2011年12月14日水曜日

「日本酒」「日本の酒づくり」

日本酒に関するやや古い本を2冊紹介する。キーワードは吟醸酒である。

私は学生時代、日本酒研究会というサークルにいた。主たる行事は休み明けにサークル室に集まって、各自が持ち寄った酒を総当り式で一対一で評価して、その年の優秀酒を決めるというものだった。利き酒は口に含んで吐き出すのが正しい作法だが、「酒の一滴は血の一滴」、貧乏学生の我々にはそんなことはありえない選択で、当然そのうち酔っ払って、しまいには勝ち負けなどどうでもよくなるのであった。

そのサークルに入ったきっかけが何だったかもはや思い出せないくらいなのだが、そこで学んだ最大の知識は、日本酒には大きく分けて2つの種類があるということである。吟醸酒と、そうでない酒である。そして日本人の過半数の人たちは、いかに吟醸酒というのが特別な酒か知らない(これはできの悪い吟醸酒の悪影響によるところも大きい)。

篠田次郎著・『日本の酒づくり』には、吟醸酒の成り立ちがややドラマチックに描かれている。やや意外なことに、我々日本人が吟醸酒というものを知ったのは、比較的最近、ほとんど昭和に入ってからのことである。熊本の酒蔵が品評会に出すために醸した酒が、通常の日本酒とは似つかぬフルーティーな香りを発した。それまで、精米歩合を高めて低温で醸造することで、ごくまれに、極めてよい香りの酒ができることは杜氏の間で知られていた。しかしそれは淡い香りで、いわば幻の香りと言われていたのだが、大正15年に醸されたこの「香露」は誰もが認める傑作で、後日この蔵から採取された酵母は、日本醸造協会第9号酵母として、広く日本中の酒造メーカーに使われることになったのである。篠田氏の著書は、昭和に入り、吟醸酒を庶民が買えるようになるまでの流れをまとめた良書である。

日本酒の歴史は技術革新の歴史である。国税庁醸造試験所に長く勤めた秋山裕一氏による『日本酒』には、明治以降、時に最先端の化学的知識を駆使しつつ、いかにして高品質の酒を造れるようになったかが詳しく書かれている。特に、日本酒の腐造をもたらす「火落ち菌」をめぐるエピソードは興味深い。日本酒の品質管理の文脈で発見されたこの菌の生育条件を調べる過程で、東京大学教授の田村學造らは、今で言うメバロン酸という新物質を発見した。それはコレステロールの生合成などにかかわる重要物質で、その後3名のノーベル賞受賞者を生むのである。

吟醸酒の芸術的な生成過程を一度知ると、もはや、ぶどう酒を同格に考えるのは無理というものである。吟醸酒は日本文化の精髄である。ビールやぶどう酒もいいが、日本人なら基本を押さえよ。


日本酒 (岩波新書)
  • 秋山 裕一 (著)
  • 新書: 210ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1994/4/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4004303346
  • ISBN-13: 978-4004303343
  • 発売日: 1994/4/20
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.2 cm

日本の酒づくり―吟醸古酒の登場
  • 篠田 次郎 (著)
  • 新書: 187ページ
  • 出版社: 中央公論社 (1981/12)
  • ASIN: B000J7SA0Q
  • 発売日: 1981/12
  • 商品の寸法: 17.6 x 11.8 x 1 cm

2011年11月30日水曜日

「元禄御畳奉行の日記」

元禄から享保の時代に、延々26年以上にわたって書き続けられた下級尾張藩士の日記を解説した本。作者の朝日文左衛門重章は稀代のメモ魔でゴシップ好き、加えて酒好き・芝居好き・女好き、それに加えて、生類憐れみの令を小ばかにして「殺生」に行くと称して魚釣りに行ってみたりと、へらへら楽しく生活している。その姿は、テレビドラマの軽めの時代劇とまあ大差なく、時代を遡るほど人権が抑圧されていたという、よくある左翼史観がいかに狭量かわかる。むしろ、最近ではよく知られていることではあるが、元禄の世、庶民の恋愛は今よりずっと自由で、西洋的抑圧倫理が流入する今の時点から過去を眺めることがいかに視野を狭めるかということである。

