2010年5月5日水曜日

「危うし!小学校英語 」

英語教育の効果についての実証的研究に基づいて、小学校英語導入政策の拙速ぶりに疑問を呈する本。小学校英語反対派は頑迷な国粋主義者ばかりかと思えばさにあらず、著者は英語教育の専門家であり、NHKテレビの英語講座でもおなじみである。英語教育業界の住人であれば、英語の授業時間の増大は英語教育業界の領土拡大につながるので、基本的には喜ぶべきことのはずだ。にもかかわらず、文字通り全身全霊を傾けて著者は小学校英語に反対する。これはよほどのことと言わざるを得ない。

問題の所在は、冒頭の第1章を読んだだけでも十分に明らかになる。小学校で英語を学んだ者と学ばない者の間に、英語力について有意な差は見られないという実証データが、すべてを語っているからである。
  • 日本児童英語教育学会が、私立の中高生849人の調査を行った。その結果、小学校で英語を学んだ生徒とそうでない生徒との間に、英語の発音・知識・運用力において有意な差は見られないことがわかった(p.12)。
  • 国際理解教育の研究開発校に指定された公立小学校で週1時間英語を学んだ子供とそうでない子供とを対象に、中学1年生の冬に英語力を調査した。その結果、音素識別能力、発音能力、発話能力、のいずれについてもまったく差が見られなかった(p.13)。
小学校では遅すぎただけではないのか?、という批判を受けることを見越して、著者は、いわゆる「臨界期説」、たとえば「10歳までに外国語を習い始めないと手遅れだ」というような説に確たる根拠はないことを指摘する。むしろ話は逆であり、英仏のバイリンガル国家であるカナダでの実証研究によれば、母語を確立する前に外国語に触れてしまうことには弊害も多いことがわかっている。

だとすれば、小学校英語には投資の価値はない。まともな為政者であればそのような結論になりそうなものだが、そうはならない心理的・政治的背景を分析し、あるべき外国語教育について述べるというのが本書のテーマとなっている。

本書第2章では、小学校英語を強力に推進する中教審・文科省の動きの背景と、英語教育の専門家たちがまとめた「小学校での英語教科化に反対する要望書」の内容が紹介される。繰り返すが、英語教育の専門家たちが反対しているのである。たとえば、理科を小学低学年から教える始めることに物理学者のグループが反対することはありえないので、話の深刻さは推して知るべしである。

そして、中教審・文科省の拙速と思われる動きの背景には、親の強い支持があると指摘する。実際、当事者たる文科省は、2004年に、小学校4年および6年生の親と教員に1万人規模のアンケートを実施した。その結果、小学校での英語教育の導入に9割以上の親が肯定的な反応を示した(p.82)。しかし親の方も、きちんと考えてそう言っているわけではない。88ページ以降、親の英語に対する苦手意識と、教育に対する皮相な理解が生む子供たちの悲惨なエピソードが続き、暗澹たる気持にさせられる。

第3章は小学校での英語教育を仮に実施するとして、どのような問題が実際に生じうるかを、専門家ならでは知見を交えて詳しく説明している。素人同然の外国人が教えることの困難や、英語産業の業者の草刈場と化する危険性を知れば、小学校英語導入に慎重論が出てもよさそうなものだが、多くの親はそれを知りたいとも思っていないようだ。確かに、子育て中の親の実感としても、周囲の雰囲気はそのようなものであり、多くの親は、仮に本書を教材として与えられても、理解することすらできないだろう。4年生大学を卒業した知的階層に属する人たちでもそうである。それが日本の悲しい現実である。

最後の4章において鳥飼教授は、「世論」や、それを扇動するマスメディアにいわば戦いを挑む。「日本の英語教育は文法偏重である」(したがって役に立たない)という意見は、おそらく圧倒的多数の大人が信じている言説であろう。しかし今から20年前、少なくとも1990年以降に英語教育を受けた世代に関しては、これは完全に誤っている。1989年の学習指導要領の大改訂により、オーラルコミュニケーション重視に大転換が起こったからである(p.152)。

そうして、過去20年のデータを使って、上記の大転換が、「リスニングでさしたる成果を挙げないばかりか、文法と読解力の低下をもたらした」(p.167)ことを実証する。この点については、「TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ」にも詳しい。「ゆとり教育」同様、客観的データは、英語教育におけるオーラルコミュニケーション重視政策が失敗に終わったことを証明している。小学校英語導入政策が、文法軽視・会話重視の動きの延長線上にある以上、これもまた失敗に終わることはほとんど確実である。誤った都市伝説を扇動するマスメディアの罪は非常に重いと言わざるを得ない。

ではどうすればいいのだろう?本書194ページ以降に、著者による英語教育改革案が述べられている。結局、英語教育について語ることは、異文化の共存について語ることであり、共存に伴うさまざまな問題をうまく処理するために、何を学ぶべきか考えることだ。この観点から、著者は、小学校では、母語をベースにして、異文化への開かれた心の涵養とコミュニケーション能力の育成を目ざすべきであると解く。英語を本格的に学ぶのは中学生からでよい。しかしそれはオーラルコミュニケーション重視というよりは、語彙や文法のような基礎事項を確実に教える従来型のカリキュラムに似る。高校からは、英語自体の基礎学習に加えて、論理的な一貫性を持った主張をするための能力の育成に力を注ぐ。

著者の提案は非常に説得力あるものであり、「国際化」の必要を主張する産業界を始め、教育関係者の多くにも受け入れられることだろう。本書の提言が、社会的に力を持つようになることを願う。

小学校英語をめぐる問題は、我々日本人が、どういう大人を理想とするかという問題でもある。トロント大学のJim Cummins教授の研究の引用として語られる次の言葉は実に示唆的である。
カミンズ教授は、(略)、日常生活で使う「会話力」と学校で教科を学ぶための「言語学習能力」とは異なるという結果を出しています。また、言語が違っても、母語と第二言語は深層部分でつながっており、双方が影響しあいながら発達していくこと、読み書きなど学習言語には母語の習得が大きく影響するなど、重要な指摘をしています。(p.25)
小学校英語必修化の裏には、これからは「国際人」となることが必要で、「会話力」さえつけばその「国際人」になれるはずだ、という素朴な前提があるように思われる。しかし、高い「言語学習能力」に裏打ちされた深い専門知識なしに、国際的に意味ある内容を語ることはできない。当たり前のことである。この点に関する思考の貧困は、「先進国」にキャッチアップすることだけを目標にしてきた日本の指導者の心象風景そのものなのかもしれない。「語られるべき内容」は、誰かが(おそらく「欧米先進国」が)教えてくれる。そのような仮定は明示的に否定せねばならない。

我々は一方で、「語られるべき内容」を創造する能力が、すべての人に備わっているわけではないことを認めなければならない。鳥飼教授の提言に付け加えることがあるとすれば、異文化の利害の対立する場でリーダーシップを取れるような人材を育成するための戦略的エリート教育の必要性である。本書でも、自称「英語通」の宮沢喜一元首相の物悲しいエピソードが紹介されているが(p.184)、これを「物悲しい」と思うかどうかという点に関してすら、何らかの合意が形成されるためには、まだまだ長い時間がかかりそうである。


危うし!小学校英語 (文春新書)
  • 鳥飼 玖美子 (著) 
  • 新書: 223ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (2006/06)
  • ISBN-10: 4166605097
  • ISBN-13: 978-4166605095
  • 発売日: 2006/06
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.4 cm

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