2026年7月5日日曜日

日本の住宅のエネルギー効率は先進国最低である

100万人あたりの熱中症死亡率
現在NY地区は記録的な熱波が発生しており、華氏100度近い温度が数日続いています。電力供給が若干不安定になりつつあり、これを機に、日米での一般家庭のエネルギー消費と住宅事情について調べてみました。

日米住宅断熱事情

私がかつて住んでいた東京近郊の家は3つとも、夏は暑く冬は寒く、寒いばかりか窓には結露がひどく、灯油ストーブで暖房すると、天井付近と床で顕著な温度差が感じられ、北海道の高断熱住宅で育った私には、正直とても不愉快でした。結露も温度差も、断熱性能に劣る家の典型的症状です。

夏は夏で、冷房の風が来るところでないと暑いが、かといって冷房の風に当たって寝ると体調を崩す、という調子でどうにも対処のしようがなく、結果、夏は毎年夏バテをしていました。これも、冷房を消した瞬間に室温が上がるという、断熱性能の低さからくる問題だったのだと思っています。

NYの気候は北海道に似ていて、本州で言えば軽井沢とかその程度です。東京近郊の標準的な家がもしあれば、特に冬は悲惨な居住環境だったでしょうが、今の家は相対的にとても快適です。冬はベースボードヒーターと呼ばれる温水暖房が各部屋に完備され、私の家の場合2ゾーンで温度管理できます。窓は二重ガラスの断熱窓が標準で、結露は全然ありません。夏は全館冷房で、ダクトからマイルドな冷風が流れてきます。

ガス・電気代は冬は500ドルくらい、その他の季節は200から400ドルくらいです。日本に住んでいたころはガス・電気料金はおそらく合計2万円くらいだったと思うので、高いと言えば高いのですが、日本の家にありがちなとてつもなく寒い風呂場とか、灼熱の西部屋、みたいなことは全然なく、その快適さは段違いです。アメリカ駐在員のブログあたりには「食事もサービスも全然なってない!日本最高!」などと書かれがちですが、こと住宅環境に関しては、広さとか狭さとかそれ以前に、米国の一般住居の建築基準と、日本の建築品質の多大な格差を体感した次第です。

日本の最新の建築基準の実体

私が体感した格差は実は建築基準を少し調べると明確な事実として明らかになります。2000年代以降、省エネ・エコが全世界的潮流になった後ですら、日本政府は住宅断熱について有効な施策をとっておらず、結果として、欧米先進国に比べて最低の住宅性能に甘んじる国になってしまったのでした。2025年の基準ですら、窓の断熱性能において、中国、韓国、その他欧米先進国に比べて最低の水準であり、たとえばドイツの基準を使えば、北海道以外の場所で建てられている家の多くは基準を満たさぬ違法建築です。少し古いですが、2014年に日本経済新聞に掲載された松尾和也氏の記事 [1] が全体像を把握するのに参考になるでしょう。

[1] 松尾和也, 低い断熱性なぜ放置、世界に遅れる「窓」後進国ニッポン, 日本経済新聞, 2014年11月7日 [link]

もう少し定量的に話をしましょう。住宅の断熱性能は、物理学的には熱伝達率で表現できます。単位は W/m2 K です。住宅エネルギー収支の分野では、熱伝達率、すなわち、単位面積・単位温度差あたりに移動する熱を U値あるいは日本語で熱貫流率 と呼びます。これは住宅の冷暖房におけるエネルギー損失を表現するために国際的に使われる指標です。住宅での熱の流出(冬季)の6割、流入(夏季)の7割は窓から起こりますので [1]、窓のU値が特に重要です。窓を通して出入りする熱は

(1秒当たりに窓から出入りする熱) Q = U × (内外の温度差) × (窓の面積)

と表されます。したがってUが大きいほど素通し度が高く、無駄が大きい、ということになります。どういう事情か知りませんが、日本では、北海道以外の地域ではほとんどの窓がアルミサッシです。問題は、アルミニウムは熱伝導性が木や樹脂素材に比べて1000倍くらい高いため、U値を低くすることが物理学的に不可能だということです。一級建築士の吉田武志氏の記事によれば、先進国の大半が樹脂製ないし木をベースとした素材に移行する中、日本は9割以上がアルミサッシで、これは世界中の国の中で圧倒的な特異点となっています。

2025年の日本の基準では、窓のU値として事実上 4.65 W/(m2 K) が挙げられています [2]。ドイツのU=1.3、米国の U < 2 と比べた時、日本の基準の周回遅れぶりが際立ちます。ドイツではU > 4 の窓は販売すらできません。既存住宅の大半はアルミサッシの単板ガラスで、このU値は6.5くらいだそうです。ドイツの標準的な窓の5倍もの損失があるということです。私が日本にいた時に結露に悩まされたのもうなづけます。上記日経の記事 [1] では、「日本に5700万戸あるといわれる住宅の8割以上は、U値が6.5W/m2・Kというレベルでしかない」と明確に述べています。日本の住宅の大半は、欧米先進国では断熱性能において違法アングラ建築の水準なのです。一時期はテクノロジーで世界経済の覇者となったはずの日本の、極めて恥ずかしい現実がここにあります。

さらに救いがたいことは、この恥ずべき現実を意図的に隠蔽している痕跡すらあることです。日本の2025年の基準では、家全体の、すなわち、窓も屋根も壁もひっくるめた平均熱貫流率(UA値)の0.87 という値のみを指定しています。窓のU値についての単純明快で強制力のある基準は存在しません。上記、窓のU=4.65というのはUA値計算のための既定値として出てくるのですが [2]、これは現行のアルミサッシを温存した時にも達成可能な値です。厳しいドイツの窓の熱貫流率の基準 U=1.3 より一見小さいUA=0.87 という数字を出すことで、日本はエネルギー効率の優等生という虚構を維持したかったのかもしれませんが、窓より壁の断熱性能が高いのは当たり前ですから、上記の通り、熱損失の6-7割が窓から起こることを考えれば、窓、壁、屋根、すべてひっくるめて面積当たりの値を出すという操作は、科学的にも統計学的にも全く意味をなしません。公務員試験を通過した国土交通省住宅局の職員がこれを理解する程度の知能がないとは思えませんから、意図的に日本で主流のアルミサッシの断熱性能の悪さを隠し、関連メーカーの利潤確保を支援する意図があったと疑われても仕方ありません。普通に考えると、国交省関連議員および国交省住宅局幹部と、アルミサッシのメーカーとの間に、何らかの癒着が疑われます。

[2] 平間昭光, "建築物の開口部(窓)に求められる断熱性能(基準の解説)," ウッディエイジ, 01/2024 [link].

劣悪な住宅で死んでゆく日本人

いやいや、『徒然草』の、「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」、の言葉の通り、高断熱気密住宅は日本の文化にそぐわない、風通しの良い家で暑さ寒さををやり過ごすすべを知っている日本文化をむしろ誇るべきだ、という意見もあるでしょう。しかしデータは残酷です。主に劣悪な住居環境に由来すると思われる heat stroke(熱中症) による人口100万人当たりの死者数は、世界のあらゆる国の中で突出して悪い、という動かしがたい事実が The Lancet という権威ある医学学術誌で報告されています [3]。冒頭の棒グラフは同論文から持ってきたものです。

[3] Tobias A, Honda Y, Madaniyazi L et al. "Variation in reporting of heatstroke mortality: evidence from a multi-country study," The Lancet Public Health, 11, e156-e163, 2026.

日本においてはエアコンの世帯普及率は9割を超えます。なのに熱中症で世界で最も人が死ぬ。昼間にエアコンで暑さをしのいでも、消すと瞬く間に冷気が逃げる劣悪な住宅が日本人を苦しめています。真夏でも夜間では気温は下がります。その冷気を保持できない劣悪な断熱性能が人を殺しています。日本の住居環境は、省エネの国際的潮流の中で国際社会の足を引っ張っているばかりか、自国民の健康を危険にさらしていると言えます。

日本のエネルギー効率についての神話

日本のマスメディアでは、「日本はエネルギー効率優等生、すでに効率が究極まで上げられているので、他国並みに温室効果ガスの削減をコミットするのは不公平だ」、などとの意見が頻繁に流布されます。実際、家庭部門でのエネルギー消費を世帯数で割った世帯あたりのエネルギー消費量では、米国はおよそ3倍です。しかしこれは日本の住宅が3倍高効率であることを意味しません。むしろ逆です。少し考えてみるだけで、劣悪な住宅環境が日本製冷暖房機器の優秀な効率を打ち消して余りあるという実態がわかります。

アメリカでは、家が大きくかつセントラル冷暖房が一般的なため、冒頭に述べた快適さと引き換えに、1世帯当たり、日本に比べてざっくり5倍くらいの空間・時間の空調を行う必要があります。さらに、アメリカでは寒冷地に人口が多いため、冬季の暖房の需要が平均的にいって日本の2倍くらいです。これらはもしも同一機器で同じような使い方をしていれば、日米の住宅のエネルギー消費は1対10くらいになるはず、ということです。日本の空調機器のエネルギー性能は優秀で、これを大雑把に2倍のエネルギー効率とすれば、本来あるべき日米の住宅でのエネルギー消費量の比は、1対20くらいに開きます。

ではなぜデータ上は、日米1対20じゃなくて、たったの1対3にしかならないのか。差の17はどこに行ったのか。主たる要因の一つは断熱性能が劣悪な住宅によるエネルギーの損失で、残りは、快適性を犠牲にした運用、すなわち、日本人お得意の我慢で何とかしているということです。その結果、圧倒的に人が死んでいると。

変わらない日本: システムの失敗を個人で糊塗する悲劇

まとめましょう。日本の家庭部門がエネルギー優等生というのは虚構です。1世帯当たり日本が米国の1/3のエネルギーしか使わないのは、単に、国民の大多数が温暖な地域に住んでいるため暖房の必要が少なく、かつ、家が狭くて局所的な冷暖房しかしないからです。寒い部屋、暑い部屋が家の中にあっても、それを根性で我慢しているというだけです。根性だけなら美徳ですが、問題は、世界最高レベルの効率を持つ冷暖房機器のエネルギーを、劣悪な断熱性能を持つ家が浪費していることです。これは世界的な省エネルギーの潮流への反逆だとすらいえます。

客観的なデータは、日本の住宅の断熱性能が先進国最低であることを疑問の余地なく示しています。数パーセントどうこうという話ではなくて、もう何倍というオーダーで、絶望的に悪い。にもかかわらず、日本では、2026年の今に至るまで、住宅のエネルギー損失の最大要因である窓についての基準すらありません。これほど省エネが叫ばれている中で、漫然とこれを放置している日本政府、特に1999年以降の歴代の国交省大臣と、国土交通省住宅局幹部は、Lancet論文が示す通り毎年数千名の国民の命を不必要に奪っているという点において、文字通り犯罪的であると言わざるを得ないでしょう。「国民の住生活および建築物の質の向上、安全で快適な生活環境の確保を担います」などと書く彼らの一人一人に、自分たちの仕事に本当に誇りが持てるのか一度聞いてみたいです。

今起こっていることは、国家レベルの政策の失敗を、個人の根性で糊塗しているということです。東京の夏のオフィスの暑さは異常です。政策レベルの失敗を、個々人の我慢で埋め合わせるという構造は、戦略の失敗を末端の兵士の根性で埋め合わせていた先の戦争の時の状況とそっくりです。悲しいことに、日本人はそれから何も学んでいないということです。

2026年3月4日水曜日

ANOVAと統計学者の憂鬱

 


少し前から半導体製造における機械学習の応用について考えています。半導体製造では、品質のばらつきを極限まで抑えることが大切です。ある指標においてブレが観測された場合、それがどこに起因するか。それを調べる問題を英語で attribution といいます。意訳すると、「責任度計算問題」とでもなるでしょうか。

先進的な半導体装置の中にはそういう解析機能を組み込んだものがあります。ある企業の装置のその手の機能を調べていたのですが、どうやら裏で動いているのがANOVA (analysis of variance)という統計学の手法らしい。ANOVAについては昔から知っていましたが、実応用ではそもそもF分布に基づく漸近的な近似が成り立つことはまずないし、だとするとANOVAには偏差-分散分解程度の意味しかなく、特にそれ以上の使い道がないのでまともに考えたことがありませんでした。

今回、その装置のANOVA解析の出力を正確に理解する必要があり、いろいろ調べていたのですが、改めて統計学という学問の病理を知り、切ない気持ちになりました。統計的機械学習の観点では、ANOVAは制約付きの混合ガウスモデルのあてはめに帰着することができます。そのように理論を見直すと、古典的ANOVAの、実務者から見た時の危険性がよくわかります。いろいろ問題はあるのですが、一番大きいのは次の2つでしょうか。

  • ガウス分布の前提では、ばらつきの起源は、カテゴリごとの平均の違いと、分散の違いという2つがあり得るが、ANOVAでは、暗黙のうちに、分散の違いを無視して、平均の違いだけに着目している。
  • たとえば 2-way ANOVAにおける2乗和分解公式は、二つのカテゴリカル変数の統計的独立性を暗に仮定している。

仮定を設けた上で理論を構築するのはまったく普通のことですが、頻度派の論法の問題は、実世界のデータ解析をする人の痛みとは全く無関係に天下り的に統計量を持ち出し、上記のような理論的な仮定に明示的に言及することなく、あたかもそれが普遍的な解析手段であるかのように見せかけることです。そういう病理は、ANOVAまで行かずとも、たとえば、以前『二つの分散:不偏推定量と最尤推定量のどちらを使うべきか』というエッセイにも書いた通り、平均値という単純素朴な概念にすら現れます。

以前より薄々感じていた頻度派統計学への疑念は、数年前に、統計学の大御所 Bradley Efron とTrevor Hastie の大著 "Computer Age Statistical Inference" を諸事情により翻訳して出版した時に、私の心の中で確定してしまいました。これはひどい本でした。監訳者まえがきに、次のように書きました。

機械学習の研究者の多くにとって、統計学者との付き合いは、その研究内容の著しい近接性にもかかわらず、時に緊張を強いるものである。少なくとも私にとってはそうであった。機械学習的方法論に統計学者たちがしばしば寄せる冷淡な態度や、主流派とおぼしき統計学者のベイズ理論への非妥協的な仕方での非難は、私にとって大きな謎の1つであった。

本書は、私のような疑問を持っていた機械学習の研究者にとって、極めて興味深い読み物になるだろう。21世紀の爆発的な機械学習の発展を前に、統計学者たちが何を得、そして何を失ったと考えているのか。なぜ彼らは、機械学習研究者から見て、気まぐれで無慈悲な王女様のように見えるのか。これらの答えの一端は、冒頭から3章くらいまでと、「むすび」にざっと目を通すだけで、何となく見えてくるであろう。

