2021年2月20日土曜日

『事件現場から: セシルホテル失踪事件』

 

2013年に起きたLAでのカナダ人女子大学生失踪事件を追ったNetflixのドキュメンタリー。原作は Crime Scene The vanishing at the Cecil Hotel (Netflix Series, directed by Joe Berlinger)。事件の詳細については英語版のWikipediaをほぼそのまま訳した日本語の項目がある。エリサ・ラム事件、というのがそれである。


これはカナダの超名門大学ブリティッシュコロンビア大学(日本で言えば京大や阪大にあたる)に通う21歳の女子学生が単身カリフォルニアを旅行中にLAのセシルホテル(Cecil Hotel。英語ではシーシルと発音する)というホテルで失踪したという事件である。防犯ビデオの分析の結果、彼女はホテルから外に出ていないと推定され、ホテル内で警察犬を動員して大掛かりな操作が行われた。

セシルホテルはLAにおける最悪の犯罪地帯とされるスキッド・ロウ地区(日本だと西成のあいりん地区などに当たると思う)に立つ。何度も米国における有名な犯罪の舞台になったことで知られ、現地では悪名高い場所である。それがゆえ繁華街至近という立地ながら部屋代は非常に安く、主に海外からの若い客を多く引き付けてきた。LA市の規制により、ホテルの上層階は貧困層の長期滞在者向け住居になっており、ナイトストーカーことリチャード・ラミレス、日本で言うと永山則夫にあたる獄中作家ジャック・アンターウェガーなど、身の毛がよだつ殺人事件の犯人たちが滞在したのはそこである。

この時点で警察の捜査は、現地事情を知らないうぶな女子学生、しかも若い美人の彼女が、この悪名高いホテルで犯罪者の餌食になったことを暗に想定するものであった。しかし大がかりの操作の結果、何一つ手掛かりは得られなかった。そこでLA市警は、失踪の直前に彼女をとらえたビデオをマスメディアに公開することを決断する。それが下記の動画である。

https://www.youtube.com/watch?v=_rfLSVIA0L0

そこにとらえられたエリーサの不可思議なふるまいはインターネット上で爆発的な議論を引き起こした。彼女はまるで何者かに追われているかのようで、パニック状態でエレベーターのボタンを押し続けているようにも見える。一方で、両手をひらひらさせる様子からは、何かの薬物の影響下にあるかのようにも見える。

動画が公開されて数日後、宿泊者から水の出が悪いとの苦情を受けたホテルは、屋上のタンクを点検する。そこで作業員はタンクの水に、全裸のエリーサが浮いているのを発見したのである。名門大学に通う彼女には一切の犯罪歴はなく、多くの "web sleuth"(ネット探偵)たちが、いかにスキッド・ロウの犯罪者が若い娘を餌食にしたかについて自説を展開した。

しかし不思議なことに、警察の多大な努力にも拘わらず遺体からも何の手がかりも得られなかった。外傷もなければ、薬物も検出されない。仮に彼女が意志に反してタンクに投げ捨てられたのならば、犯人は、遺体を背負って何メートルも階段を上り、屋根の上から2メートル程度下にあるタンクの上に降り、そして50㎝角かそこらの小さな保守用の窓から遺体を入れなければならない。机上で考えるとそれも不可能でなさそうに思えるが、下記のNBCニュースの動画を見ると、現場に何の痕跡も残さず、かつ、遺体に一切の外傷を残さずにそれを行うのはまず不可能であることが分かる。


4回シリーズの最終回、エリーサに何があったのかについて、確度の高い推測が明らかにされる。エリーサはI型の重篤な双極性障害に苦しんでいた。症状の再発により大学の授業もきちんと受けられず、友人たちが一人前の社会人になるべく着々と準備をしているように見える中、病気のためにまだまっとうな人間になれずにいる自分を非常に苦にしていた。毎日飲むことを義務付けられている大量の薬。聡明な彼女は、それが症状のコントロールのために必須であることを頭では理解していただろうが、一方で、薬に頼らずに力強く生きる自分をいつでも夢見ており、そして時折、おそらくそれも躁状態の症状のひとつであるが、薬を勝手に中断してしまったことがかつてあった。彼女の姉妹の証言から明らかになったことには、過去の断薬は幻聴・妄想を伴う重い症状をもたらし、幻聴から逃れるためにベッドの下に隠れていたこともあったのだという。

