2012年11月30日金曜日

「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」

東京オリンピックで世界中のアイドルとなり、チェコ動乱の後のメキシコ五輪では悲劇のヒロインとして世界から愛された旧チェコスロバキアの体操選手 ベラ・チャフラスカの伝記。著者後藤正治氏の中では、ベラの記憶は、1960年代の若者の、そして著者自身の、反抗と放浪の記憶と結びついている。ベラの波乱に満ちた半生をたどることは彼自身の記憶をたどることでもある。しかし著者は自己満足に浸ることなく、プラハの春をめぐる出来事を縦糸に、ラチニナ、チャスラフスカ、クチンスカヤコマネチら、女子体操の名選手の足跡を横糸として絡ませることで、ひとつの時代を鮮やかに切り取ることに成功している。私の知る限り本書は、チャスラフスカについて世界中で出版されたあらゆる本の中で最も完成度が高い。

1964年、東京オリンピックにおいて、ベラはローズレッドのレオタードに身を包み、個人総合を含む3つの金メダルを獲得した。この年の体操競技の雰囲気の一端は、市川崑監督による有名な記録映画『東京オリンピック』により知ることができる。小柄な選手の曲芸大会になっている現代の女子体操と異なり、当時は、成熟した女性が演技の流れの中で技を披露する競技で、体操の専門知識がなくても、その絵画的美しさは映画監督の目にも明らかだったはずだ。スポーツそれ自体への無知が随所に見られる退屈なこの映画の中で、ベラの演技が異例の長回しで映し出されていることに、異議をさしはさむ者はおそらく誰もいないだろう。彼女は間違いなく東京大会最高のアイドルであり、その後時折大会のたびに来日する彼女を、日本国民は熱狂的に歓迎した。

東京の4年後、1968年、メキシコオリンピックの年を迎えても、チェコスロバキアの英雄 ベラ・チャスラフスカは、依然として女子体操の優勝候補筆頭であった。しかし東欧諸国の中で最強の工業国としての成功を謳歌していた彼女の祖国の情勢は1968年を境に暗転する。同年初頭にチェコ共産党の第一書記となり実権を握ったドゥプチェクは、「人間の顔をした社会主義」の標語の下、市場経済の導入、公安警察の縮小、西側との交流の緩和などの施策を次々と打ち出す。改革の理想は、「二千語宣言」と呼ばれる美しい文章にまとめられた。その宣言の末尾にはこうある。
今年の春、戦後と同じように、われわれには大きなチャンスがめぐってきた。われわれは、社会主義と呼んでいるわれわれの共通事業を再び手に取り戻し、われわれがかつて持っていた名声とわが国に関する比較的芳しい評判に、より適した形体をこの事業に与える可能性を持っている。今年の春は終わったばかりで、もう戻っては来ない。冬にはすべてがわかるであろう。(p.109)
ベラ・チャスラフスカ(1967)
(by Kroon, Ron / Anefo in Wikipedia)
この文書に謳われる「春」こそ、後年「プラハの春」と呼ばれることになるチェコスロバキアにおける体制内変革運動である。21世紀の我々には、社会主義という言葉が、このような高揚した調子の呼びかけと結びつくことがやや意外に思われる。しかし当時、資本主義とは人間を抑圧する悪の体制であり、その悪が明らかになった後は、すべての社会は社会主義に移行するはずであると、多くのインテリゲンチャに信じられていた。東側の最先端、成功した社会主義国のチェコスロバキアの試みは、ソ連の抑圧的な体制に辟易していた西側の若き理想主義者たちにも熱狂的に迎えられた。文化面においてチェコスロバキア社会主義の成功を象徴する存在であったベラ・チャスラフスカは、迷わずこの宣言に署名した。祖国の明るい未来を信じて。

しかしこの宣言は、東側の盟主を任じていたソ連の認めるところとならず、この年の夏、ドゥプチェクらはソ連から改革の撤回を表明するよう圧力を受ける。交渉が決裂した後、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍の戦車部隊が一斉に国境を越え、プラハめがけてなだれ込んだ。メキシコオリンピックが開幕する1968年10月12日の、およそ2ヶ月前のことである。

