2013年7月7日日曜日

「異文化に暮らす子どもたち」

 ニューヨークで「こどものくに幼稚園」を園長として運営する著者の教育論兼半生記。著者は意志の人で、高校卒業後のOL生活に飽き足らず、貧困地区の子供支援に関わりながら夜に学校に通い保育士となる。そのころ、1970年代は日本は貧しい国で、北米からボランティアが多く入っていたそうだ。機会を得て半年の予定でニューヨークに渡航。しかし渡航後間もなく出会った5歳の日本人の女の子の事例に衝撃を受け、強い使命感を持ってそのままニューヨークで日本語幼稚園の設立に突き進む。

その5歳の女の子の親は、ある日現地キンダーガーデンの先生から問い合わせを受ける。「お子さんの声を聞いたことがないのですが、今まではどうでしたか?」 両親によればその子は家ではおしゃべりで、英語も多少わかるという。半信半疑の両親が、園での様子を見に行くと、確かにそこには心を閉ざした娘がいた。すでに重い心の病気であった。園と家庭で、いわば2つの人格を使い分けることで、かろうじて精神の平衡を保っていたのである。

同様の話は今でもある。2009年4月に投稿されたOKWaveにこういう投稿がある。この赴任家族では、2歳で現地のプリスクールに入れる。母親はこう書く。
娘は、4ヶ月、毎朝泣きました。先生が何を言っているか分からない、お友達に意地悪されても反論できない、と毎朝泣きました。先生に相談しても、大丈夫、と言うばかりで、心配でしたが、現地の園に通わせると決めた以上、私も心を鬼にして、毎朝園に連れて行きました。 
泣かないで通い、お迎えに行くと、楽しかったと言うようになり、また少しずつ英単語が出てくるようになり、先生がこう言ったよ、と何となく、先生の言う事が理解出来るようになってきたようで、安心していた頃、たまたま用事で園に行く機会があって、娘のクラスの様子を見に行きました。 
みんながごっこ遊びをしている中、娘は部屋の隅で、1人で遊んでいました。満面の笑みで、それはそれは楽しそうに、1人で。 
その姿を見て、私は切なくなりました。先生が声をかけてくれ、娘がみんなの輪の中に入っても、言葉が通じないからか、娘が中に入ると、他の子達が、皆、その遊びを辞めて他の遊びに行っちゃうんです。なので、娘は1人で遊んでいました。 
その時の様子を、カメラの動画で撮影していたのですが、旦那に見せたら、現地の園に入れた事を相当後悔しているようでした。その後、日本語幼稚園の園開放日に行く機会があり、参加してきました。娘が、初対面のお友達と一緒に、おままごとをしたり、ボール遊びをしたりしている姿を見て、旦那は、今からでも日本語幼稚園に入れ直そうか・・・と言い出しました。(旦那が言い出した時点で、本帰国まで後2ヶ月を切っていたので、現地の園に通い続ける事にしましたが・・・)
http://okwave.jp/qa/q4896508.html

この家庭の場合、母親は元幼稚園教諭であり、現地幼稚園への編入に慎重論を展開したものの、父親の「子どもなんだし、今は英語が分からなくても、英語の環境の中に入れれば、すぐに覚えるさ!」との、ありがちな主張に根負けした結果、子供の心に、おそらくは一生消えない傷を負わせることになったわけだ。

子供でも、言葉の壁がある。同様の事例は本書でも、当事者の証言として多く紹介されている。
子どもを4か月現地のナーサリーに入れていました。日本人の子どもがたくさんいるのに、まったくなじめず、「話していることがわからない」「自分から言いたいことを話せない」4歳になったばかりの娘には、それが思った以上の苦痛だったようでした。泣くのが止まらず、半日廊下にいたこともありました。ある日迎えに行くと、みんなから一人離れて土をけりながら泣いている姿を見て、思わず私も涙が出ました。先生からは、「彼女を放っておきました。彼女に必要なのは、私ではなくあなたです」と言われ、もう限界と悟りました。(p.44)

子供における言葉の壁。これは一般にはほとんど認識されていないが、健全な心身の発育のためにはきわめて重要である。単一言語・単一民族が圧倒的に支配的な日本では、異なる言語の中で生活することの過酷さを理解している人は非常に少ない。子供が受けるインパクトは、人格と専門性が確立した大人が受けるインパクトは違う。語学力について、自分の怠惰を日本の教育システムのせいにするのは間違っている。そしてその解として、特段の配慮なしに子供を英語環境の中に放り込むのは、親として非常にリスクの高い行為だということを理解すべきだ。

