2011年9月30日金曜日

「発達障害の子どもたち」

児童精神科の専門医・杉山登志郎氏による、発達障害とそれを取り巻く日本の状況についての解説書。高機能自閉症、アスベルガー症候群、それに子供虐待。日々メディアには発達障害に関係する文字が躍るが、誤解と偏見はいまだ根強いと著者は指摘する。

冒頭、著者は発達障害の児童についてのありがちな意見を列挙する。

  • 発達障害児も普通の教育を受ける方が幸福である、また発達にも良い影響がある
  • 養護学校(特別支援学校)に一度入れば、通常学校には戻れない。
  • 通常学級の中で周りの子どもたちからから助けられながら生活をすることは、本人にも良い影響がある
  • 養護学校卒業というキャリアは、就労に際しては著しく不利に働く
  • 通常の高校や大学に進学ができれば成人後の社会生活はより良好になる

かつて精神医学界が革命闘争の巣窟であった頃(障害者解放闘争)何らかの意味での精神に障害を持つ者を隔離するような言説を口にすることはまったくタブーであった。一見人道的に見えるそういう非隔離のアプローチが、実は非常に多くの問題をはらむことを著者は指摘する。
あなたが、自分が参加しようとしても半分以上は理解できない学習の場にじっと居ることを求められたとしたらどのようになるだろう。また自分が努力しても成果が上がらない課題を与え続けられたらどのように感じるだろう。子どもにとってもっとも大切なものの一つは自尊感情である。子どもの自信をそしてやる気を失わせないことこそが重要なのだ。(p.22)

もちろんこれは養護学校において、系統的な職業訓練を含む良心的な教育を受ける機会があることを前提にしている。今の日本ではそのような教育を受けることは実際可能であり、しかも、従業員の1.8%以上の障害者を雇用することを義務付ける法律(障害者雇用促進法)により、大企業において安定した職を得ることすら可能である。偏見的な思い込みによらず、病状に見合った教育を受けさせることの重要性を著者は再三指摘する。

発達障害において重要なのは、その発現形態が我々の常識から推測されるよりもはるかに多岐にわたるということだ。著者は発達障害を4つのグループに分ける。

  • 第1のグループ。精神遅滞を代表とするグループで、これはいわゆる「知恵遅れ」と呼ばれてきたカテゴリである。しかし現代では、これ以外にも多様な形態が知られている。本書第3章で詳述される。
  • 第2のグループ。いわゆる自閉症に関するもので、ここには、知的な遅れを持たない一群、すなわち、高機能広汎性発達障害を含む。最近いくつかの重大犯罪に絡んで世に知られるようになったアスベルガー症候群もそれである。本書第4、第5章で詳述される。
  • 第3のグループ。これも最近になり一般に知られるようになったカテゴリで、注意欠陥多動性障害、学習障害などを含む。本書第6章で詳述される。
  • 第4のグループ。これが著者の提唱する新しいカテゴリーで、被虐待児に特徴的な症状である。本書第7章で詳述される。
本書で特に被虐待児特有の精神症状を取り上げていることは注目に値する。著者は勤務先の病院において、子ども虐待の専門外来を開設し、これまで多数の被虐待児を診断してきた。そうして、被虐待児に、驚くほど似通った行動パターンが存在することを見出す。最新の脳の機能画像研究の成果によれば、虐待は、脳梁の機能不全といった器質的変化をもたらすことが知られている。虐待が与えるのは心の傷だけではない。たとえ暴力によらずとも、それは脳に物理的変化を与えるのである。いかに子ども虐待が罪深い所業かがわかる。

第7章以降は、いかに発達障害の子どもたちを治療するかという観点で、現実の問題が冷静に指摘される。特に、発達障害児の親とは、長い治療の実践の過程でさまざまな葛藤があったのであろう、問題点を指摘する筆致にも迫力がある。ポイントは2つある。ひとつは上にも書いた通常学級か養護学級かという問題で、もうひとつは、薬物治療をするか否か、という問題である。

前者について、再び著者は、子どもの自尊感情に目を配ることの重要性を指摘する。
「参加してもしなくても、何が何でも通常学級」と言われる保護者の方々は、自分がまったく参加できない会議、たとえば外国語のみによって話し合いが進行している会議に、45分間じっと着席して、時に発言を求められて困惑するといった状況をご想像いただきたい。これが一日数時間、毎日続くのである。このような状況に晒された子どもたちは、着席していながら外からの刺激を遮断し、ファンタジーへの没頭によって、さらには解離によって、自由に意識を飛ばす技術を磨くだけだろう。(p.198)
著者は、思い込みの強い保護者の攻撃に晒される教師には同情的である(p.205)。しかし一方で、養護教育に携わる教員の専門知識の乏しさを嘆き、彼らに対する専門教育の重要性を指摘している。

薬物治療についても、多くの保護者は、最近の医学の進歩を知らず、否定的な態度を取る傾向がある。著者は言う。
この折にしばしば感じるのは、このような発言をされる方が、保護者を含め、子どもの側の大変さと言うものを本当に理解したうえで言っているのかどうかという疑問である。(p.217)
薬を使わずに病気を治せ、というのは健常者の傲慢ということであろう。

