2012年4月30日月曜日

「サイゴンから来た妻と娘」

駐在員時代に出会ったベトナム人の母娘を、ベトナム戦争終結の混乱の中で日本に逃がし、東京で暮らしてゆく中で経験するカルチャーギャップのエピソードを軽妙に描いた本。とりわけ食に対するエピソードが面白い。ライギョとの死闘、ペットのウサギを食べてしまった話、などなどまったく飽きさせない。著者は産経新聞の記者としてボーン・上田国際記者賞を受賞したこともある大物記者であるが、新聞記者には珍しくとても謙虚な感じのする人柄で、読後感が非常によい。出版(1978年)から34年も経過した今でも楽しく読める好著である。

別途、「アヘン王国潜入記」の方でも書いたが、本書が今読んでも面白いのは、居丈高に「正義」を語ることをほとんどしていないという点が大きい。しかしこういう個人的な題材を描いた本ですら、当時の世論に遠慮してか、微妙な表現がところどころに出てくる。ベトナム戦争の終結により「解放」されたはずの南ベトナムから大量の難民が国外に逃げた。この現実と、「解放」勝利で華々しく喧伝された理想とのギャップに言及して、著者はこう書く。

同時に私には、いまなお難民を生むことの悲しみに最も心を痛めているのは、ハノィの指導者たちではないのか、と思えてならない。ハノィはいま、すべての手段に訴えて、国家再建のために正しいと信じた方針を実施し、根付かせていかなければならない。戦場での戦いと同じように、外部の価値判断など超越した手段で人々を教育し、駆り立て、改造して大きな流れに巻き込んでいかなければならない。ベトナム共産党にとって、これは戦場とまったく同様の、生きるか死ぬかの、そしてこんどはベトナム全体がつぶれるかつぶれないかの、死に物狂いの戦いなのだ。これにうち勝つためには、当然、タガを締め、無数の汚い方便にも訴えぎるを得まい。力でおどし、心理でおどし、必要なら非同調者を容赦なく抹殺していくような真似だってやらぎるを得ないだろう。

しかし、汚職したり弾圧したりすることが旧チュー体制の本質でも目的でもなかったと同様に、取り締まったり、自由を制限したり、耐乏を強いたりすることは、ハノィの本質でもあるまい。(p.234)

上記、ハノイとは旧北ベトナムの首都で、ここでは共産党政権のことを指す。なぜ著者は、このように実質的に無内容なことを長々と書かねばならなかったのか。現実を見れば、共産主義の人間観が幼稚であり、ベトナム戦争の「解放」は人間の解放ではありえないことは明確ではないか。

それが歴史的限界なのである。歴史には正義の方向がある、というのが当時のインテリ多数派の共通理解であった。その動きに水を差す言動は文字通り「反動」であり、激しい攻撃の対象であった。ベトナム戦争に関して言えば、アメリカ帝国主義が反動で、北ベトナム軍が正義であった。この「教義」に、多少なりとも異を唱えるためには、上記のような、慎重にも慎重を重ねた言い訳が必要だったのである。

そうは言っても著者は知っている。著者は書く。
それならば、陥落前のサイゴン住民を支配したあの必死の空気は何だったのか、また、あのおびただしい数のソ連製の戦車群を目にしたときに私自身の全身を包んだ、あの、何か荒蓼とした感覚は何だったのか、と私は問い続ける。(p.235)

時代の制約に配慮しつつも、著者のスタンスは結局はぶれてはいない。このことが本書を不朽の名作にしているゆえんであろう。


サイゴンから来た妻と娘
  • 近藤 紘一 (著)
  • 文庫: 267ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (1981/7/25)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4167269015
  • ISBN-13: 978-4167269012
  • 発売日: 1981/7/25
  • 商品の寸法: 15.2 x 10.6 x 1.4 cm

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