2011年10月6日木曜日

「心病める人たち」「心の病と社会復帰」

かつての精神医療の雰囲気が分かるやや古い本。とりわけ、薬物療法が確立していない時代の記憶を色濃く残す旧時代の精神科医の、最も良心的な部分の考え方を象徴する本であろう。

ここで紹介する2冊は、古いといっても高々15年とか20年前の本であるが、この間に精神医療をめぐる雰囲気ががらりと変わったことが見て取れる。人間自体は20年で別の生物になるわけではないから、これは精神医療自体の未成熟さを示唆するものであろう。

石川信義氏『心病める人たち―開かれた精神医療へ 』は、明確に反体制運動的な立場で書かれた本である。彼の理想は、障害者が健常者と同一のコミュニティで暮らす世界である。そのために、完全開放病棟の実践を行っている。

彼の出発点は、1970年に朝日新聞紙上で連載され大反響を受けた『ルポ・精神病棟』と同じである。当時精神病院は監獄も同様であった。長い間、精神病には実効性のある治療法が確立しておらず、また、精神病患者への偏見もあいまって、薬物療法がほぼ確立した後も長い間、日本では、精神病患者は確かに悲惨な境遇に置かれていた。この地点から脱却する理想として、石川氏は開放病棟を据えたのである。

私が本書を読んだのは出版まもない頃、学生時代のことである。当時は、本書のような反体制・反政府的な立場からの政策批判は普通に見られた。しかし2011年の今、この本を読み返すと、強い違和感を感じずにはいられない。著者石川氏は、財政的制約や諸政策の優先順位を無視して、無制限な福祉支出を強いているかのようであるし、何よりも、現在標準的になされている薬物治療についての記述がほぼまったく出てこない。ほぼ一方的に、健常者側のコミュニティの歩み寄りを期待するかのようである。

このような理想主義はどういう結果を生んだのか。彼が長い間院長として勤めた三枚橋病院は、今年7月になり、次の告知を出した。
急性期治療病棟の閉鎖化 
当院は、開院以来、全開放の精神科病院として行なってまいりましたが、精神科救急へ向けて、平成23年7月1日より急性期治療病棟(54床)を閉鎖病棟化することになりました。
石川氏が院長を辞したのは2009年とのことであるから、それからまもなくこの病院は、閉鎖病棟を作ったことになる。このことは、石川氏の理想と、現実が、一定の齟齬をきたしていたことを意味している。はっきり言えば、かつての障害者解放運動は挫折したと言ってよい。

もう一冊、蜂矢英彦氏『心の病と社会復帰』はより冷静に、1990年代前半までの状況を記している。メンタルヘルスに関する情報が爆発的に一般化した現代からすれば、沈鬱な本であるが、本書のあとがきにはこうある。
全部を書き終わったとき、ある人から「心の病の問題がこんなに明るくかかれるとは思いもよらなかった」という感想をもらった。(p.205)
確かに、精神医療に関するそれまでの本は、上記石川信義氏のような反体制本か、そうでなければ専門書しかなく、本書の冷静な筆致は異色だったのであろう。

実際著者蜂矢氏は、左翼的プロパガンダとは対極的な良心の人らしく、精神障害者の犯罪比率についても客観的なデータを提示している。一般的に、統合失調症(精神分裂病)の発症率は、国によらずほぼ一定で、0.8%程度であるとされている(出典)。そうして、刑法犯総数のうち精神分裂病患者の数は0.1%程度である(p.127)。これによれば、精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と言える。これは今なお、精神障害者への「偏見」を戒めるロジックとして使われる。「しかし、殺人や放火などの重大な犯罪では一般よりも高くなる」(同)。本書に寄れば、やや古いデータであるが、1979から1981の3年間の殺人事件5113件のうち、333件が精神障害者によるものとされている。率にして6.5%である。放火の場合はもっと高い割合となることが知られているから、精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度である、という結論が導かれる。

上で紹介した三枚橋病院の対応は、この一見矛盾した事実を理解するヒントを与えてくれる。すなわち、精神病患者の大多数は善良な人々であるが、こと「急性期」の患者には、その症状がゆえの触法行為を犯さぬよう強い助けが必要なのである。これには、薬物治療を基本とし、時に医療と警察が協力した強制力ある対応が必要である。実運用がどうなっているかは別にして、それを実現する仕組みは日本にはすでに備わっているといってよい(措置入院医療保護入院、など)。

日本における精神医療は、かつての暗黒期、反体制運動と結びついた混乱期を経て、ようやく先進国の名にふさわしい体制が整ってきたように思われる。その土台には、幾多の理想主義者たちと実践家たちの刻苦の努力があった。仮に現実の前に敗北したとしても、それが実践を伴う限りにおいて、理想主義者たちの努力の足跡は尊い。


心病める人たち―開かれた精神医療へ (岩波新書)

  • 石川 信義 (著)
  • 新書: 248ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1990/5/21)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 400430122X
  • ISBN-13: 978-4101308333
  • 発売日: 1990/5/21
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.4 cm


心の病と社会復帰 (岩波新書)

  • 蜂矢 英彦
  • 新書: 210ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1993/4/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4004302765
  • ISBN-13: 978-4004302766
  • 発売日: 1993/4/20

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