第1部 "Pioneering the science of Information" はいわば、後段のビジョンを語る上で自分にその資格があると主張するための自己紹介である。入力装置、記憶装置、演算装置に分けてハードウェアの進歩がまとめられ、次いで、ロジック、ネットワーク、アーキテクチャと上位層での進歩の歴史が概観される。周知の通り、バーコード、ハードディスクドライブ、DRAM、RISC、FORTRAN、関係データベース、SQL、SNAなどの今でもおなじみの技術はIBMで開発された。実はコンピュータ時代以前でさえ、IBMのセレクトリックタイプライターはオフィスにおける高級事務機の代表格であったし、言わずと知れたIBM PCは、パーソナルコンピューターという存在を、趣味の道具から仕事の道具に高める上で、決定的な役割を果たした。その他、高温超伝導やDeepBlueなどの先端的な話題も加えると、客観的に見てIBMの歴史がコンピュータの歴史そのものであることがよく分かる。
第2部 "Reinventing the modern corporation" はIBMの企業経営の考え方そのものの紹介と言える。章立ては次の通りだ。
- The Intentional Creation of Culture(企業理念の形成と実践)
- Creating Economic Value from Knowledge(知識を利益に結びつける)
- Becoming Global(国際企業への道)
- How Organizations Engage with Society(企業は社会とどう関わるか)
特に興味深いのが2番目の章である。これを執筆したスティーブ・ハムは、情報を利益に変える仕方が、社会の変化により根本的に変化してきたと述べる(p.171-173)。すなわち、情報を蓄積し共有するための社会基盤が整備されたことにより、知識を利益に変える速度と多様性が圧倒的に上がり、そしてそれは、情報の占有よりも共有によって課題を見出し、速やかにそれを解決するというスタイルの研究開発を必要としていると説く。情報の共有を意味あるものにするためには、個としての戦略と意志が確立していることが必要である。IBMが採用してきた多様な企業戦略は、閉塞状態にある日本社会に何か示唆を与えるかもしれない。
この議論の延長線上に、第3部 ”Making the World Work Better” で未来へ向けたアジェンダが提示される。これは要するにSmarter Planetのビジョンそのものといってよく、本の題名そのものとなっていることからも分かるとおり、本書の中心となる部分である。
第3部の執筆者ジェフリー・M・オブライアンによれば、IBMがこれまでしてきたことは、結局、社会がうまく回るようにするための仕組みを提供してきたということである。彼は言う。
Making the world work better is about untangling and managing complexity. Doing so --- whether to transform industries, markets, societies or nature --- requires serious science. But curiosity and experimentation aren’t enough. Solving systemic problems also requires a particular combination of vaulting ambition and profound humility --- the level of ambition to tackle seemingly unsolvable problems and enough humility to recognize that no single entity can make the world work better and no single entity can control a complex system. What we’re really talking about here is progress, which by definition is communal. (原著p.250)
世界がうまく回るようにするということは、複雑さを解きほぐして手に負える状態にしておくということである。産業や市場、社会、あるいは自然 ── 対象が何であれ、それを行うためには本格的な科学的知識が必要である。思い付きをとりあえず試してみるというやり方では不十分であり、系全体の問題を相手にするためには、身の程知らずの勇気と、心からの謙虚さの双方を微妙なバランスで両立させなければならない。すなわち、一見解けそうにない問題に一歩を踏み出す勇気と、ひとつの存在がこの複雑な世界を変革し制御するなどということがありえないということを知る謙虚さである。我々が今語ろうとしているのは、社会全体の進化ということである。(筆者訳)
これは的確な指摘と言ってよい。本質的には我々は、いわゆるIT革命の次に来るべき社会変革について論じているのだ。そのために何が必要か。オブライアンは、その象徴として、マイク・メイという人物のエピソードを使っている。メイは、3歳の時に事故で失明した。その後43年もの間、彼は暗闇の中で過ごしたのだが、医学の進歩により46歳にして光を取り戻した。しかしそれは必ずしも単純なハッピーエンドの物語ではない。今メイは、目から入る情報の奔流と格闘している。それは我々が今おかれた状況と似ているとオブライアンは考える。情報技術の進歩とセンシング技術の進歩が、いまやありとあらゆるデータの観測と蓄積を可能にした。この情報の奔流を使いこなすことで、何かより無駄がなく、より安全で暮らしやすい社会が実現できると期待できる。こう考えた時、我々に必要なのは、データを解析する能力そのものである。
オブライアンは、そこに至るプロセスを、Seeing-Mapping-Understanding-Believing-Actingという5段階で整理している。現象を観測し、それを記述し、それに基づいて何かいくつかの仮説を考え、その中から確からしいものを選び出し、そして行動する、ということである。あえて訳せば、観測、記述、理解、受容、行動、とでもなろうか(邦訳ではそれぞれ、観察、マッピング、理解、信じること、行動)。興味深いことに、同様の議論は、最近、数理解析技術の専門家の側からも行われている。たとえば、IBM研究部門の数理科学部門のリーダーBrenda Dietrichらの論文では、同様な段階論が、descriptive-predictive-prescriptiveという言葉で述べられている*。これは、過去の現象を記述する段階、未来を予測するモデルを立てる段階、そして未来に対する行動を最適化する段階、の順に、情報の解析技術は発展してゆく、という主張である。
*"An IBM view of the structured data analytics landscape: descriptive, predictive and prescriptive analytics," Irv Lustig, Brenda Dietrich, Christer Johnson and Christopher Dziekan, Analytics, Nov/Dec 2010, pp.11-18.
追記。蛇足であるが、本書邦訳について多少コメントしておきたい。奥付から察するに、本書は、英語版が作られた後に、業者に翻訳させ、それを会社関係者がチェックする形で作られたのではないかと思う。翻訳の質は悪くない。多くの場合意味は通じる。ただ、内容の専門性の高さがゆえ、なかなか難しい箇所も散見される。たとえば目次において、IntentionalをInternationalと誤読しているのはちょっとまずい。また、第3部のSeeing-Mapping-Understanding-Believing-Actingのリズミカルな調子が、訳語では失われているのも残念だ。数学用語が意味不明になっている箇所も散見される。たとえば、「二次方程式の平方根(p.73)」とか、「長い、平らなテール(p.139) 」とか、「人間の定理(p.149) 」などである。読み手に幅広く深い知識を要求する本だからして、それこそ Collective Intelligence(p.186)により、改訂版を出すなどしても面白いと思う。
世界をより良いものへと変えていく ~世紀とその企業を作り上げた大志~
- スティーブ・ハム (著), ケビン・メイニー (著), ジェフリー・M・オブライアン (著)
- 単行本(ソフトカバー): 350ページ
- 出版社: ピアソン桐原 (2011/10/20)
- 言語 日本語
- ISBN-10: 4864010684
- ISBN-13: 978-4864010689
- 発売日: 2011/10/20
- 商品の寸法: 23.2 x 16.8 x 2.4 cm
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