本書は、現代の統計学界の最高の巨人の一人であるエフロン教授の、言外のニュアンスをたっぷり含んだ気ままなエッセイという性質を持つがゆえ、翻訳プロジェクトは多大な困難を伴うものであった。計画は遅延を重ね、いくつかの章は監訳者自身が訳し直す羽目になり、いくつかの章では一部の訳者が監訳者としてほぼ再翻訳にも等しい作業を行わざるを得なかった。最低限の製品品質は達成できていると信じるが、正直、最後には力尽きた。読者からの批判を待ちたい。

統計学では、過去、ほとんど1世紀に渡り、頻度派とベイズ派の勢力争いが続いてきました。私のような部外者からすれば、論理的な決着はついていて、もはや論点すら存在しないように見えますが、業界内では宗派論争の色彩を帯びているようです。以前、アメリカの有名な頻度派の教授の研究室出身の若い統計学者と雑談していて、彼が、ガウス過程はベイズじゃない、すべて頻度派理論で議論できる、などと強弁するのを聞いたとき、この対立はもうちょっとやそっとでは解消できないな、と思ったものでした。

ANOVAは、頻度派の思考過程の病理を示すとてもよい題材になってしまっています。

最近、物理学者や化学者が機械学習の手法を使って面白い発見を次々に報告しています。そこで使われるのは圧倒的に広義のベイズ派に属する機械学習の手法です。それもそのはず、ベイズ統計学の生成モデリング (generative modeling) という見方は、物理学者が世界を見る見方ととても相性が良いからです。天下りの統計量をありがたがるのは、実社会と乖離した狭い研究コミュニティの中だけ、というのは言い過ぎでしょうか。

理論的整合性の観点でも、実世界モデリングのための利便性という観点でも、歴史的評価という意味でもほぼ決着はついているようにも見えてしまうのですが、苦しい自己防衛を続ける頻度派統計学者の皆さんは、これからどこに行くのでしょうか。


2025年4月21日月曜日

次のAI冬の時代は

2022年に登場したChatGPTに始まる生成AIは、インターネットの登場と同じくらいの深遠な影響を知識人の生活にもたらしました。ChatGPTの最大の発見は、言語を自己教示(self-supervised)型学習という方法で学習させると、モデル表現能力がある一定能力を超えた時点で、「創発(emergence)」という現象が生ずる、という事実です。自己教示型学習というのは、この場合で言えば、テキストの一部の語を隠して、その語が何かを当てる、というタイプの自問自答を繰り返すことです。創発、というのは、AIが人間のようにある意味行間を読む能力を獲得することです。その結果、ChatGPTとの対話は、まるで人間と話しているように感じられます。

テキストに加えて画像や音声においても、一般人が驚くような機能が次々に盛り込まれ、このような爆発的な技術進化がどこまで続くのだろうと思っている人も多いと思います。本記事執筆時点(2025年4月)において、業界的なキーワードは、「AIエージェント」です。エージェントの最も素朴な例は、調査エージェントでしょうか。生成AIに、何かの注文を出すと、勝手に調べてレポートを書いてくれる、というやつです。コンサートチケットを買ったり、旅行の予約をしたり、などのシナリオが今考えられています。通常のコンピュータによる業務自動化と何が違うのかというと、いちいち詳細まで指示を出さなくても、適当によきに計らってくれるというのがポイントです。

生成AIが近未来に進む方向を占うための重要な文献がGoogle DeepMindのウェブサイトで、2025年4月10日に公開されました。


"Welcome to the Era of Experience" と題された論文において、著者らは、現代の生成AIを "human-centric" な方法の到達点を表すものだと考えます。この human-centric というのは誉め言葉ではなく、人間が直接生成したテキストや画像などのデータに基づいているという意味です。生成AIが human-derived なデータにのみ依拠している、という認識は重要です。多くの非専門家は、この点の認識が甘いため、今の生成AIのユースケースがどこまでも適用可能だと思ってしまいがちですが、それは危険です。上記の自己教示学習が動く最大の理由は、人間の知性で生の信号を処理することで得られる劇的な簡単化だと思われるからです。我々の行動はコンテキストに強く縛られており、そこからはみ出ることはまれです。生成AIが人間のように見えるのは、我々の行動の多様性の乏しさがゆえです。言い換えると、アルファベットのあらゆる組み合わせで表現できる数学的な情報量のうちほんのちっぽけな部分しか人間は使っていないということです。高々100個程度の元素で表現される材料科学の世界のデータには人間の意図が直接関与しているわけではありませんが、数百年の人間の努力の結果、現象を支配する「言語」が把握されている珍しい例になっています。

  • 人間の知的活動から派生するデータ("human-drived")
    • テキスト
    • 音声
    • 画像(撮影は人間の意図が反映されている)
    • 化学式
    • など
  • データ生成に人間の意図が関与していないデータ
    • 自然現象のセンサーデータ
    • 株価(あまりにも多数の人間が関与しているため、個々人の意図は事実上かき消されている)
    • 人体からのセンサーデータ
    • など


人間の知的活動に派生するデータには限りがあり、早晩使い果たされるため、human-centric な方法論を乗り越える次世代のパラダイムが必要だ、というのが論文の主旨です。では次に何が来るのか。著者らが想定しているのが、ネイティブに強化学習を組み込んだ複数のAIエージェントが自律的に学習と協業を行う世界です。

この「協業」の部分については論文では願望以上のものは書かれていませんので、どのようにAIエージェントが強化学習を行うかの方が重要です。論文によれば、次世代のAIエージェントは、テキスト情報のみならず物理センサー情報等も活用して自律的にデータを集め、報酬(reward)と呼ばれる情報を頼りに自らを鍛えてゆくようなものです。


人間の作った情報に直接依拠しないという点において、これは大きな進歩になりえます。しかしここで問題なのは、だれが報酬を決めるのか、という問題です。少し長いですが重要な点なので、論文から引用しましょう。

To discover new ideas that go far beyond existing human knowledge, it is instead necessary to use grounded rewards: signals that arise from the environment itself. For example, a health assistant could ground the user’s health goals into a reward based on a combination of signals such as their resting heart rate, sleep duration, and activity levels, while an educational assistant could use exam results to provide a grounded reward for language learning. Similarly, a science agent with a goal to reduce global warming might use a reward based on empirical observations of carbon dioxide levels, while a goal to discover a stronger material might be grounded in a combination of measurements from a materials simulator, such as tensile strength or Young’s modulus.

人間の知識の枠を超えるには、環境に本質的に由来する情報としての報酬を使う必要がある。例えば、健康維持エージェントは、安静時心拍数、睡眠時間、活動レベルなどの複数の指標を組み合わせた報酬に、ユーザーの健康目標を結びつけることができよう。また、教育エージェントは試験結果を用いて、言語学習のための基盤となる報酬を提供することもできよう。同様に、地球温暖化を抑制することを目的とする科学エージェントなら、二酸化炭素レベルの実測値に基づく報酬を使えるかもしれないし、より強い材料を発見するという目的の場合は、材料シミュレーターから得られる引張強度やヤング率などの複数の測定値に基づく報酬を活用することが考えられる。


ここでは、測定可能な量と、目指す目的を表現する数値指標の間の関数形が(すなわち報酬関数の形が)、自明に知られていることが前提になっています。確かに簡単な応用ではそういうこともあるかもしれません。しかし私の知る限り、大多数の実応用では、評価指標と観測量の間の関係はよくわからないのが普通です。 たとえば、半導体装置の劣化検知を考えると、測定されているセンサーデータは何10個もありますが、どうなったら製品品質に問題をもたらす程度に劣化するのか、というのは、簡単なルールで書けるほど単純ではありません。劣化シナリオには未知のもの既知のもの含めて多数あり、なおかつ、使用する製造レシピ、その装置の前の工程での状況など、「情報としては存在するかもしれないが、そこまで考えると収拾がつかなくなるデータ」が無数にあるからです。

リアリティの欠如から考えて、Silver & Suttonはおそらく、実世界のビジネスデータの解析にかかわった経験が乏しいのかもしれません。報酬関数を設計するためには、まず、結果に関与する変数が列挙されていなければなりません。これ自体、AIではフレーム問題といわれ難問と考えられています。問題の枠組みを決める問題、ということです。仮に運よくフレームすなわち変数セットが決まったとしても、たとえば異常判定ルール(すなわち、負の報酬を与える関数形)を求める問題は自明ではありません。

この点すらも、実データ解析経験がないと理解しにくいところでしょう。普通の人が想像しがちなものは「体温が37度以上なら異常」みたいな素朴単変数ルールですが、そういう自明なものは最初から問題にはなりません。実応用上で解かなければならないのは、「平熱だしのども赤くないし下痢しているわけでもないが、どうも体調が悪い」みたいなタイプの問題だからです。考える要因が2個や3個ならいいとして、10個や20個になると考えねばならない状況が指数関数的に増え、なおかつ、手持ちのデータでその組み合わせが全部網羅されていない、みたいな状況が起こり、異常判定ルールの獲得は大変高度な問題になりえます。


この点から考えるに、 これから爆発的に流行するであろうAIエージェントの行き着く先が何となく見えてきます。論文では報酬関数は柔軟に決めてよい、データに基づいて学習されるニューラルネットワークでもよい、などと言っていますが、結局、そこに人間から見た何かの価値判断が必要なことには変わりありません。

逆に言えば、人間の価値判断なしにAIエージェントを野放しにしてよいわけはありません。上に二酸化炭素の例がありますが、AIエージェントの暴走の結果、二酸化炭素濃度が極端に下がり、植物の光合成ができなくなり枯死に至ったらどうでしょう。

経験の時代、という見方は技術進化の方向としては正しいのですが、報酬関数の設計という中核的要素において、フレーム問題と知識獲得のボトルネックという問題から逃れられないことは明らかなように見えます。だとしたら、おそらく今後数年続くであろうAIエージェントの大流行と、それに対する反作用としての幻滅期の到来は不可避なように思います。

おそらくそれが、次のAIの冬の時代の始まりとなるでしょう。

2024年8月17日土曜日

電気自動車はハイブリッド車より魅力的か

 パンデミックの際に生じた物資供給網の問題から、自動車の価格はパンデミック前の4割から5割高い状況が続いていました。2024年になり、価格上昇が半分程度に圧縮されたこともあり、いろんな車の仕様を調べていました。

当然電気自動車も検討対象に挙がりました。テスラのウェブサイトに行くとアメリカで人気のあるコンパクトSUVの Model Y が、34,000ドルなどと書いており、一時期はこの2倍くらいだった記憶もあるので、お、と一瞬思ったのですが、これは連邦および州からの税金控除による 8,000 ドルと、不要になるであろうガソリン代 6,000ドルを含んだ額で、実は支払額自体は 48,000ドル。高級車であることには変わりありません。

このガソリン代の差額 6,000ドルがどうも大きすぎる気がしたので、どういう計算なのかと調べてみると、結構意外なことが分かりました。結論から言えば、アメリカの主要都市圏(ニューヨーク、ボストン、ロサンゼルス、サンフランシスコなど)では、燃費面から見た電気自動車の経済的利得はほぼないということです。これまで燃費は電気自動車が圧倒的に有利、という宣伝が当たり前のようになされてきましたが、事実と違うということです。あとは、充電にまつわる不利益・高い車両価格と、排気ガスを出さないという利益をどう比較するかという話になるかと思いますが、私の結論は、上記都市部に住む人の最適解はハイブリッド車である、というものです。



話を戻して、テスラの計算根拠を見てみましょう。この矛盾が起こる原因は、ガソリン代と電気代(上のスクリーンショット参照)が実勢値を反映していないということです。テスラのウェブサイトでは、NY州の節税額を計算に入れながら、NY州ではなく全米平均の電気代を使うというおかしなことをしています。主要都市部での電気代とガソリン代は米国労働省のページから参照できます。それによるとニューヨークは204年7月の平均で 0.288ドル/kWh です(全米平均は 0.178)。電気代には supply charge と delivery charge、それに system charge という3つがあり、私の住んでいるところでは delivery chargeがとても高く、合計で 0.31ドルくらいでした。つまりテスラは、私の地域での実勢値の半分くらいの値を使っているということです。NY市内の充電ステーションを使った場合さらに高く、0.5ドル/kWhくらいになるようです。

一方、ガソリン代ですが、これは近所では 1ガロン当たり3.5ドルくらい。テスラの見積もりは高すぎ、つまり、電気代は極端に安く、ガソリン代は妙に高く、電気自動車に大変有利な計算をしていることが分かります。そもそも、電気自動車と比べるべきは、内燃機関車の中での最善の選択肢であるハイブリッド車でしょう。


では、これらの数値(電気代 0.3 ドル/kWHh、ガソリン代 3.5 ドル/ガロン)を入れて、年間10,000マイル走る前提で年間のコストを計算したらどうなるでしょうか。

米国環境省が、fueleconomy.gov という燃費比較の便利なサイトを公開しています。もちろん車種によって燃費も違うので、ここではテスラモデルY、RAV4 ハイブリッド、カローラハイブリッドの3つを比べてみます。結果は下記のとおりです(直リンク)。


枠で囲まれた数字はいわゆるMPG (miles per gallon)で、アメリカにおける燃費の指標です。電気自動車の場合は MPGe と言って、ガソリンに換算した値が出ていますが、これはエネルギーの観点での等価値で、コストは無関係。したがって電気自動車に関してはほぼ無意味な値です。

そこで年間の燃料代(annual fuel cost)というところを見ると、テスラは 850ドル、Rav4 は900ドル、カローラは700ドルです。すなわち、NY地区では、テスラの燃料代は RAV4 と大差なく、むしろカローラに負けています。充電にまつわるストレス(range anxiety などとアメリカでは呼ばれます)や時間コスト、さらに車両価格の安さを考えれば、ハイブリッド車が最善の選択肢であると言えるでしょう。

電気代が 0.25ドル/kWhまで下がると、テスラとカローラは同額の 700ドル、Rav4は 900ドルです。2024年7月の全米平均の0.178ドル /kWhまで下がると、それぞれ、500、900、700ドルです。5年で考えるとテスラはRav4 hybrid に比べて2,000ドルの利得になりますが、車両価格の違いはこれよりはるかに大きく、元を取ることは困難です。


ガソリン代が上がったらどうするんだ、という疑問に答えるため、最後に、過去40年くらいの、アメリカにおけるガソリン価格と電気代の変遷を見てみましょう。まずガソリン価格の変遷。市場価格をかなり敏感に反映していることが分かります。上がるかもしれないし、下がるかもしれない。



次に電気代ですが、残念ながら下方硬直性が見られ、値下がりは期待できそうにないです。再生可能エネルギーの導入が進んでいるはずが、コスト面ではあまり効果は出てないということです。いろいろ示唆的です。



電気自動車の、自分の周りに有毒ガスをまき散らさないという利点は非常にすばらしいのですが、アメリカでは半分程度の電力は天然ガスで作られますので、二酸化炭素削減への貢献は、実は言うほどでもないということは知っておいてよいでしょう。リチウムなど希少金属への依存性と採掘に伴う環境負担も懸念材料です。免税措置により政府に負担をかけているのも社会的公平性の観点で問題ありそうです。

