2021年2月20日土曜日

『事件現場から: セシルホテル失踪事件』

 

2013年に起きたLAでのカナダ人女子大学生失踪事件を追ったNetflixのドキュメンタリー。原作は Crime Scene The vanishing at the Cecil Hotel (Netflix Series, directed by Joe Berlinger)。事件の詳細については英語版のWikipediaをほぼそのまま訳した日本語の項目がある。エリサ・ラム事件、というのがそれである。


これはカナダの超名門大学ブリティッシュコロンビア大学(日本で言えば京大や阪大にあたる)に通う21歳の女子学生が単身カリフォルニアを旅行中にLAのセシルホテル(Cecil Hotel。英語ではシーシルと発音する)というホテルで失踪したという事件である。防犯ビデオの分析の結果、彼女はホテルから外に出ていないと推定され、ホテル内で警察犬を動員して大掛かりな操作が行われた。

セシルホテルはLAにおける最悪の犯罪地帯とされるスキッド・ロウ地区(日本だと西成のあいりん地区などに当たると思う)に立つ。何度も米国における有名な犯罪の舞台になったことで知られ、現地では悪名高い場所である。それがゆえ繁華街至近という立地ながら部屋代は非常に安く、主に海外からの若い客を多く引き付けてきた。LA市の規制により、ホテルの上層階は貧困層の長期滞在者向け住居になっており、ナイトストーカーことリチャード・ラミレス、日本で言うと永山則夫にあたる獄中作家ジャック・アンターウェガーなど、身の毛がよだつ殺人事件の犯人たちが滞在したのはそこである。

この時点で警察の捜査は、現地事情を知らないうぶな女子学生、しかも若い美人の彼女が、この悪名高いホテルで犯罪者の餌食になったことを暗に想定するものであった。しかし大がかりの操作の結果、何一つ手掛かりは得られなかった。そこでLA市警は、失踪の直前に彼女をとらえたビデオをマスメディアに公開することを決断する。それが下記の動画である。

https://www.youtube.com/watch?v=_rfLSVIA0L0

そこにとらえられたエリーサの不可思議なふるまいはインターネット上で爆発的な議論を引き起こした。彼女はまるで何者かに追われているかのようで、パニック状態でエレベーターのボタンを押し続けているようにも見える。一方で、両手をひらひらさせる様子からは、何かの薬物の影響下にあるかのようにも見える。

動画が公開されて数日後、宿泊者から水の出が悪いとの苦情を受けたホテルは、屋上のタンクを点検する。そこで作業員はタンクの水に、全裸のエリーサが浮いているのを発見したのである。名門大学に通う彼女には一切の犯罪歴はなく、多くの "web sleuth"(ネット探偵)たちが、いかにスキッド・ロウの犯罪者が若い娘を餌食にしたかについて自説を展開した。

しかし不思議なことに、警察の多大な努力にも拘わらず遺体からも何の手がかりも得られなかった。外傷もなければ、薬物も検出されない。仮に彼女が意志に反してタンクに投げ捨てられたのならば、犯人は、遺体を背負って何メートルも階段を上り、屋根の上から2メートル程度下にあるタンクの上に降り、そして50㎝角かそこらの小さな保守用の窓から遺体を入れなければならない。机上で考えるとそれも不可能でなさそうに思えるが、下記のNBCニュースの動画を見ると、現場に何の痕跡も残さず、かつ、遺体に一切の外傷を残さずにそれを行うのはまず不可能であることが分かる。


4回シリーズの最終回、エリーサに何があったのかについて、確度の高い推測が明らかにされる。エリーサはI型の重篤な双極性障害に苦しんでいた。症状の再発により大学の授業もきちんと受けられず、友人たちが一人前の社会人になるべく着々と準備をしているように見える中、病気のためにまだまっとうな人間になれずにいる自分を非常に苦にしていた。毎日飲むことを義務付けられている大量の薬。聡明な彼女は、それが症状のコントロールのために必須であることを頭では理解していただろうが、一方で、薬に頼らずに力強く生きる自分をいつでも夢見ており、そして時折、おそらくそれも躁状態の症状のひとつであるが、薬を勝手に中断してしまったことがかつてあった。彼女の姉妹の証言から明らかになったことには、過去の断薬は幻聴・妄想を伴う重い症状をもたらし、幻聴から逃れるためにベッドの下に隠れていたこともあったのだという。

