2010年1月10日日曜日

「『金融工学』は何をしてきたのか」


金融工学およびオペレーションズ・リサーチの権威で、多くの教科書のほか『カーマーカー特許とソフトウェア ── 数学は特許になるか』や、『役に立つ一次式 ── 整数計画法「気まぐれな王女」の50年』などの一般向け啓蒙書でもよく知られた今野教授の最新刊。題名から知れる通り、昨今の金融工学悪玉論に反論する、というのが主題であるが、弁明の書というよりは、金融工学そのものの概説書と考えた方がいい。技術的な堅い話に、広い読者の興味を引くような面白エピソードを交えて軽快に語る著者の筆力は確かで、金融工学そのものの概説を「理系風」なスタイルで直接試みた同著者の『金融工学の挑戦』よりも、物語としての読みやすさは増しているように思う。その意味で万人に広く勧めたい。

リーマンショック以後、いわゆるヘッジファンドに象徴されるような、金融工学を駆使した金儲けへの風当たりが強い。今野教授は、経済学の大御所・故サミュエルソン教授が2008年に朝日新聞記者に語ったとされる言葉
「世界経済を破滅の淵に追い込んだ金融ビジネスの不始末の元凶は、米国金融当局の規制緩和と、悪魔的・フランケンシュタイン的金融工学だ」(p.71)
に答える形で、批判されるべきは強欲な人たちの跳梁を放置したシステムであって、金融工学そのものではないと訴える。

上記インタビューに関して、今野教授は記者の誘導もしくは牽強付会があったのではないかと疑っているようだが、大衆向けメディアが反知性主義的なポーズを取ることはよくあることなので、仮にそうだとしても別に驚かない。むしろ私には、研究を生業にするはずの同僚エンジニアから、サブプライムローン問題に関係して、だから金融工学はダメだ(「人間的な」新しいアプローチが必要だ)、と聞かされた時の方が驚きであった。そうして初めて問題の深刻さを認識したのである。

冒頭の第1章で著者は、金融に関するリスクとして次の4つを挙げる。
  • 市場リスク
    株価などの商品価格の変動に関するリスク。いわゆるポートフォリオ理論の守備範囲で、半世紀以上にわたる歴史がある。
  • 信用リスク
    「貸したお金が予定通りに戻ってこないことに伴うリスク」(p.34)。金利の決め方に直接関係する。理論はまだ発展途上。
  • 業務リスク(Operational risk)
    「業務が適正に遂行されないことに伴うリスク」。ATM不具合など。通常の金融工学の守備範囲外。
  • 流動性リスク
    「市場で正常な取引ができなくなることに伴うリスク」。研究はまったく未成熟。
上記から明らかなように、ひと言で言えば、サブプライムローンの破綻は、信頼に足る信用リスクの見積もりがなかったためである。本書第5章では、証券化した住宅ローンの信用リスクの定量的評価が非常に難しいことをまず指摘する。

私がこの商品についで抱いた疑問は、どの程度正確にリスクを推計することができるのか、という点である。デフォルト・リスクは、"連鎖倒産"を無視したうえで、経済情勢に大きな変化がないものと仮定すれば、ある程度推計可能である。難しいのは、満期前繰上返済リスクの計算である。これには、金利水準、経済情勢、雇用状態などが絡んでくるからである。一年先でも難しいのに、30年も先のことまで考えなくてはならないのだから、専門家でなくても、この作業が容易ならざるものであることがわかるはずだ。(p.149)
そうして、「では格付け会社は、このような作業をきちんとやっているのだろうか」と問いかける。格付けをどうやるかは会社ごとに企業秘密とされていて、詳細は不明であるとしながらも、アート(主観)に負う部分が大きいに違いないと述べる。
さて、格付け会社は、住宅ローン担保証券の格付けを請負っているわけだが、その作業は企業の格付けよりずっと難しい。科学には手間がかかるが、アートなら手抜きができる。そしで手抜きの結果が、発行側 ── 銀行と証券会社 ── に有利な結果をもたらすことは眼に見えている。(p.151)

結局問題は、金融工学そのものにあるのではないことは明らかだ。むしろ金融工学の非適用に問題があったとすら言える。「今回の危機は、リスク計量技術(金融技術)が未成熟な段階でこの種の商品が大量に販売され、欲張りな投資家がこれに群がったために生み出されたものである」(p.192)。

それにしても、金融工学が災厄の元か否か、というような立論は、核兵器と物理学、あるいは公害と科学技術、のようなテーマで何度も何度も繰り返されてきたはずのことである。たとえば原子爆弾の悲劇が、相対性理論と量子力学という、成立間もない20世紀の新理論が存在しなければ起こりえなかったことは確かである。ならば、あらゆる物理学文献を焚書にし、あらゆる物理学者を獄につなげば問題は解決するのだろうか。金融工学をめぐる最近の反知性主義的な言説にも同様の愚かさがあるように思える。無教養と思われたくなければ、よく考えてから発言することである。


「金融工学」は何をしてきたのか(日経プレミアシリーズ)
  • 今野 浩 (著)
  • 新書: 208ページ
  • 出版社: 日本経済新聞出版社 (2009/10/9)
  • ISBN-10: 4532260604
  • ISBN-13: 978-4532260606
  • 発売日: 2009/10/9

2 件のコメント:

  1. ATM不都合を含めたオペレーショナルリスクの、定量評価は可能と思います。

    金融工学の守備範囲外というのも当てはまらないのでは。

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  2. コメントありがとうございます。
    内部統制とかの関係で、オペレーショナルリスクを制御しようとする動きは最近ありますよね。ただ、まだ多くはITシステム側からのアプローチで、「金融工学」の人はあまり参入していない、という意味で今野先生はお書きになっているのだと思います。

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