2010年8月31日火曜日

「コルナイ・ヤーノシュ自伝 ― 思索する力を得て」

ハンガリーにおいて社会主義的専制の圧迫を受けながらも、計画経済の立案を指導し、その後米国スタンフォード大学教授に転じたユダヤ人経済学者の自伝。一面では社会主義計算論争の結果を如実に示す経済学の記録として、また一面では一時は熱狂的な共産主義者であった青年がいかに自己変革を遂げたかについての青春のドラマとして、非常に面白い。翻訳も出色の出来である。

私がコルナイ・ヤーノシュを知ったのは池田信夫のハイエク論からである。素朴にテキストを読んだ私は、コルナイが単に社会主義体制の御用経済学者で、体制の庇護の下にハンガリーでの経済計画の数学的策定に邁進したものと考えた。しかし事実は全然異なる。

弁護士の父を持つ裕福なユダヤ人家庭に生まれたコルナイであったが、ナチスドイツの膨張と、それに呼応したハンガリー内での矢十字党の跳梁により一家離散の辛酸を舐める。彼の父はユダヤ人収容所で殺されたようである。その後、ソ連軍が解放軍としてハンガリーに進駐し、ハンガリーもソ連の衛星国として共産主義体制に組み込まれる。20歳そこそこのコルナイは熱狂的に共産主義の未来を信じ、共産党中央機関紙の記者となる。しかし経済運営の現実を知るにつれ、コルナイは改革の必要性を感じるようになる。改革派のリーダー ナジ・イムレへの政治的支持をめぐる内部抗争の末、コルナイは編集局から追放される。それからコルナイの覚醒の歴史が始まる。なお、ナジは、コルナイ追放の翌年に起こったハンガリー動乱の指導者としてソ連派に処刑されることになる。

驚くべきことに、すばらしい経済学的業績、それも正統派の経済学の理論的業績を残したコルナイの経済学はすべて独学で身につけたものである。サミュエルソンの有名な教科書のドイツ語版から始め(第7章、p.124)、独力で専門的な論文を読んでゆく。これらの論文は、共産党記者時代は、ブルジョア経済学として唾棄していたものである。しかしコルナイは自分で自分を変革し、頭の中の偏見を自力で除去した。そうしてわずか数年で、有名なKornai-Liptakモデルの着想を得る。彼のモデルはマルクス主義とはまったく何の関係もなく、コルナイ自身が述べているように、古典派経済学の嫡子とみなすべきものである。コルナイのモデルは、ワルラスの一般均衡をいわば「完全計画化」の極限から実現するメカニズムを記述していると言えよう(p.147)。古典派経済学的な意味での資源の最適配分は、社会主義的手法でも到達できるのである。

コルナイのモデルはハンガリーの経済運営に実際に適用された。社会主義国ハンガリーの計画経済が、マルクス経済学と無関係な理論により運営されていたという事実は興味深い。1960年代といえば日本では、「マル経」を信奉する経済学者が、左傾化したメディアとそれに影響された左翼学生らの支持を集めつつ跳梁を極めていた頃である。現場で求められていたのは、マル経の定性的な説明や硬直した政治的言辞より、現実をよりよくするためのの具体的方法だったということだろう。

コルナイのモデルはそれに答えるように思われた。しかし実験は失敗に終わる。コルナイは彼のモデルが機能しなかった理由を列挙している(p.157-158)。
  1. 経済政策を明確にし数値目標化するのが困難である。これは政治が妥協の産物だからである。
  2. 計画通りに諸機関が動く保証がない。計算結果が信用されない。
  3. 達成すべき目標と、現実的な制約を区別することが現実の政治では難しい。主観的な空手形が横行しがちである。
  4. 計画経済に必要なデータの正しさが保障できない。
  5. 数値計算に必要な計算機資源が当時はなかった。近似モデルを使わざるを得ず、精度が劣化した

そうしてコルナイは、かつて社会主義計画論争でハイエクが述べた思想に逢着する(p.158)。これは先に引用したとおりである。

1963年からコルナイは特別に西側への出国を許されるようになる。しかしそれも長い道のりであった。現在、ハンガリーでは、社会主義時代の秘密警察の調査記録を読むことができる(それを公開する権利は認められていない)。親しい友人が実は秘密警察の協力者であったというような事実は枚挙にいとまなく、読んでいて非常に気が滅入る。しかしそのような中、コルナイは高潔を保ち、旺盛に研究活動を続ける。西側の有力大学から何度もオファーを受けるが、コルナイはハンガリー人であり続けることを選ぶ。

コルナイは確かに若き一時期、共産主義者として熱狂的に活動した。しかしそれも、純粋な理想主義に導かれたものであり、政治的野心のようなものとは無縁のように見える。コルナイは何度か友情を政治的安全と引き換えにしたが、その痛恨の記憶も本書に隠さず書かれている。コルナイは高潔な人物である。自らを律し、自らの思想の誤りを根底から総括しなおし、そして新しい経済学的世界を創造した。学者としての才能もさることながら、そのような生き方には敬意を表さざるを得ない。

いわゆる全共闘世代を自認する人々はこの自伝を読んで何を思うだろうか。学生時代マルクス主義を語り、政治の熱狂に身を投じた者たちは、コルナイと同じ水準で過去を総括できているだろうか。多くの人間は、十分な総括もなしになんとなく反政府的なスタンスを続け、最近ではたとえば自然保護運動に逃げ込んだりしているだけではないのか。彼らは新しい何かを創造したのだろうか。彼らに本書を読むことを強く勧めたい。


