これは非常に優れた作品だと思う。冒頭から詩的だ。
薄暗い画面に二人の若者が現れる。海を泳ぎ、テトラポットにたどり着き、飛行場の滑走路に火炎瓶を投げつける。背の丈ほどの赤い炎がスクリーンを照らし、彼らは「反米愛国」の赤旗を振る。
革命をしたかった。生きるすべての人が幸せになる世の中を作りたかった。
飛行場全体から見ればその炎はあまりに小さいが、彼らから見ればそれは彼らの分身、自分たちの英雄的な行為に呼応して立ち上がる人民のメタファーである。
各人の持っている能力を100%発揮でき、富の分配はあくまで公平で、職業の違いがあっても上下関係はない。人と人との間に争いはないから、戦争など存在し得ない。そんな社会を作る歴史的な第一歩として、人々を抑圧する社会体制を打ち破る革命をしなければならない。そのために、僕らは生きていた。
原作は立松和平の手による同名の小説である。これはいわくつきの作品で、立松はこの小説をすばる誌に連載している当時、ニュースステーションなどに出演する売れっ子タレント文化人だったのだが、この小説で盗作騒ぎを起こして結局タレント生命を絶たれた。盗作というのは、坂口弘の支援者から『あさま山荘1972』からの剽窃を多数指摘されたことを言う。
原作では、坂口弘と思しき老人が、死刑制度廃止後の日本で、若き浪人生のカップルに昔話を語るというスタイルで話が進む。しかし映画版ではこの静的な設定を嫌ってか、劇中劇の設定となっている。かつて自ら運動に手を染めた監督が、『光の雨』を撮り始める。しかしおそらくはかつての仲間から、符丁めいたはがきが時折届くようになり、監督の精神が不安定になる。ついには失踪した監督を引き継いで、若い世代を象徴する荻原聖人が映画の撮影を引き継ぐ。この荻原が、原作において坂口の話を延々聞かされる浪人生・阿南満也に対応させられている。まさに見事な改作である。
この映画の白眉は、山岳ベースでの総括の場面で、「北川」が監督に徹底的にNGを出され、いわば「総括」を求められるところであろう。坂口弘役の「玉井」に投げ飛ばされるシーンを何度も何度も繰り返し、消耗し切って呆然とする「北川」に、劇中劇の中で監督が問う。
このシーンにおいて、「共産主義化」とか「革命戦士」とか、未定義で曖昧な言葉をメンバーに暴力的に強制した連合赤軍幹部たちの残酷さが浮き彫りにされ、そしてそのような残酷さが、何も特別なことではなく、われわれの日常にも普通に存在するということが伝えられる。理不尽で苛烈な上司や教官というのは珍しい存在ではない。しかし多くの場合われわれは、そのような存在がしばしば引き起こす負の連鎖の中に絡め取られたときに、それを止める術を持たない。「なぜそこまで我慢したのだ」。外から見れば常にそうなる。しかしそれは「外」にある座標軸を使った時に初めてそう言えるのであって、暗い海中では上下の感覚を失うのと同様、理不尽の磁力の中で方向感覚を保つのは常人にはできることではないのだ。
「北川君、君がさっき言った『革命戦士』って何だ?」
「...わかりません。」
それでも、企業や学校であれば、そのゴールは社会という枠の中でいかに階梯を上向きに進むか、というところにあるため、命まで奪う必要は普通ない。しかし、かつての若者たちのゴールは社会変革にあった。論理的に言って、それは、警察や軍事といった強制力を自らの責任のうちに持つということを意味する。であるなら、残酷さの行き着く先が、生物としての存在自体を問題にする地点にまで行ったのはしごく当然のことである。
若松孝二監督の荒っぽい作品と異なり、各俳優のセリフ感がかなり統一されているのも心地よい点だ。山本太郎のようにやや芝居がかった手合いもいるにはいるのだが、主役「玉井」役の池内万作の作りこまれた表情と、何より永田洋子を演じる裕木奈江の演技には本当に感嘆した。テレビドラマに出ていた元アイドル系タレント、くらいの認識しかなかった自分を深く反省した。私は映画業界に詳しくないのだが、この最高の女優に対し、業界は何か報いてあげているのだろうか。
連合赤軍事件を描いた映画を2本ほど見てきた。2000年代になって、比較的客観的にこの事件を取り上げた映画が相次いで出されたという事実は興味深い。次世紀になりようやく、彼らのしたことは無色透明な歴史となり、映画や小説という形でそれぞれの色付けを得て、いわば大衆の中に流れ込んだ。大衆と共に新しい歴史を紡ぎ出すこと。それこそ若き革命家たちが熱く熱く目指したものであった。しかし紡がれたのは結局このような娯楽作品だけであり、それも主体なき人々の傍観の中で無為に消費されてゆくばかりである。歴史の審判とは、まさにこういうことを言うのであろう。
★★★★★ 光の雨 特別版 [DVD]
- 出演: 萩原聖人, 裕木奈江
- 監督: 高橋伴明
- 2002年
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