2014年12月15日月曜日

"The Notebook" (邦題: 「きみに読む物語」)


人生の選択がテーマのアメリカの恋愛映画。一見わかりやすすぎる純愛プロットがゆえ、インテリ批評家層の忌避を受けたようであるが、庶民からは広く愛され、同様に日本でも、洋画としては例外的な商業的成功を収めた。高校英語の教科書に原作の一部が掲載されたほどで("WORLD TREK ENGLISH COURSE II", 桐原書店)、おそらく若い世代の恋愛映画の古典になりつつあるのだろう。

この映画を純愛映画と見ることはもちろん可能であるが、監督の意図はおそらくもう少し複雑だ。

物語は、年老いた男性が、アルツハイマー病と思しき上品な老婆にノートに書かれた物語を読み聞かせるところから始まる。

物語の中の主人公アリーは、米国南部のチャールストンという街の裕福な家に育った17歳の娘で、夏の間、シーブルック島というリゾート地に避暑に出かける。そこでノアという若者に会い、彼らはいろいろな話をする。ノアはブルーカラーとして働いてはいるが、実は芸術を解する家庭で育った。アリーは、子供のころから親の言うとおりに習い事に明け暮れ、夏が終わったら名門女子大に親の勧めるがままに行こうとしている自分と、ノアとその家庭を比べて、自分の内面を考え直す。アリーは、ノアとの会話の中で、自分が自分らしくいられると感じられた記憶を懸命に思い出し、次のように答える。
You asked me what I do for me. I love to paint.
この"paint"は「自分の人生を自分の手で描くこと」の暗喩であり、この映画の重要な構成要素になっている。

17歳のアリーがノアと不幸な別れをした7年後、アリーは、まったくの偶然に、ノアが若い二人の秘密の隠れ家であった屋敷を買い取って建て直し、17歳のアリーとの約束通りに、川を望むアトリエを作ったことを知る。ノアとの行き違いの真実を確かめるべく、アリーは自分の婚約者に、やや唐突にこう告げる。
I don't paint anymore. I used to paint all the time. I really loved it. So paint. I will. I'm gonna start.
ノアとの再会を果たしたアリーは難しい人生の選択を迫られるが、自分の心に忠実に、自分の手で自分の人生を"paint"することを選ぶ。

物語の最後に、このノートに書かれた物語を読み上げている老人が実はノアであり、そのノートは、自分の精神が病み始めていることを悟ったアリー自身が、自分の人生を自分の手で"paint"した証として、ノアに書き残したものであることが明かされる。スクリーンに写るノートの奥付にはこうある。
"The Story of our Lives
by Allison Hamilton Calhoun
To My Love, Noah,
Read this to me and I'll come back to you."
つまりこれは、主人公アリーの意志の物語である。彼女は自分の意志に賭け、周囲の人たちが危うげだと思う選択肢をあえて取り、彼女を愛する夫と育てた子や孫の様子から察するに、その賭けに勝ったのだ。物語の中の美化された思い出たちは、写実というより彼女の優しさの現われであろう。

このような大衆的に広く知られた映画には、数多くのレビューが見つかる。しかし残念なことに、そのうちのほとんどすべては映画の詳細を理解してすらいないし(特に日本語のレビューに残念なものが多い。邦題からの連想から、夫が書いたノートを妻に読んでいると誤解している人がかなりいるが違う)、単に、映画の中で起こった出来事について、好きとか嫌いとか感想を述べているだけのように見える。映画を、ただ出来事を羅列した擬似追体験ツールと使うのは、間違っているとは言わないが、ポルノ映画を見る態度と同じである。

レイチェル・マカダムスの熱演は、実存の選択の物語という観点で正当に評価してあげたい。


視聴したのは、amazon.comのInstant Videoと、オリジナルDVD。


The Notebook [日本語版]
  • DVD
  • Publisher: New Line Video (2005)
  • Language: English
  • ISBN-10: 0780648838
  • ISBN-13: 978-0780648838
  • Product Dimensions: 7.5 x 5.3 x 0.4 inches
  • Shipping Weight: 3.2 ounces
  • Average Customer Review: 4.6 out of 5 stars  See all reviews (2,181 customer reviews)

2014年11月30日日曜日

"Mean Girls" (邦題「ミーン・ガールズ」)

米国の国民的学園コメディ映画。2014年12月時点で、amazon.comでは5095件もの評価がついており、そのうち実に95%が5つ星になっている。これほどのレビュー数を集めながら圧倒的な好評になっている映画は、最近だとおそらくFrozen(邦題「アナと雪の女王」)くらいなもので、Frozenが巨額の制作費を使った家族向けの映画だということを思うと、この映画への支持ぶりが際立つ。

映画の脚本を書いたのはアメリカで非常に人気のある女性コメディアンのティナ・フェイである。原題は「いじわるな女の子」の意味で、女子高生同士の陰湿な足の引っ張り合いがテーマなのだが、リアリティを失わない絶妙な範囲で笑える映画に仕上げられつつ、日常でズバッと使える決め台詞にあふれ、ネット上ではほとんど箴言集の扱いだ。

2004年の公開から10周年ということで、多くの米メディアで記念特集が組まれた。主なセリフのほとんどすべての動画シーンがYouTubeに投稿されており、Urban DictionaryではBest movie ever made と絶賛されている。若者文化内のみならず、昨年は、ホワイトハウスがこの映画のせりふをもじったツイートをして話題になったほどである。使ったのは、映画の舞台となった高校で女王として君臨するレジーナが、その手下のグレッチェンに言い放った次のセリフだ。
Gretchen, stop trying to make 'fetch' happen! It's not going to happen! 
(グレッチェン、何でも「fetch」って言うのはやめて。二度と聞きたくない。) 
ホワイトハウスの方のfetchはボールを取ってくるという意味だが、映画の中での"Fetch"は、冒頭でグレッチェンが説明するとおりCoolのような意味であるらしい。ちなみにこのレジーナは、名作"The Notebook"(邦題: きみに読む物語)で上流階級の娘を演じたレイチェル・マクアダムスある。

脚本を書いたティナ・フェイはその後、おそらく世界でもっとも成功した脚本家兼女優となった。その他、リジー・キャプラン Lizzy Caplan、レイシー・シャベール Lacey Chabert、アマンダ・サイフリッド Amanda Seyfriedなど、その後の主役級の俳優が多く出演している。個人的には、アマンダのおバカキャラの演技がツボだ。

話は、レジーナ率いる女子グループが書いたBurn Bookという陰口ノートを中心に進んでゆく。アフリカから来た純真な16歳の主人公ケイディーは、入学早々女王レジーナに気に入られ、彼女のグループに入れられる。レジーナは、ケイディーが自分の元彼を気に入っていることを知ると、召使いに自分の力を見せ付けるかのごとくケイディーの目の前で元彼を誘惑する。それに怒ったケイディーは、表面上は恭順の意を表しながらも、ジャニスという友達と一緒にレジーナに復讐する策略をめぐらせる。策略に気づいたレジーナに報復を受けたケイディーは、一連の混乱の主犯として断罪され、自宅謹慎を命ぜられる。わずかに外出を許された数学クラブのコンテストで、他人についてあれこれ言っても結局前には進めない、自分のやるべきことをやるしかないのだと気づく。終業式の日の学園女王コンテストで、半ばイジメのようにしてクイーンに選ばれてしまったケイディーは、受け取ったティアラを壇上で細かく割り、それを皆に配ることで、友達同士を貶めあう行為の愚かさを皆に伝える。

やたら人が死んだり病気になったり、あるいは急にスターになったりのような「劇的な」作為は何もなく、すべてが日常の中の物語だ。日常であるがゆえに、ティナ・フェイによる練られた台詞それ自体が、アメリカ人の心に長くとどまる結果となったのだろう。米国での圧倒的に人気にもかかわらず、日本ではこの映画はあまり宣伝もされず、知られることもなかった。その由来を考えるのは興味深い。

主人公のケイディーは、女王レジーナに初めて謁見した時、かわいいわね、と言われて、ありがとう、と答えてしまうというミスを犯す。
But you're, like, really pretty.
- Thank you.
So you agree.
- What?
You think you're really pretty.
- Oh, I don't know...