彼女がカリフォルニアを旅行先に選んだのは、かつてフロンティアと呼ばれていた場所で、本当の自分を見つけたいという願いからであった。LA中心部の華やかな雰囲気の中、彼女は身体的には健康なのにもかかわらず薬に縛り付けられているかのような自分をみじめに思ったに違いない。検死結果から明らかになった通り、彼女はLAに来てからほとんど薬を飲んでおらず、精神的な破綻はおそらく時間の問題であった。

実際エリーサは、部屋を共有していた2人の女性宿泊者に対して、「出ていけ」「消えろ」(Get away, get out, go home)などと書いた紙を相手のベッドに張り付けたり、同居者が外出から戻ると内側から鍵をかけ、合言葉を言わない限り中に入れない、などの異常な行動をとった。妄想の支配下にあったのであろう。さらに失踪の日、彼女はLAでテレビの公開収録に出かけ、筋の通らない手紙を番組のホストに渡そうとして警備員に制止されるという事件を起こしている。同居者からの苦情により、ホテルは彼女を別の部屋に移した。エリーサのチェックアウト予定日の前日のことである。当時ホテルの支配人だったAmy Price氏によれば、その晩彼女はロビーに降りてきて、「あたしキチガイなの!でもそれはLAも一緒でしょ!」("I'm crazy, but so is L.A.")などと手を広げて叫んでいたらしい。


エレベーターのビデオにとらえられた奇妙な様子はおそらくその直後の彼女の様子である。法医学者のJason Tovar 博士、精神科医のJudy Ho博士らの解釈によれば、彼女は妄想上の悪者から逃れるため、安全と思われる隠れ場を必死に探していた。運の悪いことに彼女が向かったのは火災の際の避難に使う非常用階段で、それが唯一、警報機を鳴らさずに屋上にたどり着ける経路なのであった。彼女は屋上にある建物の上に上り、4つのタンクが眼下にあるのを見つける。検査用の小さな窓があるのを見た彼女は、そこが唯一、魔物から自分を隠せる場所だと信じた。


多くの人は、人間の脳の複雑な仕組みを知らないし、知ろうともしない。この事件で不幸だったのは、精神障害が公に口にするをの憚られる類の病気であるがゆえ、明らかに奇矯なエリーサのふるまいが長く表に出なかったことである。遺体発見当時タンクのふたは閉じられていたはずだとLAの警察担当者が誤って発表してしまったのも火に油を注いだ。ふたは実際には開かれたままであった。したがって第三者による隠蔽の可能性はほぼありえず、何らかの事故を強く示唆するものであった。

何者かになるためにあがいている時期の若者の心は傷つきやすいものである。心身が健康であっても不安定になりがちだというのに、躁鬱病による精神状態の極度の変動は彼女を強烈に痛めつけていたに違いない。おそらく彼女にとっては、陽光あふれるフロンティアとしてのカリフォルニアへの一人旅を成功させることは、自己再生のための必須の儀式のように感じられていたはずだ。そう思い詰めた先に、これまでにない深さでの闇と破局が待っていたのである。ネット探偵の多くは、彼女の気持ちに寄り添うふりをしながら、実は、彼らの想像力の枠の中に彼女を当てはめて自己満足に浸っていたに過ぎない。自己満足だけならばいいが、YouTube などを通して多くの人たちを結果として扇動し、無実の人たちへの攻撃に導いた責任は大きい。自分が何を分かっていないかを知らない善意の人たちほど手に負えない人たちはいないのである。


このドキュメンタリーは、ホテル側、警察側、ネット探偵側、そして第三者的立場の医学の専門家の意見をうまく配し、それぞれの考えを引き出しつつ、最後に説得力のある結論に導くことに成功している。ネット探偵たちの、心情的には理解できるものの結果として無責任な意見を繰り返し繰り返し取り上げることで、作品としてはやや間延びした印象にもなったが、ディレクターのJoe Berlinger氏としては、あえてそれをすることで社会に対して警鐘を鳴らすという意図もあったのだろう。主観的感想と直接観察された事実、それから科学的推論を適切に区別することためには、高い知性と教養が必要である。それは日本のメディア業界では望むべくもないが、アメリカにはそれをきっちりと、しかも商業ベースのメディアで行える環境があるのである。

2021年2月1日月曜日

Lean In: Women, Work, and the Will to Lead ( by Sheryl Sandberg)

 

邦訳もされ、もはや説明する必要もないほど有名なシェリル・サンドバーグ氏の主著。ある意味、2020年におそらくピークを迎えた #MeToo 運動 への、ビジネス側からの強力な応援として、日本でも多くの人が影響を受けたに違いない。書名はおそらく、身を乗り出して前向きに取り組む、という状況を比喩的に表したもので、強いて訳せば「一歩踏み出そう」という感じだと思う。

