2014年6月30日月曜日

「不格好経営 ― チームDeNAの挑戦」

DeNAの創業者南場智子氏の半生記。創業から社長交代までの波乱万丈の記録。面白い。内容も面白いが文章もいい。プラスもマイナスも、全ての出来事を陽性の物語に変えてしまう筆力は並みではない。

DeNAは日本発のインターネットオークションサイトを目指して設立された会社である。南場氏は、マッキンゼー前職時代のコネクションを生かしてソニーとリクルートから出資の約束を取り付ける。その時点で半ば勝ったようなものである。アメリカではすでにeBayが大々的にビジネスをしており、日本は明らかな空白地帯であった。しかし1999年といえばまだ日本ではGoogleさえほとんど知られていない時代だ。ただでさえ暗闇の混沌にも等しいインターネットの世界に、オークションというある意味あやしい仕組みを作るのは、確かに賭けであったろう。

そうして生まれたのが、結局ヤフーに先を越されたが、ビッダーズというオークションのサイトである。ビッダーズがDeNAのサイトであったというのはこの本を読んで初めて知った。確かに、ヤフーオークションが2002年にオークション利用料の値上げを発表した時、ヤフーの会員であった私はビッダーズのオークションに入会してみた。結局、品数のショボさは否めず、ヤフーに戻ることになった。DeNAはオークションにおいてヤフーとの戦いに敗れたのだが、その後、eコマースサイトで黒字化に成功、その後、モバイルゲームの世界でひと山当てたというわけである。

私が大学院を出て民間企業に就職したのは2000年のことだ。会社の中でそれなりに激しい動きを体験してはいたのだが、私にはDeNAのようなベンチャーに自分の未来を賭けるだけの先見の明はなかった。私が見ていた世界はものすごく限られていた。社会がこの先どうなるという確信もなかった。要するに世間知らずだった。草創期のこの会社に、自分から売り込みに行った若者たちの情熱とセンスには、素直に脱帽である。

これまで私は、女性実業家、みたいな人の成功物語にはあまり興味がなかった。たいてい、それ自体に宣伝臭さを感じてしまうからだ。しかしこの本はおそらく違う。ひとつの踏み絵のようなものだが、次のような記述がある。
女性として苦労したことは何ですか、どうやって乗り越えましたかと尋ねられるといつも困ってしまう。(中略)。職場において、自分が女性であることはあまり意識したことがないし、女性として苦労したこともまったくない。しかし、得をすることはよくあった。(中略)。今はどうか知らないが、その時代は若い女性が経営の話をするだけで珍しがられ、耳を傾けてもらえた。最後はむき出しの内容勝負だが、聞いてもらえるところまでは確実にたどり着ける。(第7章 「女性として働くこと」)

これは私の実感にも合う。政治的寝技が物を言う規制業種(新聞、テレビ、銀行、土木建築、公務員、など)とは違い、市場においてある意味フェアに評価される業界においては、使えるやつが使えるのであり、結局はそれだけである。

本書第2章「生い立ち」は、厳格な家庭に育ち、父からの自立を経て、米国留学、マッキンゼー就職、ハーバードでのMBA取得、までの半生記である。実績から見ても文章からみても才能あふれるこの著者にすら、ゼロからイチを作り出すために苦悶した時代があったという事実は、若者には重要なメッセージとなろう。グリーに対する独占禁止法違反事件、本書末尾に書かれた人材引抜きをめぐるある背信。いろいろときわどいこともあったのだろう。しかしそれを含めた会社の歴史を、前向きな物語として読者と共有できる筆力はすばらしい。オークションといういわば二番煎じのビジネスモデルから始めたDeNAだが、モバゲーの時代になるころには世界を先導する意志を手にしていた。力強く前向きなトーンにあふれる最後の8章は、閉塞状況にある日本では久々に見る明るいニュースとさえ言える。ぜひがんばってほしい


不格好経営 ― チームDeNAの挑戦
  • 南場 智子 (著)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 2318 KB
  • 紙の本の長さ: 163 ページ
  • 出版社: 日本経済新聞出版社 (2013/8/2)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語.

