2022年3月20日日曜日

「戦争学」概論

 

ロシアのウクライナ侵攻を契機に、ようやく日本でも国際政治のダイナミクスを実証的にとらえる動きが出てきているように見えるのは好ましいことである。ロシアの露骨な侵略行為の前に、日本の文系インテリをいまだに支配しているように見える疑似的なコスモポリタニズムの無力さが誰の目にも明らかになった。武装を放棄すれば、あるいは憲法第9条を持っていれば他国から攻撃されることはないとの念仏信仰のようなものが、長い間日本の「知識」人を支配してきた。過去数10年にわたり、他国の侵攻を許し、自国民を拉致され、あらかさまに核兵器で脅されてきたという明白な事実があっても、彼らの信仰が変わることはなかった。

彼らの平和主義は、「侵略されていないから、侵略されない」という同義反復のようなものだったのだろう。おそらく今後、世間の空気が変わったと悟るや、それが、「(ウクライナが)侵略されているから、(日本も)侵略される(かもしれない)」に変わるのだろう。何も考えていないという意味では同じだが、前提も結論も間違っていた前回に比べれば、前提も結論も事実を反映している分が救いである。これを機に、戦後の日本政治を支配してきた退嬰的な空気が少しでも変わることを願う。さもなくば、古くはユーラシア大陸の大半を支配したモンゴル帝国が今や東アジアの貧困国に没落してしまったように、また、近世に地中海地域に覇を唱えたオスマン帝国が一小国に没落したように、日本も没落の道を転げ落ちてゆくことだろう。

本書は2005年、米国のイラク侵攻が一段落ついた時点で出版された地政学の解説書である。地政学とは、「国際関係の粒度で言えば、地理学的な要件に着目して、諸国の外交政策を理解し、説明し、予測するための学問(At the level of international relations, geopolitics is a method of studying foreign policy to understand, explain, and predict international political behavior through geographical variables.)」と定義される。この情報化社会において、地理的要件がなぜ重要なのかは必ずしも自明ではない。実際、本書をかなり以前に読んだ時は、その点が今ひとつわからず、過去の歴史を俯瞰する方法として有用なのはいいとしても、それが予測能力を持ち得るのかはやや疑問であった。

この点はおそらく、軍事的な考察を必要とする。軍事は物理的な兵力の移動を常に伴う。本書でも繰り返し述べられているように、ハイテク戦争時代であったとしても、土地を面として制圧するには古典的な陸上戦力が必須である。そしてその陸上戦力を送るためには、やはり地理的な制約は第一義的な意味を持つ。例えば太平洋戦争末期の沖縄戦では、米軍は知念半島と嘉手納海岸という2つの上陸予定地点を研究していた(八原博道、『沖縄決戦 高級参謀の手記』、中公文庫、第2章)。長大な海岸線を持つ沖縄本島において、揚陸に適する地点はわずか2か所しかなかったということである。一般人が思うよりもずっと軍事行動の地理的な選択肢というのは狭い。古くから交通の要衝とされる場所にはそうなるだけの地理的ないし軍事的な必然性があり、その観点を無視して国際政治上の選択肢を論ずることはできない。逆に言えば、軍事関連の学問が大学から完全に追放されている日本にあっては、地政学的戦略を構想できる政治家が皆無であるように見えるのも仕方ないとも言える。

本書では冒頭でマッキンダー、マハン、スパイクマン、ラッツェル、ハウスホーファーらの学説を紹介し、地政学的概念を通して、ナポレオン戦争からイラクにおける対テロ戦争まで、歴史上の戦争の性格の変遷を概観する。最後に地政学的なアジア太平洋における現在と近未来像を眺める。ある意味悲しいことながら、17年も前の本だが、最後の章は今読んでも全く古さを感じない。北朝鮮の核武装も、中国の覇権主義も急速な軍拡も当時から明らかなことであった。歴史認識問題を国際政治の道具と使っている状況も同じである。日本の為政者はことなかれ主義に安住し、単に傍観しているだけであった。そして状況はますます悪化する一方である。冒頭に掲げたような空想的平和主義者たちの活動が、こういう状況に至らせることを目的とした戦略的活動であったのなら、それは史上稀に見る成功と言うべきであろう。

ひとつ顕著に変わった現実はロシアの位置である。2005年の当時、ロシアはソ連崩壊の混乱から立ち直り切っておらず、日本では軍事的な脅威とは見なされていなかった。プーチン大統領が一時期北方領土問題の解決に前向きのように見えたのも、日本からの投資を呼び込むという意図があったようである。北方領土問題について著者は、二島返還交渉、四島返還交渉、実力奪還、という3つの選択肢を提示し、憲法上の制約から第3の選択肢が実行不可能であることを断りつつ、「戦争に至ることなく四島を返還させる可能性のある方策は、奪回できるだけの軍事力を背景にして経済協力の利をあたえるという、アメとムチによる圧力をかけることだろう」と述べる。そしてこう付け加える。 
こうして歳月が過ぎて強いロシアが復活してくれば、北方四島問題は解決しないまま、またロシアの脅威におののかなければならない日がくることになるだろう。
現実は著者が危惧した通りに進んでいるように見える。

本書は地政学についての要領の良い解説書として有用であるのはもちろん、21世紀の前半、日本の政治がいかに停滞し堕落していたかを活写する極めて良い歴史的資料になるだろう。

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