 市場競争にさらされる「健全な」業界においては、金銭的な評価、いわゆる「ボトムライン」の数字が結局すべてであり、そこには性別は直接の関係はない。女性だろうが男性だろうが、たくさん売ってくれる営業員がよい営業員であり、CEOが男性だろうが女性だろうが企業価値を上げてくれる人物がよい経営者である。最近、ある国際的企業で長くCEOとして君臨していた女性がCEO交代を発表したとたん株価が急騰したという話があった。それは別に株主が女性差別主義者だったからではなく、過去何年にわたり首尾一貫して企業価値を損ない続けてきたCEOの成績を見て、多くの株主が彼女の退場を願っていたということに過ぎない。逆に、Google で Google Map などのすばらしく革新的なプロジェクトをリードしたマリッサ・メイヤー氏がYahoo!のCEOに就任した年に株価が74%も上がったのは、彼女の実績と手腕への期待ゆえであろう。大多数の理性的な株主は単に企業価値を見ているだけであり、それ以外ではないのである。

科学技術の開発についても同じことが言える。 サンドバーグ氏の属するFacebookのR&D部門は、2021年時点で、Google、Amazon、Microsoftなどのアメリカ企業や、Baidu、Alibaba, Tencent などの中国企業と並び、AI(人工知能)分野での最強の技術力を持っていると考えられている。AIの最重点領域としての機械学習やデータマイニングの分野では、最新技術は主に学術会議の論文集(Proceedings)として発表される。これらは、ほとんどすべてが二重ないし三重の匿名査読方式(double/triple blind review)を採用しており、査読する側は、誰が書いたか・どこの所属か・性別は何か、など何もわからない。性別が評価基準に入る余地は基本的にない。 ── などと言っても、そもそも「査読」という仕組みを理解するためには大学院修了程度の経歴が必須なので、日本の新聞記者には信じがたいだろうが、本当である。たとえば私は、AI分野のトップ会議のひとつである International Joint Conference on Artificial Intelligence (IJCAI) の Senior Program Committee (SPC) Memberを務めたことが2度あるが、投稿者の名前を知る手段は、末端の査読者はもちろんのこと、それを統括するSPC メンバーにすら全然ない。近年、多くの主要会議では、投稿情報の管理は Microsoft's Conference Management Toolkit というサイトで行われている。データベースのアクセス管理は商用システムと同程度の堅牢さで作られており、元の投稿データに触れるのは本当に一握りの管理者のみである。会議の委員長は毎年変わり、運営委員も多様な背景の人々から選ばれるので、奥の院でこっそり何の不正をする、というような余地は全くない。犯罪的な意図を持って計画的に証拠隠滅でもすれば別なのかもしれないが、もうそれは完全に常人ができる範囲を超えている。

市場競争にせよ、技術競争にせよ、競争が本気の「ガチ」であればあるほど、性別など些細な属性に構っている暇はないのである。興味深いことに、それとは正反対のベクトル、すなわち資本主義の打倒が女性解放の唯一の道だと信じられていた時代があった。1990年に出版された上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』はその集大成と言うべきものである。そのメッセージは明確だ。資本主義社会においては、女性差別は経済原則からの必然である。だとすれば、資本主義の下での真の女性解放は、資本主義の打倒と共産主義革命の成就によってなされるべき、というのが論理的な帰結となる。副題に「マルクス主義」フェミニズム、とあるのはそういうことだ。今の若い人には、なぜ多くのマスメディアの記者や野党の政治家が、虚偽の主張をしてまで自国政府を攻撃するのか不可解だと思うが、もし資本主義の打倒が絶対善なのだとしたら、資本主義国の政府を攻撃するのも絶対善であり、その前にあらゆる手段は正当化されうる、というのが彼らの信念なのである。悲しいことに、上野氏の主著が発売された1990年という年は、東西ドイツの統一がなされ、誰の目にもマルクス主義の理想が、少なくとも社会主義という形では実装しえないという事実が明らかになった年であった。社会主義の退潮を察して、もちろん上野氏も共産主義革命を叫んだりはしていないのだが、上野氏や彼女のサークルの多くの人々は、私の知る限り、論理の根幹に関わるところで主張の総括をすることなくラベルを付け替えて、うやむやのままに相も変わらず正義の旗手のような顔で、現代の #MeToo に流れ込んだわけである。