彼女がカリフォルニアを旅行先に選んだのは、かつてフロンティアと呼ばれていた場所で、本当の自分を見つけたいという願いからであった。LA中心部の華やかな雰囲気の中、彼女は身体的には健康なのにもかかわらず薬に縛り付けられているかのような自分をみじめに思ったに違いない。検死結果から明らかになった通り、彼女はLAに来てからほとんど薬を飲んでおらず、精神的な破綻はおそらく時間の問題であった。

実際エリーサは、部屋を共有していた2人の女性宿泊者に対して、「出ていけ」「消えろ」(Get away, get out, go home)などと書いた紙を相手のベッドに張り付けたり、同居者が外出から戻ると内側から鍵をかけ、合言葉を言わない限り中に入れない、などの異常な行動をとった。妄想の支配下にあったのであろう。さらに失踪の日、彼女はLAでテレビの公開収録に出かけ、筋の通らない手紙を番組のホストに渡そうとして警備員に制止されるという事件を起こしている。同居者からの苦情により、ホテルは彼女を別の部屋に移した。エリーサのチェックアウト予定日の前日のことである。当時ホテルの支配人だったAmy Price氏によれば、その晩彼女はロビーに降りてきて、「あたしキチガイなの!でもそれはLAも一緒でしょ!」("I'm crazy, but so is L.A.")などと手を広げて叫んでいたらしい。


エレベーターのビデオにとらえられた奇妙な様子はおそらくその直後の彼女の様子である。法医学者のJason Tovar 博士、精神科医のJudy Ho博士らの解釈によれば、彼女は妄想上の悪者から逃れるため、安全と思われる隠れ場を必死に探していた。運の悪いことに彼女が向かったのは火災の際の避難に使う非常用階段で、それが唯一、警報機を鳴らさずに屋上にたどり着ける経路なのであった。彼女は屋上にある建物の上に上り、4つのタンクが眼下にあるのを見つける。検査用の小さな窓があるのを見た彼女は、そこが唯一、魔物から自分を隠せる場所だと信じた。


多くの人は、人間の脳の複雑な仕組みを知らないし、知ろうともしない。この事件で不幸だったのは、精神障害が公に口にするをの憚られる類の病気であるがゆえ、明らかに奇矯なエリーサのふるまいが長く表に出なかったことである。遺体発見当時タンクのふたは閉じられていたはずだとLAの警察担当者が誤って発表してしまったのも火に油を注いだ。ふたは実際には開かれたままであった。したがって第三者による隠蔽の可能性はほぼありえず、何らかの事故を強く示唆するものであった。

何者かになるためにあがいている時期の若者の心は傷つきやすいものである。心身が健康であっても不安定になりがちだというのに、躁鬱病による精神状態の極度の変動は彼女を強烈に痛めつけていたに違いない。おそらく彼女にとっては、陽光あふれるフロンティアとしてのカリフォルニアへの一人旅を成功させることは、自己再生のための必須の儀式のように感じられていたはずだ。そう思い詰めた先に、これまでにない深さでの闇と破局が待っていたのである。ネット探偵の多くは、彼女の気持ちに寄り添うふりをしながら、実は、彼らの想像力の枠の中に彼女を当てはめて自己満足に浸っていたに過ぎない。自己満足だけならばいいが、YouTube などを通して多くの人たちを結果として扇動し、無実の人たちへの攻撃に導いた責任は大きい。自分が何を分かっていないかを知らない善意の人たちほど手に負えない人たちはいないのである。


このドキュメンタリーは、ホテル側、警察側、ネット探偵側、そして第三者的立場の医学の専門家の意見をうまく配し、それぞれの考えを引き出しつつ、最後に説得力のある結論に導くことに成功している。ネット探偵たちの、心情的には理解できるものの結果として無責任な意見を繰り返し繰り返し取り上げることで、作品としてはやや間延びした印象にもなったが、ディレクターのJoe Berlinger氏としては、あえてそれをすることで社会に対して警鐘を鳴らすという意図もあったのだろう。主観的感想と直接観察された事実、それから科学的推論を適切に区別することためには、高い知性と教養が必要である。それは日本のメディア業界では望むべくもないが、アメリカにはそれをきっちりと、しかも商業ベースのメディアで行える環境があるのである。

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