これはまるで京都人との会話のようである。こういう「日本人的な」陰湿なやりとりに加えて、われわれが自国の病理をあげつらう際によく使われるような場面が数多くこの映画には埋め込まれている。学生たちの仲間グループはおおむね人種ごとに別れ、おしなべて排他的だ。仲間に入れないとトイレで隠れて昼食をとるしかない。こういう、排他的で、大小無数の政治的いさかいにあふれた世界は、日本人が思う妙に美化されたアメリカ人についての固定観念、たとえばフェアな競争を尊ぶオープンな実力主義の社会、とはまるで似ていない。しかしそれが現実なのだ。アメリカ人の日常に寄り添っていたがゆえにこの映画はアメリカでは古典となった。しかしむしろそれがゆえに日本では売られることはなかったのだとしたら、この映画はむしろ日本人の自画像のゆがみを逆照射する作品であるのかもしれない。


(アメリカのスーパーで購入したWidescreen版のDVDで視聴)

  • Directors: Mark Waters
  • Writers: Tina Fey, Rosalind Wiseman
  • Producers: Jennifer Guinier, Jill Sobel Messick, Lorne Michaels, Louise Rosner, Tony Shimkin
  • Format: Multiple Formats, Anamorphic, Collector's Edition, Color, Dolby, NTSC, Special Edition, Subtitled, Widescreen
  • Language: English (Dolby Digital 2.0 Surround), English (Dolby Digital 5.1), French (Dolby Digital 5.1)
  • Subtitles: English, Spanish
  • Region: Region 1 (U.S. and Canada only. Read more about DVD formats.)
  • Aspect Ratio: 1.85:1
  • Number of discs: 1
  • Rated: PG-13 (Parental Guidance Suggested)
  • Studio: Paramount
  • DVD Release Date: September 21, 2004
  • Run Time: 97 minutes
  • Average Customer Review: 4.9 out of 5 stars  See all reviews (5,096 customer reviews)
  • ASIN: B0002IQJ8W

2014年10月31日金曜日

「日本軍と日本兵」

1942年から46年までに、アメリカ陸軍軍事情報部(Military Intelligence Division)が出していた部内向け広報誌の内容を紹介した本。

敗戦後出版された歴史書は、日本陸軍を人名軽視で白兵主義に凝り固まる愚かな集団だと断定するものが大多数である。敗戦から演繹して、日本軍をそのように決め付けるのはある意味勝ち馬に乗ることであり、安全なロジックである。しかし著者はそれに疑問を呈する。たとえば「日本陸軍の精神主義・歩兵主兵主義・白兵主義はついに最後まで堅持された」などと歴史書が言うとき、著者はそこになんらの事実の裏づけもないことを見出す。硫黄島での持久戦術が映画等で広く知られるようになった今ではなおさらのことである。

著者の疑問は当然であり、学者として正しい姿勢と言える。しかしこの広報誌は、米国陸軍の各中隊レベルにまであまねく配布されたものであり、基本的に戦意を鼓舞するものでしかありえない。それを念頭に、内容淡々と紹介すれば(退屈であったとしても)、帯にある通り「敵という鏡に映し出された赤裸々な真実」という意味でまだよかったと思うのだが、中途半端にこの広報誌の内容を事実と信じた上で妙なコメントをつけるのが非常に痛々しい。文献を読んでみる、というのは歴史学の正統的な方法なのだろうが、US ArmyのIntelligence Divisionについて書くのなら、敵方の当事者が書いた本くらい読むべきだろう。文庫本で手に入るのだから(「大本営参謀の情報戦記」)。

広報誌が再三、日本兵は射撃が下手で白兵戦も弱いと言っているのは、普通に想像すれば、戦場で兵士が萎縮しないための檄と見るのが正しかろう。日本陸軍で使われた常套句「弾はたまにしか当たらんから『たま』というんだ」と同じである。それは自明であり、何の情報にもならない。著者の言うとおり、また、上記堀参謀の著書に明確に書かれているとおり、情報は多角的に見なければ事実にはならない。

ほぼその広報誌だけに依拠して、それを要約しつつ、乏しい知識で乏しいコメントをつけてはい一丁あがり、というような仕事をしてはいけない。プロとして誇りがあるのなら、もう少し勉強して書き直してもらいたい。


日本軍と日本兵 米軍報告書は語る (講談社現代新書)
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 4157 KB 
  • 紙の本の長さ: 179 ページ 
  • 出版社: 講談社 (2014/2/28) 
  • 販売: 株式会社 講談社 
  • 言語: 日本語 
  • ASIN: B00IJ6V14Q

2014年8月31日日曜日

「ブラックジャックによろしく」

大学病院での研修医の葛藤の日々を描いた漫画。著者の佐藤秀峰氏はなかなかこだわりのある人のようで、本書はKindleで全巻無料で読める。第6回文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞という賞をもらったらしい。

この漫画の主人公は、「白い巨塔」の里見のような男で、病院の社会的使命のようなものとは無関係に、「患者ひとりひとりに向き合う」ことを志向する。こだわりの男だ。末期癌の患者に対して、大学側に緩和ケアを持ち出すところなどはフジテレビ版白い巨塔と完全に同じだ。

緩和ケアという発想自体はよい。問題は、それを大学病院で行うことが、社会全体の利益を最大にする選択かどうかということである。これはまさにトリアージの問題である。そもそも、「ひとりひとりに向き合う」などと言ってみたとしても、実質的には、無数の患者に順番をつけ、最初の「ひとり」を選んでいることと変わりない。選ばれなかった者からすれば、そこに合理的な理由は何もない。つまりそれは、自分が関係を結んだ患者だけを救うと言っているのと同じであり、親族に富を山分けする田舎の政治家と変わらない。自分が関わった患者だけしか救えないのだとしたら、確実に助かる患者を助ける、というのが当然の発想であり、その努力を放擲してひたすら独白にふける主人公は社会的には役立たずと言われても仕方ない。そのような自己満足を肯定的に描く著者のセンスはまったく救いがたい。

百歩譲って、そういう志向も多様な人物像の描写として認めるとしても、最後の精神医療の話には言い訳の余地はない。著者はおそらく、アルコール中毒を装い精神病院に潜入、その実態を描いて有名になった大熊一夫のルポまたはその要約を読み、その設定を借用したのだろう。その時代、1970年の頃の話だが、精神医療に多くの課題があったことは事実だ。ルポが描く精神病院は暗黒の牢獄の如しで、それが一面の真実であったことは確かである。

しかしこのルポが出た当時と今では精神病の治療技術はまったく変わっている。いまや急性症状の多くは薬物治療で抑えることが可能であり、一部の人格障害等を除けば、精神病の多くは制御可能なものである。脳内伝達物質の研究が劇的に進展したからである。本書で患者の人権蹂躙の象徴のように描かれている電気痙攣療法さえ、いまや薬物治療が効かない場合の良心的かつ適切な治療として確立している。

何より問題なのは、精神障害者の犯罪について、まったくでたらめな、被「差別」者を扇動するためのプロパガンダによく使われる論法をそのまま使っていることだ。精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と作中の新聞記者に言わせるくだりがそれである。以前書いた文章から引用する。
一般的に、統合失調症(精神分裂病)の発症率は、国によらずほぼ一定で、1%程度であるとされている(出典)。そうして、刑法犯総数のうち精神分裂病患者の数は0.1%程度である(p.127)。これによれば、精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と言える。これは今なお、精神障害者への「偏見」を戒めるロジックとして使われる。「しかし、殺人や放火などの重大な犯罪では一般よりも高くなる」(同)。本書によれば、やや古いデータであるが、1979から1981の3年間の殺人事件5113件のうち、333件が精神障害者によるものとされている。率にして6.5%である。放火の場合はもっと高い割合となることが知られているから、精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度である、という結論が導かれる。