話がそれた。

歴史的な経緯を普通に眺める限り、自由な競争の保証こそが女性解放の唯一の正しい道である、という主張は説得力があるものである。学業の能力で、男女に顕著な能力差があるというデータは私の知る限り存在しない。女性でも男性でも、賢い人は賢い。業務処理能力についても同じである。優秀な人は優秀であり、男女問わずだらしない人はだらしない。だから単に、優れた人が公正に競争できる仕組みと、十分な雇用の流動性さえあれば、基本的には問題は解決するはずである。公正な市場競争が貫徹するテック業界の、ボトムラインでの評価が貫徹する経営陣であればなおさらのこと、そのような信念の信奉者なのだろうと勝手に思っていた。

しかしこの本はそういう本ではない。Studies show...という形で女性の置かれた不利な状況を繰り返し繰り返し紹介し、女性が意志をもって上のレベルの判断に参画することの重要性を説きはするが、いかにして制度的に自由な競争を保証するかという話は、私の誤解でなければ、具体的にはひとつも出てこない。あらゆる意思決定は論理的に厳密な意味で不公平である(「醜い家鴨の仔の定理」)。したがって、あらゆる仕組みを不公平だ不公正だと批判するのはたやすいのだが、では全方位に公正な仕組みとはどういうものか(「男性の新規採用や昇進を禁止すれば公正なのか」など)という肝心な問いへの答えは本書にはない。真剣に女性の能力を活用するための具体的方策を考えている経営者なり政府関係者は困ってしまうのではないだろうか。本書は、女性へを励まし、lean-in を促す暖かい言葉に満ちている。有力なメンターを持ち(つまり子分筋になり)、アンテナをいつでも張って、機会を逃すな、というようなある種の心構え論である。それはすばらしい。しかし、相当程度出会いの運に影響されるはずの親分・子分関係が、組織の系統的な運営手段になるはずもない。

自分がトップを極めた後、後に続く人たちに対し本当の励まし・贈り物ができるとすれば、それは、自分の子分を優遇するというような狭い話ではないと思う。制度的に、いつでも、どんな出自の人でも、たとえば、田舎の出身でも、家庭的な事情から地方大学にしか通えなかった人でも、子持ちの人でも、未婚の人でも、素朴に、優秀な人がその優秀さを発揮できるような仕組みの整備と言うことになるはずである。性別や出自に業務能力が関係しないのならば(それがフェミニズムの大前提であろう)、その仕組みは性別や出自に中立でなければならない。

不思議なことに、本書からはそういう話が読み取れないのである。それは単に過渡期としての限界なのだろうか。そうかもしれない。特権的エリートの限界なのだろうか。それもあるのかもしれない。しかし私はもっと深く、かつて上野氏の本で感じたような後味の悪さを感ぜざるを得なかった。階級闘争論は人類を幸せにはしなかった。同様に、Identity politicsもまた問題解決の手段にはなりえないと思う。現代の #MeToo 運動にある種のデジャブを感じるとしたら、その人の感覚は正しい。


Lean In: Women, Work, and the Will to Lead

  • Sheryl Sandberg (Author)
  • Publisher : Knopf; 1st edition (March 12, 2013)
  • Language : English
  • Hardcover : 240 pages
  • ISBN-10 : 0385349947
  • ISBN-13 : 978-0385349949
  • Item Weight : 1.05 pounds
  • Dimensions : 6.01 x 1.02 x 9.58 inches

2020年12月31日木曜日

The Actor's Life (by Jenna Fischer)

 

アメリカで近年もっとも人気のあったテレビドラマのひとつ "The Office (アメリカ版)" の主人公 パム役でおなじみのジェナ・フィッシャーの自叙伝。女優の自叙伝にありがちな成功物語でも、他人事のようにハリウッドの内幕を描くのでもなく、セントルイスの片田舎からLAに出てきて、下積み時代はもちろん、今でさえつらい目にあいながらなんとか生き延びてきた彼女の苦労談をあけすけに語る。

ジェナは演劇に憧れる少女だったが、高校時代は特に主役をこなすわけでもなく目立たず過ごした。両親もエンターテイメント業界とは何の関係もない。大学では演技を専攻し、自分にはいくらかの天分があることを信じるようなった。少しの自負と大きな夢を持ち、マツダ323(ファミリア)に乗ってLAに行く。窓もないようなアパートでの貧乏生活から下積み生活をスタートする。 