化石燃料による発電を原子力で置き換えられたしても、電池の充電に多大な時間がかかるという不便さはどうしようもなく、電気自動車が多数派庶民の選択肢になるのは、車両価格が今の半分くらいになった時だと思います。つまり、不便だけど安い移動手段。この観点で中国製電気自動車には要注目ですが、昨今の米中関係からするに、当面アメリカでは大きな展開は期待できそうにありません。

2024年3月17日日曜日

AI研究と社会: 過去10年の振り返り

 今から20年前と10年前に、機械学習の研究コミュニティの様相についてコメントをしたことがあります。それをふとしたはずみで思い出し、ある意味定点観測として、AI研究についての2024年時点での雑感を述べます。


2023年6月24日土曜日

潜水艇タイタン号の破壊事故について

Independent紙の記事によれば、タイタニック探索観光の潜水艇沈没事故、カーボンファイバーの疲労破壊が起因になった可能性が高そうです。異常発生を検知すべく、船体からのデータは潜水中は常時監視されていたようですが、残念ながらそれは役に立ちませんでした。一応異常検知の専門家として思うに、この “real-time hull health monitoring system” に、AIなりビッグデータへの過信が寄与しているとすれば、由々しき事態かと思います。

私はカーボンファイバーという素材に知識がないので間違っているかもしれませんが、一般的には疲労破壊は、微細な亀裂が急速に進展することで起こります。亀裂は原子レベルの結晶構造の不整合に起因したりしますので、その存在自体は不可避で、かつ、無数の亀裂のどこが成長するのかは確率的な現象なので、予測は非常に難しいです。できるとしたら、原子レベルからミクロン単位の動的な現象をとらえる計測装置が必要かと思います。たぶんそういうものはない。

以前、こういうことを書きました。

しかし、実際には、データ取得に関する人間の偏見ないし限界という問題が常に付きまとい、長い研究の歴史の結果として「何をデータとして集めるか」という点に合意が確立している分野(画像認識、音声認識、自然言語処理)以外では、特徴量工学を不要にした、という深層学習支持者たちの主張が、どれだけ工学的・実用的に妥当なのかを結論を出すべく、今でも研究の努力が続けられています。これは当然でしょう。普通のカメラで飛行機の写真を撮っても、金属疲労による微細な亀裂は見つかりません。飛行機の破壊を予知するのが目的であれば、相応の計測装置が必要になります。ビッグデータは物理学の壁を超えることはできないのです。特徴量工学を不要にしたとしても、データをどう取得するかについての問い(しいて言えば観測工学)を避けて通ることは絶対にできません。

タイタン号に付けられていたセンサーは、おそらく、ひずみとか圧力とか温度とかそういうマクロ的なセンサーなんだと思います。そういうもので原子レベルの、しかもミリ秒単位で急速に進展する現象をとらえることは原理的にできないと思います。この困難に直接的に対処する手段は、産業応用のレベルでは現代の科学技術をもってしても大変乏しく、たとえば航空機の設計においては、疲労破壊を招かないよう設計上のあらゆる工夫をするのは当然として(窓を丸くするなど)、安全率を大きめにとりつつ、保守において部品を定期的に交換することで何とか対応する、ということになっていると思います。

最近、大規模言語モデルの成功から、AIで何でもできるという楽観が再び世間を席巻しているようです。しかし人間の思考の結果として高度にフィルターされた言語というデータと、物理学的現象からのデータは質が違います。疲労破壊の検知が難しいのは、それがミクロ的スケールからマクロ的スケールまでまたぐ現象だからです。ビッグデータが物理学の壁を越えられない以上、「何を検知しようとしているのか」に対する考察は不可欠で、したがって、計測手段に対する工夫は不可欠です。

今回の痛ましい事故が、AIに対する適切な理解が世間に広まる一助になることを祈ります。



2022年5月2日月曜日

イーロン・マスク氏の挑戦 ── 公正な人工知能とは何か

言論の自由の絶対的信奉者(Free Speech Absolutist)を自称するイーロン・マスク氏のTwitterの買収が、今全米で議論を巻き起こしている。企業買収が日常茶飯のこの国で本件がこれほど話題になるのは、2021年1月に、現職大統領のアカウントを永久に停止するという挙に出たTwitter社に対する政治的反作用と解釈されたからだ。

マスク氏の考えはこうだ。Twitterは今や公共的な発言の場所になったのだから、そういう公的な存在としては、経営者の好き嫌いである人を締め出したり、恣意的にツイートを削除することは適切ではなく、法律の範囲内で発言の自由が認められるべきだ。

ここで、「法律の範囲内で」という点が議論になりえる。たとえば、殺人予告のような触法行為をどう取り締まるか。これについてマスク氏は、ソースコードが公開されたプログラムに自動判断させるべきであり、非公開の恣意的な基準を使い密室で(”behind-the-scenes”)禁止するツイートやユーザーを決めるべきではない、という趣旨のことを述べている。

TED 2022 におけるマスク氏のインタビュー(12:17あたりからがその発言)

トランプ氏のアカウント永久停止事件

では、アカウントの永久停止に至った問題の大統領発言とは何か。Twitter社は、次の発言が、利用規約で禁じられた「暴力の賛美」に当たると解釈した。

2021年1月8日に、ドナルド・J・トランプ大統領は次のようにツイートした。 

「米国第一、偉大なる米国よもう一度、との標語を掲げる私に投票してくれた7500万人の 偉大なる愛国者たちは、今後も大きな声を持ちづけるだろう。彼らは、いかなる形でも決して、軽んじられることも不公正に扱われることもないだろう。」 

この後すぐに、大統領はこのようにもツイートした。 

「問い合わせを寄せてくれた皆さん、1月20日の大統領就任式に私は行きません。」 

 

On January 8, 2021, President Donald J. Trump Tweeted:

“The 75,000,000 great American Patriots who voted for me, AMERICA FIRST, and MAKE AMERICA GREAT AGAIN, will have a GIANT VOICE long into the future. They will not be disrespected or treated unfairly in any way, shape or form!!!”

Shortly thereafter, the President Tweeted:

“To all of those who have asked, I will not be going to the Inauguration on January 20th.”


この発言がなされたのは1月6日の米国国会議事堂襲撃事件の2日後である。しかし大統領の発言はそれに直接言及しているわけではなく、また、ツイート自体には暴力を賛美する要素は何もない。トランプ陣営が大統領選挙の公正さについて係争中であったこと、また、Twitterが半ば公的な言論の場となっていたことを考えれば、Twitter社によるトランプ氏追放は、反暴力に名を借りた政治的な弾圧だ、との解釈も成り立ちうる。

マスク氏が問題にしている事柄のひとつはおそらくその点であろう。言論の場を提供する企業は、言論が法律の範囲内で行われている限りにおいて、個々の言論への政治的価値判断をすべきではないし、株主価値の最大化の観点で言えば、その必要性も乏しい。


AIは差別的か

マスク氏による今回の買収は、上記の出来事への政治的反作用という観点以外に、アルゴリズムないし人工知能(AI)に、公正さについての判断を任せていいのか、という問題を提起している。

この点に関して、米国のメディアでの議論は少なくとも2つの点で大きな誤解があるように思われる。

第1の点はAIの定義についてである。信頼できるAIとは何かについて議論される時はほとんど常に、人間の意思決定を人間に代わり行うような汎用人工知能(artificial general intelligence)の存在が暗に前提とされているように思える。確かに、もし人間の知的判断が非人間的な何かで置き換えられつつあるのならば、EUのAI 倫理規約が言うように、人間による制御可能性がAI倫理の柱のひとつになることは理解できる。しかし汎用人工知能などこの世に存在しないし、現状、有限の未来にそれができる可能性もない。現代のAIとは、たとえば、買い物サイトにおける商品推薦の程度のものであり、人間の介在なしに何かまともな行動がとれるようなものではないのである。

第2の点は公正さの評価についてである。2016年、調査報道で名高い通信社ProPublicaは、米国の多くの州の裁判所で使われている Northpointe という犯罪者のリスク評価ツールが人種差別的だとの報道を行った。明らかにおかしいと思うような数個の事例において、黒人と白人の犯罪者の写真を並列させ、AIツールの出力の奇妙さを見事に印象づけたその記事は社会的な反響を呼び、以後、「AIは野放しにすると何をするかわからない」との常識がメディアに定着することになった。

しかし同記事を詳しく見ると、3万5千人もの事例を使った網羅的な研究では同種のツールに人種差別の証拠はないと結論されたと書いてある。さらに、批判された側の連邦裁判所が徹底的な反論をするに及び、少なくとも機械学習の学術レベルでは ProPublica の "Machine Bias" レポートの結論は誤りであるということで決着を見ている。そもそも、刑期終了後に再犯を防ぐための支援のレベルを決めるためのツールを、裁判前の逮捕者に適用するなど記事の杜撰さは明らかで、最初から結論ありきの記事だったということである。実務のレベルでも、”Biased Algorithms Are Easier to Fix Than Biased People”、すなわち、AIツールに何か問題があったとしても、それを直すのは偏見を持つ人間を正すよりはずっと簡単だ、というのが合意事項、になるはずであった。

しかし現実はそうなっていない。たとえば ACM Computing Surveys という権威あるサーベイ誌に掲載された ”Trustworthy Artificial Intelligence: A Review” という2022年の最新の論文では、

A risk assessment tool used by the judicial system to predict future criminals was biased against black people [4].

などと堂々と誤った結論が述べられている([4]がProPublica誌の記事)。これはおそらく人文系の研究者により書かれた論文だと思われるが、それが人文系、したがって主要メディア側での常識ということなのだろう。


マスク氏の挑戦

マスク氏のTwitter買収は、少なくとも金銭的観点では成功しそうである。しかし今後の展開は予断を許さない。マスク氏の理想は、少なくとも上に述べた2つの点において、米国の主要メディアの空気とまったく乖離しているからである。すなわち、トランプ的なものに一切の人権を認めないと言わんばかりの彼らの空気と、アルゴリズムに判断をゆだねることを自動的に悪とする空気である。

今後の報道を読み解くガイドとして、いくつかの論点を羅列しておこう。

精度100%の分類器はない

多くの人文系識者は、もしAIが人間の判断を置き換えるのならば、AIは100%の精度を保証すべきだ、という不思議な想定を暗に置いていることが多い。これは2重の意味で正しくない。まず、人間の代わりに自律的に判断をするような汎用人工知能は存在しないし、AIは100%の精度を保証する「水晶玉」でもない。

個別事例(インスタンス)と総体を混同しない

もし完璧な精度が望めないのであれば、あるAIツールが差別的かどうかを知るためには、多くの個別事例から得られる結果の総体を見る以外ない。これは価値判断が統計学的になされるべきことを意味している。しかし ProPublica の記事がそうである通り、活動家マインドのジャーナリストは、同情を引くような少数の個別事例をもってAIツールなり社会制度なりを攻撃するという手法を使う。数個の事例を誤分類したからといって、AIツールの利用がただちに危険ということにはならない(そもそもProPublicaの一件ではAIに最終判断をゆだねているわけでもない)。しかしそのような論理的な反論を、大声で叫び続けることで封じる、というのが活動家の流儀である。

法律はアルゴリズムである

ある AIアルゴリズムがあるとして、それに包括的な inclusiveness を強制するためには、公平性の基準を、定義と変数と変数間の関係からなるある明示的なルールとして記述する必要がある。それは我々が「アルゴリズム」と呼ぶものである。そう書くと、いかにもそこに反人間的要素を持ち込んでいるかのように聞こえるが、実はそれは、現実の法規制(例えば税制)が採用している明示的アプローチと何ら変わるものではない。表面的な記法は別にして、論理的に言えば、法律はアルゴリズムの一種である。

アルゴリズム的に容易にかつ明示的に達成できる包括的な inclusiveness を否定するのは、(1)それを理解する学力が足りてないか(数学アレルギー)、(2)自分の所属するグループに参入障壁を設けて既得権益を守りたいか、のどちらと言われても仕方あるまい。


(本稿を書くにあたり、産業総合研究所の神嶌敏弘博士に丁寧なご教示をいただいた。引用した New York Times の記事と連邦裁判所の反論は博士のご教示による。感謝したい。)


2022年3月20日日曜日

「戦争学」概論

 

ロシアのウクライナ侵攻を契機に、ようやく日本でも国際政治のダイナミクスを実証的にとらえる動きが出てきているように見えるのは好ましいことである。ロシアの露骨な侵略行為の前に、日本の文系インテリをいまだに支配しているように見える疑似的なコスモポリタニズムの無力さが誰の目にも明らかになった。武装を放棄すれば、あるいは憲法第9条を持っていれば他国から攻撃されることはないとの念仏信仰のようなものが、長い間日本の「知識」人を支配してきた。過去数10年にわたり、他国の侵攻を許し、自国民を拉致され、あらかさまに核兵器で脅されてきたという明白な事実があっても、彼らの信仰が変わることはなかった。

彼らの平和主義は、「侵略されていないから、侵略されない」という同義反復のようなものだったのだろう。おそらく今後、世間の空気が変わったと悟るや、それが、「(ウクライナが)侵略されているから、(日本も)侵略される(かもしれない)」に変わるのだろう。何も考えていないという意味では同じだが、前提も結論も間違っていた前回に比べれば、前提も結論も事実を反映している分が救いである。これを機に、戦後の日本政治を支配してきた退嬰的な空気が少しでも変わることを願う。さもなくば、古くはユーラシア大陸の大半を支配したモンゴル帝国が今や東アジアの貧困国に没落してしまったように、また、近世に地中海地域に覇を唱えたオスマン帝国が一小国に没落したように、日本も没落の道を転げ落ちてゆくことだろう。

本書は2005年、米国のイラク侵攻が一段落ついた時点で出版された地政学の解説書である。地政学とは、「国際関係の粒度で言えば、地理学的な要件に着目して、諸国の外交政策を理解し、説明し、予測するための学問(At the level of international relations, geopolitics is a method of studying foreign policy to understand, explain, and predict international political behavior through geographical variables.)」と定義される。この情報化社会において、地理的要件がなぜ重要なのかは必ずしも自明ではない。実際、本書をかなり以前に読んだ時は、その点が今ひとつわからず、過去の歴史を俯瞰する方法として有用なのはいいとしても、それが予測能力を持ち得るのかはやや疑問であった。

この点はおそらく、軍事的な考察を必要とする。軍事は物理的な兵力の移動を常に伴う。本書でも繰り返し述べられているように、ハイテク戦争時代であったとしても、土地を面として制圧するには古典的な陸上戦力が必須である。そしてその陸上戦力を送るためには、やはり地理的な制約は第一義的な意味を持つ。例えば太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍は知念半島と嘉手納海岸という2つの上陸予定地点を研究していた(八原博道、『沖縄決戦 高級参謀の手記』、中公文庫、第2章)。長大な海岸線を持つ沖縄本島において、揚陸に適する地点はわずか2か所しかなかったということである。一般人が思うよりもずっと軍事行動の地理的な選択肢というのは狭い。古くから交通の要衝とされる場所にはそうなるだけの地理的ないし軍事的な必然性があり、その観点を無視して国際政治上の選択肢を論ずることはできない。逆に言えば、軍事関連の学問が大学から完全に追放されている日本にあっては、地政学的戦略を構想できる政治家が皆無であるように見えるのも仕方ないとも言える。