これも以前書いたことだが、精神病患者の大多数は善良な人々であるが、こと「急性期」の患者には、その症状がゆえの触法行為を犯さぬよう強い助けが必要である。そこには警察による強制力が必要な場合もあるし、閉鎖病棟が必要な場合もある。病棟を解放することが患者の「人権」を守るための最善の手段であるかのように描く著者の理解は、ほとんど半世紀前の反体制活動家のそれと変わらない。精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度、という事実をまず受け止めて、その上で双方が最大限幸福になる方法を取るのが為政者の役目である。

この本は、まともな出版社から出され、まともだとの評判を得ている本の中では、私の知る限り最悪の本である。取材の不足は目を覆うばかりであり、描かれる人物像の貧困は耐えがたい。この本を読んで肯定的に感動している人がいたら、自分の知的水準を疑ったほうがいい。


ブラックジャックによろしく 1~13 [Kindle版]
  • 佐藤 秀峰 (著)
  • フォーマット: Kindle版....
  • 販売: Amazon Services International, Inc..
  • 言語: 日本語

2014年8月1日金曜日

蛇腹つき延長シャワーヘッド(Waterpik NML-603(S) Linea 6-Mode Showerhead)


米国のホテルに滞在したことのある人は、風呂の使いにくさに頭を抱えたことだろう。圧力バランス弁(pressure balanced valve)というらしいが、最初に水が出て、反時計回りに回しきると熱いお湯が出てくるタイプのシャワー用ハンドル(下写真: American Standard社のWebサイトより)がほぼ全てのホテルで標準である。湯と水のハンドルが分離されてない。これはいくつかの点で日本人には非常に抵抗がある。

おそらく、違和感の根本は、湯を「いきなり」身体に当てるという点にあるのだと思う。シャワーヘッドは高い位置に固定されているので、蛇口から出るお湯をシャワーに切り替えた瞬間、頭上から水が降ってくる。日本式のホースの付いたシャワーであれば、普通の人はまずは手でお湯を受け、温度を確かめてから腕や脚などにお湯をかけつつ、胴体にお湯をかける。頭にいきなりお湯を当てる、というのは、真夏の行水でもなければ、日本人の入浴文化にはなじみが薄い気がする。

この圧力バランス弁というやつの使用感も不思議だ。日本人的な感覚では、ハンドルを回すと水量が増えるイメージがあるのだが、これはPressure-balancedの言葉通り、ほぼ水量が変わらない。これはどうやら、アメリカのボイラー文化の歴史的経緯によるらしい。Wikipediaによれば、アメリカにおいては、いくつかの地域で、この湯水一体式の蛇口が、Building Codeなる法律で義務付けられているらしい。これはおそらく、エレクトロニクス時代の以前、ボイラーの温度調節が簡単でなかった時代の遺物だと思われる。アメリカの不動産屋に聞いたところでは、アメリカのセントラルヒーティングの歴史はほとんど100年にもなる。100年前に、熱湯による火傷から人々を救うための最新のテクノロジーだったのだろう。

日本の場合、水と湯が分離した2つのハンドルが備えられていて、当然だが、湯の蛇口からは熱湯が出る。水と湯を混ぜることで好みの温度にする。熱湯が出る可能性があるのは確かに危険なのだが、シャワーヘッドは固定されているわけではないので、当然、シャワーヘッドを手で持ち、自分で安全を確認してシャワーを使うことが想定されている。つまり、システム上は最適化されていないのだが、各人がマニュアルで最適化するわけである。

対してアメリカでは、人間による最適化が基本想定されておらず、水から始まり湯にいたる特殊な弁が使われている。Wikipediaによれば、よそで水を使っていて水道管内の圧力が変化した場合でも湯温が変わらないようにするためらしい。つまりアメリカでは、どんながさつな人間でも火傷をすることがないように、システム側で最適化しているわけである。このあたりは、日米の設計思想の違いを明示していて興味深い。

さて、固定シャワーヘッドから降ってくる水による「いきなり」感を減らすだけなら簡単である。ホースつきのシャワーヘッドに換装すればいいだけである。アメリカのホームセンターでも、Handheld shower head(手持ち式のシャワーヘッド)が豊富に扱われていることからすれば、徐々に普及しているのかもしれない。

ただ問題は、一般にシャワーヘッドの取り付け位置が高すぎて、背丈の小さい人や子供には使いにくいということだ。片手でシャワーを持っている時はいいのだが、両手を自由にして湯を浴びたい時は、はるか上空からお湯が落ちてくる感じになる。それに、代替のシャワーヘッドのほとんどはプラスチック製の安物で、簡単に水漏れを起こしたりする。小さな子供がいる場合、ホースを引っ張ったりぶら下がったりしがちであり、この観点からも耐久性に問題が生じる。さらに、実際のところ、ホームセンターで売っている程度の20ドルくらいのシャワーヘッドだと、ホースの材質が固すぎて、シャワーヘッドの方向が自由に変えられないということが起きる。

この新たな課題を何とかする方法を考えていたのだが、冒頭の写真のWaterpikという会社の、蛇腹つきシャワーヘッドはよい感じだ。50センチ近い長さの金属製の蛇腹がついているので、自由に方向を変えて固定できる。「冷たい水がお湯に変わるまで待っている」間は、単に、水を壁の方向に向けておけばいい。腰の部分にお湯を当てる、などの制御も簡単だ。その上、ホースがないので水漏れの余地も少ないし、見栄えもよい。小学生が使うには位置がやや高すぎるが、それでも風呂椅子等を使えば、たいていは手が届くはずだ。

これを使っていて、違和感の由来がもうひとつあったことに気づいた。高い位置から降ってくるシャワーだと、どうも湯が散る感じがして、水量に対しての満足度のようなものが低かった。シャワーヘッドの位置を身体に近づけることで、この違和感もなくなった。米国製シャワーの簡素な構造による利点を生かしつつ、使い手の側での最適化に可能になった。小さな例ではあるがこういうことはいろいろ他にもあるに違いない。


Waterpik NML-603(S) Linea 6-Mode Showerhead with OptiFLOW, Chrome
  • Part Number NML-603 .
  • Item Weight 1 pounds 
  • Product Dimensions 18 x 3.8 x 7.8 inches 
  • Item model number NML-603(S) 
  • Color Chrome Item Package Quantity 1 
  • Flow Rate 2.5 GPM Water Consumption 2.5 GPM ..
  • Certification No..