 本の中では、例えばSAGと呼ばれる俳優組合の役割や、オーディションの様子、エージェントやマネジャーの見つけ方、エキストラのひどい扱い、危うく国際売春組織に売られそうになった経緯などなど、細かいハリウッドの内幕が詳しく書かれており興味深い。しかし何より興味を引いたのは、俳優という職業が、いかに(理系の)研究者に似ているかということだった。

The Officeで全米の人気者になった後ですら、試写会で評判が悪かったという理由で、配役予定のドラマから電話一本で降ろされたりする(そしてそれがメディアに流れて晒し者になる)。「大御所」への遠慮はない。無名時代にはもちろん、オーディションで落選に次ぐ落選である。これはまるで、常に厳しいピア・レビュー(査読)にさらされる研究者のようである。

研究者でも俳優でも、駆け出し時代の最大の仕事は自分を人に知ってもらうことで、ありとあらゆる機会をとらえてコネを作ろうとする。学問分野によっては、特に日本では、ある程度有力大学の流派に乗ればさほどの社交努力は必要ではないという幸運もあり得るが、アメリカでは一般にそうではない。学会で、バンケットやコーヒータイムが過剰と思われるほど設けられているのはそのためである。俳優の世界も似たようなものらしい。

常にオーディション落ちの恐怖に苛まれているハリウッド俳優と同じく、よほどの例外を除けば、研究者にも「上がり」はない。理系の一流学術誌には世界中から優れた論文が寄せられ、多くは厳しい査読の結果として掲載を拒絶される。たとえばアインシュタインですらPhysical Reviewというアメリカの一流学術誌から拒絶査定を受けた話は有名である。PhDを出たての若者も、50歳の教授も、そこに特に違いはない。

若者時代ならまだしも、いい年をして精魂込めた自分の演技なり作品なり論文に罵倒のようなコメントを受けるのはつらいことである。それは分野を問わず誰しも同じである。だから大多数の俳優志望の若者が数年で諦めてしまうのと同じく、ほとんどすべての研究者の卵も、数年で表舞台から消えてしまう。あまりに耐えがたく厳しいからである。その過程で多くの人は、自分がしたかったことは何だったのか自問自答を積み重ねる。そして多くの人は気づく。自分は本当は、俳優なり研究というということ自体に取り立てて強い興味はなく、それを単に名声を得る手段として使っていただけだったのだと。

これに関してジェナの言葉は力強い。

Even with  all the ups and downs, I love being an actor. But more specifically, I love using my imagination. I love reflecting on my own  feelings and bringing them to life in a character. I love connecting with an audience. I love being in touch with how it feels  to be guilty, angry, regretful, elated, loved, loving, spiteful, terrified, dishonest, or heroic. I love to recreate and experience these  feelings onstage, on TV, or in film. I love figuring out a character, discovering how we’re similar and how we differ. I love  all the new challenges that come with a new project. I love being  a storyteller. I love making people laugh. I love being with and  creating with other artists. And I love celebrating the human  experience.  (Chap. 6, "The Journey")

 彼女にとって演技とは人間への理解を深めるための創造であり、彼女はその過程自体に魅せられつづけているのだ。研究者も同じであろう。徹底的に考え抜いた後に見える何か美しい地平から、一見乱雑なこの世界を見下ろすという経験に一度でも魅了されたことのある者なら、どういう形にせよ、研究という営為から離れることなく、その苦しみも受け入れることができることだろう。

人生で挫折を感じたときに、何かヒントを与えてくれるかもしれない好著。

  • Title: The Actor's Life: A Survival Guide
  • Author: Jenna Fischer 
  • Publisher : BenBella Books (November 14, 2017)
  • Publication date : November 14, 2017
  • Language: : English

 

2020年11月11日水曜日

Evernote から OneNote に移行

OneNote のスクリーンショット。Microsoft のウェブサイトから。

査読する論文の管理やら、記事の切り抜き的な用途やら、家のこまごました処理やらのためにEvernoteという情報集約ソフトをもう10年以上便利に使っていたのですが、このたび、Microsoft のOneNote (for Windows 10) に移行することにしました。

Evernoteの最新のアップデート(Version 10)が壮絶な改悪で、私のラップトップ(ThinkPad P52というハイエンド機)でノートを開くだけでメモリは1GB以上、CPUは20%くらい食うという状態で、反応も遅く、もう好き嫌いがどうかというレベルを超えて、使用に耐えぬ状態になりました。その上、ユーザーが調節できる設定機能を全廃してしまったんですよね。実際、Wikipediaによれば(2020/11/11現在)
Evernote version 10 is a complete re-write of desktop clients. It removed almost all preferences and so possibility to adjust application to user needs. 

