2011年10月31日月曜日

「日本海海戦の真実」

日露戦争後半の決戦、日本海海戦で東郷艦隊が完全勝利を収めた経緯を、『極秘明治三十八年海戦史』という海軍軍令部編纂の新資料によって検証した本。現在の日本で一般的になっている「司馬史観」の補正を行うという趣である。逆に言えば、ところどころフィクションが入って、どこまで信じていいのかわからなくなる『坂の上の雲』にある知識を、歴史学の水準に効率よく高めるための便利な本と言える。

本書のポイントは2つある。ひとつは、どうやって東郷艦隊が、バルチック艦隊の通過経路を正しく予測したのかという経緯である。『坂の上の雲』の最も有名な場面のひとつは、部下に宗谷、津軽、対馬のいずれの海峡を通るか問われて、東郷が一言、「それは津軽海峡よ」、と言った場面であろう。しかし本書によればそれは脚色のしすぎであり、津軽か対馬か議論百出の挙句、ほとんど津軽説に確定しかけたところ、バルチック艦隊に炭水等を補給した船団が上海郊外に入港したとの確実な情報が相次ぐに至り、ようやく対馬海峡通過が確実なものになったとのことである。要するに、補給に使った低速船団を艦隊から切り離すにせよ、しばらく海上に留め置く等をしなかったのはロジェストヴェンスキーの失策であり、東郷艦隊はその失策を正しくものにしたということらしい。

もうひとつが、「トーゴー・ターン」として世界史に名を残す丁字戦法の採用経緯である。世間的には、東郷長官のひらめきにより、決然として突如敵前大回頭がなされたとされている。しかしそれもまた脚色のしすぎであり、実は丁字戦法は、開戦前から決まっていた作戦であった。東郷自身が「連合艦隊戦策」という軍事機密資料に詳細に明記し、部下の将校にあらかじめ配布しておいたものである(p.160)。海戦当日の実行責任者が参謀・秋山真之である。そして丁字戦法の採用は、巷間言われているように天才的参謀秋山の着想ではなくて、基本的に、古今東西の海戦史に造詣深く、実戦経験豊富な東郷自身の主導によるものであり、その研究の過程では、山屋他人の示唆が大きかったようである。

著者野村氏は防衛庁戦史編纂官という地位にあった方で、一般に公開されていない一次資料に基づいて詳細に日露戦争についての実証研究を行ってきた。本書が依拠する最重要文書『極秘明治三十八年海戦史』は、大東亜戦争敗戦の際にすべてが焼却されたのだが、唯一、皇居内にあった1組だけが人知れず生き残り、戦後30年以上してから防衛庁(当時)に移管されたものである(p.26)。司馬遼太郎はそのような機密文書の存在を知る由もなかった。本書は、一般向けの新書とは言え、「日本海海戦の真実」という名に恥じぬ貴重な情報が盛り込まれた好著である。

端的に言えば本書は、歴史には奇跡がないことを教えてくれる。最高司令官東郷は、作戦研究を怠らず、入念な調査研究の下、丁字戦法・乙字戦法に基づく作戦を策定した。秋山ら参謀は、それを実行するためにベストを尽くした。いずれの海峡を通るかという困難な判断は、当初は誤っていたが、それも、バルチック艦隊の予想進行速度など、その時点で与えられていた情報から合理的に判断して、一度は津軽説を信じたのである。正しい判断のためには、今知られている情報に加えて、「何が知られていないか」についての情報も必要である。後者を知ることは論理的には不可能であるが、日頃からの真摯な研究がその多くを補ってくれる。奇跡と呼べることがあるとすれば、そういうプロセスだけである。


日本海海戦の真実 (講談社現代新書)
  • 野村 実 (著)
  • 新書: 230ページ
  • 出版社: 講談社 (1999/07)
  • ISBN-10: 4061494619
  • ISBN-13: 978-4061494619
  • 発売日: 1999/07
  • 商品の寸法: 16.8 x 10.7 x 1.3 cm

2011年10月17日月曜日

「国家の品格」

発売後わずか半年、2006年5月までに265万部を売り上げた大ベストセラーの国家論。いまさら取り上げるまでもないのだが、Amazon.co.jpでの書評が独特な分布をなしていたので一言言及しておきたい。その部数からして本書は非常に好評をもって受け入れられたが、書評を書くようなインテリからすれば、そのまま受け取るのがくやしい気分にさせる何かがあるらしい。星1つの酷評も比較的多い。面白いことに、星ひとつを与えた感想は、