2014年6月14日土曜日

「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」

ライブドア事件の刑期を満了し、自由になった堀江貴文氏が自分を振り返る自叙伝。前半の3章までは、九州の田舎の冴えないサラリーマン家庭から東大に合格し、東大で起業するまでの半生記。後半が「なぜ働くのか」というテーマへの彼なりの答えになっている。


刑期満了後、堀江氏はひとつ考え方を大きく変えた。収監前、田原総一郎氏から、ネクタイして老人にゴマをすっておけばうまく行ったのに、そしてそれはわかり切っていたことなのに、なぜあえてそれをやらなかったのかと聞かれる。それを振り返り、彼はこう書く。
これまで僕は、自分ひとりで突っ張ってきた。裸の王様を指さして、世の中の不合理を指さして、ひとり「なんでみんなネクタイなんかしているの?!」と大声で笑ってきた。それでみんな気づいてくれると思っていた。でもそんな態度じゃダメなのだ。世の中の空気を変えてゆくには、より多くの人たちに呼びかけ、理解を求めてゆく必要がある。(第4章 僕は世の中の「空気」を変えていきたい)

アマゾンのサイトにある動画からも想像できる通り、本書は堀江氏の体験が反映されてはいるが、文章自体はチームで作り上げたようだ。その成果として、読者から反感を買いそうな箇所は注意深く取り除かれている。堀江氏の考え方は昔から何も変わっていないのだが、いわば広報戦略を変更したわけである。

自分の離婚のエピソードに関して、彼はこう書く。
決断とは「何かを選び、他の何かを捨てる」ことだ。(第4章 孤独と向き合う強さを持とう)
一方で、彼はこうも言っている。
何事に対しても「できる!」という前提に立って、「できる理由」を考えていく。そうすると、目の前にたくさんの「やりたいこと」が出てくるようになる。(中略)。 僕からのアドバイスはひとつ、「全部やれ!」だ。ストイックにひとつの道を極める必要なんてない。(第3章 やりたいことは全部やれ!)
これらに一貫性があるかと問われれば微妙である。投資対効果を考えるというビジネスの基本すら欠落している。こういう不整合は、本書に象徴的なのだと思う。おそらく過去の彼であれば、こういうことはしなかっただろう。しかし彼が書くように、それではダメなのだ。矛盾と逡巡から自由ではない自分をある意味さらけ出し、意見が同じ人も違う人も、あらゆる人をいわば抱きしめてあげる態度が必要だったのだと思う。すでに時代に合わなくなっている社会システムを変革し、面白くて豊かな社会を作ってゆこうという方向性には、同世代の者として大いに共感を覚える。しかしなぜそれが多くの人の理解されるところにならなかったのかを考えるのは、彼にとっても、我々にとってもとても意味のあることだ。

彼の言う「ゼロ」を理解するために、我々はゼロ歳の自分についてちょっとだけ考えてみるといいかもしれない。堀江氏は、九州の田舎にいる時、自分はゼロであったと感じていた。これまでの人生は、そのゼロである自分をイチに引き上げてゆく過程であったと彼は言う。未来へ向けて自分を投げかけて新しい価値を作るためには、自分のゼロを認識しなければならない。これは実は簡単なことではない。堀江氏が「あなたは本当に『自立』できているか」(第4章)と問いかけるのはそのためである。子育てをしてみて私も驚いたのだが、実際のところ過半数の大人は実は自立していない。たとえば子供の世話も、住む所も、何らかの意味で親から独立ではない。経済的な独立なしに思考の独立もありえないというのは、堀江氏が言わずとも当然のことだ。
たとえば、あなたが転職するときや引越を考える時、「きっとお父さんは反対するだろうな」とか「お母さんは心配するかもな」といった思いがよぎるとしたら、それはまだ「子ども」の意識が抜けず、自立しきっていない証拠だ。(中略)。もし親孝行という言葉が存在するのなら、それは、一人前の大人として自立することだ。(中略)。親から自立できてない人は、「自分の頭で考える」という習慣づけができていない。そうなれば、会社や組織からも自立することができず、いつまでもおもちゃ売り場の子どもみたいに駄々をこねるだけだろう。(第4章 あなたは本当に『自立』できているか)
すなわち自立とは、自分の心の中の価値の座標軸を、親とか会社とか「世間」とか、そういうものに相対的に決めるのではなく、自分だけの価値の絶対軸を定義することだ。本ブログでたびたび書いてきたように、それができる人は非常に少ない。堀江氏が誤解される理由のひとつはそれである。

