2022年1月29日土曜日

なぜ日本では旧正月は祝われないのか

私の勤務先にはアジアからの出身者がたくさんいます。毎年、多くの東アジア出身者は、1月末から旧正月のことを話題にします。毎年疑問に思っていたことのひとつに、なぜ東アジア諸国の中で日本だけが旧正月をまったく祝わないのか、ということでした。今度職場の文化発表会みたいな催しで、日本の正月について話すことになったのをよい機会に、多少調べてみました。

現代の日本では、1月1日の正月と、2月の節分は完全に別の行事となっていますが、古代は同じ行事でした[飯島 2011]。いずれも旧暦における年越しに関する行事であり、正月は文字通り正月、節分は立春に関係します。それぞれの性格の相異により、次第に行事をふたつに分けるようになったようです。その後、新暦に切り替わったため、正月の方がおおむね1か月早まり、しかし立春は「二十四節気の第1」としての定義があるので [Wikipedia 立春] そのまま残り、今のようにあたかも独立な行事のようになったようです。これらの行事は5世紀ころ唐から伝わり、日本の土着の文化と融合して定着したと考えられます。

以来、正月は太陰暦ないし太陰太陽暦に基づき祝われていましたが、明治維新直後(明治5(1872)年)に太陰太陽暦から太陽暦に改暦されたのはよく知られている通りです。その移行はわずか20日ほどの準備期間でなされたらしく、当然のことながら、当初はほとんど普及しませんでした。国立天文台のウェブサイト [国立天文台] に、旧暦併記にまつわる時系列が完璧にまとめられています(第1次資料も画像で見られます)。明治22年(1889)に新暦の使用状況を全国で調査した「両暦使用取調書」によれば、この時点で、新暦に基づき正月を祝っていたのは東京や京都といった大都市圏だけで、それ以外の地方では旧暦に基づき正月を祝っていました[塙 1995, 下村 2016]。ある意味この時点では、現代の東アジア諸国の状況と似ていたのだと思います。

ではなぜ日本だけで旧正月が急速に廃れたのでしょうか。これについて歴史学・民俗学の分野では必ずしも確立した知見はないようです [平山 2014]。しかし手元の資料から強く推定できることは、明治の終盤から、太陽暦の受容、皇室の神聖化、庶民における国民としての意識の確立、これら3つが絡み合いながら急速に進み、それに伴い、旧暦は旧弊として自発的に忘れられていったということです。明治16年(1883)から、伊勢神宮が唯一の「正暦」の発行元として指定され [伊勢神宮]、また、皇室に由来する祭日が暦に加えられてゆきます [新田 1993]。学校行事もその暦に従って行われるようになり[佐々木 2005]、新暦はいわば皇室の暦となりました。

「正暦」の確立以降も、旧暦がまだ広く使われているという理由から長らく旧暦併記がなされていましたが、明治41年(1908)に帝国議会衆議院で可決された「陽暦励行に関する建議」により、1910年から公式な暦には旧暦が一切記載されなくなります。衆議院で可決されたということは、各地方のリーダーが太陽暦に移行することを望ましい方向と認識していたことを意味します。1910年は韓国併合の年です。日清、日露、三国干渉、などを経て、日本の人々は、帝国主義の世界で生き残るためには国民が一丸となった必死の努力が必要であるということを知り、その切迫感を伴う時代の空気が、彼らをして、多くの地域において、旧暦に基づく行事を何となく後ろめたい旧弊として急速に忘れさせるに至ったものと想像します。

より明示的にまとめると、なぜ日本だけで旧正月を祝わないのか、という問いに対する答えは、太陽暦の受容後、新暦が皇室の暦になったから、ということになります。その意識を徹底する上では学校行事の果たした役割は本質的でした。などと書くと上からの強制か、という話になるのですが現実はどうやら違っていて、国民意識の確立の中で、大多数の日本人は自分で旧正月をやめて新正月に移ったんですね。つい数十年前までは鎖国していたのに、日本中でみんながけなげに一等国になろうと努力したということです。ある意味大したものだと思います。




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