コルナイ・ヤーノシュ自伝―思索する力を得て

  • コルナイ ヤーノシュ (著), Kornai J´anos (原著), 盛田 常夫 (翻訳)
  • 単行本: 459ページ
  • 出版社: 日本評論社 (2006/06)
  • ISBN-10: 4535554730
  • ISBN-13: 978-4535554733
  • 発売日: 2006/06
  • 商品の寸法: 21.2 x 15 x 3 cm

2010年8月12日木曜日

「ハイエク 知識社会の自由主義」

ここのところ世界的に再評価の動きが高まっている経済学者 フリードリヒ・フォン・ハイエクの仕事を要領よくまとめた本。ハイエクという人物を題材にした20世紀の経済学史という趣で、非常に面白い。


社会主義計算論争

ハイエクの経済思想を理解するためには、「社会主義計算論争」(p.53)という史上もっとも有名な経済学論争をたどるのがおそらく最もよい。この論争は、オーストリアの経済学者フォン・ミーゼスが、社会主義経済には所有権も価格もないので効率的に財を分配することはできないと指摘したことに端を発する。1920年代のことである。

これに対してオスカー・ランゲら社会主義派の経済学者は、仮に明示的に価格や所有権がなくても、「中央計画委員会(Central Planning Board)」が、生産をつかさどる各部門から需給についての情報を集め、財についての全体がバランスするようにやり取りを調整すれば、完全な市場と同様の機能を果たせると主張した。1940年代にはそれが具体的に線形計画法という最適化問題として扱えることが示され(p.56)、さらにその後、その解が、新古典派の均衡解と一致することが示された。すなわち、社会全体を巨大な線形計画問題として定式化することができ、最適な財の配分のためにはそれを解きさえすればよいということが、少なくとも理論的には示されたのである。ある意味で社会主義的計画経済の最適性が示されたということである。

ミーゼス陣営に加わったハイエクは、市場メカニズムについての深い思索に基づいて、主に「知識の分業」の観点から社会主義的計画経済の不合理性を指摘した。ハイエクは問いかける。

If we possess all the relevant information, if we can start out from a given system of preferences and if we command complete knowledge of available means, the problem which remains is purely one of logic. (F. A. Hayek, "The use of knowledge in society," The American Economic Review, Vol. 35, Issue 4, pp.519-530 (1945).)

すなわちハイエクとっては、中央計画委員会が経済事象についての必要十分な知識を持っているという前提自体が受け入れがたいものであった。その前提を受け入れてしまえば、上記のように問題は数学的に解けてしまうのだが、ハイエクは、計画経済の最大の問題が、いかにして分散した知識を集約するかという点にあると考えた。そしてハイエクは、それが事実上不可能であることを指摘したのである。

市場取引の動機となる知識は、誰もがアクセスできる自然科学上の法則のようなものではなく、個々人のまわりの個々の環境に依存している。そして個々のプレイヤーの嗜好も様々である。そしてそれらは時間と共に大きく変化する。市場システムは、そのような異種混合的な社会の、局在した知識をコーディネートする仕組みとして機能している。ハイエクは言う。

If we can agree that the economic problem of society is mainly one of rapid adaptation to changes in the particular circumstances of time and place, it would seem to follow that the ultimate decisions must be left to the people who are familiar with these circumstances, who know directly of the relevant changes and of the resources immediately available to meet them. (F. A. Hayek, ibid.)

すなわち、そのようなコーディネーションは、中央計画委員会が何か能動的に行うようなものではなく、それぞれのプレイヤーの自由な選択の結果として現れてくるものだとハイエクは考えたのである。

しかしこのような考え方は多くの経済学者の受け入れるところにはならなかった。1930年前後の世界では、大恐慌は資本主義のシステム的欠陥を明示しているように思われたし、一方で、史上初の社会主義革命がロシアで起こり、社会主義経済の政治的実装が現実のものになっていた。特に知識階級においては、社会主義はこの世から不幸を一掃する福音のように受け止められていたはずである。

この時代状況において、いわば消極的な不可知論を繰り返すハイエクらの思想がどういう評価を得たかは想像に難くない。この論争に敗れた(とコミュニティから受け止められた)後、ハイエクは長い間、頑迷な保守反動の象徴として経済学研究の表舞台から消えることになる。


ハンガリーでの実験

しかし話はこれで終わりではなかった。1960年代になり、社会主義国ハンガリーの経済学者コルナイは、実際にこの理論を実行に移した。すなわち生産の各部門から上げられたデータを基に線形計画法を解いて、実際に計画経済を実行した。

その結果は、21世紀を生きる我々にはもはや説明するまでもなく、惨憺たる失敗に終わった。本書にはコルナイ自身の回顧録が引用されている。

この問題を今の頭で考え直して見ると、ハイエクの議論にたどりつく。全ての知識、全ての情報を、単一のセンター、あるいはセンターとそれを支えるサブ・センターに集めることは不可能だ。知識は分権化される必要がある。情報を所有する者が自分のために利用することで、情報の効率的な完全利用が実現する。したがって、分権化された情報には、営業の自由と私的所有が付随していなければならない。(p.59)

結局この論争は、ハイエクらのいわば逆転勝利に終わったわけである。しかもその後西側先進国はいわゆるスタグフレーションを経験し、ハイエクらを駆逐したはずの新古典派経済学の無力ぶりに不満が高まった。そしてつい最近のサブプライムローン問題は、最新の金融工学の適用限界を明らかにした。今、ハイエクの経済学的主張に通底する哲学に注目が集まるのはそういう理由である。