著者が体感してきた事実というのはこうだ。母語が確立する年齢、すなわち「自分の言葉で考えたり、文字を読んだり書いたりでき、集団の中でコミュニケーションができる年齢」(p.62)、までは、しっかりと母語を学んだほうが、その後の第2言語の習得は早い。逆に言えば、その時期、母語以外の環境で過ごすと、子供に深刻な発達の停滞をもたらす。直裁に言えば、子供が「知恵遅れ」の状態になるということである。親の判断ミスにより作られた「知恵遅れ」。それを望む親などいないはずだ。

以前も書いたが、この点については国策としてバイリンガル教育を推進するカナダで多くの先駆的な研究がなされている。本書の付録に、お茶の水大学教授の内田伸子氏による解説がある。その多くが依拠しているのはトロント大学名誉教授の中島和子氏の研究で、海外子女教育振興財団が配布している冊子「言葉と教育」を参照しつつまとめると、次のようなことがわかっている(ページ数は同冊子)。
  • 会話の能力について
    • 日本の小学生が英語での日常会話をできるようになる期間の目安は2年。
    • この期間には個人差が非常に大きい。その最大の要因は本人の性格。もともと外交的な子供は言語の習得が早い。
    • 次の要因が外国語への接触量。日本人だけで固まって暮らしているような環境では発達が遅い。(p.21、27)
  • 読解力について
    • 日本の小学生が、トロントの小学2年生相当の読解力へ到達する期間の目安はおよそ2年。
    • この期間には個人差が大きい。学年相当の読解力を獲得するための速度を左右する最大の要因が入国時の年齢。7-9歳で入国した子供は、6歳またはそれ以前から外国語環境で教育されている子供に比べて、はるかに早く読解力を習得する。。
驚くべきことに、入国時の年齢が若いほどむしろ読解力の発達が遅いのである。これはトロントに駐在する日本人家庭を対象とした実証研究に基づくデータである。「英語を教えるには若ければ若いほどいい」という一般的によく言われる常識は、少なくとも読解力については実証研究で明確に否定されているということである。著者は、「つまり、日本語でもうすでに読める子供は、英語を読む力も発達が早いのですが、日本語でまだ読めない子どもは非常に時間がかかるということです」(p.26)と端的に述べている。

ここで重要なことは、会話力の発達と、読解力の発達には異なる傾向があるということである。これは、生活するための言語と、学習をするための言語という、2種類の言語が存在することを示唆している。読解力は、ほとんどの職業において、知的な能力を発揮するための基礎となる。知的裏付けのない会話力だけでも何とかなる職業、たとえば、飲食店での接客業を目指した教育をしたい、というのでもなければ、学習言語の発達に遅滞をもたらすようなことをすべきではなかろう。

改めてまとめると、母語が未確立な状態で外国語で教育を施すことは、人為的な知的障害を生み出す。会話ができても知的な学習が苦手な人間ができるリスクが高い。

母語の確立なしに、学習言語の確立がないという事実は非常に示唆的である。日本人のほとんどは、母語の確立を自明の前提として考えているために、しばしば学習言語の存在に気づいていない。そしてまさにこの点が、昨今の英語教育をめぐる混乱の根幹にある。学習言語の存在は、日本文化への理解にも密接にかかわっている。母語の確立というのは、日本人としての自覚の確立と表裏一体である。これは、日本文化への誇りを持つことなしには、他国の良さも理解できないということを意味する。この国の多くの人はそれを十分理解していないように思える。現地文化を受容しつつ現地に根付いたニューヨークの最も良心的な幼稚園の園長が、本書の最終章にそのような日本の現実に対する危惧を表明しているという事実を、我々はよく受け止める必要があるだろう。

異文化に暮らす子どもたち―ことばと心をはぐくむ
  • 早津 邑子 (著), 内田 伸子 (監修) 
  • 単行本: 151ページ 
  • 出版社: 金子書房 (2004/03) 
  • ISBN-10: 4760821368 ISBN-13: 978-4760821365 
  • 発売日: 2004/03