特に面白いのは文学作品にからんだ2つのエピソードである。元禄末期、庶民の話題をさらったのは、近松門左衛門の『曽根崎心中』であった。これは町人と遊女の悲恋の末の心中物語であるが、浄瑠璃芝居として上演された本作品、大当たりを取り、その後長らく、江戸から上方にかけて心中が流行する。幕府により何度も心中を禁ずる布告を発したくらいである。これはまるでテレビドラマの影響でファッションが広まるかの如しである。文庫版巻末にある山崎正和と丸谷才一の解説的対談がなかなか秀逸である。
山崎 そうです。心中する当人たちも、明日は自分たちがどう評定されるであろうかと案じて死んでゆく。つまり観客の目を意識して死んでいくわけですね。 
丸谷 元禄時代の、少なくとも上方で心中する男女は、こういう風に死ねば近松j門左衛門は書いてくれるんじゃないか、という期待をいだいて心中したような気がします。(p.261)
浄瑠璃なり歌舞伎なりの文化的メディアが人々の生活様式や心理に影響を及ぼす。もちろんそこには鶏と卵の関係があるが、それにしても実に現代的ではないか。我々日本人は1700年ころからこういう感じだったのである。

一方で、赤穂浪士討ち入り事件については、著者文左衛門の筆致に特に興奮は見られない。あまたある他の事件と同列に淡々と事実を記しているのみである。江戸城下、町民の熱狂で迎えられた、というような話はおそらく事実ではなく、『仮名手本忠臣蔵』以降に、人々の中でイメージが膨らまされた結果であろう。それは文左衛門の死後、半世紀ほど後のことである。しかし逆に言えば忠臣蔵もまた、メディアがむしろ事実を誘導するという実例になっているということである。

なお、文左衛門の日記自体は面白いのだが、解説書としては、ところどころ手を抜いたか、原文をそのまま貼り付けている箇所が多くあり、もうちょっと物語風に消化した上で提示した方が読みやすかったかもしれない。しかし日本といういう国が、昔から結構面白いところだったという事実が分かる本。現代のインテリゲンチャ必読の本。


元禄御畳奉行の日記 (中公文庫)

  • 神坂 次郎 (著)
  • 文庫: 274ページ
  • 出版社: 中央公論新社; 改版 (2008/09)
  • ISBN-10: 4122050499
  • ISBN-13: 978-4122050495
  • 発売日: 2008/09
  • 商品の寸法: 15.2 x 10.6 x 1.6 cm

2011年11月14日月曜日

「世界をより良いものへと変えていく」

米国IBMが創立100周年を記念して出版した "Making the World Work Better: The Ideas That Shaped a Century and a Company" という本の邦訳。3名のジャーナリストによる3部構成であり、第1部がコンピュータの発展史、第2部が企業経営の現代的あり方についての考察、第3部がSmarter Planetに向けた未来へのアジェンダと言ったところだ。2011年11月現在、空前の好業績を謳歌するこの国際企業が最近提唱しているSmarter Planetのコンセプトを、おそらく最も詳しく解説しているという点で、本書は一読の価値があるかもしれない。

第1部 "Pioneering the science of Information" はいわば、後段のビジョンを語る上で自分にその資格があると主張するための自己紹介である。入力装置、記憶装置、演算装置に分けてハードウェアの進歩がまとめられ、次いで、ロジック、ネットワーク、アーキテクチャと上位層での進歩の歴史が概観される。周知の通り、バーコードハードディスクドライブDRAMRISCFORTRAN関係データベースSQLSNAなどの今でもおなじみの技術はIBMで開発された。実はコンピュータ時代以前でさえ、IBMのセレクトリックタイプライターはオフィスにおける高級事務機の代表格であったし、言わずと知れたIBM PCは、パーソナルコンピューターという存在を、趣味の道具から仕事の道具に高める上で、決定的な役割を果たした。その他、高温超伝導DeepBlueなどの先端的な話題も加えると、客観的に見てIBMの歴史がコンピュータの歴史そのものであることがよく分かる。