本書では冒頭でマッキンダー、マハン、スパイクマン、ラッツェル、ハウスホーファーらの学説を紹介し、地政学的概念を通して、ナポレオン戦争からイラクにおける対テロ戦争まで、歴史上の戦争の性格の変遷を概観する。最後に地政学的なアジア太平洋における現在と近未来像を眺める。ある意味悲しいことながら、17年も前の本だが、最後の章は今読んでも全く古さを感じない。北朝鮮の核武装も、中国の覇権主義も急速な軍拡も当時から明らかなことであった。歴史認識問題を国際政治の道具と使っている状況も同じである。日本の為政者はことなかれ主義に安住し、単に傍観しているだけであった。そして状況はますます悪化する一方である。冒頭に掲げたような空想的平和主義者たちの活動が、こういう状況に至らせることを目的とした戦略的活動であったのなら、それは史上稀に見る成功と言うべきであろう。

ひとつ顕著に変わった現実はロシアの位置である。2005年の当時、ロシアはソ連崩壊の混乱から立ち直り切っておらず、日本では軍事的な脅威とは見なされていなかった。プーチン大統領が一時期北方領土問題の解決に前向きのように見えたのも、日本からの投資を呼び込むという意図があったようである。北方領土問題について著者は、二島返還交渉、四島返還交渉、実力奪還、という3つの選択肢を提示し、憲法上の制約から第3の選択肢が実行不可能であることを断りつつ、「戦争に至ることなく四島を返還させる可能性のある方策は、奪回できるだけの軍事力を背景にして経済協力の利をあたえるという、アメとムチによる圧力をかけることだろう」と述べる。そしてこう付け加える。 
こうして歳月が過ぎて強いロシアが復活してくれば、北方四島問題は解決しないまま、またロシアの脅威におののかなければならない日がくることになるだろう。
現実は著者が危惧した通りに進んでいるように見える。

本書は地政学についての要領の良い解説書として有用であるのはもちろん、21世紀の前半、日本の政治がいかに停滞し堕落していたかを活写する極めて良い歴史的資料になるだろう。

2022年1月29日土曜日

なぜ日本では旧正月は祝われないのか

私の勤務先にはアジアからの出身者がたくさんいます。毎年、多くの東アジア出身者は、1月末から旧正月のことを話題にします。毎年疑問に思っていたことのひとつに、なぜ東アジア諸国の中で日本だけが旧正月をまったく祝わないのか、ということでした。今度職場の文化発表会みたいな催しで、日本の正月について話すことになったのをよい機会に、多少調べてみました。

現代の日本では、1月1日の正月と、2月の節分は完全に別の行事となっていますが、古代は同じ行事でした[飯島 2011]。いずれも旧暦における年越しに関する行事であり、正月は文字通り正月、節分は立春に関係します。それぞれの性格の相異により、次第に行事をふたつに分けるようになったようです。その後、新暦に切り替わったため、正月の方がおおむね1か月早まり、しかし立春は「二十四節気の第1」としての定義があるので [Wikipedia 立春] そのまま残り、今のようにあたかも独立な行事のようになったようです。これらの行事は5世紀ころ唐から伝わり、日本の土着の文化と融合して定着したと考えられます。

以来、正月は太陰暦ないし太陰太陽暦に基づき祝われていましたが、明治維新直後(明治5(1872)年)に太陰太陽暦から太陽暦に改暦されたのはよく知られている通りです。その移行はわずか20日ほどの準備期間でなされたらしく、当然のことながら、当初はほとんど普及しませんでした。国立天文台のウェブサイト [国立天文台] に、旧暦併記にまつわる時系列が完璧にまとめられています(第1次資料も画像で見られます)。明治22年(1889)に新暦の使用状況を全国で調査した「両暦使用取調書」によれば、この時点で、新暦に基づき正月を祝っていたのは東京や京都といった大都市圏だけで、それ以外の地方では旧暦に基づき正月を祝っていました[塙 1995, 下村 2016]。ある意味この時点では、現代の東アジア諸国の状況と似ていたのだと思います。

ではなぜ日本だけで旧正月が急速に廃れたのでしょうか。これについて歴史学・民俗学の分野では必ずしも確立した知見はないようです [平山 2014]。しかし手元の資料から強く推定できることは、明治の終盤から、太陽暦の受容、皇室の神聖化、庶民における国民としての意識の確立、これら3つが絡み合いながら急速に進み、それに伴い、旧暦は旧弊として自発的に忘れられていったということです。明治16年(1883)から、伊勢神宮が唯一の「正暦」の発行元として指定され [伊勢神宮]、また、皇室に由来する祭日が暦に加えられてゆきます [新田 1993]。学校行事もその暦に従って行われるようになり[佐々木 2005]、新暦はいわば皇室の暦となりました。

「正暦」の確立以降も、旧暦がまだ広く使われているという理由から長らく旧暦併記がなされていましたが、明治41年(1908)に帝国議会衆議院で可決された「陽暦励行に関する建議」により、1910年から公式な暦には旧暦が一切記載されなくなります。衆議院で可決されたということは、各地方のリーダーが太陽暦に移行することを望ましい方向と認識していたことを意味します。1910年は韓国併合の年です。日清、日露、三国干渉、などを経て、日本の人々は、帝国主義の世界で生き残るためには国民が一丸となった必死の努力が必要であるということを知り、その切迫感を伴う時代の空気が、彼らをして、多くの地域において、旧暦に基づく行事を何となく後ろめたい旧弊として急速に忘れさせるに至ったものと想像します。

より明示的にまとめると、なぜ日本だけで旧正月を祝わないのか、という問いに対する答えは、太陽暦の受容後、新暦が皇室の暦になったから、ということになります。その意識を徹底する上では学校行事の果たした役割は本質的でした。などと書くと上からの強制か、という話になるのですが現実はどうやら違っていて、国民意識の確立の中で、大多数の日本人は自分で旧正月をやめて新正月に移ったんですね。つい数十年前までは鎖国していたのに、日本中でみんながけなげに一等国になろうと努力したということです。ある意味大したものだと思います。




2021年4月1日木曜日

Alone (邦題 Alone 孤独のサバイバー)

 

リアリティ番組が数多く放映されるアメリカで、今まで見た中でもっとも「ガチ」なサバイバル番組。日本でもAmazonやHuluで見られるようだ。

 ゲームのルールは一言で言えば我慢比べである。参加者は、ナイフ、防水シート、寝袋、釣り針、など所定のリストの中から最低限の10点ほどのわずかな所持品を持って、人里離れた海や湖の近くにヘリコプターで降ろされる。Aloneというタイトルは、たった一人でサバイバルを行うというところから来ている。食料はもちろん、テントすらないので、木を切り、石を拾い、住居作りから始めなければならない。最大の問題は食料調達である。もちろん、素人がそういう状況で生き延びられるはずはないので、参加者は皆、例えばサバイバル教室の講師とか、海兵隊員とか、その道のプロである(第1シーズンだけはこの点微妙であるが)。

シーズンにより場所は異なるが、人口希薄なカナダの離島だったり、北極圏だったり、南米パタゴニアの山中だったりする。シーズンは秋に始まり、徐々に冬の季節が忍び寄ってくる。冬は飢えの季節である。当初10人いた参加者は、飢えと孤独に耐え切れず、ひとり、また一人と "tap out” (格闘技でいうギブアップのサイン)してゆく。最後まで耐えた人が、賞金の約5000万円を手にする(北極圏でのシーズン7では1億円)。

参加者にはカメラが渡されており、毎日の行動を記録することが義務付けられている。Tap outは、特別なトランシーバーで行う。1か月を超える頃には、残った参加者の顔には疲労と飢えの色が濃くなる。カメラに向けた状況報告も深刻なものが多くなる。肉体的に極限状況に至るため、後半は定期的にメディカルチェックが行われ、体重がある限度を超えて減少し、医学的に飢餓の状態に陥ったと判断された人は、その場で退場が宣告される。我慢だけでなくて、健康を保つことも重要なのである。

この番組を見ると、いかにかつての人類の生活環境が過酷だったか、いかに農業の発達が革命的なことだったかが分かる。これで思い出されるのはニューギニアで遊兵と化し、10年もの間、山中で原始人同様の生活を強いられた日本兵の手記である(『私は魔境に生きた 終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活十年』)。彼らは、危険を冒して残置された糧秣をなんとか収集して飢えをしのぎつつ、それが尽きると刻苦の努力を通して、なんとか農園らしきものの開拓に成功し、それで何とか明日の希望をつないだのであった。山中、どうしても不足するのが塩分である。同様にフィリピンのルバング島で30年「戦闘」を続けた小野田寛郎氏の場合、海岸や住民の塩田から多少の塩分を入手することができたが、それでも塩は貴重で、「魔法薬」と呼んで珍重している。疲労回復にてきめんな効果があったからである(『たった一人の三十年戦争』)。

 農業の発達、すなわちいわゆる新石器革命以前、人間は文字通りその日暮らしを続けていた。農業の可能性に気づき、数か月という単位で先を見通すようになると、時間と量に関する計算の必要が出てくる。食料に剰余ができると、海の民は肉や毛皮を、山の民は塩や魚を求めて交易が始まる。そのような、人類の何千年かの先史時代に思いを馳せることのできる真のリアリティ番組。

2021年3月7日日曜日

AmazFit Band 5

中国シャオミ(小米科技、Xiaomi)の子会社のHuami (華米科技)のスマートウォッチもしくは活動量計(fitness tracker)。AmazFitは普通アメイズフィットと発音する。2021年3月現在、日本だとアマゾンで7000円くらいするようだが、アメリカでは35ドル程度で売られている。本家の日本語サイトはこちら。

先日、5年ほど使ってきた iPhone 6 を iPhone 12 mini に替えた。iPhone 6は一度無償での電池交換をしたので、電池の持ちも問題なく、メール確認やメッセンジャー、あるいはカーナビなどの用途に問題なく使えていた。しかしOSの更新をAppleが止めたため、次々にソフトウェア上の不適合が発生し、業務用含む多くのソフトウェアが使えなくなってしまった。やむを得ず買い替えることにしたのだが、新しい iPhone 12 mini は、大きさも画面のきれいさもまったく iPhone 6 と同じで、自分はいったい何に $700 も払ったのか、とむなしい気持ちになった。

Apple製品を買う・買いたくなる理由は、所有に至るプロセスが高度に演出されており、それに沿って新しい製品を手にした時に、いつも高いレベルの感動を与えてくれるという点にあると思う。製品のプロモーションもパッケージも、説明書の代わりにアップルのシールが入っている素っ気ない箱の中身も、そして何より間違いなく工業デザインの最高峰と言える製品そのものも、所有の満足感という点で、アップルの右に出るものはいない。ある意味、いつもアップルの演出に乗せられるわけだが、それを後悔させない手腕はすばらしい。しかし今回、買ってむなしい気分を味わったということは、もはや iPhone という製品カテゴリに、イノベーションのジレンマの病理が見えてきたということではないか。それで、アップルの生態系から外に出られないものかと、いろいろと見ているわけである。

Band 5を買った理由はだいたい3つある。最大の理由はランニング中の心拍数の測定である。過去8年ほど、Adidas Running(旧 Runtastic)でランニングの記録をつけてきたのだが、脚力と心肺機能が徐々に低下している気がして、客観的に運動負荷を測定したい気持ちになった。それと若干関係しているのだが、第2に、Covid-19騒ぎで血中酸素濃度計の重要さを知り、その計測を気軽にしたくなったということもある。別途パルスオキシメターを購入してはあるが、運動記録器と合体していれば便利ではある。第3に、アマゾンのAlexaで電灯の制御やらをできれば便利かなと思った点である。

もちろんこれらは、Apple Watch 6 を使えば完璧にできる(酸素濃度計があるのはこのモデルだけである)。iPhone と OSレベルで統合できるので、接続だの適合性だと一切の心配はいらない。しかし2021年3月現在、Apple Watch 6は一番安いモデルでも350ドルもする。このBand 5のちょうど10倍、iPhone 本体の半分の値段を、この、18時間しか電池が持たない腕時計に費やす価値はあるのか。逆に言えば、値段が1/10で、電池の持ちが10倍のこのBand 5が十分上記の用途に使えるならば、これは完全に破壊的インパクトを持った製品と言える。私の中ではそれはApple生態系からの脱出の号砲である。


Band 5を iPhone と接続する

Band 5は、ふつう Zeppというアプリを通して接続する。Zeppへの接続は簡単で何の問題もない。必要に応じて下記の動画を見るといいだろう。このアプリは高機能だが、メニューのどこに何があるのか複雑なため、個人開発?の簡素化版 AmazTools というアプリも検討してもいいのかもしれない。


スマートウォッチはもはや腕時計単体の機能よりも、アプリを含んだ生態系の使いやすさの勝負になっている。AppleやFitbit、あるいはGarminは、ソフトウェアを作りこむことで、この点でしっかりとユーザーを囲い込んできた。AmazFitはその価格競争力から、すでにイタリヤやインドなどの多くの国で市場占有率が首位になっている。現状、Zeppにはややたどたどしい点もあるが、本家中国市場での利用者の多さも考えると、このZeppなるアプリには臨界質量(critical mass)を超えるだけの開発投資がなされることは確実で、継続的な改善が望めよう。

ランニング管理アプリとZeppを連携させる

実はこのステップが長い間の懸案であった。Adidas Running(旧 Runtastic)は非常によくできたアプリで、おそらく10年くらい前までは押しも押されぬ業界のリーダーという感じだったと思う。しかしその後、開発が停滞し、新興のStrava等に押され気味になって今に至る。現状まったく不満はないのだが、残念ながら外部機器や他アプリとの連携の幅に難がある。StravaはAmazFitないしZeppとの連携を公式にサポートしているが、2021年3月現在、Adidas Runningから接続できるのは、Apple Watch, Garmin, Polar, Suunto, Coros のGPS付きスマートウォッチだけである。やむなくStravaへの移行を決心した。

ZeppアプリからStravaを認識させること自体は簡単である。2021年3月時点で、下記の5つのアカウントを登録できる。


ここで問題が3つある。

  1. Adidas Running(旧 Runtastic)のデータをStravaに移行できるか
  2. Band 5には心拍計はあるがGPSがついてない。Band 5で心拍計測し、iPhone でGPS信号をつかまえて、ひとつのランニングデータとして統合できるか。
  3. そのGPSと心拍計測を含むランニングデータをStravaに自動で転送できるか。

