演: 坂井真紀, ARATA
  • 監督: 若松孝二
  • 2009年

2009年9月29日火曜日

「『地震予知』はウソだらけ」


ひとことで言えば、一昔前の新聞記者が得意としたような情緒的な政府批判の中に、科学的な記述が埋め込まれたような本である。朝日新聞を読んでもイライラしないタイプの人であれば痛快に読める可能性はあるが、ほとんどの日本人には疲れる本であろう。地震予知をめぐる科学的記述はきわめて正確なだけに、惜しい本だ。

著者島村氏は世界的に高名な地球物理学者であり、そのWebサイトにて確認できるように、複数のNature論文をはじめ(これは音楽業界で言えばグラミー賞ノミネートくらいにあたる)、地球物理の分野では最高級の業績を挙げた学者である。

地震を予知することの困難さを論証する著者の筆致は鋭く正確で、軽快に書かれた「まえがき」は読んで痛快、期待で胸がふくらむ。

しかし第I章に入る直前、謎の小説風空想文章が7ページわたり続き、ほとんどの読者はここで困惑するに違いない。この情緒的でネガティブで、「いたいけな庶民」を偽装したようなトーンはいったい何か。

それを我慢して読み進めると、しばらくはやはり軽快で鋭い記述を楽しめる。地震予知が、株価の予測くらい困難なことはおそらく科学的に本当である。地震予知に対して過去何十年かなされてきた巨額の投資は残念ながら目的を達することはできなかった。しかし著者は必ずしもそれを責めない。1970年代までは多くの研究者が地震予知の未来を確信していたからである。冷静な筆致で書かれた第1章は読むに値する章である。

しかしそれ以降、情緒的な政府批判の弛緩した調子が徐々に鼻についてくる。著者によれば、大震災の際に市民の自由を一部制限する法律(大震法)は、その他の有事立法同様、戦争準備のための絶対悪である。まあそういう解釈をとる人もいるかもしれない。しかし、そのような政治的解釈に一方的に肩入れすることが、地震予知の現状についての科学的記述の信頼度を損ないかねないことを著者は知るべきだ。

2章以降、科学的で信頼度が高いと思われる記述と、昔の反体制インテリが好んだような陳腐なフレーズが混在して、両者をより分けるのに骨が折れる。たとえば、阪神大震災についての次の文章はどうだろう。
報道や自衛隊など、ひっきりなしに上空を舞う多数のヘリコプターの騒音が下敷きになった人々を探して救助する邪魔になった。老人や在日外国人など、都市生活者の弱者に被害が集中したのも、この震災の大きな問題であった。(第III章2、p.135)
「軍隊」憎し、ということなのだろうが、災害派遣された自衛隊と、特に誰も助けはしなかった報道のヘリを同列に置くというセンスは私にはないし、データなしに後段の文章を真に受けるほどナイーブでもない。

私が編集者なら、この手の時代物の反体制的ポーズをそのままにはしなかったろう。真に科学的な批判ができるなら、「お役人」とか「仲良しクラブ」とか「御用学者」といった情緒的な非難のレッテルを全部廃して、固有名詞ベースで真剣勝負をすべきだ。それもできないのに、国策逮捕だ何だと自己正当化してもむなしく響くだけである。近い将来、著者のすばらしい学問的業績にふさわしい、真に科学的な本として書き直されることを希望する。

★★☆☆☆ 「地震予知」はウソだらけ
  • 島村英紀
  • 講談社文庫
  • 2008

「沖縄住民虐殺―証言記録」


日本軍が組織的に沖縄の日本住民を虐殺したという前提で書かれた本。基本ストーリーは『鉄の暴風』に依拠しており、本書の証言もその筋にそって集められた節がある。一方、戦後の米軍の悪行についても詳細な記述があるが、こちらの方は時代が近い上、特に種本はなく、比較的信頼しうる素材になっていると思われる。