第2部 "Reinventing the modern corporation" はIBMの企業経営の考え方そのものの紹介と言える。章立ては次の通りだ。
  • The Intentional Creation of Culture(企業理念の形成と実践)
  • Creating Economic Value from Knowledge(知識を利益に結びつける)
  • Becoming Global(国際企業への道)
  • How Organizations Engage with Society(企業は社会とどう関わるか)
特に興味深いのが2番目の章である。これを執筆したスティーブ・ハムは、情報を利益に変える仕方が、社会の変化により根本的に変化してきたと述べる(p.171-173)。すなわち、情報を蓄積し共有するための社会基盤が整備されたことにより、知識を利益に変える速度と多様性が圧倒的に上がり、そしてそれは、情報の占有よりも共有によって課題を見出し、速やかにそれを解決するというスタイルの研究開発を必要としていると説く。情報の共有を意味あるものにするためには、個としての戦略と意志が確立していることが必要である。IBMが採用してきた多様な企業戦略は、閉塞状態にある日本社会に何か示唆を与えるかもしれない。

この議論の延長線上に、第3部 ”Making the World Work Better” で未来へ向けたアジェンダが提示される。これは要するにSmarter Planetのビジョンそのものといってよく、本の題名そのものとなっていることからも分かるとおり、本書の中心となる部分である。

第3部の執筆者ジェフリー・M・オブライアンによれば、IBMがこれまでしてきたことは、結局、社会がうまく回るようにするための仕組みを提供してきたということである。彼は言う。
Making the world work better is about untangling and managing complexity. Doing so ---  whether to transform industries, markets, societies or nature ---  requires serious science. But curiosity and experimentation aren’t enough. Solving systemic problems also requires a particular combination of vaulting ambition and profound humility --- the level of ambition to tackle seemingly unsolvable problems and enough humility to recognize that no single entity can make the world work better and no single entity can control a complex system. What we’re really talking about here is progress, which by definition is communal. (原著p.250)  
世界がうまく回るようにするということは、複雑さを解きほぐして手に負える状態にしておくということである。産業や市場、社会、あるいは自然 ── 対象が何であれ、それを行うためには本格的な科学的知識が必要である。思い付きをとりあえず試してみるというやり方では不十分であり、系全体の問題を相手にするためには、身の程知らずの勇気と、心からの謙虚さの双方を微妙なバランスで両立させなければならない。すなわち、一見解けそうにない問題に一歩を踏み出す勇気と、ひとつの存在がこの複雑な世界を変革し制御するなどということがありえないということを知る謙虚さである。我々が今語ろうとしているのは、社会全体の進化ということである。(筆者訳) 

これは的確な指摘と言ってよい。本質的には我々は、いわゆるIT革命の次に来るべき社会変革について論じているのだ。そのために何が必要か。オブライアンは、その象徴として、マイク・メイという人物のエピソードを使っている。メイは、3歳の時に事故で失明した。その後43年もの間、彼は暗闇の中で過ごしたのだが、医学の進歩により46歳にして光を取り戻した。しかしそれは必ずしも単純なハッピーエンドの物語ではない。今メイは、目から入る情報の奔流と格闘している。それは我々が今おかれた状況と似ているとオブライアンは考える。情報技術の進歩とセンシング技術の進歩が、いまやありとあらゆるデータの観測と蓄積を可能にした。この情報の奔流を使いこなすことで、何かより無駄がなく、より安全で暮らしやすい社会が実現できると期待できる。こう考えた時、我々に必要なのは、データを解析する能力そのものである。

オブライアンは、そこに至るプロセスを、Seeing-Mapping-Understanding-Believing-Actingという5段階で整理している。現象を観測し、それを記述し、それに基づいて何かいくつかの仮説を考え、その中から確からしいものを選び出し、そして行動する、ということである。あえて訳せば、観測、記述、理解、受容、行動、とでもなろうか(邦訳ではそれぞれ、観察、マッピング、理解、信じること、行動)。興味深いことに、同様の議論は、最近、数理解析技術の専門家の側からも行われている。たとえば、IBM研究部門の数理科学部門のリーダーBrenda Dietrichらの論文では、同様な段階論が、descriptive-predictive-prescriptiveという言葉で述べられている*。これは、過去の現象を記述する段階、未来を予測するモデルを立てる段階、そして未来に対する行動を最適化する段階、の順に、情報の解析技術は発展してゆく、という主張である。
*"An IBM view of the structured data analytics landscape: descriptive, predictive and prescriptive analytics," Irv Lustig, Brenda Dietrich, Christer Johnson and Christopher Dziekan, Analytics, Nov/Dec 2010, pp.11-18.