2014年7月14日月曜日

サムソナイトの角型折り畳み傘


サムソナイト製の小型折りたたみ傘。長い間、カバン用に常備できる折り畳み傘を探していた。東京で使っていたTumiのバックパックにも時折普通の折り畳み傘を差していたが、頭がはみ出すその様子はいかにもダサく、なんとかできないものかと常々思っていた。軽く、小さく、強く。全ての条件を満たすこの傘は、米国のamazonでわずか16ドル(2014年4月現在)。サムソナイトのロゴも美しく、最近買った製品で最も満足度の高いものの部類に入る。

この傘の特徴は、なんと言っても扁平な形になることである。折りたたむと長さ20センチ強、幅6センチ、厚さ2センチくらいの羊羹のような形になる。厚さ2センチであれば、いかなるビジネスバックでも余裕であろう。しかも重さはわずか4オンス、100グラムちょっとしかない。PCのACアダプタの1/3くらいだろう。

しかもうれしいことに、ビジネスマン御用達のTumi Alphaシリーズにはこれに完璧にフィットするナイロン製ポケットがある(少なくとも私の持っている26141の場合)。この傘が入るために作られたと思うくらいだ。ポケットの頭からわずかにSamsoniteのロゴがのぞく。この傘を自分のAlphaに納めた時の満足感は、個人的には非常に高かった。

なぜこのような羊羹型の折り畳み傘がこれまで一般的でなかったのだろうか。おそらく探せば日本にもあるのだと思うのだが、少なくとも私は出会うことができなかった。構造に特殊なところは何もない。単に骨が、いわば楕円対称になるように角度をつけてつけられているというただそれだけである。開けば円になる。しかし開けば円であるものが、閉じた時に円筒形である必要はない。鞄の形が直方体であれば、その形からいわば逆算して傘をデザインするという行き方も、考えてみればあると思う。その柔軟な発想といい、質感といい、さらに価格といい、さすがと思わされた。全てのビジネスマンに勧められる逸品。


Samsonite Manual Flat Compact, Black, One Size
  • ASIN: B00BPEEFUG
  • Product Dimensions: 8.6 x 2.4 x 0.8 inches; 4 ounces
  • Shipping Weight: 4 ounces (View shipping rates and policies)
  • Shipping: This item is also available for shipping to select countries outside the U.S.
  • Item model number: 51697 .


2014年6月30日月曜日

「不格好経営 ― チームDeNAの挑戦」

DeNAの創業者南場智子氏の半生記。創業から社長交代までの波乱万丈の記録。面白い。内容も面白いが文章もいい。プラスもマイナスも、全ての出来事を陽性の物語に変えてしまう筆力は並みではない。

DeNAは日本発のインターネットオークションサイトを目指して設立された会社である。南場氏は、マッキンゼー前職時代のコネクションを生かしてソニーとリクルートから出資の約束を取り付ける。その時点で半ば勝ったようなものである。アメリカではすでにeBayが大々的にビジネスをしており、日本は明らかな空白地帯であった。しかし1999年といえばまだ日本ではGoogleさえほとんど知られていない時代だ。ただでさえ暗闇の混沌にも等しいインターネットの世界に、オークションというある意味あやしい仕組みを作るのは、確かに賭けであったろう。

そうして生まれたのが、結局ヤフーに先を越されたが、ビッダーズというオークションのサイトである。ビッダーズがDeNAのサイトであったというのはこの本を読んで初めて知った。確かに、ヤフーオークションが2002年にオークション利用料の値上げを発表した時、ヤフーの会員であった私はビッダーズのオークションに入会してみた。結局、品数のショボさは否めず、ヤフーに戻ることになった。DeNAはオークションにおいてヤフーとの戦いに敗れたのだが、その後、eコマースサイトで黒字化に成功、その後、モバイルゲームの世界でひと山当てたというわけである。

私が大学院を出て民間企業に就職したのは2000年のことだ。会社の中でそれなりに激しい動きを体験してはいたのだが、私にはDeNAのようなベンチャーに自分の未来を賭けるだけの先見の明はなかった。私が見ていた世界はものすごく限られていた。社会がこの先どうなるという確信もなかった。要するに世間知らずだった。草創期のこの会社に、自分から売り込みに行った若者たちの情熱とセンスには、素直に脱帽である。

これまで私は、女性実業家、みたいな人の成功物語にはあまり興味がなかった。たいてい、それ自体に宣伝臭さを感じてしまうからだ。しかしこの本はおそらく違う。ひとつの踏み絵のようなものだが、次のような記述がある。
女性として苦労したことは何ですか、どうやって乗り越えましたかと尋ねられるといつも困ってしまう。(中略)。職場において、自分が女性であることはあまり意識したことがないし、女性として苦労したこともまったくない。しかし、得をすることはよくあった。(中略)。今はどうか知らないが、その時代は若い女性が経営の話をするだけで珍しがられ、耳を傾けてもらえた。最後はむき出しの内容勝負だが、聞いてもらえるところまでは確実にたどり着ける。(第7章 「女性として働くこと」)

これは私の実感にも合う。政治的寝技が物を言う規制業種(新聞、テレビ、銀行、土木建築、公務員、など)とは違い、市場においてある意味フェアに評価される業界においては、使えるやつが使えるのであり、結局はそれだけである。

本書第2章「生い立ち」は、厳格な家庭に育ち、父からの自立を経て、米国留学、マッキンゼー就職、ハーバードでのMBA取得、までの半生記である。実績から見ても文章からみても才能あふれるこの著者にすら、ゼロからイチを作り出すために苦悶した時代があったという事実は、若者には重要なメッセージとなろう。グリーに対する独占禁止法違反事件、本書末尾に書かれた人材引抜きをめぐるある背信。いろいろときわどいこともあったのだろう。しかしそれを含めた会社の歴史を、前向きな物語として読者と共有できる筆力はすばらしい。オークションといういわば二番煎じのビジネスモデルから始めたDeNAだが、モバゲーの時代になるころには世界を先導する意志を手にしていた。力強く前向きなトーンにあふれる最後の8章は、閉塞状況にある日本では久々に見る明るいニュースとさえ言える。ぜひがんばってほしい


不格好経営 ― チームDeNAの挑戦
  • 南場 智子 (著)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 2318 KB
  • 紙の本の長さ: 163 ページ
  • 出版社: 日本経済新聞出版社 (2013/8/2)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語.

2014年6月14日土曜日

「ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく」

ライブドア事件の刑期を満了し、自由になった堀江貴文氏が自分を振り返る自叙伝。前半の3章までは、九州の田舎の冴えないサラリーマン家庭から東大に合格し、東大で起業するまでの半生記。後半が「なぜ働くのか」というテーマへの彼なりの答えになっている。


刑期満了後、堀江氏はひとつ考え方を大きく変えた。収監前、田原総一郎氏から、ネクタイして老人にゴマをすっておけばうまく行ったのに、そしてそれはわかり切っていたことなのに、なぜあえてそれをやらなかったのかと聞かれる。それを振り返り、彼はこう書く。
これまで僕は、自分ひとりで突っ張ってきた。裸の王様を指さして、世の中の不合理を指さして、ひとり「なんでみんなネクタイなんかしているの?!」と大声で笑ってきた。それでみんな気づいてくれると思っていた。でもそんな態度じゃダメなのだ。世の中の空気を変えてゆくには、より多くの人たちに呼びかけ、理解を求めてゆく必要がある。(第4章 僕は世の中の「空気」を変えていきたい)

アマゾンのサイトにある動画からも想像できる通り、本書は堀江氏の体験が反映されてはいるが、文章自体はチームで作り上げたようだ。その成果として、読者から反感を買いそうな箇所は注意深く取り除かれている。堀江氏の考え方は昔から何も変わっていないのだが、いわば広報戦略を変更したわけである。

自分の離婚のエピソードに関して、彼はこう書く。
決断とは「何かを選び、他の何かを捨てる」ことだ。(第4章 孤独と向き合う強さを持とう)
一方で、彼はこうも言っている。
何事に対しても「できる!」という前提に立って、「できる理由」を考えていく。そうすると、目の前にたくさんの「やりたいこと」が出てくるようになる。(中略)。 僕からのアドバイスはひとつ、「全部やれ!」だ。ストイックにひとつの道を極める必要なんてない。(第3章 やりたいことは全部やれ!)
これらに一貫性があるかと問われれば微妙である。投資対効果を考えるというビジネスの基本すら欠落している。こういう不整合は、本書に象徴的なのだと思う。おそらく過去の彼であれば、こういうことはしなかっただろう。しかし彼が書くように、それではダメなのだ。矛盾と逡巡から自由ではない自分をある意味さらけ出し、意見が同じ人も違う人も、あらゆる人をいわば抱きしめてあげる態度が必要だったのだと思う。すでに時代に合わなくなっている社会システムを変革し、面白くて豊かな社会を作ってゆこうという方向性には、同世代の者として大いに共感を覚える。しかしなぜそれが多くの人の理解されるところにならなかったのかを考えるのは、彼にとっても、我々にとってもとても意味のあることだ。