意図的か偶然か、「塀の中にいても、僕は自由だった」(第5章)というくだりは、サルトルの有名な文章を思い出させる。
われわれは、ドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。われわれは、ものを言う権利を始めとして、一切の権利を失っていた。(中略)。全能な警察がむりやりわれわれの口を閉じさせようとしたからこそ、どの言葉もすべて原理の宣言としての価値をおびた。(J.P. サルトル、『沈黙の共和国』(F. パッペンハイム『近代人の疎外』第1章所収) )
今がゼロであることを認識しているからこそ、どちらの向きに一歩を踏み出すか、という選択が厳粛な意味を持つのである。これまでの堀江氏の主張の各論には、賛同できる点もあるし、よくわからない点もある。人格者なのかと言われれば、それはおそらく違うだろう。しかしこの感覚の大本──投企による実存の絶え間ない再定義──はよくわかる。そして堀江氏が、これまでも、これからも、おそらく孤独であるであろうことも。それがゆえに、堀江氏が、これまで無駄に彼を苦しめてきたコミュニケーション上の問題に気づいたというのは大きい。

彼を悪人だと信じている人のほぼ全員は、その容疑事実について何も知らないだろう。今の時点で、およそ10年前に書かれた彼の主著『稼ぐが勝ち~ゼロから100億、ボクのやり方~ 』を見返してみると、堀江氏の先見性に改めて驚く。同書「おわりに」では、近鉄球団の買収に関して、読売グループのボス渡邉恒雄を名指しで、彼の共産党員だった過去すら挙げながら、強烈に批判している。これを読むと、ライブドア裁判が、極めて恣意的な、ほとんど報復攻撃とでも言うべきものであったことに、確信めいた感情を抱かざるをえない。

かつて、彼は確かに、「金で頬をひっぱたく」ようなことをやろうとしたと言えるのかもしれない。しかし閉塞状況にある日本では、あえてそこから前向きなメッセージを見出すべきだ。自由になるために全ての常識を疑おう、自由になるために働こう、との訴えは、その観点でとても力強く響く。これは重要な第一歩だと思う。堀江氏が旧著をはじめとした媒体で繰り返し主張する社会変革の必要性は誰の眼にも明らかで、それは歴史的必然と言ってよい。国がどうなっても自分自身の目先の既得権益が大事だと開き直るのなら別だが、その変革を拒むのは愚かなことである。

私はいまだに、彼らの近鉄球団の買収提案の何が問題だったのかわからない。旧著を読んで堀江氏を攻撃した人の論理の多くも的を外しているように思える。既得権益の受益者というのなら、あるいは単に、成功者を妬み、足を引っ張りたいというのなら理不尽な批判の由来を理解することはできるが、それはそれこそ自立した大人として恥ずかしいことではないのだろうか。堀江氏の書くとおり、人間はお金で変わる。それを否定するのは、お金を稼いだことのない人か、誰がお金を払っているのか意識しなくても許される幸せな職種、たとえば公務員とか、公正な国際市場競争が不可能な規制業種(新聞、テレビ、土木、建設、銀行、など)の人であろう。

ジェフ・ベソススティーブ・ジョブスといった「暴君」が普通に活躍できるアメリカに比べると、日本という国の小ささはどうしても目に付く。しかし一方で、ソフトバンクにしても楽天にしてもDeNAにしても、それなりのプロトコルを身につけさえすれば、何かをできるチャンスはあるはずだ。彼のような大物が、不要な摩擦を避ける戦術を身につけたことは、日本の将来にとっては悪くない。人の心は金で買えないなどという見え透いたきれいごとはもういい。未来側に立つのか、それとも既得権益側に立ちこのまま朽ち果てるのか、我々の前にはそれだけしかない。


ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 910 KB
  • 紙の本の長さ: 252 ページ
  • ページ番号ソース ISBN: 4478025800
  • 出版社: ダイヤモンド社; 1版 (2013/11/5)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語. ..
  • ASIN: B00G9KDQQU