複雑系それ自体の解析が簡単であるはずはないが、知識ないしデータを価値に変えるための技術としての数理解析技術が解くべき具体的な問題は、ビジネスの現場に無数にある。本書を通して、かつてはいわば physical layer の覇者であったIBMが、いかにその興味の対象をスタックの上位に移してきたかがよく分かる。それは言い換えると、高度な技術がその高度さに見合う見返りを得られる「フェアな」領域が、より上位層に移っているということである。Smarter Planetとは、その遷移を歴史的必然と見た時のビジネス戦略に他ならない。


追記。蛇足であるが、本書邦訳について多少コメントしておきたい。奥付から察するに、本書は、英語版が作られた後に、業者に翻訳させ、それを会社関係者がチェックする形で作られたのではないかと思う。翻訳の質は悪くない。多くの場合意味は通じる。ただ、内容の専門性の高さがゆえ、なかなか難しい箇所も散見される。たとえば目次において、IntentionalをInternationalと誤読しているのはちょっとまずい。また、第3部のSeeing-Mapping-Understanding-Believing-Actingのリズミカルな調子が、訳語では失われているのも残念だ。数学用語が意味不明になっている箇所も散見される。たとえば、「二次方程式の平方根(p.73)」とか、「長い、平らなテール(p.139) 」とか、「人間の定理(p.149) 」などである。読み手に幅広く深い知識を要求する本だからして、それこそ Collective Intelligence(p.186)により、改訂版を出すなどしても面白いと思う。


世界をより良いものへと変えていく ~世紀とその企業を作り上げた大志~
  • スティーブ・ハム (著), ケビン・メイニー (著), ジェフリー・M・オブライアン (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 350ページ
  • 出版社: ピアソン桐原 (2011/10/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4864010684
  • ISBN-13: 978-4864010689
  • 発売日: 2011/10/20
  • 商品の寸法: 23.2 x 16.8 x 2.4 cm

2011年11月10日木曜日

「論文捏造」

2000年からのおよそ2年間、主に有機物超伝導という分野で、米国の名門研究機関ベル研究所に勤める若いドイツ人物理学者が、次々に画期的な成果を発表した。その着想にあらゆる物理学者は舌を巻き、ノーベル賞受賞も時間の問題とされていた。しかし、すべては捏造であった。2003年までに、Science、Nature、Physical Review、Applied Physics Letters、Advanced Materials という一流学術誌は合計28本にものぼる論文の取り下げを発表した。

本書は、その経緯を詳細に取材したNHKのドキュメンタリー番組の書籍版である。取材は徹底的かつ詳細、重要人物はほぼ全部網羅されており、その番組が、国際的な数々の賞に輝いたというのもうなづける。

現代の物理学の研究は、大きく素粒子と物性に分かれており、それぞれの中で理論と実験に分かれている。本書の主人公 ヘンドリック・シェーンは、物性領域の実験物理学者という位置づけになる。実験物理学者の研究の目的は、第一には、いかに新しい現象を発見するかにあるといってよい。それにはストーリーが必要である。絶対零度近傍で電気抵抗がゼロになるというストーリーは、分かりやすさといい現象の華々しさといい、20世紀の物理学を代表するものである。本書の主たる主題として取り上げられるシェーンのストーリーは、有機物と超伝導、それにエレクトロニクス技術の精華であるトランジスタを絡ませた壮大なもので(p.50)、その壮大さにおいて、彼は間違いなく天才であった。悲劇は、シェーンが、実験技術の天才ではなかったという点にあった。

