この漫画の主人公は、「白い巨塔」の里見のような男で、病院の社会的使命のようなものとは無関係に、「患者ひとりひとりに向き合う」ことを志向する。こだわりの男だ。末期癌の患者に対して、大学側に緩和ケアを持ち出すところなどはフジテレビ版白い巨塔と完全に同じだ。
緩和ケアという発想自体はよい。問題は、それを大学病院で行うことが、社会全体の利益を最大にする選択かどうかということである。これはまさにトリアージの問題である。そもそも、「ひとりひとりに向き合う」などと言ってみたとしても、実質的には、無数の患者に順番をつけ、最初の「ひとり」を選んでいることと変わりない。選ばれなかった者からすれば、そこに合理的な理由は何もない。つまりそれは、自分が関係を結んだ患者だけを救うと言っているのと同じであり、親族に富を山分けする田舎の政治家と変わらない。自分が関わった患者だけしか救えないのだとしたら、確実に助かる患者を助ける、というのが当然の発想であり、その努力を放擲してひたすら独白にふける主人公は社会的には役立たずと言われても仕方ない。そのような自己満足を肯定的に描く著者のセンスはまったく救いがたい。
百歩譲って、そういう志向も多様な人物像の描写として認めるとしても、最後の精神医療の話には言い訳の余地はない。著者はおそらく、アルコール中毒を装い精神病院に潜入、その実態を描いて有名になった大熊一夫のルポまたはその要約を読み、その設定を借用したのだろう。その時代、1970年の頃の話だが、精神医療に多くの課題があったことは事実だ。ルポが描く精神病院は暗黒の牢獄の如しで、それが一面の真実であったことは確かである。
しかしこのルポが出た当時と今では精神病の治療技術はまったく変わっている。いまや急性症状の多くは薬物治療で抑えることが可能であり、一部の人格障害等を除けば、精神病の多くは制御可能なものである。脳内伝達物質の研究が劇的に進展したからである。本書で患者の人権蹂躙の象徴のように描かれている電気痙攣療法さえ、いまや薬物治療が効かない場合の良心的かつ適切な治療として確立している。
何より問題なのは、精神障害者の犯罪について、まったくでたらめな、被「差別」者を扇動するためのプロパガンダによく使われる論法をそのまま使っていることだ。精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と作中の新聞記者に言わせるくだりがそれである。以前書いた文章から引用する。
一般的に、統合失調症(精神分裂病)の発症率は、国によらずほぼ一定で、1%程度であるとされている(出典)。そうして、刑法犯総数のうち精神分裂病患者の数は0.1%程度である(p.127)。これによれば、精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と言える。これは今なお、精神障害者への「偏見」を戒めるロジックとして使われる。「しかし、殺人や放火などの重大な犯罪では一般よりも高くなる」(同)。本書によれば、やや古いデータであるが、1979から1981の3年間の殺人事件5113件のうち、333件が精神障害者によるものとされている。率にして6.5%である。放火の場合はもっと高い割合となることが知られているから、精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度である、という結論が導かれる。
これも以前書いたことだが、精神病患者の大多数は善良な人々であるが、こと「急性期」の患者には、その症状がゆえの触法行為を犯さぬよう強い助けが必要である。そこには警察による強制力が必要な場合もあるし、閉鎖病棟が必要な場合もある。病棟を解放することが患者の「人権」を守るための最善の手段であるかのように描く著者の理解は、ほとんど半世紀前の反体制活動家のそれと変わらない。精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度、という事実をまず受け止めて、その上で双方が最大限幸福になる方法を取るのが為政者の役目である。
この本は、まともな出版社から出され、まともだとの評判を得ている本の中では、私の知る限り最悪の本である。取材の不足は目を覆うばかりであり、描かれる人物像の貧困は耐えがたい。この本を読んで肯定的に感動している人がいたら、自分の知的水準を疑ったほうがいい。
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