2010年1月8日金曜日

「金融工学の挑戦 ― テクノコマース化するビジネス」


金融工学という学問分野の成立史と、金融工学の基礎を解説した本。期待値とか分散とかの用語がわかる程度の統計学の基礎知識が必要だが、それさえあれば、マーコビッツ理論CAPMブラック=ショールズ理論、などの基本概念がとてもよく理解できる。仮に専門的な金融工学研究に興味がなくても、金融工学のスターたちの面白エピソードも随所に織り込まれており、読み物としても面白い。サブプライムローンの破綻とそれに基づく大不況のはるか前に出版された本であるが、住宅ローンの証券化とそのリスクについて詳細に説明している点も特筆に値しよう。金融工学入門、というカテゴリの本ではもっともよくできた本である。

先日取り上げた勝間和代氏の『お金は銀行に預けるな』は、マルキールの古典・『ウォール街のランダム・ウォーカー 株式投資の不滅の真理』そのままに、「インデックスに投資せよ」と教える。勝間氏の本の想定読者は一般大衆であり、一般大衆に向けとしては正しいメッセージであろう。素人株式投資よりもはるかに期待リターンが多いと思われるからである。

一方本書は、一般大衆というよりは、金融工学を使いたい、もしくは、研究したい人向けである。そうなると、理論そのものの説明と、それに付随する数式は避けられないし、それを省略することなく説明を試みている本書には、他の似非入門書にはない価値がある。

国の行く末を憂う著者の熱い思いが行間からにじみ出ている点も類書にはない特色である。たとえば第3章「資産運用理論」は、古典理論としての平均・分散モデルとCAPM理論、そしてそれらの限界を説明する章なのだが、分散投資は必要だよね、と語りかける冒頭部分に、さりげなく次のような指摘を混ぜる。

ある研究報告によると、日本の投信の平均的収益率は、長い間日経平均の収益を10%以上も下廻っていたという。(p.48)
これは衝撃的な指摘ではないか! インデックスを10%も下回るというのは、ほとんど商品としての体をなしていない。ことほど左様に日本の金融業界の工学的な技術水準は低かったのであり、世界一の製造業の稼いだ国富を、最低の金融業界が食いつぶしてきたと著者が嘆くゆえんである。

マーコビッツの平均・分散モデル
さて、ポートフォリオの最適設計の基本となる考え方は、マーコビッツの平均・分散モデルである。これは「期待収益率を高くしつつ、収益率のばらつきも抑える」という基準で最適な分散投資が何かを探る。期待収益率を求めるためには、各銘柄の収益率の確率分布がわかっていなければならない。何とかしてそれを求めたとしても、「収益率を一定にしてばらつきを最小化する」という問題は、数式的には2次計画問題と言われ、現代のパソコンをもってしても、銘柄の数が千を越えるくらいになると、汎用のソルバーで解くのは苦しくなってくる。そこでマーコビッツモデルをいかに近似して、簡単に解けるようにするかに努力が払われた。

単一因子近似
その近似モデルで代表的なものがウィリアム・シャープの創始した単一因子モデル(single factor model)である。これは物理学的に言えば一種の平均場近似であり、各銘柄の収益率が、何らかの意味で市場平均に連動していると仮定する。具体的には、
ある銘柄の収益率 ∝ 市場平均ポートフォリオの収益率
のような仮定を置く。切片を含む比例係数は過去のデータから最小2乗法で求められる。この仮定を置けば、マーコビッツの平均・分散モデルを割と簡単に解けるようになる。実際、シャープは、20銘柄程度のポートフォリオを作って、元のマーコビッツ理論の解と、この単一因子近似に基づく解がほとんど変わらないことを示したのである。

ただ、ここに落とし穴があって、
実のところを言えば、これは銘柄数が少ない場合の話であって、100銘柄を越えると、両者の結果はかなり違ってくる。また1000銘柄ともなると、両者にはほとんど類似性がなくなる。しかし、それが明らかになるのは、実際に1000銘柄のモデルが解けるようになった80年代以降のことである。(p.65)
とのことである。この事実が、後年の多因子モデルや絶対偏差モデルにつながってゆく。

CAPM理論
しかし兎にも角にも、シャープの単一因子近似は、マーコビッツモデルを、具体的に解ける形に落としこむという意味で非常に意義深いものであった。しかも、国債のような無リスク資産の存在を前提にすれば、次の定理(2資産分離定理)が導ける。
平均・分散モデルに従って投資を行う投資家は、市場平均ポートフォリオと無危険資産だけに投資を行う。(p.65)
これを信ずれば、TOPIXのようなインデックスに連動するファンドか、そうでなければ短期国債だけに投資するのが最善、ということになる。これが、上記勝間本の種本であるマルキールが依拠した結果である。

その上、
(個別銘柄の平均収益率と無リスク資産の収益率の差)
∝ (インデックスの平均収益率と無リスク資産の収益率との差)
という関係式が成り立つことも示せる。この式の比例係数を β と書く習慣があり、これにちなんでこれをベータ関係式と呼ぶ。ベータが1の銘柄は、市場平均ポートフォリオと同じ振る舞いをする銘柄であり、ベータが2の銘柄は、市場の動向により敏感に反応するハイリスク・ハイリターン銘柄、と言うことができる(p.67)。