第1の点について、2021年3月時点で、公式アプリを通してこれを行う方法は存在しないが、代替策が2つある。ひとつは、RunGapというアプリを介してStravaにデータを渡すことである。データ取り込みは無償だが、書き出しは4ドルないし10ドルかかる。もう一つの方法は、ここの投稿を参考に、Thoms Mielke 氏の作った変換ツールを使うことである。これは、Runtasticからダウンロードしたデータ(これはjsonファイルがZIPされたもの)を、GPS Exchange format(GPX形式)に変換するものである。一部情報が欠落するが、走ったルートの情報、時間情報などは取り込むことができる。ただし、一度に読み込めるGPXファイルは25個が上限らしいので、数百個の履歴がある場合、手作業で何10回かアップロードを続ける必要がある。

第2と第3の点について答えはYesだが、細かいコツがいろいろある。結論からいえば、次の通りである。

  • iPhone 上での準備
    • BluetoothはON(当然)にしてBand 5との接続を確認。走っているときはBand 5に加えて iPhone も腕輪方式などで身に着ける。
    • GPSを使う他のすべてのアプリを消す。バックグラウンドでも動かさない。
    • Zeppの位置情報の利用は常時許可する。
    • Zeppを開き、データの同期を済ませる。iPhoneの画面は消してもよいが、アプリ自体は動かしておく。
  • Band 5 上での操作
    • Band 5の中からWorkoutを選び、そこでRunningを起動する。
      • iPhone上の Zepp app や Strava で記録開始をしないこと。
    • その際、Band 5上で、位置情報を認識したことを確認する(認識すると振動する)。
      • iPhone上でZeppが動いていないとGPSをつかまないようなので注意。
    • ゴールに着いたら、Band 5 上でRunningを終了する
      • 画面下部をタップして画面を出し、長押しする。
  • Band 5上で運動を終了させたら、携帯を開いてZeppとデータを同期する。
    • 位置情報と心拍情報が記録されていることを確認する。
    • Stravaには自動的に転送がなされる。

iPhone 上でStravaで運動を記録すると、当然、心拍計としてのBand 5は認識されないので、位置情報しか記録できない。心拍情報だけをStravaに別途読み込む方法も探したがどうやらなさそうである。また、Stravaには、Bluetoothでの転送機能を持つ心拍計を登録する機能があるが、それではBand 5は認識できなさそうである(おそらくBand 5をiPhone本体とBluetooth接続してしまうと、別途Strava側で認識できないのだと思うがよくわからない)。一方、 iPhone 上のZeppを使い運動を記録することもしてみたが、たまたまかもしれないが、心拍が記録されないという問題が発生した。

ということで、Band 5上で、iPhoneのGPSを認識させた上で運動を記録するのが最善(かつおそらく唯一の)方法のようである。なお、Band 5では、転送できるデータの項目数に限りがあるようで、心拍計を動かした場合、歩数計などの情報は転送されないようである。逆に、心拍情報がない場合には歩幅などの情報が転送されるようである。この点は何か不具合なのか仕様なのか、いずれにしても改善が待たれる。


心拍計、血中酸素濃度はおおむね正確

WesKnowsというYoutube チャンネルで詳しい計測結果が紹介されている。下記はこの動画からのスクリーンショット。


黄色い線がBand 5で、赤い線が胸に直接つけるタイプの心拍計。この程度の誤差であれば、運動記録器として何の問題もない。別途購入した安いパルスオキシメターで測っても心拍計はほぼ正確である。

一方、血中酸素濃度については、机に座って、腕を机に置いた状態で計測すると、パルスオキシメターとたいていの場合ほぼ一致する。違うとしてもたかだか数値で1くらいである。価格10倍のApple Watch 6 の場合、"mostly useless" などと言われているが、少なくともこのBand 5については十分有用だと思う。しかしこれまで数回、たとえば日光を横から浴びているときとか、寒くて手がかじかんでいるとき、装着状態がふだんと違うときなどに、値が低めに出ることもあった。基本的に信頼できるというのが私の印象だが、いつどのような場合に誤差が生じがちかは自分で経験の経験から判断した方がよさそうである。

通知機能とAlexa

iPhoneの通知機能がONになっている限り、任意の通知をBand 5に転送できる。私の環境ではデフォルトで次のような項目がある。メール特有の項目はないが、通知を受けたければ末尾の Other をONにする。

Band 5にはスピーカーがないので、通知は振動で来る。たとえば電話の場合、断続的にジジ・ジジ・ジジと振動が起きるのですぐわかる。電話に出ることはできないが、留守電に答えさせることはできる。会議などカレンダーの通知も振動で来る。音ではなくて振動での通知は思った以上に有用だと思った。まず、音と違い精神をかき乱される感じがしない。また、在宅勤務では自分の部屋から出て家事をしている場合もあるだろうが、例えば洗濯やら炒め物やらをしていて、携帯電話を持っていないか、騒音で通知音が聞こえない場合も、この軽いバンドを腕につけておけば安心である。通知の際、画面上に誰からの電話か、など要約情報が出るので、その場で重要度が確認ができる。ただ、画面が小さいため、腕を近づけて読まないと文字が小さすぎて読めないというのは確かで、画面の大きい上位機種が欲しくなるところである。

Alexaも、Amazonのアカウントを接続すれば使える(2021年3月時点では、アメリカのAmazon.comに限られるようであるが詳細は知らない)。電灯のON-OFFもできるし、簡単な(英語の)質問(「How far is Tokyo, Japan, from NY? 」など)もできる。ただし、アマゾンのアカウントの仕様上?、ある程度時間が経つと再度ログインしないと認識されなくなってしまうようで、ほとんどの場合、Alexaにはつながらずじまいだった。Alexaは iPhone上のアプリもあり、そちらの方が立ち上げの時間は短いし、機能も多い。わざわざ小さな腕時計でAlexaを呼ぶ必然性もなく、結局使わなくなってしまった。使えることは使えるが、Alexaには期待しない方がいいかも知れない。

電池の持ちとその他の機能

私の場合、Apple Watchをこれまで避けてきたのは、高すぎる値段もあるが、1日しか電池が持たないという事実が最大の原因であった。私の持っている自動巻きの機械式腕時計ですら、2日くらいは動いている。それよりも短いというのは話にならない。この点を認識して、たとえばガーミン社では最近太陽電池を組み込んだ製品を出したりしている。しかしいかんせん高い。やはりBand 5の10倍という桁である。

米国企業に囲い込まれている米国市場ではあまり知られていないが、この点の技術革新はすでに中国で起こっている。中国におけるウェラブルデバイス市場で首位のHuawei(華為技術)は2018年にGoogle のWear OSをやめて独自開発のLite OSに移ることを発表した。同様に、Huami製のスマートウォッチも独自開発OSとチップを統合した黄山2号(Huangshan-2)というプラットフォーム上に開発されている。報道(1,2)によれば深層学習専用チップを含んだ高度なもので、それが低消費電力と高性能を両立させる鍵らしい。

実際、Sleep breathing quality monitoring をONにしなければ、一晩つけっぱなしでもほとんど電池が減ることはなく、宣伝の通り2週間くらいは持ちそうである。




その他、1週間ほど使ってみて、便利だと思った機能を羅列すると次のような感じである。
  • 天気予報。PC上でブラウザを立ち上げたり、アレクサにわざわざ声で質問するより、パッとBand 5をスワイプした方が楽である。
  • 睡眠記録機能。電池の持ちに不安がないので、夜もつけっぱなしにしているが、寝た時間などが記録されるのは、自分の健康についての認知を高めるのに有用である。寝入り時刻、起床時刻の測定は正確なように思える。
  • ランニング中のポッドキャストの制御。私の持っているBluetoothのヘッドフォンでは、「次の曲に行く」という制御ができなかった(または、やりにくかった)。そのため、つまらないポッドキャストを延々聞き続けるという苦痛を味わったことも多い。もちろん立ち止まって携帯電話上で制御することはできるのだが、時間を測っている以上、ラップを乱したくなかった。腕時計上でそれができるようになったのはうれしい。

まとめ

以上要点をまとめる。

  • よい点
    • 価格競争力。アメリカでは Apple Watch 6の1/10。
    • 電池持続期間。週2回のランニング、毎日の体操、睡眠トラッキング、をしても、2週間ほど充電せずにすみそう。
    • StravaおよびApple Healthとの自動連携。
    • スマートウォッチとしての基本機能(十分正確な心拍計と血中酸素濃度計、メール・電話・カレンダー等の通知と確認、音楽やカメラの簡単な制御、時計表示デザインの変更機能、など)
  • 将来に期待する点
    • 携帯アプリ Zepp のメニューが複雑でどこに何があるのかわかりにくい。
    • Alexaの接続の安定性が低い。
    • バンドが外れやすい。素材、薄さはよいと思うが、バンドの先端が寝ているときや走っているときにものに触れて外れることがある。

冒頭に述べた問い、すなわち、Band 5が通常のスマートウォッチとしての使用に耐えるか、という問いへの答えは、間違いなくYesである。Zeppアプリはまだ発展途上のように見えるが、それでも、Stravaとの連携、Apple Healthとの連携はスムースで、活動量計としては現時点でまったく問題ない。Appleが有効な運動記録アプリを持っていない以上、かならず何か外部アプリに頼らざるを得ない。もし運動記録がスマートウォッチの主たる目的なら、OSレベルでの統合は必ずしも必要ではないし、OSレベルで統合されていなくても、電話やメールの通知、音楽の制御は可能である。

さらに広く、睡眠管理含む健康管理器としての用途なら、睡眠ログを取る以上は、1週間程度の電池寿命は必須となる。腕に着けている間は充電できないためである。この点において、Apple Watchおよびその類似製品は実用性を欠くと言わざるを得ない。値段が1/10で、電池が10倍持ち、機能が同等、というのではもう競争にならない。OSレベルでの統合は確かに快適であるが、ほとんどの人にとって、それに10倍の値段を払う価値はないと思う。

上に述べた通り、市場占有率の観点でAmazFitは順調に成長しており、間もなくApple Watchを凌駕する存在になる可能性が高い。驚異的な価格競争力については言うまでもなく、頻繁な充電から人々を解放することで、AmazFitが、スマートウォッチという製品カテゴリにおいてDisruption(破壊的インパクト)をもたらしたのは明らかである。国外においては巨人Appleに、国内においては半官企業Huaweiに果敢に挑戦し、この技術革新を生じせしめた小米科技 Xiaomi および華米科技 Huami は尊敬に値する企業だと思う。HuamiはHuami AI Research InstituteというAIの研究所を持っているらしい。輝く未来を持つであろう企業で、このような優れた製品から得られるデータを用いAIのアルゴリズムを研究する技術者は幸せである。


2021年2月20日土曜日

『事件現場から: セシルホテル失踪事件』

 

2013年に起きたLAでのカナダ人女子大学生失踪事件を追ったNetflixのドキュメンタリー。原作は Crime Scene The vanishing at the Cecil Hotel (Netflix Series, directed by Joe Berlinger)。事件の詳細については英語版のWikipediaをほぼそのまま訳した日本語の項目がある。エリサ・ラム事件、というのがそれである。


これはカナダの超名門大学ブリティッシュコロンビア大学(日本で言えば京大や阪大にあたる)に通う21歳の女子学生が単身カリフォルニアを旅行中にLAのセシルホテル(Cecil Hotel。英語ではシーシルと発音する)というホテルで失踪したという事件である。防犯ビデオの分析の結果、彼女はホテルから外に出ていないと推定され、ホテル内で警察犬を動員して大掛かりな操作が行われた。

セシルホテルはLAにおける最悪の犯罪地帯とされるスキッド・ロウ地区(日本だと西成のあいりん地区などに当たると思う)に立つ。何度も米国における有名な犯罪の舞台になったことで知られ、現地では悪名高い場所である。それがゆえ繁華街至近という立地ながら部屋代は非常に安く、主に海外からの若い客を多く引き付けてきた。LA市の規制により、ホテルの上層階は貧困層の長期滞在者向け住居になっており、ナイトストーカーことリチャード・ラミレス、日本で言うと永山則夫にあたる獄中作家ジャック・アンターウェガーなど、身の毛がよだつ殺人事件の犯人たちが滞在したのはそこである。

この時点で警察の捜査は、現地事情を知らないうぶな女子学生、しかも若い美人の彼女が、この悪名高いホテルで犯罪者の餌食になったことを暗に想定するものであった。しかし大がかりの操作の結果、何一つ手掛かりは得られなかった。そこでLA市警は、失踪の直前に彼女をとらえたビデオをマスメディアに公開することを決断する。それが下記の動画である。

https://www.youtube.com/watch?v=_rfLSVIA0L0

そこにとらえられたエリーサの不可思議なふるまいはインターネット上で爆発的な議論を引き起こした。彼女はまるで何者かに追われているかのようで、パニック状態でエレベーターのボタンを押し続けているようにも見える。一方で、両手をひらひらさせる様子からは、何かの薬物の影響下にあるかのようにも見える。

動画が公開されて数日後、宿泊者から水の出が悪いとの苦情を受けたホテルは、屋上のタンクを点検する。そこで作業員はタンクの水に、全裸のエリーサが浮いているのを発見したのである。名門大学に通う彼女には一切の犯罪歴はなく、多くの "web sleuth"(ネット探偵)たちが、いかにスキッド・ロウの犯罪者が若い娘を餌食にしたかについて自説を展開した。

しかし不思議なことに、警察の多大な努力にも拘わらず遺体からも何の手がかりも得られなかった。外傷もなければ、薬物も検出されない。仮に彼女が意志に反してタンクに投げ捨てられたのならば、犯人は、遺体を背負って何メートルも階段を上り、屋根の上から2メートル程度下にあるタンクの上に降り、そして50㎝角かそこらの小さな保守用の窓から遺体を入れなければならない。机上で考えるとそれも不可能でなさそうに思えるが、下記のNBCニュースの動画を見ると、現場に何の痕跡も残さず、かつ、遺体に一切の外傷を残さずにそれを行うのはまず不可能であることが分かる。


4回シリーズの最終回、エリーサに何があったのかについて、確度の高い推測が明らかにされる。エリーサはI型の重篤な双極性障害に苦しんでいた。症状の再発により大学の授業もきちんと受けられず、友人たちが一人前の社会人になるべく着々と準備をしているように見える中、病気のためにまだまっとうな人間になれずにいる自分を非常に苦にしていた。毎日飲むことを義務付けられている大量の薬。聡明な彼女は、それが症状のコントロールのために必須であることを頭では理解していただろうが、一方で、薬に頼らずに力強く生きる自分をいつでも夢見ており、そして時折、おそらくそれも躁状態の症状のひとつであるが、薬を勝手に中断してしまったことがかつてあった。彼女の姉妹の証言から明らかになったことには、過去の断薬は幻聴・妄想を伴う重い症状をもたらし、幻聴から逃れるためにベッドの下に隠れていたこともあったのだという。

彼女がカリフォルニアを旅行先に選んだのは、かつてフロンティアと呼ばれていた場所で、本当の自分を見つけたいという願いからであった。LA中心部の華やかな雰囲気の中、彼女は身体的には健康なのにもかかわらず薬に縛り付けられているかのような自分をみじめに思ったに違いない。検死結果から明らかになった通り、彼女はLAに来てからほとんど薬を飲んでおらず、精神的な破綻はおそらく時間の問題であった。