彼の言う「ゼロ」を理解するために、我々はゼロ歳の自分についてちょっとだけ考えてみるといいかもしれない。堀江氏は、九州の田舎にいる時、自分はゼロであったと感じていた。これまでの人生は、そのゼロである自分をイチに引き上げてゆく過程であったと彼は言う。未来へ向けて自分を投げかけて新しい価値を作るためには、自分のゼロを認識しなければならない。これは実は簡単なことではない。堀江氏が「あなたは本当に『自立』できているか」(第4章)と問いかけるのはそのためである。子育てをしてみて私も驚いたのだが、実際のところ過半数の大人は実は自立していない。たとえば子供の世話も、住む所も、何らかの意味で親から独立ではない。経済的な独立なしに思考の独立もありえないというのは、堀江氏が言わずとも当然のことだ。
たとえば、あなたが転職するときや引越を考える時、「きっとお父さんは反対するだろうな」とか「お母さんは心配するかもな」といった思いがよぎるとしたら、それはまだ「子ども」の意識が抜けず、自立しきっていない証拠だ。(中略)。もし親孝行という言葉が存在するのなら、それは、一人前の大人として自立することだ。(中略)。親から自立できてない人は、「自分の頭で考える」という習慣づけができていない。そうなれば、会社や組織からも自立することができず、いつまでもおもちゃ売り場の子どもみたいに駄々をこねるだけだろう。(第4章 あなたは本当に『自立』できているか)
すなわち自立とは、自分の心の中の価値の座標軸を、親とか会社とか「世間」とか、そういうものに相対的に決めるのではなく、自分だけの価値の絶対軸を定義することだ。本ブログでたびたび書いてきたように、それができる人は非常に少ない。堀江氏が誤解される理由のひとつはそれである。

意図的か偶然か、「塀の中にいても、僕は自由だった」(第5章)というくだりは、サルトルの有名な文章を思い出させる。
われわれは、ドイツ人に占領されていた間ほど、自由であったことはかつてなかった。われわれは、ものを言う権利を始めとして、一切の権利を失っていた。(中略)。全能な警察がむりやりわれわれの口を閉じさせようとしたからこそ、どの言葉もすべて原理の宣言としての価値をおびた。(J.P. サルトル、『沈黙の共和国』(F. パッペンハイム『近代人の疎外』第1章所収) )
今がゼロであることを認識しているからこそ、どちらの向きに一歩を踏み出すか、という選択が厳粛な意味を持つのである。これまでの堀江氏の主張の各論には、賛同できる点もあるし、よくわからない点もある。人格者なのかと言われれば、それはおそらく違うだろう。しかしこの感覚の大本──投企による実存の絶え間ない再定義──はよくわかる。そして堀江氏が、これまでも、これからも、おそらく孤独であるであろうことも。それがゆえに、堀江氏が、これまで無駄に彼を苦しめてきたコミュニケーション上の問題に気づいたというのは大きい。

彼を悪人だと信じている人のほぼ全員は、その容疑事実について何も知らないだろう。今の時点で、およそ10年前に書かれた彼の主著『稼ぐが勝ち~ゼロから100億、ボクのやり方~ 』を見返してみると、堀江氏の先見性に改めて驚く。同書「おわりに」では、近鉄球団の買収に関して、読売グループのボス渡邉恒雄を名指しで、彼の共産党員だった過去すら挙げながら、強烈に批判している。これを読むと、ライブドア裁判が、極めて恣意的な、ほとんど報復攻撃とでも言うべきものであったことに、確信めいた感情を抱かざるをえない。

かつて、彼は確かに、「金で頬をひっぱたく」ようなことをやろうとしたと言えるのかもしれない。しかし閉塞状況にある日本では、あえてそこから前向きなメッセージを見出すべきだ。自由になるために全ての常識を疑おう、自由になるために働こう、との訴えは、その観点でとても力強く響く。これは重要な第一歩だと思う。堀江氏が旧著をはじめとした媒体で繰り返し主張する社会変革の必要性は誰の眼にも明らかで、それは歴史的必然と言ってよい。国がどうなっても自分自身の目先の既得権益が大事だと開き直るのなら別だが、その変革を拒むのは愚かなことである。

私はいまだに、彼らの近鉄球団の買収提案の何が問題だったのかわからない。旧著を読んで堀江氏を攻撃した人の論理の多くも的を外しているように思える。既得権益の受益者というのなら、あるいは単に、成功者を妬み、足を引っ張りたいというのなら理不尽な批判の由来を理解することはできるが、それはそれこそ自立した大人として恥ずかしいことではないのだろうか。堀江氏の書くとおり、人間はお金で変わる。それを否定するのは、お金を稼いだことのない人か、誰がお金を払っているのか意識しなくても許される幸せな職種、たとえば公務員とか、公正な国際市場競争が不可能な規制業種(新聞、テレビ、土木、建設、銀行、など)の人であろう。

ジェフ・ベソススティーブ・ジョブスといった「暴君」が普通に活躍できるアメリカに比べると、日本という国の小ささはどうしても目に付く。しかし一方で、ソフトバンクにしても楽天にしてもDeNAにしても、それなりのプロトコルを身につけさえすれば、何かをできるチャンスはあるはずだ。彼のような大物が、不要な摩擦を避ける戦術を身につけたことは、日本の将来にとっては悪くない。人の心は金で買えないなどという見え透いたきれいごとはもういい。未来側に立つのか、それとも既得権益側に立ちこのまま朽ち果てるのか、我々の前にはそれだけしかない。


ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 910 KB
  • 紙の本の長さ: 252 ページ
  • ページ番号ソース ISBN: 4478025800
  • 出版社: ダイヤモンド社; 1版 (2013/11/5)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語. ..
  • ASIN: B00G9KDQQU

2014年5月31日土曜日

Luxe Bidet Neo 110(米国製ウォシュレット)


写真はLuxe Bidet Neo 110
日本を訪れる多くの観光客を驚かせるのが、日本のトイレのハイテクぶりらしい。洗浄便座はすでに世帯普及率80%に迫ろうとしている由で、ほぼ全家庭に行き渡ったと言ってよい。ここまで普及すると、飲食店やホテルなどもそれに追随せざるを得ず、少なくとも関東地区では、洗浄便座がついてない場所を探すのが難しくなったという印象だ。

これは国際的には突出した普及率らしい。何がこの違いを生み出しているのか、というのは、イノベーションの受容という観点で、ビジネススクールの事例研究としては格好だと思う。しかしこの差異がゆえに、私を含め、日本を出て海外で働く多くの日本人をひそかにしかし深刻に悩ませているはずである。

たとえばアメリカだと、ねじはインチねじであり、日本のメートルねじとは違う。しかもTOTOやINAXの便器などあるはずはなく、American Standard などのメーカーである。日本で使っていたウォッシュレットなりがそのまま使えるはずもなく、しかもそもそもアメリカではほとんど普及していない機械だけに英語ですら情報収集がままならない。

Tアダプタにより水道を分岐させる
私も現地で不動産屋に聞いたのだが、まともな情報は帰ってこなかった。日系の業者がウォッシュレット設置を1000ドル(約10万円)くらいで請け負うといううわさを聞いたくらいである。生活の立ち上げで苦労している間に、バスルームの快適さが担保されないのは辛すぎる。

ということで、アメリカ、特にニューヨーク、ボストンなど東海岸に向かう日本人に、洗浄便座設置の成功事例を共有したい(おそらくロサンゼルスやサンフランシスコ、あるいはシアトルなどの西海岸でも同様だと思われるが不明)。数ヶ月のリサーチの後、私が購入したのがLUXEという会社の製品である。 Amazon.comで買うと、2014年6月現在、30ドル(約3000円)もしない。