ベータもまた、過去のデータから最小2乗法などで決められる。銘柄ごとにベータさえ決めれば、複数の銘柄を組み合わせてそのポートフォリオ全体のベータをほぼ1にすることは比較的簡単である。2資産分離定理によれば、市場平均ポートフォリオが最善だというのだから、投資家がやるべきなのは、ベータが1になるような組み合わせを作ることだけである。

このような技術的裏づけを得て、シャープの単因子近似に始まり、2資産分離定理とベータ関係式というきわめて簡潔な結果に代表されるCAPM(キャップエム; Capital Asset Pricing Model; p.26)は正統派経済学の嫡子として隆盛を極めることになったのである。

CAPM理論の拡張
先に、単一因子近似を、物理学の平均場近似のようなものだと書いた。だとすればより「高次の」近似もまた可能であろう。近似式を複数の因子を含むように改善したモデルを多因子モデル(multi-factor model)と呼ぶ。モデルの複雑化により、最適化問題を解くのはさらに難しくなるが、アンドレ・ペロルドが提案した技巧を使うと、数千どころか、数万銘柄のモデルも解けるようになる由である(p.74)。

一方、(平均収益率を一定にしつつ)分散を小さくする、というマーコビッツのお題自体を考え直す、という方向の研究も可能である。本書では、著者自身が開発した平均・絶対偏差モデル*、平均・下方リスクモデル、などが要領よく説明されている。
* H. Konno and H. Yamazaki, "Mean-absolute deviation portfolio optimization model and its applications to Tokyo stock market," Management Science, 37 (1991), pp.519-531 [link to PDF].

個人投資家はどうすればいいのか
金融工学の諸理論・諸手法を解説した後の第7章第1節は、個人投資家向けの投資ガイドのような趣になっている。著者はまず、経済学的な2つの「常識」について言及する。
  • ランダムウォーク仮説
    株価はランダムウォークするので、株価の時系列に特定のパターンを見出すことはできない。したがってチャートのテクニカル分析は無意味。
  • 効率的市場仮説
    市場は効率的であるので、たとえば多因子モデルで記述されるような傾向は、すでに株価に織り込まれている。ゆえ、ファンダメンタル分析(企業の業績予測に基づく株価予測)は無意味。
マルキールの本の出発点になっているのがこれらの仮説である。しかし最近の実証的な研究によれば、実は、これら二つの常識が必ずしも成り立たないことを示している。たとえば、MITのアンドリュー・ロー教授は、ニューヨーク市場の株式市場のデータに対し徹底的な統計分析を行い、株価のランダムウォーク性と市場の効率性の双方を否定した(p.165-170)。エンジニアの直感としても、誤差分布が実測上は正規分布からずれるのはよくある話だし、効率的市場仮説に至っては、市場という媒質は一様・等方・定常で、その中では常に無限の速度で情報が伝達する、と言っているに等しく、あまりにワイルドすぎる因果律の捨象と言えよう。

しかしながら、クオンツたちに何百億円もの資金の運用を任せられる機関投資家はよいとして、以上の結果を一般投資家はどのように考えればよいだろう。著者の結論が、つまるところ勝間本と大差なく、無リスク資産+投資信託(+気に入った少数の銘柄への投資)、というものになっているという事実は興味深い。十分リスクを管理しつつテクニカル分析を行うためには膨大な労力を必要とするし、ファンダメンタルズの分析によって市場のアノマリーを見出すにも、これまた膨大な時間と労力を必要とする。結局、それらは片手間にやれるようなものではないのである。

本書のその他の内容
長くなったのでこれくらいにするが、本書にはその他にも、デリバティブの価格設定に関するブラック=ショールズ理論(4章)、金利モデル(5章)、証券化とそのリスク(6章)などなど、きわめて有用な内容が盛り込まれている。

特に、第4章にはブラック=ショールズ方程式の明快な導出が書かれていており、新書なのに!と感動したものである。ちなみに、手元にある第5版(2005年5月20日発行)では、p.119の(1)式の上にある at という量の定義が間違っているようだ。正しくは
at = ∂Ct / ∂St
であろう(p.99の「デルタ・ヘッジ戦略」参照)。

また、時節柄、証券化リスクに関する6章も読む価値が大いにあると思われる。信用リスクの評価は一般には難しく、それゆえムーディーズなど格付け機関の格付けも主観に頼る部分が大きいらしいという指摘は、本書出版の数年後に世界を襲ったリーマンショックを思えば実に示唆的である。証券化リスクの評価に関しては、同じ著者の『「金融工学」は何をしてきたのか』という本に詳しく議論されているので、筆を改めて紹介したい。



金融工学の挑戦―テクノコマース化するビジネス (中公新書)
  • 今野 浩 (著)
  • 新書: 225ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2000/04)
  • ISBN-10: 4121015274
  • ISBN-13: 978-4121015273
  • 発売日: 2000/04

0 件のコメント:

コメントを投稿