本書にはこの社会主義計算論争をめぐるエピソードをはじめ、ケインズとの関係、New classical 派の紹介など、経済学上の非常に多彩な話題に満ちている。その他、話題は最新の実験経済学の成果や、人工知能の歴史にもおよび、著者池田信夫氏の恐るべき博識を示して余りある。私は本書を、現代のインテリゲンチャ必読の書だと思う。


多体問題の困難

しかしひとつ注意しておきたいのは、自然科学、とりわけ現代物理学についての著者の理解は浅く(それでも博識であるが)、私のような者の目から見ても違和感のある表現が散見されるということだ。

本書の記述に細かい注釈を付けるのはまたの機会に譲り、ここでは現代物理学の常識を示す話題を2つだけ提供しよう。ひとつが多体問題であり、もうひとつがAndersonの"more is different"である。

社会主義計算論争におけるハイエクの主張は、「知識の集約不可能性」という概念にまとめられる。実はこれは物理学上はありふれた概念である。たとえば、すでに18世紀において、多体系の解を求めるのが絶望的に難しいことはよく知られていた。やや驚くべきことだが、運動方程式の一般解が求められるのは2体問題までで、3体問題以上は、特殊な条件の下でしか解くことはできない。ラクランジュの正三角形解コワレフスカヤのコマ、などがその特殊な例である。すなわち、個々の相互作用(天体の場合は重力)が既知であったとしても、それを集約して全系の動きを一望することは特別な場合を除いてできない。それができるのは、相互作用がないときである。

これに対して天文学者たちは摂動法という手法を編み出した。これは相互作用が小さいという仮定の下に、級数展開のようにして、多体効果を順次取り込んでゆく手法である。天体力学の場合、ほとんどの現象はこれでカバーできるが、20世紀、量子力学の時代になると、「相互作用が小さい」という仮定がまったく成り立たない現象が非常に多く見出され、人類は多体問題の本質的難しさに再び直面することになった。「凝縮系物理(condensed-matter physics)」とか「物性物理(solid-state physics)」とか、あるいはもっと直裁に「強相関系の物理(physics of strongly-correlated systems)」とかいうのは、そういう状況を強調するために使われる言葉である。今の文脈に即して言えば、電子同士の相互作用がクーロン相互作用という形で既知であったとしても、集団としての電子の振る舞いを正確に記述するのは絶望的に難しい。そこでは、個々の集積から想像されるのとはまったく別の、非常に多彩な現象が実現される。

いわばこれは秩序の自律的形成とも言える。著者は人工知能研究におけるコネクショニズムを指して、「ハイエクが、この理論をコンピューターも脳科学もなかった時代に、ほとんど『深い思考』だけで創造したのは驚くべきことである」と述べているが(p.83)少なくとも物理学的にはありふれたモチーフである。

凝縮系物理の研究を、新しい古典(New Classical)派の理論に対比させて みるのは興味深い。新しい古典派の経済学では、いわば、均衡理論というマクロ理論から、それを実現するようなミクロなダイナミクスが導かれる格好になっている(逆も真である)。その結果導かれる個々のプレイヤーの振る舞いは、通常、我々が想定する個人とは大きく乖離する。それが「非現実的」だとの批判がこれまで頻繁になされ、埋めがたい方法論的対立が存在するようである。新しい古典派にとっては、「仮説が現実的かどうかはどうでもよい。重要なのは、その仮説から導かれる結論が実証データに合うかどうかだ」(p.116)。

このあたりの議論は、経済学のセクショナリズム的傾向を示して興味深い。物理学でも同様のことはよくある。たとえば「重い電子系」という用語がある。電子の質量は基本的な物理定数のひとつで、それが重くなったり軽くなったりということはありえない。電子が重い、ということの主旨は、「もし電子の質量を可変なパラメターだと想像してみると、あたかも質量が重い電子があるように見える」ということに過ぎない。物理学ではそのように可変な変数のように扱われる質量を「effective mass」などと呼ぶ。effectiveというのは、「真実はそうでないかもしれないが、実効値としてはそういうもの」という語感である。

この用語を使えば、新しい古典派の人間像は、いわば effective personないしeffective interactionからなるものである。それは間違いなく現実の人間の振る舞いとは異なるが、現実を説明する限りにおいて、理論モデルとして是認されるのである。しかしあくまでそれは現象論(現象の真のメカニズムの解析を省略して現象を記述しようとする理論)に過ぎず、その有効範囲は限定的である。物理学では「現象論」という言葉はしばしば軽蔑的に使われるが、有効範囲が限定的であることを忘れなければ、工学的にはむしろより重要な武器となる。その価値は現実をどのようによく説明するかで判断されるのであり、有効質量を導入したこと自体で神学論争のようなことが起こることは少ない。


More is different

20世紀初頭の量子力学誕生は、古典力学の唯一絶対性を否定したが、量子力学が登場したからといって、古典力学が無効になったわけではない。同様に、当初の量子力学は、たとえば相対論的量子力学の近似理論に過ぎないが、だからといって、シュレーディンガー方程式は無効ということにはならない。自然現象には異なる階層があり、それぞれの階層において最適な方法論がある。おそらく経済現象もそうであろう。経済学の困った点は、異なる学派同士の関係がはっきりせず、それぞれの有効範囲も不明であるという点である。

