2011年11月10日木曜日

「論文捏造」

2000年からのおよそ2年間、主に有機物超伝導という分野で、米国の名門研究機関ベル研究所に勤める若いドイツ人物理学者が、次々に画期的な成果を発表した。その着想にあらゆる物理学者は舌を巻き、ノーベル賞受賞も時間の問題とされていた。しかし、すべては捏造であった。2003年までに、Science、Nature、Physical Review、Applied Physics Letters、Advanced Materials という一流学術誌は合計28本にものぼる論文の取り下げを発表した。

本書は、その経緯を詳細に取材したNHKのドキュメンタリー番組の書籍版である。取材は徹底的かつ詳細、重要人物はほぼ全部網羅されており、その番組が、国際的な数々の賞に輝いたというのもうなづける。

現代の物理学の研究は、大きく素粒子と物性に分かれており、それぞれの中で理論と実験に分かれている。本書の主人公 ヘンドリック・シェーンは、物性領域の実験物理学者という位置づけになる。実験物理学者の研究の目的は、第一には、いかに新しい現象を発見するかにあるといってよい。それにはストーリーが必要である。絶対零度近傍で電気抵抗がゼロになるというストーリーは、分かりやすさといい現象の華々しさといい、20世紀の物理学を代表するものである。本書の主たる主題として取り上げられるシェーンのストーリーは、有機物と超伝導、それにエレクトロニクス技術の精華であるトランジスタを絡ませた壮大なもので(p.50)、その壮大さにおいて、彼は間違いなく天才であった。悲劇は、シェーンが、実験技術の天才ではなかったという点にあった。

実は私は2000年にシェーンの論文を(捏造と知らずに)読んだことがある。確かフラーレンで高温超伝導を達成したというのがその内容で、当時は銅酸化物特有の電子構造が、高温超伝導の原因であると信じられていたから、非常に新鮮な内容だったと思う。実験家でなかった私には、その論文の結果を疑う理由などなかった。しかし結局、私がその論文を読んで間もなく、何人かの研究者によりシェーンの論文にグラフの使い回しがあることが指摘される。すぐさま2002年5月にベル研に第3者調査委員会が作られ、4ヵ月後、その報告書が出たその日に、シェーンは解雇された。

この経緯を知った私の感想は、コミュニティの自浄作用が有効に働いた、というものである。超一流の超伝導研究者Bertram Batlogg率いる、これまた超一流の研究機関と目されるベル研の研究チームによるまばゆいばかりの成果。それがわずか1年と少々で、研究者の手により覆されたのである。世の中に不正というべき事柄は無数にあるが、通常の論文出版サイクルが数ヶ月を要することを思えば、この迅速な自浄作用は驚嘆に値する。

「夢の終わりに」と題する本書第9章は、捏造をなぜ防げなかったのかという観点からの著者村松氏の考察が記されている。上記の通り、客観的には、このスキャンダルは、学会の自浄作用により解決されたと言わざるを得ないのだが、著者は、「科学の『変容』と科学界の『構造的問題』」という、いかにもジャーナリスト的な問題提起をしたかったように思える。しかし羅列的なその考察の内容は、彼の緻密な取材振りと比べた時、ほとんど物悲しいほどである。ざっと並べると、彼はこのようなことを述べている。
  • NatureやScienceといった超一流ジャーナルでさえ記事の正確さを保証しはしない
  • 学会には間違いを許容する風土がある
  • 専門論文の不正の立証は簡単ではない
  • 専門領域は細分化している
  • 巨大科学の時代では持てる者が有利になる
  • 経済的利潤と結びつくと特許など異質な要素が入り込み、それが秘密主義を誘発する
  • 国家の後押しや、アメリカ的な競争社会が研究者に過剰なプレッシャーを与える
  • 内部告発の系統的な仕組みが不足している
  • 共同研究者の責任が曖昧である

いったいどうしろと言うのだろう?これがこの章を読んだ感想であった。NatureやScienceが真実性を保証しないのは、NHKが報道内容の真実性を保証しないのと同様であろう。裁判で報道機関はよく主張するではないか。「そう信ずべき相当の理由があった」と。他の論点も同様である。間違いを絶対に認めない学会が望ましいのだろうか?  専門分野の細分化を「禁止」すれば、経済活動や国家と無関係に学会が存在すれば、内部告発の仕組みを整えれば、共同研究者の責任を明確にすれば、今回の事件の発覚は早まっただろうか?

図らずも本書は、日本の報道産業のメンタリティの限界を明示しているように思える。研究にはリスクがある。これからやろうとしていることが意味がないかもしれない、今後何ヶ月か何年かの労力が無駄になるかもしれない、という恐怖に耐えて研究者たちは前に進むのである。したがって、注意深い査読を経て出版された論文の中に、そういうリスクの欠片が残っていることはむしろ自然であろう。研究の評価が定まってから、すなわち、時間と共にリスクが洗い流された時点から、居丈高に関係者の非をあげつらうのは卑怯というものである。

リスクがあるという意味では、報道も研究も同じはずであるのに、このような論旨不明瞭な考察しか残されていないという事実に、日本のマスメディアの深い闇が見えると言わざるをを得ない。


論文捏造 (中公新書ラクレ)
  • 村松 秀 (著)
  • 新書: 333ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2006/09)
  • ISBN-10: 4121502264
  • ISBN-13: 978-4121502261
  • 発売日: 2006/09
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.6 cm

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