2009年10月1日木曜日

「謝罪します」


「北朝鮮の工作員」呼ばわりされて人権が侵害されたと、マスコミと警察を相手に裁判闘争をやっていたカフェバーの「美人ママ」の手による告白本。実は本当に工作員でした、よど号ハイジャック犯・柴田泰弘の妻でした、しかも有本恵子さんを拉致したのは私です、謝罪します、との内容。その衝撃の告白に、人権活動家による彼女の支援組織は解散するに至る。日本政府の人権抑圧問題としてウキウキと取り組んでいたであろう反日的な支援者の皆さんにしてみれば、話がまったくあべこべになってしまったわけだ。さぞかしがっかりしたことだろう。

彼女が告白をするに至った経緯には、独裁国家ならではの馬鹿馬鹿しい事情がある。1992年4月、日本のマスメディアが、よど号犯人たちには妻子がいる、との金日成の言葉を報道する。金日成本人にとっては何気ない失言だったと思われる。しかし独裁国家では、独裁者の言葉は、失言であろうとなかろうと絶対のものであり、そのため、よど号グループは、妻子の状況を公開せねばならない状況に追い込まれる。

そして、それまで身分を隠して工作活動をしていた八尾に、柴田泰弘の妻だったという事実を公開するように指令が下る。それは、裁判闘争の中で悲劇のヒロインとなっていた自分の立場を自ら壊すことを意味する。それが工作活動にマイナスなのは明らかなのだが、そのような事情より、独裁者のひと言が優先されるのである。この理不尽さが独裁国家の本質といえよう。

善意の支援者たちに嘘を告白せざるをえなくなり、著者は考える。組織は、よど号の一味であることを公開すると同時に、柴田との入籍も要求していた。そもそも柴田と結婚した経緯も金日成の事実上の指示によるものであったから、工作員としてはそれを断るという選択肢はない。北朝鮮にて軟禁状態におかれ、やむなく結婚を承諾した著者は、「夫」との時間を任務として耐えてきた。本書の多くの部分を費やして、夫との確執が語られている。しかし自由な日本で入籍することは、法的にはなんらかの愛情の存在を認めることであり、それは彼女には耐えがたかったらしい。数年の呻吟の後、ようやく著者は決断する。自分が工作員であると明らかにし、とりわけ、自分が拉致した有本恵子さんのご両親に謝罪しようと。

このように、著者が告白をしたきっかけは、もっぱら北朝鮮側の愚かさによる。日本の警察に逮捕されても、そして裁判闘争のなかで善意の人たちに囲まれていてもなお、彼女は自分自身で嘘を告白する勇気も能力も持たなかった。

本文自体は前半は活発な女の子の半生記、という感じで、記述も具体的で、軽く読める。バカっぽい自分を隠すことなく、いろいろあけすけに書いているのだが、むしろそのことが逆に前半の信憑性を増している感じだ。一方、北朝鮮で拘束されてからの記述はどこか抽象的で、男性拉致対象者との擬似恋愛のエピソードなど一部を除いて、どうも現実味に欠ける。たとえば北朝鮮からの外国への入国の手続きなどにはいろいろ謎が多いのだが、具体的記述はほとんどない。資料的な部分は読者の興味を考えて省いたのかもしれないし、操られるがままに行動していた人間の感受性では、リアルな文章を書けなかったのかもしれない。最後の告白をめぐる事情が記された章は、さらに抽象的で、砂をかむような調子になる。他人に吹き込まれた言葉をつぎはぎしている感じで、文章に脆さを感じてしまう。

厳しいことを言えば、彼女には、何か理想なり思想なりを自分のものとして能動的に行動する能力はない。自分の絶対座標を定義するだけの知性はなく、よど号グループ、裁判闘争の支援者たち、夫、子供、のような人たちとの相対的な距離を測りながら行動しているに過ぎない。

彼女が洗脳されていた「チュチェ思想」なるものは、慈父・金日成の「愛と配慮」(p.79)に対して「忠誠」で応える、という封建的主従関係を社会主義的言語で粉飾したようなものだ。つまり絶対的独裁者との相対的な距離が行動指針となる。このような、絶対的論理構造がはっきりしない思想は、知識階級には退屈なものだろうが、彼女のようなタイプの人間にはむしろなじみやすいものなのかもしれない。

それにしても、このような事件はこれまで散々明るみに出ているのに、いまだ北朝鮮や朝鮮総連に融和的な態度をとる人たちの気が知れない。本書は、そういう人たちに送る、わかりやすいテキストと言えるだろう。何しろ、拉致も結婚も、そして告白も、すべて金日成の指示によるものなのだから、さすがの北朝鮮関係者も、本件だけは否定のしようがないだろう。一方で、絶対的な価値観の確立していない人間がどこまで醜い行動を取れるかを示す資料ともなりえる。この世の闇は深い。

★★★☆☆  謝罪します
  • 八尾恵
  • 文藝春秋
  • 2002

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