実は私は2000年にシェーンの論文を(捏造と知らずに)読んだことがある。確かフラーレンで高温超伝導を達成したというのがその内容で、当時は銅酸化物特有の電子構造が、高温超伝導の原因であると信じられていたから、非常に新鮮な内容だったと思う。実験家でなかった私には、その論文の結果を疑う理由などなかった。しかし結局、私がその論文を読んで間もなく、何人かの研究者によりシェーンの論文にグラフの使い回しがあることが指摘される。すぐさま2002年5月にベル研に第3者調査委員会が作られ、4ヵ月後、その報告書が出たその日に、シェーンは解雇された。

この経緯を知った私の感想は、コミュニティの自浄作用が有効に働いた、というものである。超一流の超伝導研究者Bertram Batlogg率いる、これまた超一流の研究機関と目されるベル研の研究チームによるまばゆいばかりの成果。それがわずか1年と少々で、研究者の手により覆されたのである。世の中に不正というべき事柄は無数にあるが、通常の論文出版サイクルが数ヶ月を要することを思えば、この迅速な自浄作用は驚嘆に値する。

「夢の終わりに」と題する本書第9章は、捏造をなぜ防げなかったのかという観点からの著者村松氏の考察が記されている。上記の通り、客観的には、このスキャンダルは、学会の自浄作用により解決されたと言わざるを得ないのだが、著者は、「科学の『変容』と科学界の『構造的問題』」という、いかにもジャーナリスト的な問題提起をしたかったように思える。しかし羅列的なその考察の内容は、彼の緻密な取材振りと比べた時、ほとんど物悲しいほどである。ざっと並べると、彼はこのようなことを述べている。
  • NatureやScienceといった超一流ジャーナルでさえ記事の正確さを保証しはしない
  • 学会には間違いを許容する風土がある
  • 専門論文の不正の立証は簡単ではない
  • 専門領域は細分化している
  • 巨大科学の時代では持てる者が有利になる
  • 経済的利潤と結びつくと特許など異質な要素が入り込み、それが秘密主義を誘発する
  • 国家の後押しや、アメリカ的な競争社会が研究者に過剰なプレッシャーを与える
  • 内部告発の系統的な仕組みが不足している
  • 共同研究者の責任が曖昧である

いったいどうしろと言うのだろう?これがこの章を読んだ感想であった。NatureやScienceが真実性を保証しないのは、NHKが報道内容の真実性を保証しないのと同様であろう。裁判で報道機関はよく主張するではないか。「そう信ずべき相当の理由があった」と。他の論点も同様である。間違いを絶対に認めない学会が望ましいのだろうか?  専門分野の細分化を「禁止」すれば、経済活動や国家と無関係に学会が存在すれば、内部告発の仕組みを整えれば、共同研究者の責任を明確にすれば、今回の事件の発覚は早まっただろうか?

図らずも本書は、日本の報道産業のメンタリティの限界を明示しているように思える。研究にはリスクがある。これからやろうとしていることが意味がないかもしれない、今後何ヶ月か何年かの労力が無駄になるかもしれない、という恐怖に耐えて研究者たちは前に進むのである。したがって、注意深い査読を経て出版された論文の中に、そういうリスクの欠片が残っていることはむしろ自然であろう。研究の評価が定まってから、すなわち、時間と共にリスクが洗い流された時点から、居丈高に関係者の非をあげつらうのは卑怯というものである。

リスクがあるという意味では、報道も研究も同じはずであるのに、このような論旨不明瞭な考察しか残されていないという事実に、日本のマスメディアの深い闇が見えると言わざるをを得ない。


論文捏造 (中公新書ラクレ)
  • 村松 秀 (著)
  • 新書: 333ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2006/09)
  • ISBN-10: 4121502264
  • ISBN-13: 978-4121502261
  • 発売日: 2006/09
  • 商品の寸法: 17.2 x 11 x 1.6 cm

2011年10月31日月曜日

「日本海海戦の真実」

日露戦争後半の決戦、日本海海戦で東郷艦隊が完全勝利を収めた経緯を、『極秘明治三十八年海戦史』という海軍軍令部編纂の新資料によって検証した本。現在の日本で一般的になっている「司馬史観」の補正を行うという趣である。逆に言えば、ところどころフィクションが入って、どこまで信じていいのかわからなくなる『坂の上の雲』にある知識を、歴史学の水準に効率よく高めるための便利な本と言える。