この手の製品の最大の関門は、ねじとの接続性である。LUXE Bidetシリーズの製品は、マニュアルにあるように、2つの金属製柔軟ホースがついている。
  • 1/2インチ・1/4インチナットホース
  • 15/16 インチ・9/16インチナットホース 
私の家のAmerican Standard社の便器の場合、トイレのタンクにTアダプタを直結させ、その下部に15/16のホースをつなぎそのまま給水パイプにつないだ。洗浄便座とT-アダプタは細いほうのホースである。取り付け方は同社のWebサイトに動画がある。簡単だ。

もし新居を下見する機会があるのなら、モンキーレンチ等を持参して、ナットの大きさを測るといい。ナットの径が、15/16 インチ(23.8ミリ) と 9/16(14.3ミリ)のパイプでタンクと水道が接続されていたら、何も考えずにこの洗浄便座がつなげる。もしサイズが違っていたとしても、Home Depot 等のホームセンターやAmazonなどでも容易に代替ホースを探せるだろう。

この機械は電気を使わないので、つまみを回すと単純にその水圧で水が出てくるだけである。便座ヒーターや乾燥機能など何もない。単純であるが、おそらくこれで十分だと思う。構造も簡単で軽量、便座そのものを置換する日本方式と違い、便座はそのままで、便座の下に挟み込むように設置する。つくりが若干華奢な気もするが、所詮日本円で3000円ほどである。それだけのお金で、ほぼ日本と同様の快適さが得られるようになって心から満足した次第である。

Luxe Bidet Neo 110 (Elite Series) Fresh Water Non-Electric Mechanical Bidet Toilet Seat Attachment w/ Strong Faucet Valves and Metal Hoses
  • Part Number Neo-110
  • Item Weight 2.2 pounds
  • Product Dimensions 13.5 x 7 x 3 inches
  • Item model number Neo 110
  • Material Plastic
  • Item Package Quantity 1
  • Number Of Pieces. 1
  • Special Features Easy to Install, Adjustable.

2014年4月30日水曜日

「社長は労働法をこう使え!」

労働法の論理と実際を実例に即してわかりやすく解説した本。タイトルはやや挑発的であるが、よく考えれば、あらゆる紛争には複数の当事者がおり、それぞれの言い分がある。労働者側の言い分を善と最初から決め付けるのは合理的ではない。

第2章、「正社員を解雇すると2000万円かかる」との事実は衝撃的だ。ある従業員が解雇されたとし、それを裁判で争うとする。その場合

  • 賃金仮払いの仮処分申請
  • 本訴開始
  • 判決
という順序で話が進む。会社側が十分な準備なしに解雇を行った場合、いくら状況証拠を示しても、仮処分に抗するのは難しい。仮処分が認められると、解雇時点からの給与を払い続ける必要がある。しかも、会社が敗訴した場合、それに加えて2重に解雇時点からの給料を払い(※)、なおかつ、訴えた従業員を職場に迎えて仕事を与えなければならない。年収400万も行かないような従業員でも、裁判まで行って敗訴した場合、年収の数倍の費用がかかってしまうのだ。大企業ならまだしも、中小企業では数千万円の現金を捻出することは簡単ではない。それによって倒産することすらありえる。

※付記。この点は理解できなかったのだが、実際には給料の二重払いはしなくてもいいらしい。著者が言っているのは、住居手当てなどの付加的なものなのだろうか。

賃金仮払いの仮処分が勝負の分かれ目であり、裁判所の判断基準に詳しい労働組合や弁護士は、仮処分を受けられる可能性を分析する。当人が実際のところ働く気のないぶら下がり社員であっても関係ない。そもそも労働法は労働者保護を目的にしている。解雇に値するとの十分な証拠がない限り、当人の成果や能力と無関係に解雇は無効である。組合や労働弁護士にはそこに大きなビジネスチャンスを見るというわけである。

本書を読むと、今をときめく小保方晴子氏の弁護士が取っている戦術の背景がよくわかる。執筆時点では小保方氏は解雇はされていないが、おそらく解雇されるだろう。それを見越した上で、裁判官の心証をよくするための手を着々と打っているのである。労働法の論理は、研究者的定義での捏造の有無とは関係ない。それを十分把握した上で、小保方氏の行為が、解雇に相当するとまではいえない、といったロジックを慎重に積み上げているのである。見事である。

本書の著者は、労働者の搾取に手を染める鬼ではない。むしろ、日本の労働法が時代と合わなくなっている結果、労使双方に悲劇を生み出していることを指摘している。たとえば、日本では解雇規制は厳しいのだが、人事異動はほぼ自由にできる上、定年という無慈悲で非人道的な制度がある。残業を命じることにも(厚労省の100時間の基準の範囲内では)強い制限はない。解雇規制が厳しい代償としての愚かな定年制度のため、多くの技術者が対立する隣国の企業に雇われ、結局元いた企業の首を絞める結果となっているのは周知のとおりだ。

国力を高めるという観点でも、これからの高齢化社会の安定化という観点でも、今の労働法は明確に有害なのだが、厳しい市場競争とは無縁の規制業種と、それを代表する勢力が政治的に大きな力を握っている日本では、抜本的な改善は難しいだろう。

本書では、日本の厳しい法規制の下でも、解雇は十分可能であることを述べている。柔軟な処遇を可能にする就業規則をつくること。もし本当に従業員の能力が足りないと判断される場合、それを立証する証拠と、教育・指導の記録を残すこと。もし指導の結果、会社に有用な人材ということになればお互い幸せである。

重要なことは、どの労働者にもそれなりの能力があるということを信じることである。烙印を押してはいけない。嫌いだから、のような理不尽な理由で解雇をすべきではない。互いに歩み寄り、互いに生産的な状況を作り出すために最善の方策を取るコストは、冒頭に掲げた2000万円のコストよりはるかに低いはずだ。これは人道的な行為であり、しかもその結果、社会に富を生み出しうる。国力が衰退しつつある今、会社にぶら下がることを前提に、非生産的な労働争議をやっている時代ではない。


社長は労働法をこう使え! 

  • 向井 蘭 (著)
  • 単行本(ソフトカバー): 272ページ
  • 出版社: ダイヤモンド社 (2012/3/9)
  • ISBN-10: 4478017042
  • ISBN-13: 978-4478017043
  • 発売日: 2012/3/9
  • 商品パッケージの寸法: 18.8 x 13.2 x 1.4 cm

2014年3月31日月曜日

「遠い日の戦争」

戦時中陸軍中尉としてB29搭乗員の処刑に関与し、占領軍の追及から逃げた男の心理を描いた小説。吉村昭のほかの小説同様、劇場風の大げさな描写は何もなく、淡々と心理がつづられる。

西部軍司令部司令部付・防空作戦室情報主任であった陸軍中尉白坂琢也は、玉音放送を聴いた直後、書類の焼却を命ぜられる。と同時に、以前、非戦闘員への殺戮行為という罪状により軍法会議で死刑を宣告されたB29の搭乗員への対応を迫られる。B29搭乗員は、日本軍迎撃隊により撃墜され、パラシュート降下したのである。B29は市民の憎悪の的であり、軍はかろうじて民衆の暴力から彼らを守り、留置したのであった。

詳細な尋問から、彼らが組織的に非戦闘員の殺傷を行っていることは明白であった。民間人への意図的な殺戮を行った者は、当時の戦時国際法によれば、戦時捕虜としての保護の対象にならない。それは軍服を捨てて群集に隠れつつゲリラ的攻撃を仕掛けた南京攻防戦での中国兵が、その場で処刑されても仕方なかったのと同様である。 軍は国際法に基づき、B29搭乗員に死刑の判決を下した。