  • 日本を美化しすぎである
  • 断定的過ぎる
  • 非論理的である

というような内容がほぼすべてで、非常にばらつきが少ない。内容に踏み込んだ批判はほぼなく、感情的に反応している様子が見られる。典型的なのは
実証や論理を欠いたほとんど印象論による日本的精神の称揚によって語られる「自信と誇り」なんて、たんなる「傲慢」に過ぎない
のような論法である。

内容に踏み込んだ批判もないわけではない。いくつかあるのは、新渡戸稲造を誤読している、という批判であろうか。新渡戸はクリスチャンであり、むしろ西欧精神の代表であるから、『武士道』をもって日本文化を称えるのは論理的に間違いだ、というものである。しかし本書では、これは新渡戸が「解釈した」武士道であると明記してあるし(p.121)、「アメリカに留学してキリスト教クウェーカー派の影響を受け」たとも書いてある(p.122)。むしろ比較文化論の結果としての武士道というのが論旨なのだが、どうも話はかみ合っていないようである。

この書評に見るのは、自国を褒め称えることを悪事のように思うインテリがいかにこの国には多いかということである。これは明確に教育の影響であろう。しかしはっきり言っておきたい。謙虚というのは、豊かさゆえの贅沢であるということを。

たとえば、安い料金でインターネットに接続でき、PCを購入でき、家電に囲まれた快適な生活ができるのは、その富を誰かが稼いだからである。よく指摘されるように、日本の場合その富の大部分は、主として製造業を中心とする国際競争力のある業種が稼いできて、たとえば税金として納め、あるいは給与という形で日本の市場を潤した結果である。つまりそれは、国際競争に打ち勝った結果得られた利益なのである。競争とは当初は勝ち負けが分からないから競争なのであって、そういう競争に突っ込んで行くためには、何かを信じる力が必要である。論理だけでは戦えないことは明らかであり、いみじくも帯に書かれている通り、「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論」が必要な理由もそこにある。

この「論理」をめぐる不毛なやり取りで想起されるのは、成果主義的人事評価をめぐる富士通の混乱である。富士通では、人事部の法文エリートたちが、個々の従業員の成果を「論理的に」評価すべく、定量的成果主義を導入したのであった。成果主義を導入した側も、それを非難する側も、成果主義=機械的定量人事評価、と信じているのには笑ってしまう。パソコンの販売員のような職務は別にして、そんなことはできるはずがないではないか。

論理を欠いているという理由で本書を非難する人々は、論理の出発点に情緒があるという事実自体を理解していないように見える。簡単に言えば、論理の力を過信しているように見える。人間という多面的な存在を単一の数値的指標により評価することなど不可能であるのと同様、文化的優位性を論証する論理などはありえない。本書の著者はそんなことは百も承知であろう。

それにしても、本書を読んで、「欧米にも欠点はあるが良い点もある、日本にもいい点はあるが欠点もある」(だから本書は受け入れられない)などという自明な感想しか浮かばない人たちは、どうやって日々の生活の糧を得ているのだろうか。創造も競争もなく自動的にお金をもらえるような職業があるのだとしたら、実にうらやましい限りだ。


付記。
念のために述べておくと、本書において「市場原理主義」を非難する箇所にはまったく賛成できない。誰だって競争するのは疲れるし、年功序列で十分な分け前が得られるのなら楽でよい。日本の先進的企業は、誰も好き好んで成果主義にシフトしたわけではなく、それが経済原則からして不可避的だったからそうしたまでである。資本主義というルールを認める限りにおいては、それは歴史的必然である。では、そのルールを認めないという選択肢はあるのだろうか。少なくとも現時点では存在しないし、社会主義の壮大な実験で分かったことは、おそらく、将来にわたっても存在しないということだ。残念ながら、それは情緒を超えた問題だと言わざるを得ない。本書の限界はこの点にあるのだが、詳しくはまた稿を改めよう。


国家の品格 (新潮新書)
  • 藤原 正彦
  • 新書: 191ページ
  • 出版社: 新潮社 (2005/11)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4106101416
  • ISBN-13: 978-4106101410
  • 発売日: 2005/11
  • 商品の寸法: 17.5 x 11 x 1 cm

2011年10月6日木曜日

「心病める人たち」「心の病と社会復帰」

かつての精神医療の雰囲気が分かるやや古い本。とりわけ、薬物療法が確立していない時代の記憶を色濃く残す旧時代の精神科医の、最も良心的な部分の考え方を象徴する本であろう。

ここで紹介する2冊は、古いといっても高々15年とか20年前の本であるが、この間に精神医療をめぐる雰囲気ががらりと変わったことが見て取れる。人間自体は20年で別の生物になるわけではないから、これは精神医療自体の未成熟さを示唆するものであろう。

石川信義氏『心病める人たち―開かれた精神医療へ 』は、明確に反体制運動的な立場で書かれた本である。彼の理想は、障害者が健常者と同一のコミュニティで暮らす世界である。そのために、完全開放病棟の実践を行っている。