この点を考える上では、1977年にノーベル物理学賞を受賞した大御所 P. W. Anderson の1972年のエッセイが示唆的である*。この短いエッセイでAndersonは、自然現象には階層性があり、素朴な要素還元主義は実り多い視点ではないと指摘した。more is different というタイトルの通り、下位の構成要素が多数集まると、個々の要素を見ているだけでは思いもかけない多彩な現象が現れる。だから、上位の階層は下位の階層に還元することはできず、階層に応じた別の方法論が必要である。これは物理学者には改めて言うまでもない当たり前のことだが、物性物理よりも、物質の究極の粒子を追い求める理論の方が高尚だ、というような一部の風潮にひと言言いたかったのであろう。
* P. W. Anderson, "More Is Different," Science, Vol. 177. No. 4047, pp. 393 - 396 [link to pdf]

若きハイエクがテーマとした知識の分業についても、おそらくこのような視点が必要であろう。経済学の分野では、ハイエクの自律分散の思想には、最近でもなおたとえば次のような批判が浴びせられる。
Yet this is surely an abusurd thesis. First, if the centralized use of knowledge is the problem, then it is difficult to explain why there are families, clubs, and firms, or why they do not face the very same problems as socialism. Families and firms also involve central planning. (Hans-Hermann Hoppe, "Socialism: A Property or Knowledge Problem?," The Review of Austrian Economics, Vol. 9, No. 1, pp.143-49, 1996.)

この批判は、家族や会社組織と、社会全体との間の現象の粒度の違いをまったく考慮に入れていない。そもそも民主主義ですらない家庭や会社組織の中では中央管理が自然で必然であるが、社会の粒度ではそうではない。それがMore is differentということである。しかしこの概念を経済学者たちが理解するには、まだ時間がかかりそうである。サミュエルソンは古典力学をモデルにして彼の新古典派総合の理論を作ったそうだから、理論的モチーフにおいてはまだ2世紀ほどギャップがあるのかもしれない。



ハイエク ── 知識社会の自由主義 (PHP新書)


  • 池田 信夫 (著)
  • 新書: 224ページ
  • 出版社: PHP研究所 (2008/8/19)
  • ISBN-10: 456969991X
  • ISBN-13: 978-4569699912
  • 発売日: 2008/8/19
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.4 cm  

2010年5月5日水曜日

「生命保険の『罠』」

日本生命の営業を十数年勤め、現在は保険のコンサルティング機能をウリにする代理店の取締役である後田(うしろだ)亨氏による保険の素人向け解説。「解説」と言っても羅列的なものではなく、投資対効果の観点からいかに馬鹿げた保険が多いかを力説してくれる。基本的に話は単純であり、生涯に支払うお金の総額をまずは計算し、それを払う価値があると思えば払えばいいし、それが不要だと思えば保険に入らなければよい。しかし問題は、「生涯支払う金額」の計算すらできない加入者が多すぎることである。

本書に記載されているように、日本は先進諸国の中で保険に支払う金額が異様に高い。

万が一の場合に備える保険金の額にしても、ドイツやイギリスではほぼ年収と同じくらい、アメリカでは年収の2年分というデータがありますが、日本の平均は年収の5倍以上なのです。4人家族の保険料負担の平均は、年額で50万円を越えます。(p.75)

これにはさまざまな文化的、社会的背景があろう。しかし地縁血縁でがんじがらめの田舎暮らしならいざ知らず、都市部に住んでいるサラリーマン世帯では、保険の選択はほぼ自由であろう。少なくとも私の場合はそうである。だとすれば、一体この、月2万円以上を払い続けている人たちは、何を考えているのだろう?

著者は明快に、ほとんどの人はうわべの言葉にだまされているだけだ、と指摘する。
  • 保障は一生涯続き、保険料は上がることはありません
  • 60歳から、保障はそのままで保険料が半額になります
  • 60歳から、保障はそのままで保険料がゼロになります
これらの売り文句は、何のことはない、分割払いの比率を年齢ごとに調整しているだけのことで、支払う保険料の総額でみれば何も変わらない。「お祝い金」などと呼ばれる一時金についても同様であり、保険料の総額で見れば、何の「お祝い」にもなっていないことは明らかだ(p.43)。

保険加入の是非を判断するためには、支払い総額の他に、万一の事態の確率を把握することが必要である。これに至っては、具体的に計算するだけの能力がある加入者はほとんどいないに違いない。著者は「降水確率10%未満でも傘は必要?!」と問うが、雨が降るか否かと、人が死ぬかどうかが、「確率」という共通の用語で記述できるということ自体、一般人には理解のはるか外であろう。結果として、あたかも、まるでなるべく不合理な保険に入ることが、家族に対する愛の証であるかのような状況になっているわけである。

それはともかく、たとえば、死亡率やがんの罹患率、あるいは高度障害にかかる確率は公開されているデータから計算可能である。たとえば、ここに、10万人あたりの死亡率の比較がある(「死亡率」などで検索をすれば一瞬で見つかるサイトだ)。それによれば、人口10万人当たりの癌(悪性新生物)による死亡率は、10万人当たりにして250人程度、割合にすれば0.25%である。年に0.25%の割合でガンになってゆくとすれば、20年後には5%の人がガンになるということになる。したがってこの時、「元が取れる」ためには、支払う金額が100万円なら2000万円、500万円なら1億円のリターンなければならない。なぜなら、
1億円×5%=500万円
だからである。しかしそのような高額な支払いを約束する保険は絶対にない。