白坂琢也は、灰燼に帰した博多の街を目前にし、また、新型爆弾を使用し都市全体を消滅させる攻撃に、強い憤りを感じた。
中小都市への焼夷攻撃に加えて、市民の殺傷のみを目的に新型爆弾まで投下したアメリカ軍の行為は、理解の範囲を超えたものであった。その後、伝えられる新型爆弾による広島市の被害状況に、琢也は、アメリカ軍がすでに日本人を人間の集団として認めていないことを感じた。...それは、野鼠の群れを一時に焼殺する駆除方法にも等しいものに思えた。

玉音放送後の残務処理において、すでに死刑判決を受けた彼らを処断することは自然なことであり、それをどう実行するかは責任機関に一任されている。琢也は実行した。

それが彼の長い逃避行の始まりであった。士官仲間から米軍の追及を聞かされた琢也は、旧軍で要職にあった伯父を訪ねるが、「旧軍人らしく逃げるなどということはせず、出る所へ出て白黒をつけろ」などと突き放され落胆する。軍関係の知人は彼を歓迎せず、人づてに姫路のマッチ工場に落ち着く。

その過程で、いかに人々が無責任に、強者に阿るかのように価値を転換させていることを知る。A級戦犯の起訴を伝える新聞には、「戦犯はまさしく人類の敵であり、憎みても余りある暴力の野獣である」とまであった。

琢也は姫路になじみ、工場主の信頼を得る。安定した生活を手に入れた彼は、ふと募った郷里への思いを胸に、その工場の名で挨拶の年賀状を実家に出す。追われる身としては、名を書かずとも、筆跡から事情を察することを期待したのである。結果的にそれが仇となり、彼は占領軍に連行され、裁判を受ける。彼は終身刑となったが、その後の占領政策の変更により、9年の後に釈放される。彼は思う。
裁判の本質は、法律の忠実な履行によって成立するもので、判決は厳正な最終結果であるはずだが、戦争犯罪裁判は国際情勢に著しい影響を受け、その折々の判決にも軽重の差が余りにも大きく、しかも決定した刑も短期間のうちに減刑されている。それは、戦争犯罪裁判に、その起訴となるべき法律というものが存在せず、裁く者たちの気ままな意志によって判決が下されたことをしめしている。琢也は、...、戦争犯罪人に対する裁判は、裁判とは無縁の私刑に近いものであることを感じた。

彼は、弟からの手紙で、その後郷里の空気が一変し、むしろ戦犯を被害者として気の毒がり、役所から非公式に慰問の品さえ届けられたことを知る。7,8年前、新聞は自分たちを「暴力の野獣」と指弾した。しかしそれがいまや悲劇の主人公なのである。それに彼は怒る。

この小説の主人公の悲劇は、心の中に価値の絶対軸を持っていたことであった。人間は2種類に分けられる。価値の絶対軸を持つ人間と持たぬ人間である。それは絶対音感に似て、それを持たぬ者には想像すらできないが、持つものにとっては強い感情をしばしば巻き起こす。価値の軸を持たぬ人間は、ことが起こるたびに強者の価値の上に座標を置き直すことに何の躊躇も感じない。何か問題が起こると、「自分はあの時、実は左様に懸念していたのだ」などと態度を変える輩は珍しくない。彼・彼女としては、それがむしろ良心の証であると信じており、それがゆえ対立はむしろ悲劇というよりも喜劇的になる。

価値の絶対軸を心に確立できぬ輩は人間として未熟である。郷里からの手紙を破り捨てたこの小説の主人公の苛立ちは、未熟さをそれとして理解できぬ人々との間の、暗黒の断絶に由来している。

読む価値のある名作。


遠い日の戦争  [Kindle版]
  • 吉村昭 (著) 
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 399 KB 
  • 紙の本の長さ: 150 ページ 
  • 出版社: 新潮社 (2013/6/13) 
  • 販売: Amazon Services International, Inc. 
  • 言語: 日本語 
  • ASIN: B00D3WJ3LY

2014年3月1日土曜日

「桶川ストーカー殺人事件 ── 遺言」

ストーカー防止法の元になった有名な事件の取材録。並の取材録ではない。警察がまるで動かない中、当時Focus誌の記者だった著者が自らの情報網を使い犯人に肉薄、虚偽報道に心を痛める被害者家族・友人の信頼を得つつ、最終的に犯人を追い詰めるまでの生生しい記録だ。私はもちろんこの事件を知っていたが、恥ずかしながらこの記者の取材記録については何も知らなかった。驚いた。一気に読んだ。大げさに言えばこれは、日本経済の成長の足を引っ張る非競争的セクターの病理の典型事例であり、組織の生産性を上げるために何をすべきかについての格好の反面教師となっている。冗長な著者の文章スタイルを差し引いても、現代インテリゲンチャ必読の書だと思う。

この事件自体は有名なので繰り返さない。 著者が指摘する問題は2つだ。まずはまったくやる気のない上尾署という組織。それに対し何の監視能力も持たない記者クラブ所属のマスコミ。 上尾署の独特の空気は記者会見からもよく伝わる。



一方、事件発生後、事実と異なる報道を大量に垂れ流した記者側の論理はこうだ。

 「僕らは事件記者じゃないんです。警察に詰める警察記者なんですよ」 わかりやすい話だった。警察詰め記者イコール事件記者ではないのだ。そうか、彼らはあくまで警察を担当している記者なんだ。だから警察発表を記事にしていくのは何ら不思議ではないのか...。 私が取材で求めているものと、警察に詰める記者達や新聞社が求めているものは似ていて違うのだ。私は事件を取材する。だから事件記者。彼らは警察を取材する。だから警察記者。(「第6章 成果」) 

結果論からすれば、彼らは人の心を持たぬ鬼のように思える。しかし単にそう断罪するだけでは何も進まない。彼らの行動を支えた論理について想像力を働かせ、反面教師として未来につなげるべきだ。

おそらく、警察も記者クラブ記者も、業務において量の上で大半を占める日常のルーティンワークが、いつしか価値の上でも最上位に来ると考えるようになったのだろう。そもそも何のために業務があるかを忘れ、単に目前の業務を右から左に流す。そうなると、日常の定型的な事務処理から外れる捜査とか取材とか、そういうものはただの面倒、さらにはむしろ存在すべきでない悪に見えてくる。

この連鎖を断つ鍵は、組織自体の目的を、個々の業務といかにつなげるかという点にある。少なくとも経済原則から言えば、警察は、究極的には、納税者にサービスを提供する組織である。一部の人権を暴力的に制限することで、最大多数の最大幸福を目指すという意味で、高度な倫理観と使命感が要求される。マスメディアも非常によく似ている。彼らは第一義的には、新聞購読者や、スポンサー企業およびその顧客に、情報サービスを提供するのが目的となる。事件報道の場合、一部の人権を制限することで最大多数の最大幸福を目指す。

 要するに、誰が「お客様」なのかという点さえ覚えておけば、日常業務における価値の転倒が起こることはないのだが、日常的に市場での競争にさらされていない彼らには、それを考える動機などないのだろう。自発的にそれが起こりえないのだとしたら、上位の目的を下位の業務と関連付けるために、組織の長の強力なリーダーシップを期待したいところだが、それもまた望み薄なのだろう。 

この最悪の事件が、ある意味業務に忠実な、真面目な人たちによる、真面目な業務への専念により引き起こされたということは銘記しておきたい。


桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)
  • 清水潔 (著)
  •  フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 1536 KB 
  • 出版社: 新潮社 (2013/5/24) 
  • 販売: Amazon Services International, Inc. 
  • 言語: 日本語 
  • ASIN: B00CL6N0GW

2014年1月31日金曜日

「陸軍士官学校の人間学」

1980年半ば、日本国内でのシェアがわずか数パーセントで、ほとんど存続の危機がささやかれていたアサヒビールが、「スーパードライ」の大ヒットで、1998年にはついに宿敵キリンを制してシェア首位にまでたどり着くまでの成功談を、陸軍士官学校での教えに結び付けて解釈した本。