彼の出発点は、1970年に朝日新聞紙上で連載され大反響を受けた『ルポ・精神病棟』と同じである。当時精神病院は監獄も同様であった。長い間、精神病には実効性のある治療法が確立しておらず、また、精神病患者への偏見もあいまって、薬物療法がほぼ確立した後も長い間、日本では、精神病患者は確かに悲惨な境遇に置かれていた。この地点から脱却する理想として、石川氏は開放病棟を据えたのである。

私が本書を読んだのは出版まもない頃、学生時代のことである。当時は、本書のような反体制・反政府的な立場からの政策批判は普通に見られた。しかし2011年の今、この本を読み返すと、強い違和感を感じずにはいられない。著者石川氏は、財政的制約や諸政策の優先順位を無視して、無制限な福祉支出を強いているかのようであるし、何よりも、現在標準的になされている薬物治療についての記述がほぼまったく出てこない。ほぼ一方的に、健常者側のコミュニティの歩み寄りを期待するかのようである。

このような理想主義はどういう結果を生んだのか。彼が長い間院長として勤めた三枚橋病院は、今年7月になり、次の告知を出した。
急性期治療病棟の閉鎖化 
当院は、開院以来、全開放の精神科病院として行なってまいりましたが、精神科救急へ向けて、平成23年7月1日より急性期治療病棟(54床)を閉鎖病棟化することになりました。
石川氏が院長を辞したのは2009年とのことであるから、それからまもなくこの病院は、閉鎖病棟を作ったことになる。このことは、石川氏の理想と、現実が、一定の齟齬をきたしていたことを意味している。はっきり言えば、かつての障害者解放運動は挫折したと言ってよい。

もう一冊、蜂矢英彦氏『心の病と社会復帰』はより冷静に、1990年代前半までの状況を記している。メンタルヘルスに関する情報が爆発的に一般化した現代からすれば、沈鬱な本であるが、本書のあとがきにはこうある。
全部を書き終わったとき、ある人から「心の病の問題がこんなに明るくかかれるとは思いもよらなかった」という感想をもらった。(p.205)
確かに、精神医療に関するそれまでの本は、上記石川信義氏のような反体制本か、そうでなければ専門書しかなく、本書の冷静な筆致は異色だったのであろう。

実際著者蜂矢氏は、左翼的プロパガンダとは対極的な良心の人らしく、精神障害者の犯罪比率についても客観的なデータを提示している。一般的に、統合失調症(精神分裂病)の発症率は、国によらずほぼ一定で、0.8%程度であるとされている(出典)。そうして、刑法犯総数のうち精神分裂病患者の数は0.1%程度である(p.127)。これによれば、精神病患者は健常者よりはるかに犯罪性向が低い、と言える。これは今なお、精神障害者への「偏見」を戒めるロジックとして使われる。「しかし、殺人や放火などの重大な犯罪では一般よりも高くなる」(同)。本書に寄れば、やや古いデータであるが、1979から1981の3年間の殺人事件5113件のうち、333件が精神障害者によるものとされている。率にして6.5%である。放火の場合はもっと高い割合となることが知られているから、精神障害者が殺人や放火などの重大犯罪を犯す確率は健常者の10倍程度である、という結論が導かれる。

上で紹介した三枚橋病院の対応は、この一見矛盾した事実を理解するヒントを与えてくれる。すなわち、精神病患者の大多数は善良な人々であるが、こと「急性期」の患者には、その症状がゆえの触法行為を犯さぬよう強い助けが必要なのである。これには、薬物治療を基本とし、時に医療と警察が協力した強制力ある対応が必要である。実運用がどうなっているかは別にして、それを実現する仕組みは日本にはすでに備わっているといってよい(措置入院医療保護入院、など)。

日本における精神医療は、かつての暗黒期、反体制運動と結びついた混乱期を経て、ようやく先進国の名にふさわしい体制が整ってきたように思われる。その土台には、幾多の理想主義者たちと実践家たちの刻苦の努力があった。仮に現実の前に敗北したとしても、それが実践を伴う限りにおいて、理想主義者たちの努力の足跡は尊い。


心病める人たち―開かれた精神医療へ (岩波新書)

  • 石川 信義 (著)
  • 新書: 248ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1990/5/21)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 400430122X
  • ISBN-13: 978-4101308333
  • 発売日: 1990/5/21
  • 商品の寸法: 17.2 x 10.6 x 1.4 cm


心の病と社会復帰 (岩波新書)

  • 蜂矢 英彦
  • 新書: 210ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1993/4/20)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4004302765
  • ISBN-13: 978-4004302766
  • 発売日: 1993/4/20