しかも国民皆保険制度(という世界に誇るべき)制度を取る日本では、平均的な年収の人が保険適用の治療を受けた場合、月に8万1000円を超える自己負担分は払い戻されるという制度がある(p.69)。任意保険なしにこれだけの保障があるのである。このことから著者は、公的健康保険に加入している限り、「50歳くらいまでに100万円程度の貯金ができていれば、がんも、医療費の面ではそれほど恐れることはない」と明快に述べている(p.70)。当然の結論である。私には、公的な健康保険に加えて、上記のような決してROI(Return-on-Investment。投資額に対する戻ってくるお金の割合)が1を超えない医療保険に、何万円も払う人の気持ちがわからない。

本書の7章には、「プロが入っている保険」として、保険を売る当事者たちが実際にどういう保険に入っているか書かれていて参考になる。著者が日本生命に勤めていた時代、上司たちは、決して自社の売れ筋商品には入らず、(バブル期に販売されていて今はもうない)高利回りの養老保険と、会社のグループ保険に入っていたという(p.164)。定量的にROIを計算するとしたら、当然すぎる行動であろう。

そもそも、本書冒頭に記されているように、保険というのは、保険料に含まれている手数料の割合が30%から50%にも上るような商品である(p.24)。投資信託の手数料はもろもろ含めてもトータルで高々2-3%だから、これは相対的には異様に高い。手数料が高くても、支払われるリターンの期待値が高ければ問題はないのだが、ほとんどの人は生涯にわたって支払うべき金額の計算をすることはないし、万が一のことが起こる可能性がどの程度か考えることもない。ニッセイに献金するくらいならまだ国内のことだからいいのかもしれないが、各人の知的怠惰の集積が、国富を外資系保険会社に献上する結果になっている現状は、何とかした方がいいと思うのだが。



生命保険の「罠」 (講談社+α新書)
  • 後田 亨 (著)
  • 新書: 192ページ
  • 出版社: 講談社 (2007/11/21)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4062724685
  • ISBN-13: 978-4062724685
  • 発売日: 2007/11/21
  • 商品の寸法: 17 x 11.8 x 1.8 cm

「あさま山荘1972」

連合赤軍のNo.3で、永田洋子とともに死刑判決を受けた坂口弘の回想記。上巻では坂口の生い立ちと、革命運動に参加する経緯、同志殺しの惨劇と、あさま山荘篭城事件に至る経緯が記述されている。下巻があさま山荘事件と同志粛清に至る詳細、続巻には同志粛清の詳細と、逮捕後の出来事がまとめられている。連合赤軍関連の書籍では、おそらく最も詳細に事実を記述している本だと思われる。3冊組で長いが、印刷はきれいで文字も見やすく、坂口のビビッドな自分史と重ねあわせて書かれていて飽きさせない。連合赤軍事件関連書籍の決定版と言える。

私がこの本を買おうと思ったのは、佐藤優氏のベストセラーになった「国家の罠」第6章に、「三十一房の住人」として坂口らしき政治犯が好意的に紹介されていたのがきっかけであった。死刑囚という身にあって坂口は、礼節を忘れず非常に厳しく身を律し、しかも拘置所の住人たちの待遇改善のために言うべきことは言うというスタンスで、囚人たちの間からはもちろん、拘置所側からも尊敬を集めている由である。そして私も、読み始めたこの坂口の回想記の尋常ならざる生真面目ぶりに触れ、この特異な事件に引き込まれていった次第である。

坂口は、森恒夫と永田洋子が一緒に逮捕された後、すでに敗残兵となっていたとは言え、連合赤軍のNo.1となり、あさま山荘であの有名な銃撃戦を繰り広げた。同志殺しが判明するまでのわずかな期間、一時は左翼学生のヒーローであったようだ。

政治党派の起こした立てこもり事件のはずなのに、何を要求するわけでも、何を主張するわけでもないこの事件について、私は長い間怪訝に思っていた。本書を読むと、彼らの目的が銃撃戦の実行そのものにあったことがわかる。彼らはそれを「殲滅戦」と呼び、非常に重要視していた。しかしわずか数丁の銃と、軍人でもない数名の学生で一体何ができるのか。今となっては非常に理解しがたいが、彼らの情勢認識では、日本は革命前夜で、彼らの少数の蜂起が起爆剤となり連鎖反応的に社会転覆が起こる、と考えていたらしい。


本書における坂口の最大のテーマは、同志殺しのメカニズムを解明することであった。赤軍派と合同して連合赤軍ができた後は、独裁者として君臨していた森恒夫が「共産主義化」論なるもののを根拠にして、「総括」と呼ばれるリンチを主導したと、この事件のすべての被告が一致して証言している。

この「共産主義化」というのは、強大な権力に立ち向かう以上、個々の革命戦士は鉄の規律と肉体を持たねばならない、というような超精神主義のことである。マルクス主義というのは史的唯物論を前提とするはずである。つまり、経済のマクロな運動法則がその時その時の時代の平均的な精神のありようを規定する、というもののはずである。赤軍派なり革命左派なりという党派は、本来、マルクス主義に依拠するはずなのだが、山岳ベース事件に関する限り、マルクス主義とは無関係のように見える。このような根本的というか基本的な部分で不可解さを含み、それに誰も気づかないという事実自体、1970年前後のインテリが陥っていた病理を示して余りある。