本書は、発達障害に関するあらゆる話題について、高い学識と倫理観から冷静にまとめられた稀有な良書である。子どもを持つすべての親に勧めたい。


発達障害の子どもたち (講談社現代新書)

  • 杉山 登志郎 (著)
  • 新書: 238ページ
  • 出版社: 講談社 (2007/12/19)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 4062800403
  • ISBN-13: 978-4062800402
  • 発売日: 2007/12/19
  • 商品の寸法: 17.4 x 10.8 x 2 cm

2011年9月20日火曜日

固定電話器用ヘッドセット

固定電話の受話器の代わりに使うタイプの手ごろな値段のヘッドセット。自宅や会社で電話会議を頻繁に行う人には非常に便利である。

使い方は、受話器のコードを根元から外してこれをつけるだけ。単純な話であるが、なぜかこの種の商品で手ごろな価格のものがなかった。無駄にアンプなどがついている機種は3万円とかそういう値段で、それだと電話機本体と大差なく、どう考えても不合理と思われた。業務用価格ということなのであろう。

一方、電話用ヘッドセットと打ち込んで検索すると、携帯電話用のものが大量にヒットするが、固定電話用のものはほとんどない。あっても高いか、電話そのものを置換するような大袈裟なものかどちらかだ。

本機のおかげで、自宅および自席での電話会議が非常に快適になった。あと、出張時のホテルの電話だとスピーカーフォンがない場合があって、しばしば電話会議が苦痛だが、これをもってゆけば問題解決である。軽いし、スーツケースに入れておけばまったく負担にならない。

2011年9月現在イージーサポート社(EASYSPT社)の通販(Yahooショッピング楽天)で購入できる。販売元のウェブサイトはこちら。なお、CISCOのIP Phoneに関しては規格が別らしく、専用機種を買う必要がある。この点注意。

2012年3月付記。私のような人間がたくさんいたらしく、イージーサポート社の品揃えはますます充実しているようだ。

固定電話機用ヘッドセット

2011年9月13日火曜日

「生命保険のカラクリ」

保険業界の反人民的なビジネスモデルを解説した本。著者は「132億円集めたビジネスプラン」で紹介した岩瀬大輔氏。

さすがに自分で保険会社を立ち上げただけあって、データが豊富だ。たとえば冒頭、小売業全体の売り上げは133兆円、生命保険料の総額は40兆円、外食代30兆円といったデータが紹介され、なんと我々は外食に使うお金の1.4倍ものお金を保険に費やしており、それどころか、あらゆる買い物に使うお金の1/3もの大金を保険金として支払っているという事実が明らかにされる。もちろんこれは先進諸国では突出して高い。保険に対するこの高い消費意欲こそ、MBA上がりの彼らが保険業界に目をつけた理由である。

本書は基本的に営業の書であるからして、いろいろな保険についての分かりやすい解説があり有用である。
  • 定期保険
    掛け捨てが基本。加入・更新時の年齢で保険料が決まる。
  • 養老保険
    多めに保険料を払い、満期が来たら積み立て分は利子をつけて返す
  • 終身保険
    超長期の養老保険。一生加入する前提で、保険料は高めに設定される。

そして、キャッシュバック式の契約は無意味であること(p.95)、医療保険には入るのは不合理であること(p・103)など真っ当な事実が指摘される。趣旨は前に取り上げた「生命保険の『罠』」とほぼ同じである。興味深いことに、保険業界を攻撃しつつも、実は著者が現在保険業界で収入を得ているという構図も同じだ。

思うに、酒や煙草、それに自動車といったリスク要因を生活から排除し、バランスのよい食事に気を配っていれば、会社員でいう定年退職の年齢までに死ぬ確率は非常に小さい。そのため、ほとんどの保険は不合理であるように思われる。この不合理さこそ、岩瀬氏が既存の保険業界を攻撃してやまぬ理由である。一方で、その不合理さこそが高収益構造を生む源である。であるからして、本書を読んで彼らの会社の保険に入ろうと考えた人は、それは結局、ボられる割合がかなり大きいかやや大きいかの違いでしかないことをよく考えた方がよいかもしれない。


生命保険のカラクリ (文春新書)
  • 岩瀬 大輔 (著)
  • 新書: 232ページ
  • 出版社: 文藝春秋 (2009/10/17)
  • ISBN-10: 4166607235
  • ISBN-13: 978-4166607235
  • 発売日: 2009/10/17
  • 商品の寸法: 17.4 x 11 x 1.6 cm

2011年9月6日火曜日

「部分と全体 」

量子力学の創始者の一人、ヴェルナー・ハイゼンベルクの自叙伝。副題「私の生涯の偉大な出会いと対話」にあるとおり、会話をベースに構成されたやや退屈な本であるが、今もなおすべてのインテリゲンチャにとって読む価値のある本である。

