2015年6月7日日曜日

「切り捨てSONY リストラ部屋は何を奪ったか」

10年以上の長きにわたり数千人から2万人という規模の大規模人員削減を数次にわたり続けるソニー社内の、「キャリア開発室(またはキャリアデザイン室)」 に送り込まれた人たちへの取材録。

このいわばリストラ部屋に送られた当人の書いた本かと思いきや、元読売新聞の記者で今はジャーナリストということになっている清武英利という人が書いたものである。本書を読み終えて初めて気付いたが、この清武という人は、渡邉恒雄読売新聞社社長との社内での対立を、コンプライアンス違反だと記者会見で公表して大騒ぎになったいわゆる「清武の乱」という奇妙な事件の当事者なのであった。

ソニーについては、中年以上の日本人の多くは独特の感慨を持っているに違いない。かつてソニーは日本の先端性の象徴であった。世界の田舎者だと思っていた自分たちの国の企業が、世界のファッションをリードする製品を作り出しているというのは驚きであり、長い間ソニーは日本の誇りそのものであった。その革新性は、今のサムスンよりもはるかに深く米国人を魅了したはずだ。

ソニーのファンだったという米国人の経営者の話を聞いたことがある。ソニーのオーディオはよかった。Appleなんかよりずっと音がよかった。しかしiTunesから音楽を買うことにして以来、私はもうソニー製品は買っていない。ソニー製品はよかったが、ビジネスとして失敗したのは残念だった。私はソニーの失敗から学びたい。そう言っていた。

ソニーは確かに、日本経済の栄華と凋落の象徴である。そこに教訓はあってしかるべきである。本書の著者はおそらくそれを願ってもいるのだろう。本書には多数のリストラ対象者が掲載されているが、その「オチ」はほとんど常に同じである。出井社長になってから変質が始まった。昔のソニーは社員を大切にした。盛田氏は終身雇用を約束していた。今の経営者は自分は高給をもらっているくせに社員の首を切る、等々。要するに、ソニーの苦境は経営者の心がけの問題だというのである。

かつての大企業経営者はもっと謙虚で社員の苦痛にも敏感だったのではないか、と私は思う。人にはみな、他人の不幸や苦痛を見過ごしにできない本性があるという。そんな孟子の性善説を引き合いに出すまでもなく、少なくとも激しいリストラを実施するCEOが年に8億円以上の報酬を受け取ったり、無配に転落する会社の社長の年収が増えたりするようなことはなかった。それはソニーという理想工場の終焉を象徴する出来事である。(「あとがき」)

奇妙なことに、「あとがき」には、早期退職後も「幸せに生きている」と語る元社員が実に多いこと、「リストラ部屋」の住人までが共通してソニーへの愛情を語り、ほとんど愚痴らないことに驚いたと記されている。著者が言うとおり経営者による「人災」であるならば、そこに怨嗟の声を多く聞いてもよいはずである。

おそらく、大多数のソニー社員は、著者ほどナイーブではないのだと思う。技術者であればプロジェクトが経営判断で止められるのはよくある経験である。営業であれば、自分の売りやすかった商品が製造停止になったり、自分のお得意様への主力商品の取り扱いが終わったりすることもよくあることだ。総務や経理といった間接業務に従事する正社員であれば、たとえば中国に作業を移管した場合の人件費と自分たちの人件費を見比べて、定型業務の外部移管をやむをえない流れだと考えることもあろう。時代の流れと市場の様相、そして自分のスキルを見比べて、会社は永遠に自分を受け入れてくれる家族のようなものではないことを、自然に学んでいるに違いない。なぜ自分だけがリストラ部屋に送られるのか、という思いを持っていたとしても、それを部外者に語ってもどうなるものでもない。

著者は、自分の信ずる正義の信念と、そういう自然な諦念の現実との大いなる断絶に無自覚であるように見える。本書が、多彩な人間模様を描いているにもかかわらず、臨場感のない単調な繰り返しのような印象を与えるのはそのためだ。本書の中で著者が意図せず作り出した白けた空気は、ソニーの変質が少なくとも経営者の心がけだけの問題ではないことを示している。破壊的イノベーションに成功したこの企業が、変革企業の落とし穴(Innovator's dilemma)に嵌る中で生じた環境の変化こそが、誰しもやりたくてやっているわけではないリストラを余儀なくさせている原因である。

かつて「清武の乱」の時、社内の上位者の判断で自分がはしごを外されたことを、コンプライアンスの問題と言い募るこの著者の主張の理屈をよく理解できなかった。あまり興味もなかったので結論を出さぬまま忘れていたのだが、本書における著者の主観的正義感の空回りぶりを見ていると、そこで何があったのかはなんとなく想像できてしまう。市場や経営判断と無関係に、ひたすら経営者の心構えを念仏のように唱えても問題は解決しない。たとえば大規模人員削減をしなければ会社が存続できない瀬戸際に立ったとき、何も行動を起こさなければ会社は淘汰されるだけである。それを長期的視野に立った家族主義と言うのだろうか。話は逆だ。

この手の本を読むとつくづく思う。本来知識階級の代表として活動すべき新聞記者が、今や社会のお荷物、守旧派の代表となっているという悲しい現実を。日本の主要新聞社は、戦時中の新聞統合と、その後の占領軍による検閲の便宜から温存された寡占体制の中で、再販規制などの法的規制に守られながら超過利潤を手にしてきた。彼らが何と言おうとも、彼らは国家に寄生して生きる存在である。たとえそうだとしても、新聞記者個々人には、特にその官僚機構を飛び出したこの著者には、知性の翼でその限界を飛び越えてほしかった。残念ながら著者には、20世紀に全盛期を迎え、そして今世紀に消え行く運命である日本の大新聞の中で奇形的に肥大化した正義を相対化するだけの知性はなかったということであろう。残念である。


  • 清武 英利  (著)
  • 単行本: 274ページ
  • 出版社: 講談社 (2015/4/10)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4062194597
  • ISBN-13: 978-4062194594
  • 発売日: 2015/4/10
  • 商品パッケージの寸法: 19 x 13.2 x 2 cm

補足。本書は、先日読んだ『ドキュメント パナソニック人事抗争史』が割と読み応えあったので、うっかりアマゾンのおすすめに言われるがままに値段も見ずに買ってしまったものである。キンドル版と紙版で同価格、1728円もする。高い。間違いなく値段相応の価値はない。キンドル版だと古本屋に売ることも人にあげることもできない。半額にとは言わないが、相応に安くすべきだ。

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