2009年11月15日日曜日

「『朝日』ともあろうものが。」

元朝日新聞記者で、最近はオリコン裁判で男を上げた烏賀陽(うがや)氏の新聞記者時代の回想録。正直、会社を辞めた人が元の会社をののしる系の本はあまり読む気がしないのだが、これに関しては読後感は悪くない。著者のエネルギーが内向きではなく、外に向かっているからである。

一度この業界で禄をはみ、存分にその垢にまみれたろうに、新聞業界をめぐる構造的問題に対する著者の指摘はきわめて鋭い。このことは筆者が、心の中に確かな価値の座標を持ち続けてきたということを意味する。大人であればそんなことは当たり前ではないか。そう言いたいのはやまやまだが、残念ながら世の現実はそうはなってはいないのだ。

それはともかく、新米記者時代を回想する第2章で、筆者はいきなり鋭い問題を提起する。筆者によれば、新聞記者の多くのメンタリティはかつての国鉄職員のようなもので、要するに市場の反応など何も気にしていない。
とあるローカル線の沿線に、風光明媚な海岸線や、峡谷が広がっていたとする。私鉄、あるいは民営化後のJRなら、そこに展望列車つきの新造車両を走らせ、近くの新幹線駅にダイヤを接続し、沿線の風景を楽しむための列車を運行するだろう。...そうしないと客が減ってオマンマの食い上げになってしまうからだ。

が、国鉄時代は、沿線に風光明媚な名所があっても、誰もそんなものには見向きもしなかった。...。「自分たちの仕事を変えるアクションを起こし、客を掘り起こし、呼んでくる」という発想は国鉄にはなかった。国鉄時代の現場の関心は、それよりはダイヤを正確に運行するとか、事故を起こさないとか、そういう日々のルーティンワークを滞りなく進めることにあった。
ぼくのいた世界もこれと同じだ。その最大の関心は毎日のニュースを大過なく載せるというルーティンワークであって、自分たちがアクションを起こして読者のほしい情報商品を開発するという思考の習慣がない。だいたい新聞が代金をいただいている「商品」だという認識があるのかどうかも疑わしい。ぼくが新聞の現場を去って十年以上が経つが、紙面を見る限り、今もそんな発想は変わらないようだ。
(p.34-35)
営利企業のはずの新聞社において、これは驚くべきことである。こういう人たちが、日本の国際競争を論じ、日本の産業構造を論じ、日本の労使関係を論ずるのである。

数々の面白驚愕エピソードを紹介しつつ、筆者は、新聞社としてはもっとも触れてほしくない秘密に筆を進める。再販制度と記者クラブ制度である。
...書籍や新聞、雑誌も「再販制度」の適用を受けている。メーカーが価格を決め、小売店に値引き競争の自由がないこの制度は、他の商品なら「価格カルテル」(生産著による価格の自由競争阻害)として違法なのだが、レコードや書籍は「文化保護」の名目で例外的に認められている。ところが、規制緩和の流れの中で、レコードや書籍、新聞もこうした制度は消費者の利益にならない、やめたほうがいいのではないかという見直し作業が始まっていた。レコード会社や出版社と並んで、この「再販廃止」に必死で抵抗していたのが、新聞社なのである。(p.90)
かくして新聞購読料は、インターネットを通じてその情報の価値が限りなく無料に近づいた後も、価格競争とは無縁のままである。企業体としての新聞社は、再販制度という規制に取り付いて甘い蜜を吸う既得権益死守団体に他ならない。
九〇年代、世が底なしの不況に突人すると、出版業界の不振も深刻化していった。ぼくの周囲でも、雑誌がどんどん休刊になり、「週刊朝日」や「アエラ」の売上げも低迷し始めた。そんな中、同僚記者が「不況でも元気のいい企業」という特集でブックオフを取り上げようとしたらしい。

ブックオフは古本の全国チェーンストアである。というより、古本屋のイメージを一変させた「本のリサイクルチェーン店」である。古本は再販制度の適用外なので、新品本よりはるかに安い。おかげで、全国に店舗を増やしているのは周知のとおりだ。ところが、朝日を含め出版業界は、このブックオフが本の売上げを減らしている、と目の敵にしているのである。

経済原則に沿って冷静に考えれば、ブックオフで価格の安い本が売れるということは、読者の活字への需要は依然健在であり(「活字離れ」という言葉をぽくは疑っている)、出版業界が決めている価格が市場適正価格より高すぎるからにほかならない、と考えざるをえない。

もちろん、朝日がそういう意見を紙面に掲載することもあるだろう。が、それを社の主張に据えることはありえない。「本あるいは新聞の価格は高すぎる」という事実を認めてしまうと、社員の人件費(つまり給料)から抱えている社員数から、コスト構造をすべで見直さなくてはならなくなる、つまり自社の既得権益を譲らなければならないからだ。
(p.92)
記者クラブ制度にいたっては、引用するのも疲労を覚えるほどだ。マスメディアの主要な機能は、情報の選別にある。選別の後、優れた分析や解説ができればなおよいが、第1にはまずは選別である。選別ということはすなわち、「今、何が知るに値することなのか」「何を論ずるべきなのか」というアジェンダを提示することだ。

この、常識としか思えないagenda settingという言葉に、米国人ジャーナリストへのインタビューの中で出会ったとき、烏賀陽氏は「頭を殴られたような思いがした」そうである(p.116)。それもそのはず、日本の記者クラブ制度の下では、記事のアジェンダは与えられるものであり、思考の対象ではないからである。
記者クラブ取材のない「アエラ」に移ってその差を経験していたぼくは、この「アジェンダ」の意味が痛いほどわかった。記者クラブ時代は、朝クラブへ行けば、書くベき記事は印刷されて山積みになっていた。が、それがなくなってみると、自分で「書くべきニュース」(アジェンダ)を見つけてこない限り、仕事そのものがない。書くべき対象が見つからない。記者にとって、ネタがないことほど苦しいことはない。(p.117)
この絶望的な知的怠惰 ── ありとあらゆる業界、いや少なくとも「市場」の反応を意識しなければならない健全な業界では、社員に求められる最も重要な能力は、ビジネスのネタを見出すことである。営業マンであれば、新規顧客開拓能力が最低限必要されるだろうし、願わくば、新しいビジネスモデルや新しい業界に向けてのビジネス提案ができればなおよい。研究開発に携わるものであれば、新しい研究題目、進むべき方向の設定は、エンジニアとして一本立ちするための最低要件である。

繰り返すが、こういう人たちが、日本の国際競争を論じ、日本の産業構造を論じ、日本の労使関係を論ずるのである。なんと素敵なことだろう。

と、いろいろ書いているうちに、一体、この期に及んで、毎年ほとんど5万円近いお金を払ってこの新聞を購読し続けている何百万人かの人たちは、どういう心境なのかと思わざるをえなかった。新聞という紙媒体でなければ手に入れられない情報は、今やほとんどない。通常購読の十分の一以下の値段で新聞紙をそのまま電子的に読めるサービスもある(産経Netviewなど)。このエコのご時世に、資源浪費の疑いが濃厚な新聞紙の購読を続けるというのは、飲酒や喫煙と同様に、何か病的な依存性でもあるのだろうか。謎は深まるばかりである。


★★★★☆ 「朝日」ともあろうものが。
  • 烏賀陽 弘道 (著)
  • 単行本: 279ページ
  • 出版社: 徳間書店 (2005/10/22)
  • 発売日: 2005/10/22

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