丹念に証言を連ねる著者の姿勢は評価しうるものである。しかし時代的制約がそれを消して余りある。とりわけ次の一節は、時代の雰囲気の証言として、ぜひ後世に伝えたいと思う。
曽野綾子著『ある神話の背景』は...きわめて熱っぽい労作であるが、元日本軍を免罪することに腐心した政治性において、注目に値するだろう。(p.112)

曽野氏の著書の具体的内容に一切踏み込むことなく、この種の言及がなされることに改めて強い感慨を覚える。『鉄の暴風』の記述の客観性に疑問が指摘されている現在ではなおさらである。まるで、日本軍にとって有利になってしまう調査報道の類は、すべて政治的プロパガンダに過ぎないと決め付けているように私には聞こえる。

政治性、という時代がかった言葉に、私は戦前のプロレタリア文学運動を想起した。プロレタリア文学の主要な評価基準に「文学の党派性」という概念がある。党派性というのは要するに、革命政党の方針と矛盾しない、ということである。具体的には、『蟹工船』のように、独占資本を悪く描き、プロレタリア独裁を賛美する、ということである。

それが文学であれば問題はない。実際、『蟹工船』の臨場感は文学として素晴らしい。しかしこの本には、旧日本軍関係者が実名で出てくる。この世に実在する生身の人間を、政治的ないし党派的立場から面罵しているのである。これは許されることなのだろうか。

本書が単行本として出版されたのは1976年。連合赤軍事件が党派性概念の極限形態を世に知らしめてから5年しか経っていない。「逆コース」への不安が、なんとなく世間に満ちていたのはわかる。しかし、である。いやしくも「証言記録」と副題に書くのならば、あたかも特定の政治性を守ると言わんばかりのことを書くような真似はしてはならないと思う。

このような才能ある著者が、政治の時代の犠牲者として、この種の非生産的な活動に従事せざるを得なかったという事実に、敗戦がこの国にもたらした深い傷跡を見ざるを得ない。

沖縄住民虐殺―証言記録 (徳間文庫)
  • 佐木 隆三 (著)
  • 徳間文庫、1982
  • 文庫: 253ページ
  • 出版社: 徳間書店 (1982/04)
  • ISBN-10: 4195972981
  • ISBN-13: 978-4195972984
  • 発売日: 1982/04

2009年9月27日日曜日

「ザ・ビーチ (特別編) [DVD]」

レオナルド・ディカプリオが、タイを舞台に、楽園を探す心の旅を描いた物語。ディカプリオの前作はあの傑作『タイタニック』であり、彼としてはラブストーリーの二枚目主人公との評価が定着することを嫌ったのであろう、あえて晦渋な文学的作品を選んだものと見える。

主題は、日常と非日常(もしくは現実と幻想、地上と天国)という2つの世界の対比である。タイに旅に来たディカプリオは、弛緩した日常に倦んでいる。そこで彼は夢の楽園の話を聞きつける。それが物語の始まりだ。今の世界とは別の、アナザーワールド。共同体の女主人公の二面性(リーダーとしての姿とメスとしての姿)の描き方といい、豊穣と残酷を持ち合わせた海の描き方といい、すべてが幾何学的なくらいに律儀な対比に基づいている。そういう映像世界の中に、あえて「カップル+主人公」という異質な3人の組み合わせを仕込み、その暗示的な不安定さを軸にして物語は進んでいく。

文学的晦渋それ自体に価値を見出す学生が見る映画としてはいいのかもしれないが、ある程度の大人にとっては主題は退屈、表層のドラマとしても出来が悪い。映像の美しさにも特に見るべきものがない。残念なことに結末は、結局われわれには現実を生きるしかないのだ、という陳腐なメッセージで終わる。レオナルド・ディカプリオにつられてDVDを買ってしまった人たちは、実際見てて面白くないので絶賛するにもいかず、かといって、その一見知的なプロットに、つまらないと言い切っていいものか悩んだことだろう。
(本稿初出2004/05/19、一部改変)


ザ・ビーチ (特別編) [DVD]
  • ダニー・ボイル(監督)
  • レオナルド・ディカプリオ他(出演)
  • DVD発売 2008