ということです。ここまでひどいソフトウェアアップデートは初めてです。おかげさまで、長らくプレミアム会員としてEvernoteにロックインされていた私の仕事スタイルを見直す勇気をいただけてありがとうという感じではあります。

私の場合、典型的なEvernoteの使い方は、例えば査読メモ用としては

  • 論文なりのpdfをページに貼る。
  • 重要な式とかグラフとかをキャプチャしてページに貼り、その下に主に日本語でコメントを書く。
  • 箇条書きや色分け、リンクなどのリッチテキスト機能を多用する
という感じでした。その他にも、旅行の計画とか、車やらの修理の記録など。ファイル添付とリッチテキスト編集、クラウドでの情報統一管理は必須で、これを完全にできる情報集約ソフトって案外ないんですよね。長い間Lotus Notesが唯一の選択肢でしたが、Evernoteの方が圧倒的に便利で、2010年以来10年間もプレミアム会員となっていた次第です。

私はOffice 365のライセンスに毎年お金を払っているので、ノートブックはOneDriveに1TBまで追加料金なしに置いておけます。単純にEvernoteに払っていたプレミアム会員代の $75がなくなるだけ。よいことばかりに思えましたが、ひとつ不安は、うまく情報を移せるかということでした。査読論文にしてももう何百篇にもなっているので、移行が不安でしたが、幸い、マイクロソフトがよくできた移行ツールを作ってくれており、ほとんど問題なく移行できました。

重要なTipsとしては、こちらにある通り、ノートブックごとにファイルとして書き出し、それをインポートするということ。当初私は複数のノートブックを一気に移そうとしたのですがうまく行かず、手間はかかりますが、ノートブックごとに手作業でインポートした次第。その結果、サイズがおおむね25MB以上のノートは失敗する確率が高そうでしたが、99%は移行に成功。張り付けた画像もリンクも箇条書きもほぼそのまま移行でき、非常に助かりました。失敗したページは手作業で移せば問題なし。また、インポートをやり直す場合、OneDriveに行って該当するファイルを削除すれば完全にUndoできますので、失敗しても問題なし。

OneNoteには 
  • OneNote for Windows 10 
  • OneNote 2016
という独立なソフトがあり、前者が冒頭に貼ったものです。iPadなどでも同じインターフェイス。後者は古いタブベースのUIで、左右にノートのリストが分離している、ノートのソートができない(!)など不可解な仕様で、これまで避けてきたのですが、OneNote for Windows 10  についてはとても美しいインターフェイスになっていて、反応が遅いこと、検索機能がショボいことなど細かい問題はあるにせよ、代替としてはおおむね満足です。

Evernoteは、卓抜なアイディアによるクラウドストレジの雄として敬意を持っていただけに、ゴタゴタ続きの最近の様子は残念でなりません。このままだと消え去る運命でしょうか。逆に言えば、老舗企業であるMicrosoftが、こういう若いスタートアップとガチで勝負して寄り切れる活力を保持しているというのはすばらしいことです。


2019年12月8日日曜日

The Reluctant Communist: My Desertion, Court-Martial, and Forty-Year Imprisonment in North Korea


1965年に米国陸軍軍曹の身分で北朝鮮に投降し、その後日本人拉致被害者の曽我ひとみさんと結婚し、2003年に帰国を果たしたチャールズ・ジェンキンス氏の回顧録。原著のタイトルを直訳すると『不本意な共産主義者 ─ 脱走、軍事裁判、北朝鮮に閉じ込められた40年』。日本語版のタイトルは『告白』。

ジェンキンズ氏はノースカロライナ州の片田舎出身の、どこにでもいたようなアメリカ人の青年で、これと言って使命感があるわけでもなく何となく米陸軍に入り、ドイツ駐屯を経て朝鮮半島に配属される。朝鮮戦争が終わって約10年を経たころで、取り立てて危険な任務というのはなかったが、下士官に昇進してしばらくして、38度線前線での緊張を伴う偵察任務を与えられ、精神的に追い込まれる。折しもベトナム戦争に本格化の兆候があり、彼らの部隊が近々ベトナムで実戦に投入されるという噂があった。それを気に病んだ彼は、西ベルリンで投降しモスクワ経由で米国に送還されたある米兵士のニュースを見て、酩酊で半ば錯乱した精神状態で、本国送還を期待して38度線を徒歩で越え、北朝鮮軍に投降する。それが40年の長きにわたる監禁生活の始まりである。