坂口は森のロジックを解明するために刻苦の数年を費やし、同志殺しが森の理論の必然であるとの彼なりの理解に到達している。しかし森の直接的な指導下に入る以前に、坂口の属した革命左派というセクトは、2人の同志を殺害しているのである(印旛沼事件)。印旛沼事件に関しては、当時はまだ赤軍派という他セクトのリーダーだった森の「殺るべきだ」という教唆が直接の引き金だったにせよ(上、p.337)、最終的には最高指導者永田洋子と坂口の決断で処刑が決められている。この事件はおそらく、森の理論云々以前に、哲学なき組織の悲劇と、指導者の器でない者が組織を指導者に頂いた組織の悲劇が凝縮されているように思う。

坂口の属する革命左派は、川島豪というカリスマ性のある指導者により指導されていた。坂口は大学時代に川島に出会い、自身認めているように、川島をほとんど崇拝するようになる。それは思想が持つ論理的必然性というよりは、カリスマに跪く宗教的熱狂があるばかりである。実際、坂口は、オウム真理教事件に際して、当時の自分と林泰男を対比して次のように述べている。
僧侶の林さんと左翼の私とは、住む世界が異なりますが、それにもかかわらずお互いによく似た傾向があることに気づかされます。それは、カリスマ性をもつ指導者への帰依です。かつての私は、この傾向が人一倍強い人間で、恋も及ばぬほど熱烈に指導者を愛し、忠誠を誓い、この人のためなら死んでもおしくないとまで思っていました。
(1996年4月24日朝日新聞夕刊。「1969-1972 連合赤軍と『二十歳の原点』」所収。)
 
坂口はかつて、朝日新聞の短歌コーナーである「朝日歌壇」への常連投稿者であり、歌集も出版されている。たぶん1990年頃、私は朝日歌壇に掲載された坂口の短歌を偶然目にしたことがある。何かリンチ事件の後悔を歌った歌だと記憶しているが、「事件そのものを知らないと鑑賞のしようもない」と、やや突き放した印象を持ったのを覚えている。しかし団塊の世代にとっては、この事件は、ある意味青春を象徴する特別な出来事だったのだろう。坂口が主導してきた数々の事件、とりわけ同志殺しへの関与に関しては、いかなる意味においても正当化することはできないが、それが純粋な魂の所産であったことは、本書によりはっきりと理解できる。美しい理想を思って走り抜けたその先に、完璧な絶望だけが待っていたとは。これほど痛ましい物語を私は知らない。
 

あさま山荘1972〈上〉
  • 単行本: 350ページ
  • 出版社: 彩流社 (1993/04)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4882022524
  • ISBN-13: 978-4882022527
  • 発売日: 1993/04

あさま山荘1972〈下〉
  • 単行本: 308ページ
  • 出版社: 彩流社 (1993/05)
  • ISBN-10: 4882022532
  • ISBN-13: 978-4882022534
  • 発売日: 1993/05

続 あさま山荘1972
  • 単行本: 318ページ
  • 出版社: 彩流社 (1995/05)
  • ISBN-10: 4882023385
  • ISBN-13: 978-4882023388
  • 発売日: 1995/05

「危うし!小学校英語 」

英語教育の効果についての実証的研究に基づいて、小学校英語導入政策の拙速ぶりに疑問を呈する本。小学校英語反対派は頑迷な国粋主義者ばかりかと思えばさにあらず、著者は英語教育の専門家であり、NHKテレビの英語講座でもおなじみである。英語教育業界の住人であれば、英語の授業時間の増大は英語教育業界の領土拡大につながるので、基本的には喜ぶべきことのはずだ。にもかかわらず、文字通り全身全霊を傾けて著者は小学校英語に反対する。これはよほどのことと言わざるを得ない。

問題の所在は、冒頭の第1章を読んだだけでも十分に明らかになる。小学校で英語を学んだ者と学ばない者の間に、英語力について有意な差は見られないという実証データが、すべてを語っているからである。
  • 日本児童英語教育学会が、私立の中高生849人の調査を行った。その結果、小学校で英語を学んだ生徒とそうでない生徒との間に、英語の発音・知識・運用力において有意な差は見られないことがわかった(p.12)。
  • 国際理解教育の研究開発校に指定された公立小学校で週1時間英語を学んだ子供とそうでない子供とを対象に、中学1年生の冬に英語力を調査した。その結果、音素識別能力、発音能力、発話能力、のいずれについてもまったく差が見られなかった(p.13)。
小学校では遅すぎただけではないのか?、という批判を受けることを見越して、著者は、いわゆる「臨界期説」、たとえば「10歳までに外国語を習い始めないと手遅れだ」というような説に確たる根拠はないことを指摘する。むしろ話は逆であり、英仏のバイリンガル国家であるカナダでの実証研究によれば、母語を確立する前に外国語に触れてしまうことには弊害も多いことがわかっている。

だとすれば、小学校英語には投資の価値はない。まともな為政者であればそのような結論になりそうなものだが、そうはならない心理的・政治的背景を分析し、あるべき外国語教育について述べるというのが本書のテーマとなっている。

本書第2章では、小学校英語を強力に推進する中教審・文科省の動きの背景と、英語教育の専門家たちがまとめた「小学校での英語教科化に反対する要望書」の内容が紹介される。繰り返すが、英語教育の専門家たちが反対しているのである。たとえば、理科を小学低学年から教える始めることに物理学者のグループが反対することはありえないので、話の深刻さは推して知るべしである。