著者中條高徳氏は、1982年にアサヒビール常務取締役営業本部長に就任、かねてからの主張に基づき、「アサヒスーパードライ」作戦を強力に推進、その後同社トップに上りつめる。その経歴を、陸士で教えられた兵法に結びつけて回想しているのだが、当然といえば当然だが、
「将たる者、方向を指示し、兵站す」(『統帥綱領』)
という程度の抽象論であり、実際のところ話の本筋に陸軍士官学校は直接関係しないのだが、それでも、日本軍の戦訓とビジネス的な意思決定を結びつけることで、それなりに読ませる。たとえば、戦力の逐次投入の愚をガダルタナルでの敗戦につなげるエピソードは、意思決定のリスクを避けるために当たり障りない策を提示しがちな多くの管理職には耳が痛い話であろう。要するに、リーダーの原則はどこでも同じ、ということで、兵法がビジネスに役に立つことがあるのは当然で、逆もまた真ということだろう。

成功物語としてはなかなか面白い。1962年、入社10年目、販売課主任の時、中條氏は、下がり続けるシェアに言及する社長の訓示を聞き涙を流す。その日の夕方、社長に呼ばれ、シェア回復の作戦を作り提出するようにいきなり指示される。ビール作り現場の技術者に聞いて回ったところ、ビールは生が一番うまいとの結論に達する。その後は、激励されたり干されたり、紆余曲折を経ながらも実績を積み重ね、上述の成功に至る。

当時の最高のエリートコースであった士官学校に入ったという経験を、戦後、絶対不可能と言われたアサヒの復活に重ね合わせたこの本は、著者にとってはこの上ない自己満足を与えたことだろう。しかし21世紀に生き抜かなければならない我々は、アサヒビールの戦いが、大枠が決められた上での「追いつけ追い越せ」式の戦いであったことを指摘せざるを得ない。つまりこれは高度成長期の成功物語としては非常によくできているのだが、今の日本の停滞に資するところは非常に少ない。たとえば、この本からはiTunesは絶対に出てこない。

使命感、統制、一点集中、などの美徳は、「方向を指示し」の後の話である。しかし今は、その方向が見えない時代だ。国は縮んでゆく。縮む市場でのシェア争いは明らかに消耗戦だ。国際競争に出ようにも、国際競争力のない国内の規制業種が国富の過半を食いつぶしている現状では、最初から巨大な負を背負っているのも同然だ。我々に必要なのは、この国のエスタブリッシュメントを ── 評論家然と出る杭を打ちまくり、なんら恥ずるところがない彼らを、軽々と飛び越えるほどの狂気だ。

だから私は、本書には、兵法云々も悪くないのだが、日本軍におけるイノベーションのエピソードを盛り込んでほしかった。敗戦から帰納して、日本軍が非合理思考の権化のごとく塗りつぶすのは、士官学校の兵法を神聖視するのと同じくらいの知的怠惰であると思う。たとえば、零戦の設計戦艦武蔵の戦術思想、あるいは、サイパンでの水際攻撃失敗の戦訓をいち早く取り込み敵に大損害を与えた硫黄島の戦い、などなど、現在の日本同様、負の慣性が強い状況での合理的な思考がどこから生まれ、どう実現されたのか。真に学ぶべきはそういう点だと思う。


陸軍士官学校の人間学 戦争で磨かれたリーダーシップ・人材教育・マーケティング
  • 中條 高徳 (著) 
  • フォーマット: Kindle版 
  • ファイルサイズ: 519 KB 
  • 紙の本の長さ: 208 ページ 
  • 出版社: 講談社 (2012/9/28) 
  • 販売: 株式会社 講談社 
  • 言語: 日本語 
  • ASIN: B009I7KOUW.

2014年1月5日日曜日

「拉致と決断」

北朝鮮に拉致され、生還した蓮池薫さんの内的葛藤の記録。淡々とした筆致で、絶望の中から希望を見つけ、その希望が失われる瀬戸際での「決断」の記録は心を打つ。子供を残して日本に残るという決断である。

北朝鮮での24年間、蓮池夫妻は自分の子供に、自分たちは日本に住んでいた朝鮮人だとうそをつき通してきた。日本語は教えなかった。それ以外に子供たちの未来を開く手段がなかったからである。北朝鮮には「成分」呼ばれるカーストさながらの身分階層があり、敵国の居住暦があるとまともな教育も受けられず、まともな職業にもつけない。蓮池夫妻はわが子にすら出自を隠し、子供たちを、自分たちの住む収容所から遠く離れた全寮制の学校に通わせた。

家庭での日常の些細なやり取りを想像してみると、本当に胸が痛む。たとえば、スポーツの試合があっても、ふるさとの国に肩入れする気持ちを表に出すことはできない。あらゆる時事問題について、敵国となっている自国についての気持ちを抑え、政府の公式見解に沿う形で子供に伝えなければならない。家庭で出自を隠すというのはそういうことだ。会社の同僚にプライベートを明かさないというのとはわけが違う。

彼らには北朝鮮には当然身寄りもなく、当局の監視下での生活では友人もできるはずもない。家族の絆と、子供たちの未来が蓮池夫妻の人生のすべてであり、それを失うことは絶対にできなかった。

この感覚は、日本人の大多数には理解が難しいのだろう。日本のあらゆる空間には、おそらく縄文時代から続く人間の歴史が染み込んでおり、その結果として、ほぼ同質の文化があらゆる空間に充満している。拉致被害者としての加害国での孤独さは、日本に存在するあらゆる孤独さよりはるかに深く、暗い。

未帰還の被害者に配慮してか、北朝鮮での具体的な行動については明確には書かれていないが、逆にそれだからこそ、行間に北朝鮮での軟禁生活の生々しい現実が見えるようにも思う。2001年に、夫妻は七宝山という名山に観光旅行に出かける。24年間の拉致生活で、7回目、そして最後の外泊旅行である。さりげなくこのような一節がある。
私と家内、それに指導員の三人の三日分の食事は、大きなカバン一つに入りきらなかった。
旅行といっても純粋な観光なはずもなく、監視員つきの学習ということであろう。そしてその監視員の飲食の面倒も見なければならない。この旅行の途中、咸鏡南道で、蓮池夫妻は極貧の人々に会う。日本植民地時代日窒コンツェルンの根拠地として栄え、巨大な水力発電所で潤っているはずの地域である。

拉致という犯罪は、蓮池夫妻に、虚偽の出自を子供に教えることを強いた。しかし思えば、この国の統治が拠って立つ基盤は、金日成が日本を打倒したという虚偽の英雄譚である。虚偽なしに正当性を言えないこの国の政権が、拉致犯罪の意味を露ほども考えたことがなかったとしても、特に驚くべきことではない。

本書の最後に、蓮池氏が帰国する際、記者会見で話すように練習させられたストーリーが書かれている。
海辺の人影のいないところにいたった二人は、肩を並べて座り、涼み行く夕日を見ながら話に夢中になっていた。すると、少し離れた波打ち際に一台のモーターボートがあるのに気づいた。周りには誰もいない。興味を引かれた私は、ボートのところに行ってみる。まだかなり新しいものだった。あたりをもう一度確認した私は、ボートに乗り込み、あちこち観察して見た。操作は簡単そうだった。懐にのって海原を縦横無尽に走ってみたいという思いに駆られる。 ...

少なくとも、国家レベルで確信的に犯罪を犯す国があるということは、政治的立場を超えて、覚えておいてもいい。


拉致と決断
  • 蓮池薫 (著)
  • フォーマット: Kindle版
  • ファイルサイズ: 423 KB
  • 紙の本の長さ: 155 ページ
  • 出版社: 新潮社 (2013/4/26)
  • 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語
  • ASIN: B00C186HAQ