解放に至る経緯は日本では語りつくされていると思われ、特に付け加えることはないが、拉致被害者解放に至るまで、日本の政治情勢と主要メディアの報道が明らかに異常であったということは記しておきたい。日本人が拉致された確実な証拠があり、実行犯まで逮捕されているにも関わらず(宇出津事件辛光事件など)、また、拉致にかかわった日本人グループの具体的な証言があるにもかかわらず、なぜか警察は動かず、安倍晋三氏をリーダーとする自民党の一部を除いて、ほぼすべての政治家と官僚は、この自国民に対する深刻な人権侵害を見殺しにしたばかりか、逆に朝鮮人への人権侵害と非難する始末であった。私自身、長い間、恥ずべきことにこれら無責任な政治家と同じような考えであったが、1998年ころまでに、石高健次氏らの著作から、拉致犯罪の実在を確信していた。普通の知的誠実さがあればそのような結論に至るのは当然のことである。

本書で特に興味深かった点は二つある。ひとつは、曽我ひとみさんと出会い、結婚し、家庭生活を営んでゆく経緯である。身から出た錆、囚われの身の日常で、しばしば投げやりな気持ちで生きてきたジェンキンス氏は、美しく純粋な若き日の曽我さんに会い、ある意味人間性を取り戻す(Chap 5. "Soga-san")。彼らの日常が望みがないものであればあるほど、彼らの純愛の物語はますます崇高さを増す。それはまるでサルトルが描いたナチス占領下のパリのようである ──「われわれは、ドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。われわれは、ものを言う権利を始めとして、一切の権利を失っていた。(中略)。全能な警察がむりやりわれわれの口を閉じさせようとしたからこそ、どの言葉もすべて原理の宣言としての価値をおびた。」(J.P. サルトル、『沈黙の共和国』。F. パッペンハイム『近代人の疎外』第1章所収) 。

もうひとつは、投降に関し軍事法廷での判決を得て、ある意味みそぎを済ませてから、本書日本版の印税をもとに航空券を買って、40年ぶりにノースカロライナの郷里に帰った時の情景である(Chap.10 ”Homecomings")。40年ぶりに会う老いた母親との感動の再会を期待していたジェンキンス氏は、認知症により息子や孫たちをうまく認識できない母親の様子にショックを受ける。さらに、多くのアメリカ人が監獄国家北朝鮮の現実をほとんど知らず、ジェンキンス氏のことを、敵国に投降した裏切り者、共産主義に洗脳された活動家、といった疑いのまなざしで見ていることを知り落胆する。それはまるで、捕虜になることを恥とした戦前戦中の日本のようで、軍事国家アメリカの負の一側面であろう。

せめてもの救いは、ジェンキンス氏が自分の過去を振り返り、自分の過ちで40年もの間囚われの身であったとしても、曽我さんに会えたという一点において、北朝鮮で過ごした自分の人生は無駄ではなかったと述べていることだ。日本では圧倒的多数の国民が、曽我さんやジェンキンスさんを心から気の毒に思い、彼らの生活が軌道に乗るようにできる限りのことをしたと思う。ジェンキンス氏も本書でそのことについて、繰り返し感謝を述べている。元の自分の郷里で傷ついたジェンキンス氏だったが、佐渡を生涯の住処として、2017年に亡くなるまで穏やかな晩年を過ごしたようである。


The Reluctant Communist: My Desertion, Court-Martial, and Forty-Year Imprisonment in North Korea
  • Charles Robert Jenkins
  • ペーパーバック: 192ページ
  • 出版社: Univ of California Pr (2009/3/10)
  • 言語: 英語
  • ISBN-10: 0520259998
  • ISBN-13: 978-0520259997
  • 発売日: 2009/3/10


告白
  • チャールズ・R・ジェンキンス  (著)
  • 文庫: 320ページ
  • 出版社: 角川書店 (2006/9/22)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4042962017
  • ISBN-13: 978-4042962014
  • 発売日: 2006/9/21


Infidel

ソマリア出身で現在主にアメリカでイスラム教にまつわる人権問題に活発に発言を続けるアヤーン・ヒルシ・アリの半生記。原著タイトルのInfidelは「異教徒」の意味。和訳の表題は、『もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した』。

ヒルシ・アリはソマリアの著名な政治的指導者のひとりヒルシ・マガンの娘として生まれ、母国の混乱と氏族内での問題から、23歳の時にオランダに亡命する。それは直接的には、父親から強いられた結婚から逃れるためであった。氏族の面汚しの汚名を背負った彼女は、ムスリムであることと、自分の人生の関係を深く考えるようになる。ソマリ人の同胞の多くが生活保護を頼って自堕落に生きているのを横目に、彼女は通訳として生計を立てながら勉学に励み、30歳の時にオランダの名門ライデン大学で政治科学の修士号を取得する。