ベラが祖国の英雄の一人として、二千語宣言に署名をしたことは西側でも広く知られていた。オリンピック開幕時、日本女子体操チームに伝えられていた情報では、ベラは行方不明、チェコスロバキアチームの不参加の可能性があるということであった。女子体操チームのリーダー荒川御幸は、メキシコで旧知のベラと感動の再会を果たす。
痩せて、やつれて、暗い顔をしたベラだった。目の周りに黒いくまのようなものも浮いている。かつて見たことのない姿だった。
ワルシャワ条約機構軍の侵攻があって以降、北モラビアの山奥の小屋に隠れ、村人の世話になっていたこと、体力が落ちないように、石炭運びをしたり、木の枝を使って体操の練習をしていたこと、迷惑がかからないように誰にも連絡を取らず、その小屋で三週間余り過ごしたこと──などを荒川が知ったのは後のことであった。再開した時、ベラはやつれてはいたが、尋常ならざる決意というものがにじみ出ていた。(p.99)
喪服を思わせる黒いレオタードをまとったベラは、観客の熱狂的応援にも後押しされ、個人総合の2連覇を含む4つの金メダルを獲得した。しかしその後、彼女は長い長い冬の時代を過ごすことになる。二千語宣言への署名の撤回要求を頑としてはねつけ続けた彼女が名誉回復を果たすのは、それから20年後、いわゆるビロード革命が、プラハの春の理想を実現するまで待たなければならなかった。

政治の時代の悲劇は、チャスラフスカのヒロイン性を際立たせる重要な要素である。しかし重要なことは、スポーツはそれ自体で独立した物語を紡ぐということである。チャスラフスカは、女性美が重要な評価基準であった時代の最後のスター選手であり、後進国であった当時の日本体操チームからすれば羨望の的であり、「敵国」の選手ながら「メキシコの花嫁」と呼ばれ愛されたソ連のクチンスカヤからしてみれば気難しいライバルであった。これらの個別の物語を、本人へのインタビューを含む丹念かつ誠実な取材に基づいて、ひとつの大きな物語に仕立てる著者の力量はすばらしい。

チャスラフスカという美貌のヒロインの半生記のみならず、近代女子体操史としても重要な史料となるであろう傑作。


ベラ・チャスラフスカ 最も美しく
  • 後藤 正治 (著)
  • 文庫: 431ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (2006/09)
  • ISBN-10: 4167679930
  • ISBN-13: 978-4167679934
  • 発売日: 2006/09
  • 商品の寸法: 15.2 x 10.8 x 2 cm

2 件のコメント:

  1. 初めまして。今年の正月にNHKの番組でチャスラフスカの生き様を描いたドキュメンタリーを見ました。涙があふれてきました。あの五輪の名花と謳われた名選手が辿った悲運な人生・・・。母国をソ連という抑圧国家に隷属させられ、それに抗議して被った不相応な人生。ソ連の横暴な介入がなければ、チェコスロバキアのヒロインとして、それにふさわしい人生を送っていたでしょうに・・・。
    前夫がDVを加えるようになったのも、遠因はソ連の介入にあります。母国を離れてメキシコで暮らすようになったものの、言葉が通じず、友達もおらず、慣れてくるにつれ、前夫は彼女と結婚したことを後悔するようになったのだと思います。離婚後も、この前夫は彼女に災いをもたらしました。息子と口論の末、転倒して死亡。彼女にとっては、政府による弾圧以上に苦しい惨劇でした。
    テレビで見た彼女は、昔の面影もなく、深い悲哀に満ちた目をしていました。鬱病の人の目です。あの意志の強い高貴な人がなぜ、こんなひどい目に遭わないといけなかったのか・・・。できることなら、時を戻して、あの美しかった頃に戻して欲しいと心から念ずることでした。

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    1. 美しく、力強い文章ですばらしいコメントを書き込んでいただき本当にありがとうございます。ベラの悲劇は、民主主義の美しい理想が生み出した悲劇という意味でも、また、その抑圧側においても実は、共産主義の理想を追求しようとした崇高な(しかし誤った)努力が生み出したものであるという点でも、何重にも悲劇的で、私の心の中にも深い印象を残しています。

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