実際エリーサは、部屋を共有していた2人の女性宿泊者に対して、「出ていけ」「消えろ」(Get away, get out, go home)などと書いた紙を相手のベッドに張り付けたり、同居者が外出から戻ると内側から鍵をかけ、合言葉を言わない限り中に入れない、などの異常な行動をとった。妄想の支配下にあったのであろう。さらに失踪の日、彼女はLAでテレビの公開収録に出かけ、筋の通らない手紙を番組のホストに渡そうとして警備員に制止されるという事件を起こしている。同居者からの苦情により、ホテルは彼女を別の部屋に移した。エリーサのチェックアウト予定日の前日のことである。当時ホテルの支配人だったAmy Price氏によれば、その晩彼女はロビーに降りてきて、「あたしキチガイなの!でもそれはLAも一緒でしょ!」("I'm crazy, but so is L.A.")などと手を広げて叫んでいたらしい。


エレベーターのビデオにとらえられた奇妙な様子はおそらくその直後の彼女の様子である。法医学者のJason Tovar 博士、精神科医のJudy Ho博士らの解釈によれば、彼女は妄想上の悪者から逃れるため、安全と思われる隠れ場を必死に探していた。運の悪いことに彼女が向かったのは火災の際の避難に使う非常用階段で、それが唯一、警報機を鳴らさずに屋上にたどり着ける経路なのであった。彼女は屋上にある建物の上に上り、4つのタンクが眼下にあるのを見つける。検査用の小さな窓があるのを見た彼女は、そこが唯一、魔物から自分を隠せる場所だと信じた。


多くの人は、人間の脳の複雑な仕組みを知らないし、知ろうともしない。この事件で不幸だったのは、精神障害が公に口にするをの憚られる類の病気であるがゆえ、明らかに奇矯なエリーサのふるまいが長く表に出なかったことである。遺体発見当時タンクのふたは閉じられていたはずだとLAの警察担当者が誤って発表してしまったのも火に油を注いだ。ふたは実際には開かれたままであった。したがって第三者による隠蔽の可能性はほぼありえず、何らかの事故を強く示唆するものであった。

何者かになるためにあがいている時期の若者の心は傷つきやすいものである。心身が健康であっても不安定になりがちだというのに、躁鬱病による精神状態の極度の変動は彼女を強烈に痛めつけていたに違いない。おそらく彼女にとっては、陽光あふれるフロンティアとしてのカリフォルニアへの一人旅を成功させることは、自己再生のための必須の儀式のように感じられていたはずだ。そう思い詰めた先に、これまでにない深さでの闇と破局が待っていたのである。ネット探偵の多くは、彼女の気持ちに寄り添うふりをしながら、実は、彼らの想像力の枠の中に彼女を当てはめて自己満足に浸っていたに過ぎない。自己満足だけならばいいが、YouTube などを通して多くの人たちを結果として扇動し、無実の人たちへの攻撃に導いた責任は大きい。自分が何を分かっていないかを知らない善意の人たちほど手に負えない人たちはいないのである。


このドキュメンタリーは、ホテル側、警察側、ネット探偵側、そして第三者的立場の医学の専門家の意見をうまく配し、それぞれの考えを引き出しつつ、最後に説得力のある結論に導くことに成功している。ネット探偵たちの、心情的には理解できるものの結果として無責任な意見を繰り返し繰り返し取り上げることで、作品としてはやや間延びした印象にもなったが、ディレクターのJoe Berlinger氏としては、あえてそれをすることで社会に対して警鐘を鳴らすという意図もあったのだろう。主観的感想と直接観察された事実、それから科学的推論を適切に区別することためには、高い知性と教養が必要である。それは日本のメディア業界では望むべくもないが、アメリカにはそれをきっちりと、しかも商業ベースのメディアで行える環境があるのである。

2021年2月1日月曜日

Lean In: Women, Work, and the Will to Lead ( by Sheryl Sandberg)

 

邦訳もされ、もはや説明する必要もないほど有名なシェリル・サンドバーグ氏の主著。ある意味、2020年におそらくピークを迎えた #MeToo 運動 への、ビジネス側からの強力な応援として、日本でも多くの人が影響を受けたに違いない。書名はおそらく、身を乗り出して前向きに取り組む、という状況を比喩的に表したもので、強いて訳せば「一歩踏み出そう」という感じだと思う。

 市場競争にさらされる「健全な」業界においては、金銭的な評価、いわゆる「ボトムライン」の数字が結局すべてであり、そこには性別は直接の関係はない。女性だろうが男性だろうが、たくさん売ってくれる営業員がよい営業員であり、CEOが男性だろうが女性だろうが企業価値を上げてくれる人物がよい経営者である。最近、ある国際的企業で長くCEOとして君臨していた女性がCEO交代を発表したとたん株価が急騰したという話があった。それは別に株主が女性差別主義者だったからではなく、過去何年にわたり首尾一貫して企業価値を損ない続けてきたCEOの成績を見て、多くの株主が彼女の退場を願っていたということに過ぎない。逆に、Google で Google Map などのすばらしく革新的なプロジェクトをリードしたマリッサ・メイヤー氏がYahoo!のCEOに就任した年に株価が74%も上がったのは、彼女の実績と手腕への期待ゆえであろう。大多数の理性的な株主は単に企業価値を見ているだけであり、それ以外ではないのである。

科学技術の開発についても同じことが言える。 サンドバーグ氏の属するFacebookのR&D部門は、2021年時点で、Google、Amazon、Microsoftなどのアメリカ企業や、Baidu、Alibaba, Tencent などの中国企業と並び、AI(人工知能)分野での最強の技術力を持っていると考えられている。AIの最重点領域としての機械学習やデータマイニングの分野では、最新技術は主に学術会議の論文集(Proceedings)として発表される。これらは、ほとんどすべてが二重ないし三重の匿名査読方式(double/triple blind review)を採用しており、査読する側は、誰が書いたか・どこの所属か・性別は何か、など何もわからない。性別が評価基準に入る余地は基本的にない。 ── などと言っても、そもそも「査読」という仕組みを理解するためには大学院修了程度の経歴が必須なので、日本の新聞記者には信じがたいだろうが、本当である。たとえば私は、AI分野のトップ会議のひとつである International Joint Conference on Artificial Intelligence (IJCAI) の Senior Program Committee (SPC) Memberを務めたことが2度あるが、投稿者の名前を知る手段は、末端の査読者はもちろんのこと、それを統括するSPC メンバーにすら全然ない。近年、多くの主要会議では、投稿情報の管理は Microsoft's Conference Management Toolkit というサイトで行われている。データベースのアクセス管理は商用システムと同程度の堅牢さで作られており、元の投稿データに触れるのは本当に一握りの管理者のみである。会議の委員長は毎年変わり、運営委員も多様な背景の人々から選ばれるので、奥の院でこっそり何の不正をする、というような余地は全くない。犯罪的な意図を持って計画的に証拠隠滅でもすれば別なのかもしれないが、もうそれは完全に常人ができる範囲を超えている。

市場競争にせよ、技術競争にせよ、競争が本気の「ガチ」であればあるほど、性別など些細な属性に構っている暇はないのである。興味深いことに、それとは正反対のベクトル、すなわち資本主義の打倒が女性解放の唯一の道だと信じられていた時代があった。1990年に出版された上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』はその集大成と言うべきものである。そのメッセージは明確だ。資本主義社会においては、女性差別は経済原則からの必然である。だとすれば、資本主義の下での真の女性解放は、資本主義の打倒と共産主義革命の成就によってなされるべき、というのが論理的な帰結となる。副題に「マルクス主義」フェミニズム、とあるのはそういうことだ。今の若い人には、なぜ多くのマスメディアの記者や野党の政治家が、虚偽の主張をしてまで自国政府を攻撃するのか不可解だと思うが、もし資本主義の打倒が絶対善なのだとしたら、資本主義国の政府を攻撃するのも絶対善であり、その前にあらゆる手段は正当化されうる、というのが彼らの信念なのである。悲しいことに、上野氏の主著が発売された1990年という年は、東西ドイツの統一がなされ、誰の目にもマルクス主義の理想が、少なくとも社会主義という形では実装しえないという事実が明らかになった年であった。社会主義の退潮を察して、もちろん上野氏も共産主義革命を叫んだりはしていないのだが、上野氏や彼女のサークルの多くの人々は、私の知る限り、論理の根幹に関わるところで主張の総括をすることなくラベルを付け替えて、うやむやのままに相も変わらず正義の旗手のような顔で、現代の #MeToo に流れ込んだわけである。

話がそれた。

歴史的な経緯を普通に眺める限り、自由な競争の保証こそが女性解放の唯一の正しい道である、という主張は説得力があるものである。学業の能力で、男女に顕著な能力差があるというデータは私の知る限り存在しない。女性でも男性でも、賢い人は賢い。業務処理能力についても同じである。優秀な人は優秀であり、男女問わずだらしない人はだらしない。だから単に、優れた人が公正に競争できる仕組みと、十分な雇用の流動性さえあれば、基本的には問題は解決するはずである。公正な市場競争が貫徹するテック業界の、ボトムラインでの評価が貫徹する経営陣であればなおさらのこと、そのような信念の信奉者なのだろうと勝手に思っていた。

しかしこの本はそういう本ではない。Studies show...という形で女性の置かれた不利な状況を繰り返し繰り返し紹介し、女性が意志をもって上のレベルの判断に参画することの重要性を説きはするが、いかにして制度的に自由な競争を保証するかという話は、私の誤解でなければ、具体的にはひとつも出てこない。あらゆる意思決定は論理的に厳密な意味で不公平である(「醜い家鴨の仔の定理」)。したがって、あらゆる仕組みを不公平だ不公正だと批判するのはたやすいのだが、では全方位に公正な仕組みとはどういうものか(「男性の新規採用や昇進を禁止すれば公正なのか」など)という肝心な問いへの答えは本書にはない。真剣に女性の能力を活用するための具体的方策を考えている経営者なり政府関係者は困ってしまうのではないだろうか。本書は、女性へを励まし、lean-in を促す暖かい言葉に満ちている。有力なメンターを持ち(つまり子分筋になり)、アンテナをいつでも張って、機会を逃すな、というようなある種の心構え論である。それはすばらしい。しかし、相当程度出会いの運に影響されるはずの親分・子分関係が、組織の系統的な運営手段になるはずもない。

自分がトップを極めた後、後に続く人たちに対し本当の励まし・贈り物ができるとすれば、それは、自分の子分を優遇するというような狭い話ではないと思う。制度的に、いつでも、どんな出自の人でも、たとえば、田舎の出身でも、家庭的な事情から地方大学にしか通えなかった人でも、子持ちの人でも、未婚の人でも、素朴に、優秀な人がその優秀さを発揮できるような仕組みの整備と言うことになるはずである。性別や出自に業務能力が関係しないのならば(それがフェミニズムの大前提であろう)、その仕組みは性別や出自に中立でなければならない。

不思議なことに、本書からはそういう話が読み取れないのである。それは単に過渡期としての限界なのだろうか。そうかもしれない。特権的エリートの限界なのだろうか。それもあるのかもしれない。しかし私はもっと深く、かつて上野氏の本で感じたような後味の悪さを感ぜざるを得なかった。階級闘争論は人類を幸せにはしなかった。同様に、Identity politicsもまた問題解決の手段にはなりえないと思う。現代の #MeToo 運動にある種のデジャブを感じるとしたら、その人の感覚は正しい。


Lean In: Women, Work, and the Will to Lead

  • Sheryl Sandberg (Author)
  • Publisher : Knopf; 1st edition (March 12, 2013)
  • Language : English
  • Hardcover : 240 pages
  • ISBN-10 : 0385349947
  • ISBN-13 : 978-0385349949
  • Item Weight : 1.05 pounds
  • Dimensions : 6.01 x 1.02 x 9.58 inches

2020年12月31日木曜日

The Actor's Life (by Jenna Fischer)

 

アメリカで近年もっとも人気のあったテレビドラマのひとつ "The Office (アメリカ版)" の主人公 パム役でおなじみのジェナ・フィッシャーの自叙伝。女優の自叙伝にありがちな成功物語でも、他人事のようにハリウッドの内幕を描くのでもなく、セントルイスの片田舎からLAに出てきて、下積み時代はもちろん、今でさえつらい目にあいながらなんとか生き延びてきた彼女の苦労談をあけすけに語る。

ジェナは演劇に憧れる少女だったが、高校時代は特に主役をこなすわけでもなく目立たず過ごした。両親もエンターテイメント業界とは何の関係もない。大学では演技を専攻し、自分にはいくらかの天分があることを信じるようなった。少しの自負と大きな夢を持ち、マツダ323(ファミリア)に乗ってLAに行く。窓もないようなアパートでの貧乏生活から下積み生活をスタートする。 

 本の中では、例えばSAGと呼ばれる俳優組合の役割や、オーディションの様子、エージェントやマネジャーの見つけ方、エキストラのひどい扱い、危うく国際売春組織に売られそうになった経緯などなど、細かいハリウッドの内幕が詳しく書かれており興味深い。しかし何より興味を引いたのは、俳優という職業が、いかに(理系の)研究者に似ているかということだった。

The Officeで全米の人気者になった後ですら、試写会で評判が悪かったという理由で、配役予定のドラマから電話一本で降ろされたりする(そしてそれがメディアに流れて晒し者になる)。「大御所」への遠慮はない。無名時代にはもちろん、オーディションで落選に次ぐ落選である。これはまるで、常に厳しいピア・レビュー(査読)にさらされる研究者のようである。

研究者でも俳優でも、駆け出し時代の最大の仕事は自分を人に知ってもらうことで、ありとあらゆる機会をとらえてコネを作ろうとする。学問分野によっては、特に日本では、ある程度有力大学の流派に乗ればさほどの社交努力は必要ではないという幸運もあり得るが、アメリカでは一般にそうではない。学会で、バンケットやコーヒータイムが過剰と思われるほど設けられているのはそのためである。俳優の世界も似たようなものらしい。

常にオーディション落ちの恐怖に苛まれているハリウッド俳優と同じく、よほどの例外を除けば、研究者にも「上がり」はない。理系の一流学術誌には世界中から優れた論文が寄せられ、多くは厳しい査読の結果として掲載を拒絶される。たとえばアインシュタインですらPhysical Reviewというアメリカの一流学術誌から拒絶査定を受けた話は有名である。PhDを出たての若者も、50歳の教授も、そこに特に違いはない。

若者時代ならまだしも、いい年をして精魂込めた自分の演技なり作品なり論文に罵倒のようなコメントを受けるのはつらいことである。それは分野を問わず誰しも同じである。だから大多数の俳優志望の若者が数年で諦めてしまうのと同じく、ほとんどすべての研究者の卵も、数年で表舞台から消えてしまう。あまりに耐えがたく厳しいからである。その過程で多くの人は、自分がしたかったことは何だったのか自問自答を積み重ねる。そして多くの人は気づく。自分は本当は、俳優なり研究というということ自体に取り立てて強い興味はなく、それを単に名声を得る手段として使っていただけだったのだと。

