2010年9月3日金曜日

「隷属への道」


社会主義──というよりは一般に「大きな政府」派の誤りを論じた本。本書はもともと1943年にファシズムとの戦いを意識して書かれ、冷戦真っただ中の1973年に今度は共産主義との戦いを意識して再版された。この経緯を知れば「隷属」という言葉に込められたメッセージも自ずと明らかであろう。

著者ハイエクは言わずと知れたノーベル経済学賞受賞者であるが、この本は著者自身が認めるように、「時流向けのパンフレット」(p.365)であり、経済学の本ではない。政治的信念の開陳の書と言うべきである。反社会主義的な改革を断行し、英国を復活させたマーガレット・サッチャーが本書をバイブルとしていたのは有名な話である。サッチャーの施策を想起するとき、本書の次の宣言は実に感慨深い。
経済的自由主義は、諸個人の活動を調和させる手段として、競争に代えてより劣った方法が採られることには、断固として反対する。競争以外の方法がなぜ劣っていると言えるのか。それは単に、競争はほとんどの状況で、われわれが知っている最も効率的な方法であるというだけではない。より重要なのは、競争こそ、政治権力の恣意的な介入や強制なしに諸個人の活動の相互調整が可能になる唯一の方法だからである。(p.42)

60年以上前の本であるが、ある程度理想主義的な政治家が陥りがちな思考パターンの誤りを明示しているという点で、価値は失われていない。いくつか見てゆこう。

  • 真の自由主義に「中庸の道」はない(p.48)
    • 市場における競争こそが、社会的資源の最適利用と、諸個人の活動の自由を保障する手段である。社会主義的計画は、競争とは異質のルールを持ち込まざるをえない。だから、「計画と競争は、『競争に対立する計画』ではなく、『競争のための計画』という形でしか、結び付かないのだ」。(p.49)
  • すべての価値を考慮することは人間にはできない(p.73)
    • 人々のニーズは多様であり、実質的には無限にある。それを把握した上で全経済システムを設計することは原理的に不可能である。
    • 不可能だとするならば、市場での競争と、それに付随する価格メカニズムにシステムの制御は任せるべきである。
  • 「結果の平等」は自由を破壊する(p.101)
    • 「異なった人々に客観的に平等な結果を与えるためには、人々に異なった扱いをしなければならない」(p.101)
    • 結局、すべての価値を考慮することが人間にできないのだとすれば、そのような異なった扱いは常に誤りに導く。だとすれば、「常に例外なく適用されるルール」としての競争のルールを作ることが我々のできる最善のことである。
  • 個人に理解しえない力こそが文明を成り立たせている(p.276)
    • 経済を動かすメカニズムは極めて複雑であり、個々人の理解を越えると考えるべきだ。その複雑さは何か将来解明されるようなものではなく、避けることができないものである。文明の本質とさえ言える。
    • したがって、自分の回りの部分情報に基づいて、不安な決断を下すという運命からは逃れられない。自由主義経済における市場メカニズムの中で生きることを受け入れなければならない。


社会主義の失敗が明らかになっている現在、社会設計に限って言えば、これらの点について合意を形成するのは、少なくともある一定程度の知性を持つ者の間であれば不可能ではないように思われる。しかし同様の思考パターンが誤りに導く例は他分野でも散見され、それを含めれば、いか本書が指摘する問題の根が深いかがわかる。

たとえば、中央集権的計画経済の誘惑との関連で言えば、池田信夫も指摘するように、初期の人工知能研究の歴史はその典型的な例であろう(『ハイエク 知識社会の自由主義』, PHP新書, p.81-83)。人工知能という語感の通り、初期の人工知能研究の目標は、人間の知識処理の方法を模擬することであった。直観的にはそれは、「○○ならば××」というようなルール(If-thenルール)をそれこそ無数に集め、そのルールを、入力された条件に応じて検索すればよいと思われる(いわゆる「エキスパートシステム」)。しかしそのようなアプローチはうまくいかなかった。事実をガートナーのレポートから引用しておこう。
1980年代後半に、エキスパート・システムなどの構築ブームが起きた。If-thenルールの集積で専門家の知識を表現するアプローチを採るOPSなどをベースとして実用システムの構築も行われたが、成功例の多くは限られた範囲の知識、つまり固定的なコンテクストが想定できるものであった。より柔軟に広範な問題に適用するために、メタ知識を表現管理できる開発ツール(KEE、ART等)も提供されたが、結局、表現された知識を、多様なコンテクストの下で利用できるまでには至らなかった。
(T. Asai, "ナレッジ・マップの陥穽," JEAS Research Note, Case Studies, JEAS-01-44 (July 25, 2001))

これは『隷属への道』の40年後の世界の話である。ここでも書かれているように、失敗の原因は、人間の知的活動の範囲を有限な範囲に押し込めることが難しいということである。我々は一見決まり切った日常を送っているように見えるが、どの1日として完全に同じものはない。エキスパートの判断もまたそういうものであり、エキスパートは頭の中で、異なるデータ同士の間に非常に洗練されたやり方で何か共通性を見出し、それをヒントに過去の事例を取捨選択して判断に使う。それは表面的には、If-thenルールの集積の検索と似ているように見えるが、実際に行われていることはそれとずいぶん違う。すべての過去の事象は、厳密な意味においてはそれぞれ何がしか異なる。個々の事象は独立ではありえないから、多体効果により、起こりえる事象の自由度はほとんど無限大となる。そのような無限の知識を蓄積しておくことは(たとえばハードディスクの容量が今の1万倍になっても)不可能であり、仮に蓄積できたとしても、当初人工知能研究者が想像したようなやり方で知識を利用することはできないだろう。結局のところ、人工知能の初期の失敗が示唆するのは、自由度が事実上無限大となる状況では、中央集権的な知識管理が原理的に不可能であるということである。

家族や企業といった小さい単位の集団で可能なことが、数百万数千万の単位の集団でも可能だと考える誤りは、この他にも枚挙にいとまがない。ソフトウェア工学における設計ポリシーのほとんども中央集権的発想で行われており、それがゆえ System of Systems への対応が今問題になりつつある。それは歴史的必然であり、ソフトウェア工学においても近い将来、社会主義的発想は打倒されることになろう。経済学的詳細を排しあえて一般向け政治的パンフレットとして書かれた本書は、さまざまな分野において、避けられる誤りを避けるために大きな示唆を与えてくれるように思われる。古い本であり、全文読み通すのは疲れるが、インテリゲンチャの基礎教養を与える本なのでぜひ手に取って頂きたい。


隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

  • F.A. ハイエク (著), 西山 千明 (翻訳)
  • 単行本: 424ページ
  • 出版社: 春秋社; 新装版版 (2008/12/25)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4393621824
  • ISBN-13: 978-4393621820
  • 発売日: 2008/12/25
  • 商品の寸法: 19 x 13.2 x 3.2 cm

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