そして、中教審・文科省の拙速と思われる動きの背景には、親の強い支持があると指摘する。実際、当事者たる文科省は、2004年に、小学校4年および6年生の親と教員に1万人規模のアンケートを実施した。その結果、小学校での英語教育の導入に9割以上の親が肯定的な反応を示した(p.82)。しかし親の方も、きちんと考えてそう言っているわけではない。88ページ以降、親の英語に対する苦手意識と、教育に対する皮相な理解が生む子供たちの悲惨なエピソードが続き、暗澹たる気持にさせられる。

第3章は小学校での英語教育を仮に実施するとして、どのような問題が実際に生じうるかを、専門家ならでは知見を交えて詳しく説明している。素人同然の外国人が教えることの困難や、英語産業の業者の草刈場と化する危険性を知れば、小学校英語導入に慎重論が出てもよさそうなものだが、多くの親はそれを知りたいとも思っていないようだ。確かに、子育て中の親の実感としても、周囲の雰囲気はそのようなものであり、多くの親は、仮に本書を教材として与えられても、理解することすらできないだろう。4年生大学を卒業した知的階層に属する人たちでもそうである。それが日本の悲しい現実である。

最後の4章において鳥飼教授は、「世論」や、それを扇動するマスメディアにいわば戦いを挑む。「日本の英語教育は文法偏重である」(したがって役に立たない)という意見は、おそらく圧倒的多数の大人が信じている言説であろう。しかし今から20年前、少なくとも1990年以降に英語教育を受けた世代に関しては、これは完全に誤っている。1989年の学習指導要領の大改訂により、オーラルコミュニケーション重視に大転換が起こったからである(p.152)。

そうして、過去20年のデータを使って、上記の大転換が、「リスニングでさしたる成果を挙げないばかりか、文法と読解力の低下をもたらした」(p.167)ことを実証する。この点については、「TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ」にも詳しい。「ゆとり教育」同様、客観的データは、英語教育におけるオーラルコミュニケーション重視政策が失敗に終わったことを証明している。小学校英語導入政策が、文法軽視・会話重視の動きの延長線上にある以上、これもまた失敗に終わることはほとんど確実である。誤った都市伝説を扇動するマスメディアの罪は非常に重いと言わざるを得ない。

ではどうすればいいのだろう?本書194ページ以降に、著者による英語教育改革案が述べられている。結局、英語教育について語ることは、異文化の共存について語ることであり、共存に伴うさまざまな問題をうまく処理するために、何を学ぶべきか考えることだ。この観点から、著者は、小学校では、母語をベースにして、異文化への開かれた心の涵養とコミュニケーション能力の育成を目ざすべきであると解く。英語を本格的に学ぶのは中学生からでよい。しかしそれはオーラルコミュニケーション重視というよりは、語彙や文法のような基礎事項を確実に教える従来型のカリキュラムに似る。高校からは、英語自体の基礎学習に加えて、論理的な一貫性を持った主張をするための能力の育成に力を注ぐ。

著者の提案は非常に説得力あるものであり、「国際化」の必要を主張する産業界を始め、教育関係者の多くにも受け入れられることだろう。本書の提言が、社会的に力を持つようになることを願う。

小学校英語をめぐる問題は、我々日本人が、どういう大人を理想とするかという問題でもある。トロント大学のJim Cummins教授の研究の引用として語られる次の言葉は実に示唆的である。
カミンズ教授は、(略)、日常生活で使う「会話力」と学校で教科を学ぶための「言語学習能力」とは異なるという結果を出しています。また、言語が違っても、母語と第二言語は深層部分でつながっており、双方が影響しあいながら発達していくこと、読み書きなど学習言語には母語の習得が大きく影響するなど、重要な指摘をしています。(p.25)
小学校英語必修化の裏には、これからは「国際人」となることが必要で、「会話力」さえつけばその「国際人」になれるはずだ、という素朴な前提があるように思われる。しかし、高い「言語学習能力」に裏打ちされた深い専門知識なしに、国際的に意味ある内容を語ることはできない。当たり前のことである。この点に関する思考の貧困は、「先進国」にキャッチアップすることだけを目標にしてきた日本の指導者の心象風景そのものなのかもしれない。「語られるべき内容」は、誰かが(おそらく「欧米先進国」が)教えてくれる。そのような仮定は明示的に否定せねばならない。

我々は一方で、「語られるべき内容」を創造する能力が、すべての人に備わっているわけではないことを認めなければならない。鳥飼教授の提言に付け加えることがあるとすれば、異文化の利害の対立する場でリーダーシップを取れるような人材を育成するための戦略的エリート教育の必要性である。本書でも、自称「英語通」の宮沢喜一元首相の物悲しいエピソードが紹介されているが(p.184)、これを「物悲しい」と思うかどうかという点に関してすら、何らかの合意が形成されるためには、まだまだ長い時間がかかりそうである。


危うし!小学校英語 (文春新書)
  • 鳥飼 玖美子 (著) 
  • 新書: 223ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (2006/06)
  • ISBN-10: 4166605097
  • ISBN-13: 978-4166605095
  • 発売日: 2006/06
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.4 cm

2010年5月4日火曜日

「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」

若いときに天才的な業績を残し、晩年は精神を病んだ数学者の娘の苦悩の物語。アカデミアで最高の頭脳により追求される真理の美しさと、その裏にある残酷さに思いを致したことのある人なら、おそらくこの映画に感じるものはあるだろう。精神を病んだ数学者、という設定にはジョン・ナッシュを描いた "A Beautiful Mind" を思い出させるが、主演のグウィネス・パルトロウの天才的な演技とあいまって、こちらの方が映画としてはずっと面白い。