本書のポイントは2つある。ひとつは、どうやって東郷艦隊が、バルチック艦隊の通過経路を正しく予測したのかという経緯である。『坂の上の雲』の最も有名な場面のひとつは、部下に宗谷、津軽、対馬のいずれの海峡を通るか問われて、東郷が一言、「それは津軽海峡よ」、と言った場面であろう。しかし本書によればそれは脚色のしすぎであり、津軽か対馬か議論百出の挙句、ほとんど津軽説に確定しかけたところ、バルチック艦隊に炭水等を補給した船団が上海郊外に入港したとの確実な情報が相次ぐに至り、ようやく対馬海峡通過が確実なものになったとのことである。要するに、補給に使った低速船団を艦隊から切り離すにせよ、しばらく海上に留め置く等をしなかったのはロジェストヴェンスキーの失策であり、東郷艦隊はその失策を正しくものにしたということらしい。

もうひとつが、「トーゴー・ターン」として世界史に名を残す丁字戦法の採用経緯である。世間的には、東郷長官のひらめきにより、決然として突如敵前大回頭がなされたとされている。しかしそれもまた脚色のしすぎであり、実は丁字戦法は、開戦前から決まっていた作戦であった。東郷自身が「連合艦隊戦策」という軍事機密資料に詳細に明記し、部下の将校にあらかじめ配布しておいたものである(p.160)。海戦当日の実行責任者が参謀・秋山真之である。そして丁字戦法の採用は、巷間言われているように天才的参謀秋山の着想ではなくて、基本的に、古今東西の海戦史に造詣深く、実戦経験豊富な東郷自身の主導によるものであり、その研究の過程では、山屋他人の示唆が大きかったようである。

著者野村氏は防衛庁戦史編纂官という地位にあった方で、一般に公開されていない一次資料に基づいて詳細に日露戦争についての実証研究を行ってきた。本書が依拠する最重要文書『極秘明治三十八年海戦史』は、大東亜戦争敗戦の際にすべてが焼却されたのだが、唯一、皇居内にあった1組だけが人知れず生き残り、戦後30年以上してから防衛庁(当時)に移管されたものである(p.26)。司馬遼太郎はそのような機密文書の存在を知る由もなかった。本書は、一般向けの新書とは言え、「日本海海戦の真実」という名に恥じぬ貴重な情報が盛り込まれた好著である。

端的に言えば本書は、歴史には奇跡がないことを教えてくれる。最高司令官東郷は、作戦研究を怠らず、入念な調査研究の下、丁字戦法・乙字戦法に基づく作戦を策定した。秋山ら参謀は、それを実行するためにベストを尽くした。いずれの海峡を通るかという困難な判断は、当初は誤っていたが、それも、バルチック艦隊の予想進行速度など、その時点で与えられていた情報から合理的に判断して、一度は津軽説を信じたのである。正しい判断のためには、今知られている情報に加えて、「何が知られていないか」についての情報も必要である。後者を知ることは論理的には不可能であるが、日頃からの真摯な研究がその多くを補ってくれる。奇跡と呼べることがあるとすれば、そういうプロセスだけである。


日本海海戦の真実 (講談社現代新書)
  • 野村 実 (著)
  • 新書: 230ページ
  • 出版社: 講談社 (1999/07)
  • ISBN-10: 4061494619
  • ISBN-13: 978-4061494619
  • 発売日: 1999/07
  • 商品の寸法: 16.8 x 10.7 x 1.3 cm

2011年10月17日月曜日

「国家の品格」

発売後わずか半年、2006年5月までに265万部を売り上げた大ベストセラーの国家論。いまさら取り上げるまでもないのだが、Amazon.co.jpでの書評が独特な分布をなしていたので一言言及しておきたい。その部数からして本書は非常に好評をもって受け入れられたが、書評を書くようなインテリからすれば、そのまま受け取るのがくやしい気分にさせる何かがあるらしい。星1つの酷評も比較的多い。面白いことに、星ひとつを与えた感想は、

