第1章はスイスの半ば公的な団体がロマ(ジプシー)の子供を拉致し強制的に収容施設に隔離していたという話である。驚くべきことに拉致はつい最近、1970年代まで続き、スイス政府はこの団体に時に経費の1/4もの援助を与え、理事には大臣もしくはその経験者がついていたそうである。公式に政府が非を認めたのは1980年代後半からである。南アフリカの悪名高い人種隔離政策(アパルトヘイト)が猛烈な国際的非難の結果撤廃されたのが1994年だから、第2次大戦後の人類の恥部としてはこれと並ぶ横綱級である。
第2-3章ではユダヤ人へのホロコーストへのスイスの加担が説明される。スイス政府は系統的な殺戮こそ行わなかったが、ナチスドイツが大量殺戮を行っていることを承知で(虐殺現場の写真まで手に入れながら)国境を封鎖し、事実上ホロコーストに加担した。
ロマにしてもユダヤ人にしても、スイス政府の対応の底にある考えは同じである、と著者は指摘する。つまり、優れた民族と劣った民族がいるならば、優れた民族の生存権は、劣った民族に優先されなければならない、と。日本でも多かれ少なかれ異種排除の感情は存在するが、これに「優生学」のように学問的粉飾を凝らしたり、それこそ、ホロコーストのように産業として系統的に人種殲滅を図るという発想はちょっと思いつかない。
否、日本でも戦国時代くらいまでなら、お家断絶とか山ごと焼き討ちのようなことも行われたと思うが、「民族」という抽象的カテゴリに依拠して集団を丸ごと抹殺するという発想は難しい。もし日本にそういう発想があれば、李垠王は皇族として扱われることなく単に抹殺されただろうし、朝鮮半島なり台湾なりの人々が同格の日本市民として扱われることなどなかっただろう。
本書5章以降は、スイス社会の息の詰まるような相互監視、異分子排除ぶりが記されていて興味深い。令状を取らない盗聴。スイス国籍を取得する際の差別意識丸出しの住民投票のエピソード。明らかに日本もまた、これらの事実の底にある思想と無縁ではない。しかし少なくともスイスが理想郷ではないことだけは確かである。外国を美化し、返す刀で日本批判に転じる論理は明らかにおかしい。結局大切なのは、ある程度の多様性、開放性を確保することが国全体にとって中長期的にメリットがあるという事実である。差別か反差別か、という立論からはたいてい実りある結論は導かれない。
黒いスイス (新潮新書)
- 福原 直樹 (著)
- 新書: 206ページ
- 出版社: 新潮社 (2004/03)
- ISBN-10: 4106100592
- ISBN-13: 978-4106100598
- 発売日: 2004/03
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