物語は偉大な数学者・ロバートの葬式から始まる。ロバートが63歳で死ぬまでの5年間、主人公キャサリンはロバートの身の回りの世話をした。ロバートは20代の時に3つの分野で最高の業績を挙げ、シカゴ大学数学科に迎えられた。しかしおそらくは40代で精神の変調が深刻化し、その後20年間は一進一退の状況で時を過ごした。

父の精神状態がしばらく安定していたことから、キャサリンは父の教えるシカゴ大学を避け、近郊にある別の名門・ノースウェスタン大学の大学院に進学することを決める。そこで数学科の才能ある学生として勉強をしている最中、彼女は父の異変を知り、家に急遽戻る。そこで彼女は、躁状態の父を発見する。大発見をしたと興奮する父のノートを見たキャサリンは、父の精神状態が極度に悪化しており、自分が面倒を見る必要があることを悟る。彼女は大学院を中退せざるを得なかった。

大学院生として研究の世界の入り口にいた彼女は、自分で自分の価値を世界に刻み付けなければならない存在だった。厳格な意味において、研究成果を世に問うとは、これまでの人類すべての誰よりも自分が優れていると主張することに他ならない。すべての人類に対する相対優位をもって、絶対的価値の証明とするのである。彼女をそれをすべくあがいていた。

しかし大学院をやめた彼女には、もはや父の世話をすることでしか自分の存在を証明する手段がなかった。逆に言えば、偉大な父の世話をすることで、自分の存在を実感できたとも言える。しかし父が突然死んだ後、キャサリンは、再び自分とは何かを自分に問いかけざるを得なくなる。

そこから彼女の苦悩が始まる。彼女には自分の存在証明を行う必要があった。この映画の原題"Proof"に対して、邦題の「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」というのは、でたらめな邦題が跋扈する映画業界では、奇跡的によくできたタイトルと言えよう。

彼女にとっては、父のかつての学生でありかつ父の崇拝者で、今はシカゴ大学に勤める数学者・ハロルドとの間の恋愛関係は、自分の存在を確かめるための確かな土台になるように思われた。一旦は永遠に思えたその関係の上に、彼女は、1冊のノートの存在をハロルドに教える。そこには父の介護をしていた5年の間、時折明晰さを取り戻す父の助言を受けながら、彼女自身が成し遂げた仕事が書かれていた。それを見たハロルドはその価値を直ちに見抜き興奮する。リーマン予想の証明と思しき画期的な結果が記されていたからである。

しかしハロルドも、キャサリンの姉のクレアも、彼女がそれを書いたとは信じず、偉大な父の手によるものであろうと彼女を疑う。父と生きた数年の証としてのその証明が、むしろ自分の存在への反証になったのである。これは彼女には衝撃的な出来事であり、彼女は固く心を閉ざしてしまう。

ハロルドは、数学科の専門家の協力を得て、数日間かけてそのノートの証明の内容を検証する。論理展開は奇抜なものであったが誤りは見つけられず、ハロルドは証明の正しさを確信する。さらに、使われていた技巧が90年代の新技術であったことなどから、それが父ロバートではなくキャサリンの仕事であることを確信する。

ハロルドはキャサリンの許に走り、彼女に許しを乞う。しかし彼女は頑なにそれを拒否する。彼女の心理は複雑だ。父への尊敬と否定、自分の数学的才能への自負と否定、これらアンビバレントな心情のネガティブな側は狂気への恐怖へと直結しており、平衡点を見出すのは容易ではない。彼女にとっては、ハロルドとの曇りのない信頼関係だけが、混沌の海を渡りきるための唯一の手段のように思われたのだ。

最後にキャサリンは、ノートに記した証明を、肯定的に自らのものと認める以外に、自分の生きる道はないことを悟る。それは偉大な父の存在への反証になりえるが、父はもういない。父と一体化していたかつての自分とは決別しなければならない。証明を自分のものと証明することで、自分の正常さと生きた証を立てなければならない。キャサリンは姉クレアとの同居を拒絶して姉の許を去る。映画は、シカゴ大学の美しいキャンパスで、ノートの内容をハロルドに説明し始めるシーンで終わる。父と暮らしたシカゴの家には常に闇が付きまとっていたが、それと対照的に、キャンパスは明るく緑が軽やかだ。

数学の定理といういわば絶対的な正の価値を、狂気という負の絶対価値と対比させ、それに人間同士の相対的な信頼関係の脆さについての絶望と希望を螺旋状に絡ませるこの映画のプロットはとても美しい。常人には理解しがたい精神のカオス的な動きを完璧に演じきったグウィネス・パルトロウの演技は驚異的である。"A Beautiful Mind" と比べれば、統合失調症や数学の研究的内容の描き方など、やや粗い点もなくはないが、全体のストーリーは、それを補って余りある見事な流れを形作っている。出色の出来だと思われる。

なお、上記の文章は、2010年3月にWowowで放映された日本語字幕版を元にしている。


プルーフ・オブ・マイ・ライフ [DVD]

  • 出演: グウィネス・パルトロウ, アンソニー・ホプキンス, ジェイク・ギレンホール, ホープ・デイヴィス
  • 監督: ジョン・マッデン
  • 形式: Color, Dolby, Widescreen
  • 言語 英語, 日本語
  • 字幕: 日本語
  • 画面サイズ: 1.78:1
  • ディスク枚数: 1
  • 販売元: アミューズソフトエンタテインメント
  • DVD発売日: 2006/08/25
  • 時間: 103 分