見所はおそらく2つだ。ひとつは、1925年、「ヘルゴランド島の夜明け」として知られる量子力学発見の感動的瞬間であり、もうひとつはその20年後、原爆の開発成功とその投下を知った際の苦悩の記録である。通俗的な表現を使うなら、天国と地獄、というわけであるが、それぞれのエピソードが「部分と全体」というモチーフに絡みつきながら時系列的に進行してゆくあたり、文学的にもなかなかのものである。

1925年の春、24歳のこの青年物理学者はひどい花粉症にかかり、2週間ほど休暇をとって、海の空気を吸いにヘルゴランド島というドイツ北方の小島を訪れた(地図)。彼は当時の理論物理学の最大の問題であった水素のスペクトル線の謎を解くための理論的モデルの確立に取り組んでいた。彼は、いくつかの試みのあと到達した定式化をあらゆる角度から検討した。そしてある日のほとんど明け方になって、最大の懸案であったエネルギー保存則の証明にようやく成功する。

最初の瞬間には私は心底から驚愕した。私は原子現象の表面を突き抜けて、その背後に深く横たわる独特の内部的な美しさをもった土台をのぞきみたような感じがした。そして自然が私の前に展開してみせたおびただしい数学的構造のこの富を、今や私は追わねばならないと考えたとき、私はほとんどめまいを感じたほどだった。ひどく興奮していた私は寝ることなど考えることもできなかった。そこで家を後にして、明るくなりだした夜明けの中を台地の南の突端へと歩いて行った。そこには、海の方へ張り出して超然とつっ立っている岩の塔があった。それは、今までいつも私に岩登りの誘惑をよびおこしていたものだった。私は大して苦労することもなくその塔によじ登ることに成功し、その突端で日の出を待ったのであった。 
私がヘルゴランドの夜に見たものは、もちろんアーヘン湖畔の山で見た、あの陽光に照り輝やいいた岩壁のすばらしさより、いくらかまさっていたであろうか。(p.101)
これが量子力学誕生の瞬間、「ヘルゴランド島の夜明け」のエピソードである。何ヶ月もの、深い深い思考の末に、ごくまれに出会える創造の感動。これは昨今流行の「知的生産の方法」(これとかこれのたぐい)とは、まったく、少しも、関係がない。当たり前であるが、歴史の検証に耐えるのは、情報リサイクル業者ではなくて、真の創造者の仕事である。

この感動を味わった20年後、ハイゼンベルグは焼け野原になった敗戦国ドイツで、同盟国日本に対する原爆投下のニュースを聞く。ドイツの物理学者のうち、原子核分裂の発見者であるオットー・ハーンの苦悩は深刻であった。
一九四五年八月六日の午後のことであった。 一個の原子爆弾が日本の広島市の上に投下されたということをたった今ラジオで聞いたと言ってカール・ビルツが突然私の所へやってきた。
最もひどいションクを受けたのは、当然のことながらオットー・ハーンであった。ウランの核分裂は彼の最も重大な発見であったし、それは原子技術への決定的で、かつ誰にも予想さえつかなかった第一歩であった。そしてこの一歩が、今や一つの大都市とその市民に、しかもその大部分の者は戦争について責任はないはずの武器を持たない人々に、恐るべき結末をひき起こしたのであった。ハーンのションクはひどく、取り乱して彼の部屋にもどって行った。われわれは彼が自殺するのではないかと真剣に心配した。(p.310-311)

そうして、「この不幸について、われわれは皆共犯なのだろうか。またこの罪は、そもそもどこにあるのだろうか?」と問いかけ、長い対話が始まる。伝統的に、特に欧州では、物理学とは神の創造したこの世界を理解するための純粋で崇高な営みであると固く信じられていた。しかし、非戦闘員の無差別殺戮という行為に結びついた科学的知見に、何らかの罪の影を見ることは容易である。これは衝撃的な出来事であったに違いない。

ハイゼンベルクらの議論は、透徹さより狼狽を感じるものであるが、到達した結論は、学問上の発見(理学)と発明(工学)、それに政治的権力を混同すべきではないという、素朴だが今もなお繰り返し確認すべき価値のある命題であった。「部分」としての各研究者は、各人の営みが「全体」としての社会や歴史にどういう影響を与えるかあらかじめ計算しておくことはできない。この不可知性があるがゆえ、原爆という悲劇から逆にたどって、物理学者を責めることは論理的に不可能だ、というのが彼らの考えである。おそらくそれは正しい。

部分と全体との間に、不可知性を媒介にした緊張関係があるという事実は、物理学上の諸問題ではありふれたモチーフであるが、一般にはあまり知られていないようである("More is different")。1945年当時の、核技術の利用についての、限界はあるにせよ誠実な対話と、「ヘルゴランド島の夜明け」の美しいエピソードは、もう少し広く共有したいものである。


部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話
  • W.K. ハイゼンベルク (著), Werner Karl Heisenberg (原著), 山崎 和夫 (翻訳)
  • 単行本: 403ページ
  • 出版社: みすず書房; 新装版 (1999/11)
  • ISBN-10: 4622049716
  • ISBN-13: 978-4622049715
  • 発売日: 1999/11
  • 商品の寸法: 19 x 13.2 x 2.8 cm