これに関してジェナの言葉は力強い。

Even with  all the ups and downs, I love being an actor. But more specifically, I love using my imagination. I love reflecting on my own  feelings and bringing them to life in a character. I love connecting with an audience. I love being in touch with how it feels  to be guilty, angry, regretful, elated, loved, loving, spiteful, terrified, dishonest, or heroic. I love to recreate and experience these  feelings onstage, on TV, or in film. I love figuring out a character, discovering how we’re similar and how we differ. I love  all the new challenges that come with a new project. I love being  a storyteller. I love making people laugh. I love being with and  creating with other artists. And I love celebrating the human  experience.  (Chap. 6, "The Journey")

 彼女にとって演技とは人間への理解を深めるための創造であり、彼女はその過程自体に魅せられつづけているのだ。研究者も同じであろう。徹底的に考え抜いた後に見える何か美しい地平から、一見乱雑なこの世界を見下ろすという経験に一度でも魅了されたことのある者なら、どういう形にせよ、研究という営為から離れることなく、その苦しみも受け入れることができることだろう。

人生で挫折を感じたときに、何かヒントを与えてくれるかもしれない好著。

  • Title: The Actor's Life: A Survival Guide
  • Author: Jenna Fischer 
  • Publisher : BenBella Books (November 14, 2017)
  • Publication date : November 14, 2017
  • Language: : English

 

2020年11月11日水曜日

Evernote から OneNote に移行

OneNote のスクリーンショット。Microsoft のウェブサイトから。

査読する論文の管理やら、記事の切り抜き的な用途やら、家のこまごました処理やらのためにEvernoteという情報集約ソフトをもう10年以上便利に使っていたのですが、このたび、Microsoft のOneNote (for Windows 10) に移行することにしました。

Evernoteの最新のアップデート(Version 10)が壮絶な改悪で、私のラップトップ(ThinkPad P52というハイエンド機)でノートを開くだけでメモリは1GB以上、CPUは20%くらい食うという状態で、反応も遅く、もう好き嫌いがどうかというレベルを超えて、使用に耐えぬ状態になりました。その上、ユーザーが調節できる設定機能を全廃してしまったんですよね。実際、Wikipediaによれば(2020/11/11現在)
Evernote version 10 is a complete re-write of desktop clients. It removed almost all preferences and so possibility to adjust application to user needs. 

ということです。ここまでひどいソフトウェアアップデートは初めてです。おかげさまで、長らくプレミアム会員としてEvernoteにロックインされていた私の仕事スタイルを見直す勇気をいただけてありがとうという感じではあります。

私の場合、典型的なEvernoteの使い方は、例えば査読メモ用としては

  • 論文なりのpdfをページに貼る。
  • 重要な式とかグラフとかをキャプチャしてページに貼り、その下に主に日本語でコメントを書く。
  • 箇条書きや色分け、リンクなどのリッチテキスト機能を多用する
という感じでした。その他にも、旅行の計画とか、車やらの修理の記録など。ファイル添付とリッチテキスト編集、クラウドでの情報統一管理は必須で、これを完全にできる情報集約ソフトって案外ないんですよね。長い間Lotus Notesが唯一の選択肢でしたが、Evernoteの方が圧倒的に便利で、2010年以来10年間もプレミアム会員となっていた次第です。

私はOffice 365のライセンスに毎年お金を払っているので、ノートブックはOneDriveに1TBまで追加料金なしに置いておけます。単純にEvernoteに払っていたプレミアム会員代の $75がなくなるだけ。よいことばかりに思えましたが、ひとつ不安は、うまく情報を移せるかということでした。査読論文にしてももう何百篇にもなっているので、移行が不安でしたが、幸い、マイクロソフトがよくできた移行ツールを作ってくれており、ほとんど問題なく移行できました。

重要なTipsとしては、こちらにある通り、ノートブックごとにファイルとして書き出し、それをインポートするということ。当初私は複数のノートブックを一気に移そうとしたのですがうまく行かず、手間はかかりますが、ノートブックごとに手作業でインポートした次第。その結果、サイズがおおむね25MB以上のノートは失敗する確率が高そうでしたが、99%は移行に成功。張り付けた画像もリンクも箇条書きもほぼそのまま移行でき、非常に助かりました。失敗したページは手作業で移せば問題なし。また、インポートをやり直す場合、OneDriveに行って該当するファイルを削除すれば完全にUndoできますので、失敗しても問題なし。

OneNoteには 
  • OneNote for Windows 10 
  • OneNote 2016
という独立なソフトがあり、前者が冒頭に貼ったものです。iPadなどでも同じインターフェイス。後者は古いタブベースのUIで、左右にノートのリストが分離している、ノートのソートができない(!)など不可解な仕様で、これまで避けてきたのですが、OneNote for Windows 10  についてはとても美しいインターフェイスになっていて、反応が遅いこと、検索機能がショボいことなど細かい問題はあるにせよ、代替としてはおおむね満足です。

Evernoteは、卓抜なアイディアによるクラウドストレジの雄として敬意を持っていただけに、ゴタゴタ続きの最近の様子は残念でなりません。このままだと消え去る運命でしょうか。逆に言えば、老舗企業であるMicrosoftが、こういう若いスタートアップとガチで勝負して寄り切れる活力を保持しているというのはすばらしいことです。


2019年12月8日日曜日

The Reluctant Communist: My Desertion, Court-Martial, and Forty-Year Imprisonment in North Korea


1965年に米国陸軍軍曹の身分で北朝鮮に投降し、その後日本人拉致被害者の曽我ひとみさんと結婚し、2003年に帰国を果たしたチャールズ・ジェンキンス氏の回顧録。原著のタイトルを直訳すると『不本意な共産主義者 ─ 脱走、軍事裁判、北朝鮮に閉じ込められた40年』。日本語版のタイトルは『告白』。

ジェンキンズ氏はノースカロライナ州の片田舎出身の、どこにでもいたようなアメリカ人の青年で、これと言って使命感があるわけでもなく何となく米陸軍に入り、ドイツ駐屯を経て朝鮮半島に配属される。朝鮮戦争が終わって約10年を経たころで、取り立てて危険な任務というのはなかったが、下士官に昇進してしばらくして、38度線前線での緊張を伴う偵察任務を与えられ、精神的に追い込まれる。折しもベトナム戦争に本格化の兆候があり、彼らの部隊が近々ベトナムで実戦に投入されるという噂があった。それを気に病んだ彼は、西ベルリンで投降しモスクワ経由で米国に送還されたある米兵士のニュースを見て、酩酊で半ば錯乱した精神状態で、本国送還を期待して38度線を徒歩で越え、北朝鮮軍に投降する。それが40年の長きにわたる監禁生活の始まりである。

解放に至る経緯は日本では語りつくされていると思われ、特に付け加えることはないが、拉致被害者解放に至るまで、日本の政治情勢と主要メディアの報道が明らかに異常であったということは記しておきたい。日本人が拉致された確実な証拠があり、実行犯まで逮捕されているにも関わらず(宇出津事件、辛光洙事件など)、また、拉致にかかわった日本人グループの具体的な証言があるにもかかわらず、なぜか警察は動かず、安倍晋三氏をリーダーとする自民党の一部を除いて、ほぼすべての政治家と官僚は、この自国民に対する深刻な人権侵害を見殺しにしたばかりか、逆に朝鮮人への人権侵害と非難する始末であった。私自身、長い間、恥ずべきことにこれら無責任な政治家と同じような考えであったが、1998年ころまでに、石高健次氏らの著作から、拉致犯罪の実在を確信していた。普通の知的誠実さがあればそのような結論に至るのは当然のことである。

本書で特に興味深かった点は二つある。ひとつは、曽我ひとみさんと出会い、結婚し、家庭生活を営んでゆく経緯である。身から出た錆、囚われの身の日常で、しばしば投げやりな気持ちで生きてきたジェンキンス氏は、美しく純粋な若き日の曽我さんに会い、ある意味人間性を取り戻す(Chap 5. "Soga-san")。彼らの日常が望みがないものであればあるほど、彼らの純愛の物語はますます崇高さを増す。それはまるでサルトルが描いたナチス占領下のパリのようである ──「われわれは、ドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。われわれは、ものを言う権利を始めとして、一切の権利を失っていた。(中略)。全能な警察がむりやりわれわれの口を閉じさせようとしたからこそ、どの言葉もすべて原理の宣言としての価値をおびた。」(J.P. サルトル、『沈黙の共和国』。F. パッペンハイム『近代人の疎外』第1章所収) 。

もうひとつは、投降に関し軍事法廷での判決を得て、ある意味みそぎを済ませてから、本書日本版の印税をもとに航空券を買って、40年ぶりにノースカロライナの郷里に帰った時の情景である(Chap.10 ”Homecomings")。40年ぶりに会う老いた母親との感動の再会を期待していたジェンキンス氏は、認知症により息子や孫たちをうまく認識できない母親の様子にショックを受ける。さらに、多くのアメリカ人が監獄国家北朝鮮の現実をほとんど知らず、ジェンキンス氏のことを、敵国に投降した裏切り者、共産主義に洗脳された活動家、といった疑いのまなざしで見ていることを知り落胆する。それはまるで、捕虜になることを恥とした戦前戦中の日本のようで、軍事国家アメリカの負の一側面であろう。

せめてもの救いは、ジェンキンス氏が自分の過去を振り返り、自分の過ちで40年もの間囚われの身であったとしても、曽我さんに会えたという一点において、北朝鮮で過ごした自分の人生は無駄ではなかったと述べていることだ。日本では圧倒的多数の国民が、曽我さんやジェンキンスさんを心から気の毒に思い、彼らの生活が軌道に乗るようにできる限りのことをしたと思う。ジェンキンス氏も本書でそのことについて、繰り返し感謝を述べている。元の自分の郷里で傷ついたジェンキンス氏だったが、佐渡を生涯の住処として、2017年に亡くなるまで穏やかな晩年を過ごしたようである。


The Reluctant Communist: My Desertion, Court-Martial, and Forty-Year Imprisonment in North Korea
  • Charles Robert Jenkins
  • ペーパーバック: 192ページ
  • 出版社: Univ of California Pr (2009/3/10)
  • 言語: 英語
  • ISBN-10: 0520259998
  • ISBN-13: 978-0520259997
  • 発売日: 2009/3/10


告白
  • チャールズ・R・ジェンキンス  (著)
  • 文庫: 320ページ
  • 出版社: 角川書店 (2006/9/22)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4042962017
  • ISBN-13: 978-4042962014
  • 発売日: 2006/9/21


Infidel

ソマリア出身で現在主にアメリカでイスラム教にまつわる人権問題に活発に発言を続けるアヤーン・ヒルシ・アリの半生記。原著タイトルのInfidelは「異教徒」の意味。和訳の表題は、『もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した』。

ヒルシ・アリはソマリアの著名な政治的指導者のひとりヒルシ・マガンの娘として生まれ、母国の混乱と氏族内での問題から、23歳の時にオランダに亡命する。それは直接的には、父親から強いられた結婚から逃れるためであった。氏族の面汚しの汚名を背負った彼女は、ムスリムであることと、自分の人生の関係を深く考えるようになる。ソマリ人の同胞の多くが生活保護を頼って自堕落に生きているのを横目に、彼女は通訳として生計を立てながら勉学に励み、30歳の時にオランダの名門ライデン大学で政治科学の修士号を取得する。

オランダ労働党のシンクタンクで働いているときに、当時オランダでも大きな社会問題になりつつあったイスラム教徒との文化的政治的摩擦についてのコメンテーターとしてメディアで有名になる。アメリカの同時多発テロ事件のころである。彼女はオランダで国会議員にまでなるが、イスラム教における人権侵害を厳しく指摘する彼女はイスラム教徒からの攻撃に常にさらされており、その政治的立場は危ういものであった。実際、彼女とイスラム教における女性迫害を告発した映画 "Submission"(服従) を撮った 有名な映画監督テオ・ヴァン・ゴッホは、映画の公開後まもなく路上でイスラム教徒に惨殺されてしまう。遺体には手紙がナイフで突き刺してあり、そこにはヒルシ・アリに対する殺害予告が書かれていた。彼女はその後常にボディーガードとともに行動せざるを得なくなる。

私がヒルシ・アリの名前を初めて知ったのは、”Is Islam a religion of peace?”(「イスラム教は平和の宗教か」) と題したディベートを聴いた時であった。現代のアメリカでは、イスラム教の存在自体に疑念を表明するのは政治的に不可能に近い。今からおよそ10年前、2010年10月にはそれがまだ可能であったという事実はほとんど驚くべきことである。テロを警戒しものものしい警備がなされたディベートの会場で、No monotheistic religion can be a religion of peace (いかなる一神教も平和の宗教にはなりえない)と言い切る彼女の強さ、勇敢さはどこから来るのか。

彼女は敬虔なイスラム教徒の母のもとに生まれ、十代の頃、イスラムの教えは彼女の中では絶対の価値であった。しかし、祖母に強制された自身の割礼の苦痛、一夫多妻の反作用で精神を病む母親、世俗国家ケニアに住んでいるときに読んだ恋愛小説とあまりに違う級友の結婚の現実、ひっきりなしに起こる名誉殺人、自分自身に強いられた結婚、など、それまで彼女が折に触れ感じた疑問が、異国オランダで独り立ちし生きる力を得たときに、彼女の中で臨界点を超える。不可侵の聖典であるコーランを字義通りに読む限り、女性を家畜同様に扱っている現実はイスラム教の必然的帰結である。現代的な人権概念とイスラム教の教えは根本的に矛盾し、イスラム教の教え自体が、人間による聖典の変更・再解釈を禁じている以上、原理的に妥協点は存在しない。彼女によれば、イスラム原理主義者による異教徒へのテロはイスラム教の正しい実践であり、異端でも何でもないのである。

本書は、現代民主国家の脆弱性に多くの示唆を与える。オランダは現代アメリカと同様、移民の受け入れと文化的多元主義に価値を置いてきた先進的な民主国家である。しかし奇妙なことに、ヒルシ・アリが、名誉殺人、すなわち、レイプされたという理由で父親や兄弟に殺されるムスリム女性たちの理不尽がイスラムの聖典自体に根差す構造的な問題だと訴えるとき、彼女は常に人権活動家からの攻撃にさらされた。「極右排他主義者」、「反イスラム主義者」、等々の名のもとに。人権を守るための具体的な行為が、人権活動家から攻撃を受けるという皮肉は、現代民主国家のあらゆるところに見られる。同時多発テロから18年、アメリカではテロ支援国家からの常識的な渡航制限すら実行困難な状況に陥っている。信教の自由は、現代民主国家が刻苦の歴史の末確立した人権概念の金字塔というべきものであるがゆえ、そこから派生する原理的な問題は、現代民主国家の統治機構の盲点になっている。筑波大助教授殺害事件は別に特殊な例ではない。この世界の先行きは暗い。


Infidel
  • Ayaan Hirsi Ali 
  • ペーパーバック: 384ページ
  • 出版社: Simon & Schuster (2008/3/3)
  • 言語: 英語
  • ISBN-10: 9781416526247
  • ISBN-13: 978-1416526247
  • ASIN: 1416526242
  • 発売日: 2008/3/3


もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した 
  • アヤーン・ヒルシ・アリ 
  • 単行本: 488ページ
  • 出版社: エクスナレッジ (2008/9/30)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 476780681X
  • ISBN-13: 978-4767806815
  • 発売日: 2008/9/30



2019年7月30日火曜日

The Master Algorithm

 最近いくつかのところで The Master Algorithm (Domingos 2015) という本が話題になったのでざっと見てみました。日本でも翻訳作業が進行中らしいです。内容は、機械学習の歴史を概観し、最後に、著者のやっていたプロジェクトを押す、というものです。

(2021年5月更新。邦訳は「マスターアルゴリズム ─ 世界を再構築する『究極の機械学習』」)

著者によれば、機械学習は、記号論理派(Symbolist)、神経回路網派(Connectionist)、進化計算派(Evolutionary)、ベイズ派(Bayesian)、類推派(Analogizer)、という5つの流派からなっており、それを統合するのが著者の提案したマルコフ論理ネットワークとのことです。本書の前半はこれらの流派それぞれを、数式を使わずにノリで説明するものです。類推派って何だよと思うかもしれませんが、これは支持ベクトル分類器(support vector machine)に代表されるカーネル法のことです。著者自身は記号論理派に属し、"Symbolism is the shortest path to the Master Algorithm."(p.90)といったような信念が折に触れ語られます。 .