  • 日本を美化しすぎである
  • 断定的過ぎる
  • 非論理的である

というような内容がほぼすべてで、非常にばらつきが少ない。内容に踏み込んだ批判はほぼなく、感情的に反応している様子が見られる。典型的なのは
実証や論理を欠いたほとんど印象論による日本的精神の称揚によって語られる「自信と誇り」なんて、たんなる「傲慢」に過ぎない
のような論法である。

内容に踏み込んだ批判もないわけではない。いくつかあるのは、新渡戸稲造を誤読している、という批判であろうか。新渡戸はクリスチャンであり、むしろ西欧精神の代表であるから、『武士道』をもって日本文化を称えるのは論理的に間違いだ、というものである。しかし本書では、これは新渡戸が「解釈した」武士道であると明記してあるし(p.121)、「アメリカに留学してキリスト教クウェーカー派の影響を受け」たとも書いてある(p.122)。むしろ比較文化論の結果としての武士道というのが論旨なのだが、どうも話はかみ合っていないようである。

この書評に見るのは、自国を褒め称えることを悪事のように思うインテリがいかにこの国には多いかということである。これは明確に教育の影響であろう。しかしはっきり言っておきたい。謙虚というのは、豊かさゆえの贅沢であるということを。

たとえば、安い料金でインターネットに接続でき、PCを購入でき、家電に囲まれた快適な生活ができるのは、その富を誰かが稼いだからである。よく指摘されるように、日本の場合その富の大部分は、主として製造業を中心とする国際競争力のある業種が稼いできて、たとえば税金として納め、あるいは給与という形で日本の市場を潤した結果である。つまりそれは、国際競争に打ち勝った結果得られた利益なのである。競争とは当初は勝ち負けが分からないから競争なのであって、そういう競争に突っ込んで行くためには、何かを信じる力が必要である。論理だけでは戦えないことは明らかであり、いみじくも帯に書かれている通り、「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論」が必要な理由もそこにある。

この「論理」をめぐる不毛なやり取りで想起されるのは、成果主義的人事評価をめぐる富士通の混乱である。富士通では、人事部の法文エリートたちが、個々の従業員の成果を「論理的に」評価すべく、定量的成果主義を導入したのであった。成果主義を導入した側も、それを非難する側も、成果主義=機械的定量人事評価、と信じているのには笑ってしまう。パソコンの販売員のような職務は別にして、そんなことはできるはずがないではないか。

論理を欠いているという理由で本書を非難する人々は、論理の出発点に情緒があるという事実自体を理解していないように見える。簡単に言えば、論理の力を過信しているように見える。人間という多面的な存在を単一の数値的指標により評価することなど不可能であるのと同様、文化的優位性を論証する論理などはありえない。本書の著者はそんなことは百も承知であろう。

それにしても、本書を読んで、「欧米にも欠点はあるが良い点もある、日本にもいい点はあるが欠点もある」(だから本書は受け入れられない)などという自明な感想しか浮かばない人たちは、どうやって日々の生活の糧を得ているのだろうか。創造も競争もなく自動的にお金をもらえるような職業があるのだとしたら、実にうらやましい限りだ。


付記。
念のために述べておくと、本書において「市場原理主義」を非難する箇所にはまったく賛成できない。誰だって競争するのは疲れるし、年功序列で十分な分け前が得られるのなら楽でよい。日本の先進的企業は、誰も好き好んで成果主義にシフトしたわけではなく、それが経済原則からして不可避的だったからそうしたまでである。資本主義というルールを認める限りにおいては、それは歴史的必然である。では、そのルールを認めないという選択肢はあるのだろうか。少なくとも現時点では存在しないし、社会主義の壮大な実験で分かったことは、おそらく、将来にわたっても存在しないということだ。残念ながら、それは情緒を超えた問題だと言わざるを得ない。本書の限界はこの点にあるのだが、詳しくはまた稿を改めよう。


国家の品格 (新潮新書)
  • 藤原 正彦
  • 新書: 191ページ
  • 出版社: 新潮社 (2005/11)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4106101416
  • ISBN-13: 978-4106101410
  • 発売日: 2005/11
  • 商品の寸法: 17.5 x 11 x 1 cm