オランダ労働党のシンクタンクで働いているときに、当時オランダでも大きな社会問題になりつつあったイスラム教徒との文化的政治的摩擦についてのコメンテーターとしてメディアで有名になる。アメリカの同時多発テロ事件のころである。彼女はオランダで国会議員にまでなるが、イスラム教における人権侵害を厳しく指摘する彼女はイスラム教徒からの攻撃に常にさらされており、その政治的立場は危ういものであった。実際、彼女とイスラム教における女性迫害を告発した映画 "Submission"(服従) を撮った 有名な映画監督テオ・ヴァン・ゴッホは、映画の公開後まもなく路上でイスラム教徒に惨殺されてしまう。遺体には手紙がナイフで突き刺してあり、そこにはヒルシ・アリに対する殺害予告が書かれていた。彼女はその後常にボディーガードとともに行動せざるを得なくなる。

私がヒルシ・アリの名前を初めて知ったのは、”Is Islam a religion of peace?”(「イスラム教は平和の宗教か」) と題したディベートを聴いた時であった。現代のアメリカでは、イスラム教の存在自体に疑念を表明するのは政治的に不可能に近い。今からおよそ10年前、2010年10月にはそれがまだ可能であったという事実はほとんど驚くべきことである。テロを警戒しものものしい警備がなされたディベートの会場で、No monotheistic religion can be a religion of peace (いかなる一神教も平和の宗教にはなりえない)と言い切る彼女の強さ、勇敢さはどこから来るのか。

彼女は敬虔なイスラム教徒の母のもとに生まれ、十代の頃、イスラムの教えは彼女の中では絶対の価値であった。しかし、祖母に強制された自身の割礼の苦痛、一夫多妻の反作用で精神を病む母親、世俗国家ケニアに住んでいるときに読んだ恋愛小説とあまりに違う級友の結婚の現実、ひっきりなしに起こる名誉殺人、自分自身に強いられた結婚、など、それまで彼女が折に触れ感じた疑問が、異国オランダで独り立ちし生きる力を得たときに、彼女の中で臨界点を超える。不可侵の聖典であるコーランを字義通りに読む限り、女性を家畜同様に扱っている現実はイスラム教の必然的帰結である。現代的な人権概念とイスラム教の教えは根本的に矛盾し、イスラム教の教え自体が、人間による聖典の変更・再解釈を禁じている以上、原理的に妥協点は存在しない。彼女によれば、イスラム原理主義者による異教徒へのテロはイスラム教の正しい実践であり、異端でも何でもないのである。

本書は、現代民主国家の脆弱性に多くの示唆を与える。オランダは現代アメリカと同様、移民の受け入れと文化的多元主義に価値を置いてきた先進的な民主国家である。しかし奇妙なことに、ヒルシ・アリが、名誉殺人、すなわち、レイプされたという理由で父親や兄弟に殺されるムスリム女性たちの理不尽がイスラムの聖典自体に根差す構造的な問題だと訴えるとき、彼女は常に人権活動家からの攻撃にさらされた。「極右排他主義者」、「反イスラム主義者」、等々の名のもとに。人権を守るための具体的な行為が、人権活動家から攻撃を受けるという皮肉は、現代民主国家のあらゆるところに見られる。同時多発テロから18年、アメリカではテロ支援国家からの常識的な渡航制限すら実行困難な状況に陥っている。信教の自由は、現代民主国家が刻苦の歴史の末確立した人権概念の金字塔というべきものであるがゆえ、そこから派生する原理的な問題は、現代民主国家の統治機構の盲点になっている。筑波大助教授殺害事件は別に特殊な例ではない。この世界の先行きは暗い。


Infidel
  • Ayaan Hirsi Ali 
  • ペーパーバック: 384ページ
  • 出版社: Simon & Schuster (2008/3/3)
  • 言語: 英語
  • ISBN-10: 9781416526247
  • ISBN-13: 978-1416526247
  • ASIN: 1416526242
  • 発売日: 2008/3/3


もう、服従しない―イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した 
  • アヤーン・ヒルシ・アリ 
  • 単行本: 488ページ
  • 出版社: エクスナレッジ (2008/9/30)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 476780681X
  • ISBN-13: 978-4767806815
  • 発売日: 2008/9/30