最後の2章がまとめらしき内容で、第9章ではマルコフ論理ネットワークを実装したAlchemyというシステムを、The Master Algorithm(究極のAI)、あるいはその未来像として紹介し、最後の10章では、プライバシーやシンギュラリティといった最近の話題にコメントを加えます。

この高名なAIの研究者が、究極のAI(The Master Algorithm)と言うからには何かアイディアがあるのだろうと思って読んでましたが、その答えとして論ずるのは、彼らのマルコフ論理ネットワーク。これは確かに、古典的なロジックの確率的拡張に当たるという意味では統合的な枠組みですが、不思議なことに、著者自身が記号表現派の最大の技術的問題として挙げた知識獲得のボトルネック(knowledge acquisition bottleneck, Chap.3, p.89)の問題には何の言及もありません。事実と願望が混然一体になった物語は読むのに大変忍耐を要します。

9章の末尾に出てくるCanceRxという、仮想的ながん治療法発見システムの例は非常に示唆的です。医療診断システムこそ、かつてのAIの楽観と落胆の象徴であり、著者の属する記号論理派の工学的限界を示す象徴でもあるからです。一般に、論理が与えられ、その論理に基づく意思決定なり現象を表すデータが観測できれば、推論は数学的に可能です。その論理の集合の枠内で、いかなる質問にもなんらかの答えを与えることができるでしょう。確率的拡張のご利益により、予測が実現される確率も計算できます。おお、すばらしい!これぞ究極のAI!...ということにはならない、というのが、人工知能の研究史がまさに教えることです。知識獲得のボトルネックというのは、「いったい誰が論理の集合を決めてくれるのか」という問題です。論理は主語と述語からなりますので、主語と述語の集合のことです。これに関する著者の見込みは驚くほど単純です。
As before, the MLN (Markov logic network) doesn’t have to know a priori what the classes in the world are; it can learn them from data by hierarchical clustering. (Chap.9, p.257)
階層的クラスタリングをすれば、論理が列挙できる?クラスタリングのためには距離の定義された特徴空間が定義されていなければなりません。特徴空間を完全に客観的に決めることはできません。人間の観測できる範囲には限りがあるからです。そして観測というのもそれを実行し結果を保存するという意思の結果であり、どうやっても、人間が明示的に認識できる範囲を出られません。著者自身が冒頭で再三述べたロングテールのコンセプトとの関係も不明です。テールにしか現れない稀な現象をどうクラスターとして検知できるのでしょうか。10万人に一人の疾患をどうノイズからより分け見つけるのでしょう。Vapnik's principle を持ち出すまでもなく、工学的レベルでそれは解になりえないのです。

AIの産業応用の観点で、2015年くらいから爆発的に発展した深層学習が業界風景を一変させたのは疑う余地がありません。究極のAIと聞けば深層学習を思い浮かべる人が多いでしょう。深層学習の支持者たちのメッセージはもっと強く、明確です。データを集めよ。さらば論理を与えよう。論理、というのは、(1)低レベルのデータの表現から、意味のある高レベルの表現を抽出する論理、(2)未知の標本を得たときにそれについて何かを予測する論理、ということです。画像分類であれば、画像の中のどういう特徴が決め手になるのかという規則と、画像がどう分類されるのかについての論理(関数)が得られるということです。

しかし、実際には、データ取得に関する人間の偏見ないし限界という問題が常に付きまとい、長い研究の歴史の結果として「何をデータとして集めるか」という点に合意が確立している分野(画像認識、音声認識、自然言語処理)以外では、特徴量工学を不要にした、という深層学習支持者たちの主張が、どれだけ工学的・実用的に妥当なのかを結論を出すべく、今でも研究の努力が続けられています。これは当然でしょう。普通のカメラで飛行機の写真を撮っても、金属疲労による微細な亀裂は見つかりません。飛行機の破壊を予知するのが目的であれば、相応の計測装置が必要になります。ビッグデータは物理学の壁を超えることはできないのです。特徴量工学を不要にしたとしても、データをどう取得するかについての問い(しいて言えば観測工学)を避けて通ることは絶対にできません。

あえて斜めから見てみると、この著者の意図は、常識的に考えて The Master Algorithmという名前におそらく最も近いであろう深層学習(ないしConnectionist=神経回路派)をあえて主役から外すことで、著者が属する記号論理派の政治的復権を図る、というものだったのかもしれません。機械学習を、記号論理派、神経回路網派、進化計算派、ベイズ派、類推派、のように細分するところにも意図を感ぜざるを得ません。このようなコミュニティが存在するのは事実ですが、普通の研究者の常識では、神経回路派・ベイズ派・類推派は同じグループであり、自分たちの問題から派生した最適化問題を解くために進化計算派の協力を得たりしているという感じでしょう。つまりざっくり言えば、記号論理派、対、機械学習派、というような感じだと思います。

この辺の業界事情は、今年2019年に開かれたAAAIという人工知能分野のトップ会議で企画された討論からも垣間見えるところです。そのテーマは "The AI community today should continue to focus mostly on ML (machine learning) methods" ──これはAIという学問はどうあるべきかについての、記号論理派からの問題提起と理解すべきなのでしょう。

私は著者による機械学習の5つの流派(five tribes)という理解にも、確率論理が究極のAIであるという位置づけにも賛同できませんが、唯一、末尾付録の Further Readingのセクションは、一次資料が豊富に引用されたAIの研究史になっていて、この高名な研究者の研究業績に似合う輝きを感じました。

  • ペドロ・ドミンゴス  (著)
  • 神嶌 敏弘 (翻訳)
  • 出版社 : 講談社 (2021/4/23)
  • 発売日 : 2021/4/23
  • 言語 : 日本語
  • 単行本 : 522ページ
  • ISBN-10 : 4062192233
  • ISBN-13 : 978-4062192231




2016年2月29日月曜日

「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」

金融工学が不遇の筑波大学助教授時代に、米国パーデュー大学で4ヶ月ほどビジネススクールで数理最適化を教えたときの見聞をまとめた本。

ビジネススクールをアメリカの象徴として捉え、アメリカの競争社会、パーティー文化、日本での研究生活との対比などを絡め、かつて憧れたアメリカとの関係をある意味で清算する、というような筋だ。

著者はちょうど私の父の世代にあたる。昭和15年に生まれ、60年安保闘争を学部で経験し、修士課程を経て電力中央研究所に入る。若手研究員として、日銀にいた斎藤精一郎、大蔵省にいた野口悠紀雄とともに『21世紀の日本: 十倍経済社会と人間』という論文を書き、政府主催の懸賞論文で優勝する。1968年のことだ。この時期とタイトルからわかるとおり、著者は日本の高度成長とともに生きた。それはアメリカに滅ぼされた旧日本を取り戻す過程であり、何らかの意味でアメリカという巨大な存在に対して自分を知らしめる戦いでもあった。

しかしながら、著者の軽妙な筆致にも関わらず、時代と世代のあまりの遠さに、物悲しさを感ぜずにはいられない。同様の戦いの歴史をつづった盛田昭夫の自伝同様、それが疾風怒濤のある種の成功譚であればあるほど、現時点での我々の暗黒とのコントラストが際立つ気がするのである。

これはこういうことだ。2016年今現役の我々には、日米の二項対立というのは意味がほとんどない。日本側から見ればアメリカは依然として巨大であるが、その関係は10年前と劇的に変化している。つい最近まで、日本はアメリカにとって、非軍事領域で最も存在感のある相手であった。かつてアメリカが得意としたあらゆる先端領域において、日本は世界市場で非常に強い存在感を持ち、仮に日本が政治的に inscrutable であったとしても、むしそろれがゆえに、日本は何か調べる対象、関心の対象として、アメリカの知識階級の頭の片隅にいつもとどまっている存在であった。

しかしそのような日本はもうない。アメリカのメディアには日本が出ることはほとんどない。我が心のアメリカの変遷をいくら熱く語ったところで、それはちょうど、マレーシアにおいて論ぜられる日本論に日本人がほとんど興味を持たないのと同様、アメリカにとってはほとんど意味がない。かつて日本が意味ある存在である時には、日米二つの価値観の内なる相克の歴史は存在価値を持ちえた。しかし今はそうではない。著者ら団塊の世代には、彼らの語る国際関係論、文化論のほとんどが、元の時代的背景を失った結果、空疎な独り言に堕してしまっているという事実を理解してほしい。

工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行 [Kindle版]

  • 今野 浩 (著), 藤牧 秀健 (監修)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 1028 KB
  • 紙の本の長さ: 128 ページ
  • 出版社: 新潮社 (2013/5/17)
  • 言語: 日本語
  • ASIN: B00FYJFVPQ

2016年1月31日日曜日

「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」

「羅南」という街 (現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)で裕福に暮らしていた一家が、悲惨な引き揚げを経てかろうじて姉と生き延び、生き別れとなっていた兄と日本で奇跡的に再開するまでを小説風に描いた物語。

私が読んだのは原著の英語版の方である。終戦間際の混乱で、父と兄とはぐれた母子3人は、"Korean Communist Army"と本書の中で呼ばれている朝鮮人武装集団の襲撃から何とか逃れつつ、途中まで列車で、その後徒歩で38度線南側のソウルを目指す。主人公は、”Little one”こと11歳のヨーコである。藤原てい『流れる星は生きている』をはじめとして何冊か引き揚げ系の本は読んだのだが、"Korean Communist Army" に該当する単語を見た記憶はなく、興味を引かれた。

満州および朝鮮において、日本の敗戦と同時に難民となり、日本に引き揚げて来た人々の多くの証言が平和祈念展示資料館というところでまとめられている。非常に多くの引揚者が恐怖とともに回想しているのがソ連兵による略奪・暴行だ。混乱の中でいくつかの証言には事実誤認もあるかもしれないが、これは歴史的事実として認定してよいだろう。

回想記によれば、ソ連兵と並び恐怖の対象だったのが、「保安隊」と呼ばれる集団である。調べると、まさにこれが本書の主人公である川嶋一家を恐怖に陥れた朝鮮人の武装集団なのであった。今でこそ北朝鮮政府は、あたかも自分たちが戦勝国であるかのように抗日戦争の勝利を喧伝しているが、彼らには日本軍に組織的抵抗を行うだけの実態はなかった。彼らはただの私兵集団であり、日本敗戦後、日本人からの略奪により肥大化し、そうして現在の北朝鮮警察の元になった、というのが自然な理解である。その成り立ちからして、初期のソ連兵同様、彼らに規律を求めても無駄だったろう。

日本の出版業界では、かつての拉致問題がそうだったように、朝鮮人による犯罪を明示的に指摘するのは長い間困難であった。「保安隊」というのはある意味婉曲表現である。その結果、あたかもソ連兵のみが乱暴だったような記憶が日本には残っているが、それは事実と違う(言葉が文献に残されると、そのまま歴史になってしまう好例である)。作中、保安隊こと Korean Communist Armyは、ソ連製のマンドリン銃と思しき銃で武装し、日本人相手に(朝鮮人同士ですらも)陵辱の限りを尽くす。

かといって朝鮮人をひたすら鬼のように描いているわけではなく、元々仲良く暮らしていたLee一家との思い出、ヨーコの兄を助けた朝鮮人家族、逆に、冷酷な住職や詐欺まがいの取引を持ちかける日本人、帰国後ヨーコを悩ませた女学校でのいじめなど、日本人のいやな一面も描かれている。

現在の日本では、引き揚げの辛苦を語ることは倫理的に間違ったことだと思われている。「侵略」をしたのだから、侵略者は殺されても仕方ない、という論理だ。興味深いことに、人権派と呼ばれる人にその傾向が強い。しかし、非戦闘員が陵辱にさらされることを正当化する法は、当時も今も何もない。彼らは国際法上の難民である。現在の世界でも、難民はいたるところに発生している。2015年のシリア危機は記憶に新しい。国を追われる人々にはそれぞれ理由がある。国籍がゆえに排斥を受ける人もあれば、宗教がゆえに排斥を受ける人もいる。どちらにしても、そういう、個人とは無関係な政治的な理由により、難民に対する殺人や略奪を「仕方がなかった」と正当化するのは、現在ボコ・ハラムがやっているテロ行為を正当化するのと変わりがない。

ある統計によれば、満州などソ連占領地区にいた百万人以上の日本人のうち、およそ1/4の人たちが引き揚げの過程で犠牲になったという。過大な数字にも思えるが、常識的な言葉で言えば、戦争により発生した難民という立場の弱い人たちに、かさにかかって略奪の限りを尽くした恥ずべき人たちが、中国と朝鮮には大量にいた、ということである。

著者はアメリカで、韓国人集団の攻撃にさらされているようであるが、政治レベルでの判断の誤りと、個人のレベルでの犯罪を混同しないだけの判断力を身につけたい。


So Far from the Bamboo Grove [Kindle版]
  • Yoko Kawashima Watkins
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 1045 KB
  • 紙の本の長さ: 196 ページ
  • 出版社: HarperCollins; 1st Beech Tree ed版 (2014/6/24)
  • 言語: 英語
  • ASIN: B00JOGB0QE

竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
  • 著者: ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ
  • ハードカバー: 236ページ
  • 出版社: ハート出版 (2013/7/11)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4892959219
  • ISBN-13: 978-4892959219
  • 発売日: 2013/7/11
  • 商品パッケージの寸法: 18.5 x 13 x 2 cm