2009年9月27日日曜日

「『知』の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用」

1994年、当時もっとも権威あるとされていた哲学系の論文誌「ソーシャル・テクスト」誌に、
境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)
と題する一篇の論文が掲載された。この論文は、難解な理論物理学の用語と、ポストモダン哲学の大御所たちの言説を随所にちりばめた文章からなり、その一見斬新な解釈を、ポストモダン哲学に通暁した査読者(reviewer)たちも編集者(editor)も認め、掲載に至ったのである。投稿したのはアラン・ソーカルという物理学を専門とする大学教授であった。

掲載から程なくして、著者ソーカルは、これが実は偽論文であったことを公表する。物理学の概念の無内容な羅列を、一見哲学的な解釈で包んだだけだというのである。そのような論文がどういう評価を得るかを見ることで、いわば哲学論壇のベンチマークをやってやろうという趣旨である。史上最も痛快なイタズラと言えよう。 これが世に言う「ソーカル事件」である。

本書はその仕掛け人、ソーカルらによる哲学批判の書である。原題は "Fashionable Nonsense"、という皮肉たっぷりのものである。「ポストモダン思想における科学の濫用」という副題の通り、本書は、ラカンやクリステヴァといったポストモダンの大御所たちの言説が、いかに空疎なレトリックに基づいているかを軽快に語る。要するに、ほぼ無内容な内容を、難解な自然科学用語で飾り立てているだけだというのだ。

本書に詳述されているように、残念ながら彼らの批判は、哲学界の住人の多数派には受け入れられるところにはならなかった。ポストモダンの文筆業者からすれば、物理学と哲学の間には埋めがたい方法論上のギャップがあり、物理学側の論理からの批判は意味をなさないというのだ。それは論理というよりは、哲学者ではない者からの哲学への批判は許さない、という感情的反発に過ぎないように見える。

このような不毛な対立は、いかにも無内容なポストモダン哲学のみならず、現代社会のいたるところに顔を出す。典型的なものは、人間味を失った「科学的」な学問に代えて、人間的に視点を入れた・要素還元主義的でない・etc.な議論をすべきだ、というような主張である。たとえば「サービスサイエンス」なる研究分野をめぐる対立がそのひとつである。この新しい研究分野には、数学や統計学を毛嫌いする一派がおり、彼らによれば、サービスサイエンスなるものが、本質的に新しい学問分野であって、従来の自然科学的な定量研究の枠には収まらないというのだ。

対象が自然というよりは人間系である以上、自然科学との違いが出るのはある意味当然である。しかし実際にはあるパラダイムに依拠しながら、自分たちは仮説を立てずにありのままの情報を受け入れるのだ、などと主張するに至っては、見ていて痛々しささえ感じる。実際には、サービス科学と自然科学の方法論的な違いの多くは、学問的成熟段階の違いに過ぎないように見える。

すなわち、サービス科学はいまだプレ・パラダイム領域にいるのに対し、自然科学はいわばポスト・パラダイム領域にある。このことから、前者では仮説構築や解釈が重要になるだろうし、後者では、統計学的な手続きに従った定量的検討が中心になるだろう。このような時間軸に気づかずに、両者を並列に並べてことさら違いを強調することには、ほとんど何の意味もないように思う。要素還元的ではなくてシステム論的観点、とか、不確定的な要素を含む人間系を定式化する、などの視点は、実はたとえば物理学の中ですら議論し尽くされてきたことだ。これらの研究が、いわゆる文科系の学問手法に従属的な形で進展することはまずないに違いない。


★★★★★ 『知』の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用
  • アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン (著),
  • 田崎晴明、大野克嗣, 堀茂樹 (訳)
  • 岩波書店
  • 2000

0 件のコメント:

コメントを投稿